はてなキーワード: 著名人とは
不景気の折、働いている会社や仕事が無くなった場合のことを考えた。
高校を卒業して、無意味で無駄な専門学校を出て、10年間ぐらい働いた。
税金をたくさん取られるので、想像していたほど金持ちにはならなかった。
中小企業の特徴かもしれないが、10年続けて働くと、古い人も新しい人も
含めて、8割ぐらいの人が入れ替わる。
上からの命令は何でも引き受け、仕事で潰れなければ、自然と出世する。
でも中小で10年も続く会社は、少ないため運が良かったのだと思う。
不景気にさらに災害に世界的不況も加わり、大手企業もつぶれる時代になった。
今までは考えたことが無かったが、自分も仕事を失ったどうなるのか、
最近考えるようになった。
現実的には、類似同業者への転職か、社内のメンバーで類似事業の立ち上げ
があり、そこで働く可能性が高いと思う。
現在の水準の給与も見込めないであろうし、類似事業同業である以上、市場の
先行きは明るいものではない。
ではまったく別の新天地を求めると考えると、果たして自分の10年間で得た能力
は、外に通用するものか、内部だけで通用する能力なのか、検討がつかない。
何とかなりそうな気もするが、年齢もフレッシュではなく、特定の資格もない。
経験もあり、仕事ができているのは、今の会社があり、その中でのノウハウが
外に出たら、只の小さいおじさんかもしれない。
そんなことも考えつつ、本を読んだり、ソーシャルを始めてみたり、学校にも
通って見たりした。それだけの目的でないのだが。
はっきり言って、どれも問題を解決できる何かが見つかる可能性は感じなかった。
見つける人もいるんだろうけど、自分には合わなかった。
哲学(自己啓発)やハウツー本は、著者自身の自己啓発(自分自身に言い聞かせ
ている)だったり、ハウツー本は一見良いけど、志が伴わないものは、頓挫する。
他人の上っ面だけ借りても意味が無い。
ソーシャルで著名人や有名人とつながり、未来の可能性もなんて、まず自分に相応
の価値がなければ可能性もなく、同じケツの穴のムジナ同士が、ごちゃごちゃして
いるようにしか感じない。意味が無い人には、意味が無い人しか集まらない。
学校で勉強する知識など、仕事では弱すぎて使えない。それなら仕事で実践で
導入して使ったほうが、ずっと経験値になる。
より生きるように、本は良質だと思った定番のビジネス本を繰り返し読み、
行うことは志となる土台や社会的正義などスジとなる、主張を持つようにしている。
ソーシャルや学校で勉強したことは、事業に入れ、業務の拡張につかっている。
そうこうしている内に、話は戻ってしまって、結局は今の仕事だけになっている。
だから、もし今の仕事が無くなったら、台湾に移り住み中国語を覚えようと
考えている。親戚もいる。
そうすれば、実態もわからないし結論も出ない悩みの種となっている、
次の仕事は、同業種の仕事か、他業種の仕事にするべきか考えずに済む。
台湾で中国語を覚えられるまでバカンスしてすごそうと、今は楽しみしている。
現実逃避とも言うが、現実進行も現実逃避も、人より飛び越えたほうが
得てして良い結果が出る。マイノリティーとも言える。
ももクロは今より売れる可能性はあっても、アイドルにおいて覇権を握る、今で言うAKBのポジションに着くことは到底有り得ない。その理由を記述する。
(1)ファンが批評系
もう、これでここで言いたいことの8割は言ったのだが、今のところ”ファン”を自称する人間のその多くが批評的な人間であるということだ。
AKBもかつてはサブカルだった。どサブカルだった。秋葉原に劇場を持ち毎日公演を行い、謎の選挙システムを有する。いかにもである。しかし、このAKBの流れを汲み取り切れなかったのが2000年代後半のサブカルチャー批評だった。かつて文芸批評家の宇野常寛氏は、ニコ生の番組において「2011年に入るまでAKBに注目できなかったのは失態」と語ったことがある。
AKBは上記にあるように、サブカルを代表させるにはうってつけのシステムを持っていた。これを批評的に分析できたとしたら、どれだけ楽しかったことか。そして今の流行を先見の明を持って解き明かせたら、どれだけどや顔できたことか。しかし、その間もなくAKBはサブカルとは呼べないレベルの現象になってしまった。
今更AKBを語るのは、サブカル的には”カッコ悪い”。(前述の宇野氏は、現在ではAKBの批評的分析を、同じく批評家の濱野智史氏と共に行なっている。このあたりは、ポップカルチャーを批評対象とする宇野氏のスタンスに適っている。)
しかし、AKBには一個弱点がある。それはデカくなりすぎたことだ。デカくなればそれの粗探しも容易である。後は、「じゃあ何だったらいいんだよ」と返されたときに持ちだしてこれるモノがあれば良い。
ももクロ以外のモノではダメな理由がある。それは、現在ももクロ以外の各レーベルが売り出すアイドルグループは、方法論やコンセプトがあまりに凡庸、古典的なのだ。
「◯万人の中から選ばれた◯名」「毎日長時間のレッスンを重ね、△△より上手い、歌とダンス」
こんな売り文句に飛びつけるわけがない。
そして、ももクロでなければならない理由もある。
そもそも、AKBのコンセプトとは何だったか。それは「会いに行けるアイドル」である。
対してももクロのコンセプトは。そう、「いま、会いに行けるアイドル」である。
ももクロの結成は2008年。この時、既にAKBは前年に紅白出場を達成、またCDの販売方法が独禁法に触れる恐れがあるとして販売中止、回収騒ぎになった年でもある。
当然ももクロ側にも、メジャー化して「会いに行ける」というコンセプトの維持が難しくなったAKBへの対抗意識があったことは間違いない。
この、売り出し側の「アンチ・AKB」的方法と、買い手側の「アンチ・AKB」的精神の癒着により、現在のももクロ人気は成立している。
そして、この一点のみで自称ももクロ”ファン”は、ももクロ”ファン”を公言している。AKBによって市場規模の大きくなった「アイドル業界」において、敢えての選択としてAKBではないグループを応援するという、サブカル的精神にとって心地よい味を提供してくれるのがももクロというわけである。
そして、この手の”ファン”は、小規模な経済活動である間は良いが、規模の拡大に寄与しない(大量購入などのオタク的消費は行わず、あくまで必要最低限のモノしか買わない)うえに、そもそも規模が拡大していくことを嫌う。
小規模の間は、勝手に”ファン”がももクロのいちいちの行為について言説的補強を行なってくれるので、界隈の巻き込み力がある。しかし、その界隈も一定数を超えると限界が出る。しかもオタク的消費を好まないから、数の飽和イコール売上の飽和ともなる。(ここでは、大量に購入させるような商法(いわゆるAKB商法)が倫理的にどうであるかとの問については答えない。簡単に私見を述べれば、独禁法に触れるようなもの、つまり付録のバリエーションを増やし購買意欲を煽るようなものは問題であると思うが、握手券や投票権を求める購買行動については売り手側の責任は無いと思われる。)
以上が、批評系”ファン”が多数を占めることによる弊害と言える。
(2)可愛くもないし、一生懸命でもない
というのは流石に言いすぎだが、他と比べてそこが際立つわけではないということである。
よく、”ファン”はこの2点を強調する。そして、「だからこそAKBより良いのだ」という。
ただ、言いたいことはわかる。
例えばAKBのファンも「◯◯が可愛い」と言う。この◯◯には、例えば高橋みなみとかが入るわけだが、はっきり言って可愛くはない。「前田敦子が1位である意味が分からない」という声もある。
こういう場合、その対象がAKBであろうとももクロだろうとなんだろうと、ファンたち何も容姿の美しさ単体で「可愛い」という形容詞を付けているわけではない。そこには、それぞれ固有の物語、コンテクストを見出して「可愛い」と言っている。それがAKBで言えば、「エケペディア」に象徴されるデータベースから個人個人のエピソードを上手く消費するという行為であって、そしてそのパブリックなコンテクストに加えて握手会というプライベートなコンテクストを加えることで、ファンのメンバーに対する<愛>は蓄積される。
だから、オタク層以外には「AKBで前田敦子が1位である理由」なんて分かるはずがない。というか必要がない。そのコンテクストを共有していない人間に理解される必要などないからだ。
貴方達は皆、ミス・ユニバースの選考に100%納得しているのか。ミス・ユニバースは、ミス・ユニバース内部のコンセプトに基づいてミス・ユニバースを決定するのである。そこにおいて、容姿というのは評価の1項目に過ぎない。その点を理解している人間がどれだけいるか。
この理解で言えば、「ももクロのメンバーが可愛い」というのも同じ文脈で捉えることは可能である。しかし、ここに一点だけ差異がある。
前田敦子が可愛くないとみんなは言う。なるほど、確かに私もそう思う。(ただ、たまに奇跡的な瞬間があることも知っている)
では、テレビでそれを言ったらどうなるだろうか。本人の目の前で「可愛くないねー」と前田敦子に言ったらどうなるだろうか。Mステでタモさんが前田敦子に「顔のパーツ中心に寄ってるよね」と言った時のスタジオの空気を知らないのか。
著名人のAKBに関する批判的コメントは多数ある。ただし当人がいない所で、である。このことが結構大事であって、それは「そんなに可愛くなくても可愛いものとして扱われること」が究極的なアイドル性だと考えるからだ。
前田敦子はその点で究極的である。一方でコンテクストを持つオタク達による支持を受けAKBのトップとして君臨し、もう一方ではそのコンテクストを持たない一般メディアにおいて「AKBのトップ」であるということを理由に支持される。この時、両者は同じように前田敦子に接しているように見えるが、その内実は異なる。
前者は本当に可愛いと思っており(何故ならコンテクストがあるから)、後者は可愛いことになってるから可愛いとしているだけである。(何故ならコンテクストがないから)
そしてその内に、そのコンテクストを持たない者の間にも「可愛い」という意識は一部に伝染する。あくまでも一部ではある。板野友美が女子高生に人気があるというのが都市伝説かどうかは、私には接点が無い存在である故確認できないが、そういう可能性がありうるのがこのような状況である。
可愛い人に可愛いというのは当たり前だし、ブスにブスというのも当然である。そこを転倒させることができてこそ、真のアイドルではないのか。(筒井康隆「薬菜飯店」収録の「イチゴの日」という短編を見よ)
翻ってももクロを鑑みるに、この点が厳しい。コンテクストを共有する者の間で「可愛い」は流通するかもしれないが、コンテクスト外のメディアにおいては厳しい。(「ゴッドタン」をはじめとするバラエティ番組での扱いが顕著である。ただし自らの冠番組においてMCの芸人にどう弄られようと、それはファンにのみ流通するパブリックなコンテクストを補強するイベントに過ぎないので全く問題はない。)
つまり、ももクロはアイドル性を保つのが困難なほどバラエティ性を現時点で持ってしまっているので、コンテクストを持たない者に「可愛い」が流通しにくい状態となっている。
だから「可愛い」と認識させるためにはコンテクストを持たなければならないわけだが、ここでももクロ”ファン”が批評系であることが弊害になる。
彼らは口うるさい。見る前からあれがいい、これがいいとこれ見よがしに自らの批評眼をアピールする。そしておそらく、この手のももクロ”ファン”はAKBオタクなどよりも、音楽偏差値(というものがあれば)は高いし、現代思想にも詳しく普通の意味での偏差値も平均すると高い。
皮肉にも、このことがももクロを好きと公言するのに、もしくは積極的に見ようとする心に障害となる。
彼らは知りすぎている。目が肥えている。そんな彼らが「良い」と言うのだから、「良い」に違いない。しかし見てもよくわからない。可愛いような気はしないし、踊りもなんだか凄いがとりあえず可愛くはない。けど「良い」らしい。なぜ僕はわからないのか。
対してAKBはどうか。オタクはキモい。なんかオタ芸してるし、CDはめっちゃ買うし。だからあんなものを理解しなくて構わない。仮に少しでも引っかかることがあれば、とりあえずそのままその波に飲まれてしまえばいい。どうせ彼らオタクは周りに新しいファンが増えようがどうでもいい。どうせならもっと売れなくなればチケットも取りやすいのにくらい思ってる。
私は、このコントラストが大雑把にはあると思われる。そしてこのことが、「可愛い」というお札が流通しない/する要因となっている。
もう一つ、「一生懸命」について言えば、この言葉はかなり頻繁にももクロを持ち上げるものとして使われるが、端的に言おう。
そんなのみんな頑張っている。ただそれだけだ。
ダンスや歌のレッスンは、皆どのアイドルグループも一生懸命やっているのだ。所詮、「アイドルなのに顔芸をやる」という点においてのみ「一生懸命の差異」を見出してるにすぎない。
私がここで「自称」とか「ファン」を” ”で括るのは、彼らが本心からの好意ではなく、「AKBというサブカルの隆盛を見抜くことができなかったコンプレックスの解消手段」としてももクロを利用しているように見えるからである。
結局のところ、ももクロを今以上に流行らせ、AKBに取って代わりたいのであれば、自称ももクロ”ファン”達がそれを名乗るのを辞める他ない。
早見あかり頑張れ。
なんていうのかね、対象が広すぎて「口出したらまずい」って様子見してる人が多い感じがする。
たとえば今ニコ動の政治カテで「TPP交渉参加反対演説 平成23年11月5日(土)有楽町駅前」の動画関連がランキングに入ってて、そこには中野剛志に孫崎享、田中康夫や宮台真司、原口一博とか篠原孝の民主党議員など、いろんな人が演説してたみたいで、そこ見るまで気づかなかったのよね。そういう演説があったという事自体も。
これ著名人に限らず普通の人でも同じ傾向があって、たとえばはてななら床屋政談してる右も左も、いつもは食いついてくるだろうネタにだんまりを決め込んでたりしてるのが多い。今口出してるのはどちらかというと経済系の人間とバカウヨの二種類。割とキレる右寄りはてなーも黙ってる。
小泉純一郎、竹中平蔵、中川秀直、森喜朗、河野太郎、片山さつき、野田佳彦、前原誠司、細野豪志、福山哲郎、古賀茂明、玄葉光一郎、岡田克也、藤井裕久、仙谷由人、渡辺喜美、江田憲司、橋下徹、中田宏、御手洗冨士夫、新浪剛史、米倉弘昌、奥田碩、柳井正、孫正義、渡邉恒雄、渡邉美樹、高尾剛正、ホリエモン、池田信夫、藤沢数希、東浩紀、Chikirin、小飼弾、大西宏、馬場正博、飯田泰之、伊藤元重、大田弘子、芹沢一也、荻上チキ、山崎元、ビートたけし、田原総一朗、池上彰、辛坊治郎、三宅久之、宮台真司、高野孟、藤巻健史、平沢勝栄、山本一太、江沢民、習近平、盧武鉉、李明博
経団連、みんなの党、大阪維新の会、民主党、自民党、公明党、はてな民
TPP推進、原発反対、小さな政府、ベーシックインカム、法人税引き下げ、消費税増税、新自由主義、嫌韓中、親米
グローバリズム、弱肉強食、自由競争、平成の開国、規制撤廃、市場開放、老害、坂本龍馬、民営化、市場原理、自己責任、ガラパゴス、構造改革、官から民へ
麻生太郎、安倍晋三、石破茂、平沼赳夫、長島昭久、城内実、西田昌司、谷垣禎一、中川昭一、石原慎太郎、三橋貴明、中野剛志、関岡英之、青山繁晴、櫻井よしこ、勝谷誠彦、金美齢、小林よしのり、佐藤優、田母神俊雄、高岡蒼甫
たちあがれ日本、国民新党、(民主党、自民党)、チャンネル桜、2chまとめ
TPP反対、憲法9条撤廃、自給率アップ、嫌韓中、原発推進、保守
靖国神社、国防、核、尖閣諸島、ナショナリズム、愛国心、君が代、日の丸、天皇家
福島みずほ、亀井静香、志位和夫、鳩山由紀夫、中井洽、保坂展人、田中康夫、長谷川憲正、植草一秀、湯浅誠、田嶋陽子、ひろゆき、副島隆彦、きっこ、天木直人、森永卓郎
TPP反対、福祉、原発反対、大きな政府、沖縄基地県外移設、反米、格差是正
いつまでも作者に絡んだり嫉妬の声ばかりあげていてもしょうがない。
そもそも作者がアレで作品もアレなのにこんだけ売れてるんだから
「出版とは作者だけじゃない奥深い世界なのだな」「別の人が頑張ったんだな」と考えるのが普通の人の思考。
http://adv.asahi.com/modules/feature/index.php/content0362.html
ちょうど当社で、ドラッカー生誕100周年のキャンペーンを展開し始めた時期でした。
刊行の半年ほど前から、ユニクロの柳井正社長がテレビでドラッカーを好きだと発言されたり、糸井重里氏が自身のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」でドラッカーについて語られたりと、著名人を中心にドラッカー評が相次ぎ、社会的な関心が高まっていたことがあります。日本の企業経営や政治に「マネジメント」という意識が求められていると感じる人が増えていたのではないでしょうか。また、ドラッカーの言葉にはどこか人を励ますあたたかさがあり、不況で元気のない時代に受け入れられやすかった
――編集面で工夫したことは。
加藤氏 ドラッカー本というと、これまでは企業経営者に支持される傾向にありましたが、同書は、本の帯に「家庭、学校、会社、NPO… 人が集まっているすべての組織に役立つ本」とあるように、万人にわかりやすい内容なので、思いきって表紙を「萌(も)え系」のイラストにし、ビジネス書の売り場に並べたときの違和感をねらいました。
そもそも表紙を萌えにしたのは岩崎さんの意向というわけではない。
編集部や営業現場で使っていた「もしドラ」という「公式略称」も発信し、対話促進に努めました。ツイッターには発売直後から「表紙にびっくり!」「書名に驚いた」「ほんとにダイヤモンド社の本?」といったコメントが続々と寄せられました。ただ、ツイッター上の盛り上がりは新しいネタがなければ半日程度でおさまってしまうので、編集部や宣伝部の人間でマメにフォローをし、公式ウェブサイトにリンクを張ったり、新聞広告の感想を募ったり、書店店頭やユーチューブで流している公式PVに誘導したりと、火に薪をくべるように情報を提供し続けました。
この時期にしてはかなり精力的な取り組みが行われている。
ネット上のクチコミの広がりがヒットの要因の一つであることは間違いありませんが、これらはすぐに通り過ぎてしまう情報です。今年2月頃から売り上げがさらにグンと伸びたのは、メディアの影響がかなり大きかったですね。
ネットで盛り上げてテレビや新聞といったマスメディアにつなげる。ネットの力を過大評価しない。
――主な購買層は。
加藤氏 当初はビジネス書の読者層、20~30代男性が中心でしたが、青春感動物語としての認知が高まるにつれ女性にも読者層が広がり、現在は男性55%、女性45%という比率です。また、全体の16%が50代以上の男性で、以前からドラッカー本を愛読していた人、昔読んで途中で挫折した人、気になっていてずっと手にしていなかった人などにも支持されています。
そもそもなんでこんな本がヒットするかというと、それだけ社会に多くの問題があるのだということであり、
この本について語るなら、そういうところを話ししようぜ。
http://www.economist.com/node/16481583
Women remain an underused asset: only 61% of them work, their average income is less than half that of men and they occupy barely 1% of boardroom seats. If Drucker, with the help of a headstrong teenager, can posthumously change that, it would be his greatest gift to Japan.
日本では61%の女性しか働いておらず、平均給料は男性の半分以下で、女性役員は1%しかいない日本において、これをドラッカーが変えることができたら、日本にとって大きな贈り物になるだろう
もしドラはともかく、「マネジメントは学ぶことができる技術であり、それを学んだものであれば、男でも女でも関係ない」というメッセージを重視して、偉そうにふんぞり返ってる男共の根拠のない優位性をそげぶしていくことが必要であると思う。
ところで。
無料で高品質の記事を提供し続け、日経新聞にも嫉妬される素晴らしいメディアによると、
もしドラはドラッカー協会の会長にも評価され、アメリカでも翻訳されて出版されるはずだったはずなんですが
その後どうなってるんでしょうかね?どこかもたついているんですか?
声優ストーカーブログが盛り上がっているけど、ああいうのはwebでは許容されるべきではないと思う。
週刊誌は許されているといっても、出版社が責任を担保していて、実際に名誉毀損で何度も訴えられている。訴訟覚悟でスキャンダルを報道して本を売って稼ぎ、利益の一部を賠償金に当てるというビジネスモデルになっている。もちろん司法はそういう現状を善く思っていないので、名誉毀損の賠償額が右肩上がりになり、最近ではパパラッチ報道は割に合わなくなりつつあるらしいけど。
一方の声優ストーカーブログはバナー広告もなく何を目的で運営しているか分からないし、本であれば発行部数などで影響が分かりそこから被害額を算出しやすいが、ブログに出した情報がソーシャルネットワークなどで拡散されていく際にどこに責任の所在があるのか算出することが難しい。「営利目的でない」「影響を算出できない」という個人ブログの特性から訴訟に持ち込むことは難しく、被害者は盗撮に怯えながら泣き寝入りするしかない、という点で大きく異なる。
ストーカーまがいの取材は犯罪ではないのか?という点については、まずストーカー規制法については「特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的としたつきまとい」のみを対象としているため、スキャンダル目的のつきまといは除外されている。ストーカー規制法が成立したのが2000年で、1998年の和歌山砒素カレー事件のメディアスクラムが強く問題視されていたことからメディアもストーカー規正法の範囲に及ばないよう働きかけた結果だったような記憶があるけど、割と曖昧。
盗撮の時点で犯罪だと思うけど、実はそうでもない。なぜなら盗撮を法で規制してしまうと、監視カメラを設置できなくなるから。軽犯罪法や迷惑防止条例など適用されるのは、施設内にカメラを勝手に設置した場合や、下着や水着を盗み撮りした場合に限定されると思う。肖像権は著名人は保護されにくい。この辺は専門家の解説を聞いてみたい。
個人ブログがパパラッチ技術を持つことが社会通念上許されると、プロと違って食い止める手段がないように思う。
処女性をウリにして恋愛に疎いオタクから金を巻き上げるアイドル声優のビジネスモデルにも問題があると思うけど、市民がネタを求めて相互監視するような社会よりは夢があってマシだと思う。
個人的にストーカーブログが問題だと思うのは、「誰が運営しているか?」というのが見えない点。
週刊誌は出版社がスキャンダルの報道で利益を上げるために販売している。これはまだ分かりやすい。でも個人がセミプロの情報収集能力を持ってスキャンダルを拡散するのは、何を狙っているのかが分からなくて怖すぎる。注目を浴びたいだけの人間かもしれない。ライバル声優の事務所やファン、その声優のアンチが興信所を雇ってやっているかもしれない。ストーカーブログが発表したネタをダシに稼いでるコピペブログ管理人が本当の仕掛け人かもしれない。この「得体の知れない不気味さ」が週刊誌とストーカーブログとの間で脅威の評価を変える決定的な違いだと思う。
カンニング竹山さんが大好きだ。世界の著名人の中で、一番好きだ。
TVでいつも楽しませてもらっている。
逆に、俺から竹山さんへは何を与えられるだろう?
竹山さんが出てるTVをいっぱい見ればいいのか?
しかし、うちには視聴率を測定する機械はついていないので、その行動は竹山さんに伝わらない。
ファンレターでも送るか。
でも、俺が女子高生なら喜んでくれるだろうが、
ブログへのコメントや、ツイッターへのコメント(?)も同様に、喜んでくれるのかわからない。
竹山さんの本やDVDを買うか。
ちょっとは買ってるけれど、その金額のうち竹山さんに入るのは微々たるものだろう。
もっと感謝の気持ちを表したい。
竹山さんのライブを見に行って、お金を払えば竹山さんに多くが入るのだろう。
もし俺が竹山さんの銀行口座の番号を知っていたら、
ちょっとぐらい、感謝の気持ちを込めて、寄付というのかしたい気はある。
まあ、振り込んでも千円くらいだけど。
そういう支援の仕方があってもいいと思う。
みんなはそういう気持ちにならないのだろうか?
好きな芸能人などに、直接感謝の気持ちをお金という形で与えたい気持ちに。
俺が知らないだけなのか?
こういう考えをするのは少数派なのだろうか?
EFFのこの記事をざっくり訳した。訳の正確さはまったく保証しない。素人の雑な訳です。ちゃんと読みたいひとは原文参照すること。pseudonymはとりあえず「仮名」にした。
A Case for Pseudonyms (Commentary by Jillian York)
https://www.eff.org/deeplinks/2011/07/case-pseudonyms
pseudonym (スードニム) 名詞:著者が身元を隠すために使用する架空の名前。ペンネーム
個人が生来の名前とは別の名前を使いたいと考える理由は無数にあるだろう。生命や生活への脅威への配慮もあるだろうし、政治的、経済的報復へのリスクがあるかもしれない。人種差別の防止を望んでいることもあるだろうし、生活文化圏で発音や記述のしやすい名前を使うこともあるだろう。
オンラインではさらに理由は増える。インターネットカルチャーでは、オフラインでの人格と結びついているかもしれないし結びついていないかもしれない「ハンドル」や「ユーザ名」を使うことが長い間推奨されてきた。古くからのオンライン住人のなかには20年以上使っているハンドルを持つものもいるだろう。
仮名での発言は歴史的にも重要な役割を果たしてきた。ジョージ・エリオットやマーク・トウェインの文学的偉業、ザ・フェデラリスト論文でのパブリアスの政治的主張、18世紀ロンドンでのユニウスのパブリックアドバタイザー紙への寄稿。人々は仮名の下で公の論議に大きく寄与してきたし、今日に至るまでそれは続いている。
Google+の身元確認ポリシーから、オンラインプラットフォームにおける仮名性に関する新たな議論が持ち上がってきた。Google+はユーザに「友人、家族、同僚が普段呼ぶ名前」を使うことを要求する。このポリシーは、Facebookの「本名と実情報を提供せよ」という要求と似ている。Googleのポリシーは、Google+の開始から数週間で同コミュニティーの内外両方から大きな注目を集め、ソーシャルプラットフォームがアイデンティティに制限を加えるべきかどうかという議論に火をつけている。「Skud」という名前を使っていたことによりGoogle+から追い出された元Google社員、キリリー・“Skud”・ロバートの詳細な記録によれば、すでにかなりの人数のGoogle+ユーザがこのポリシーに基づくアカウント停止を受けている。
ソーシャルプラットフォームでの「実名」支持者は多くの論点を示している。実名はユーザの行動を改善し、より文化的な環境を生み出す。実名であれば攻撃者を追求することが容易になるのでストーキングや嫌がらせを防ぐ助けになる。実名ポリシーがあることで、ユーザ監視のために当局がサービス内部に「侵入する」ことを防げる。実名によってユーザは行動に責任を持つようになる。
これらの論点にまったく意味がないわけではないが、問題を間違った方向から議論している。厳格な実名ポリシーの支持者は、実名使用を主張するポリシーに良い面が一つあることを示せばいいのではない。彼らはこれらの利点が、いくつかの非常に深刻な問題より重要であることを実証する義務がある。
例えば、数千人の人々が1月蜂起に参加するきっかけになったFacebookページ「We Are All Khaled Said」を作成した著名なエジプト人、ワエル・ゴニム氏のことを考えてみよう。ページが作成されたのはハリド・サイードが警官によって殺害されてからすぐの2010年夏だったが、ページが本当に勢いを得たのはその年の後半だった。しかしその後も抗議運動の中で存在感を得るのは難しかった可能性もある。2010年11月に管理者(今ではゴニム氏だと知られている)が仮名を使っているとの報告によってこのFacebookページは停止された。Facebookは「身元の明らかな」人物が介入することによる解決を提供することができたが、ゴニム氏はFacebookのスタッフと連絡をとって解決することができたためこの件は非常に特殊な事例となった。誰もがこのようなコネクションを持っているわけではないし、アカウント停止に抗議する方法を知らないことでどれだけ多くの人々が無視されているか知るすべもない。ゴニム氏のケースでは実名を使うことは深刻な危険を伴っていた。仮名であれば安全という保証があるわけではないが、仮名は当局による活動家の追跡を大きく困難にする。
個人が本名以外の名前の方が安全に感じられる理由は無数にある。例えばLGBTコミュニティのティーンエイジャーはオンラインでいつも嫌がらせを受けるので仮名を好むかもしれない。政府のために働く配偶者やパートナーを持つ人や生活を隠したい有名人は、オンラインでは別の名前で行動するほうが安心だと感じるかもしれない。家庭内暴力から逃れている人は加害者から発見されないために、部分的または全面的な別名の使用を望むかもしれない。非主流派の政治的見解をもつ人は仮名を使うことによって生活を危険にさらさずに済ますことを選択するかもしれない。
マッキンタイア対オハイオ選挙委員会の裁判でジョン・ポール・スティーブンス最高裁判事が提案したとおり、
「匿名性は多数派による暴虐からの盾である。よって匿名性は権利章典、また特に米国憲法修正第一項の本来の目的、不寛容な社会において個人を報復から思想を抑圧から守ること、を体現している。匿名である権利は詐欺的行為に悪用されるかもしれない。政治発言はその性質上、時として不愉快な結末を迎えるが、一般的に我々の社会は言論の自由の悪用による危険よりもその価値に重きを認める」
「本当の」名前を使うことと同様に、「本当の」名前の使用の強制も、考えを明らかにすることによる被害を恐れる人々によって対話から排除されるという、現実的な結果を招く可能性がある。実名が対話の「文化度」を上げるかもしれないことに価値を見出す人がいる一方で、それは間違いなく多様性を損なう。
ギークフェミニズムのブロガーたちは、実名ポリシーの被害にあっている人々をWikiにまとめることで、個人がなぜ本名以外の名前の使用を許されるべきなのか何百もの可能性ある理由を示している。このリストに示された多くの例が安全のために仮名を使用している危険に晒された人々を説明しているものの、他にも仮名を選択できるべき重要な理由がある。
Michael Anti氏の例を見てみよう。彼の本名はJing Zhaoで、中国人ジャーナリストだ。おそらくは何者かが生来の名前を使っていないと報告したことによって、2011年1月に彼はFacebookから追い出された。10年近くニューヨーク・タイムズ等で「Michael Anti」のペンネームを使っていたにも関わらず、Facebookは実名ポリシーの厳格な強制を主張した。
Google+でも、誤判定があるとして、アカウントの即時停止ではなく、ユーザに警告を与え名前を変更する機会を与えるように処理手順を変更すべきだと促す動きがでている。
「本当の」名前を要求するポリシーを大規模に実施するのはほぼ不可能だし、多くの例が示すように強制は著名人や敵を持つ人々に対して不当に使われることが多く、またそれはコミュニティ監視機構の結果として生み出されやすい。
GoogleであれFacebookであれ、その他の企業であれサービスに適合していると思われるポリシーを作成する権利がある。しかしこれらの企業が多様性や表現の自由を犠牲にしておきながら、「実名」ポリシーがより文化的な態度を生むと主張するのは浅はかだ。「本当の」名前を要求するポリシーへの移行はオンラインでの表現の自由を萎縮させるだろう。
きゃりーぱみゅぱみゅについて大して知りもしない自分が思うのは、あれって、「海外で人気の○○」に弱い日本人のさがを活用したプロモーションが成功したんじゃないかということ。海外で人気であるという事実を半ばでっち上げに近いやり方で作り出し、それを起爆剤に、日本で本格的に売る、みたいな。飽くまで憶測なんだけどさ。
例えば、ざっくり言ってフィンランドの人口は500万人、ベルギーの人口は1000万人。日本より人口が断然少ない国のitunesユーザーの中のエレクトロ部門なら、サクラが買いまくればランキングは操作できそうだ。(仮にフィンランドの人口の1/10がitunesユーザーで、そのうちの1/10がエレクトロというセグメントのユーザーだとしたら、その数は5万人。5万人の半数の2万5000曲くらいダウンロードされればランキング1位は取れるんじゃなかろーか。欧州では1曲150円しない価格でダウンロードできるそうなので、150円×2万5000曲=375万円使えば、フィンランドのitunesエレクトロ部門でランキング1位を獲得できる…のかもしれない。)
他にも、例えば、youtubeには外国人がきゃりーぱみゅぱみゅをみて驚いたリアクションをする様子を映した動画があったが、うがった見方をすれば、あれは胡散臭い。著名人が推薦するという手法も広告の技法としてはありきたりで、"Limp BizkitのFredがツイートした"というのも、そういうのの一貫だったりしないのかなと。
「アンチ」って言っても、別にそのアニメを全否定するつもりは無い「アンチ」だっているんです。
ファンの中には「全体的には気に入ってるけど、ひとつの要素だけは気に入らない」人もいる。
でも、そういう「作品を全肯定できないやつ」はみんなアンチ扱いされる。
作品に欠点があっても、欠点自体を素晴らしいものとして褒め讃え崇めるくらいのことをしなきゃファンじゃないらしい。
そうやってアンチになった後、ファンだったときには気にもしなかった「アンチ叩き」の勢力の大きさに気づく。
「有名な○○さんも作品××を高く評価! アンチはものを見る目が無い」「社会現象になった××のアンチしてるやつって恥ずかしくないの?」
「これだけ売れてるのにアンチしてるやつって頭おかしいんじゃないの?」「××アンチ息してるー?」
「アンチ」や「批判」にネガティブなイメージが付いているのを良いことに、まるで「アンチは人に非ず」と言わんばかりの攻撃をかけてくる。
○○って人が肯定したら右へ倣えしなきゃだめなのか。売れたものは全肯定しなきゃいけないのか。
そんなことはあるまい。いくら絶賛されてようと、売れていようと、欠点があればそれに対しての批判があって良いはずだ。
でも著名人に褒められた、たくさんの人に好評を得た(たくさん売れた)、だから批判される謂れは無いという意見がやたら大きい。
マジョリティなのかノイジーマイノリティなのかは分からんけど、ネット上では「そういう人」が「多数派」になってる。
全肯定するファンか、キチガイ扱いされて排斥されるアンチか。どちらかしかあり得なくなってる。
何か脱線しちゃった。
島田紳介の引退騒動では、多くの芸能人・著名人・果ては政治家がコメントを発している。
まだ暫くはざわついた雰囲気をテレビやインターネットから感じるのだろう。
そんな中、上地雄輔のブログ記事とそれに対するコメントについて
http://ameblo.jp/kamijiyusuke/entry-10996865827.html
実際私もこの記事を読んだ、コメントも一部ではあるが読んだ。
確かに文章は30代男性『社会人』の書く文章ではないかもしれない。
だが私はこの文章に『人としての真っ当且つ正常な感情』を感じた。
文章としての良悪ではなく、彼が書き表したかった30代のくせにバカ素直過ぎる悔しさを
指をさして笑う事は格好悪くないのだろうか。
そもそも本来『陰口』とはそれ自体が忌むべきものであり
本人の目耳に届かぬよう『陰』で囁く物であったはずである。
パスワードで管理されていようが、どこかに"ほつれ"が生じれば途端に世界へと漏れ出す。
『陰口』を叩くには余りにも見えすぎるのである。
30代以上の大人は、パソコン・インターネットが普及した時点で既に10代後半以上であるので、
基本的にはネットでの立居振舞は弁えていると思われるが(一部に存在するであろう酷い例外は除く)
インターネットでの繋がりの中で平然と他人の悪口を連ねる。
○○が嫌い
○○消えればいいのに
それらは『○○』という単語を検索すれば見つける事が容易である。
探さなければいい。
見た方が悪い。
本当にそうだろうか?
そもそも『陰口』は端から見れば醜い、【悪】だったはずではないか。
陰口を叩く側も、それが分かっていたからこそこそと話していたのではないか。
そんな当たり前だったはずの節度を、子供たちはいつから学べなくなったのか。
まさにその頃いじめていた人間、いじめられていた人間、ただ見ていた人間が
今親となっているのであろう。
それも『インターネット』という目に見えないとてつもなく大きな世界の中で。
例えば他人の悪口をネット上で放っているのが自分自身でも同じである。
それは恐ろしい事ではないのか?
いつ自分が、自分の家族が、上地の立場に立たされるか分からない世界で
声高に騒ぎ立てている事に恐怖のかけらも感じていない。
島田紳介の引退から上地雄輔のブログの文章、そして周囲の反応に関しては、
夏が終わる前に一度真剣に考えてみてはどうだろう。
ただ笑って「あれ酷いよね」と終わらせる身近な誰かを放っておいてはいけない。
顔と顔を合わせ、お互いの醜い顔を確認する事で「悪い事」と感じることが必要なのである。
昔から、そのコミュニティの異様な特性から「はてな村」なんて呼ばれているが、2chが板ごとに全然違う文化があるように、サービスごとにユーザーの特性が違う。だから「はてな村」というよりも「はてな郡」とよぶほうが実態に正しい。決してはてな州やはてな国でないのは、そこまでユーザーが多くないからだ。
#適宜追記修正します
#リクエストを受けて色々追記。
一応はてな郡の中心地。アメーバ州アメブロ市やライブドア州ライブドアブログ市やFC2州FC2市に比べて人口も少なく、セレブ(芸能人・有名人)も少ないが、ブログ創世記から有る古都のため、技術ギーク系・ネット文化系・社会科学系などで独特な文化を形成する。はてな郡の他の都市に比べやや教育レベルは高め。id:aurelianoやid:Chikirin、id:finalventなど一般人がアルファブロガー化しやすい一方で、森見登美彦、平野啓一郎、博多華丸・大吉、笑福亭鶴光の公式ブログがあることは意外と知られていない。著名人でここの市民っぽく振舞っているのはid:FUKAMACHIとかid:kawango(ドワンゴ州知事)ぐらい。ライブドア市やFC2市と違いスラム街(2chまとめブログ)や風俗街(エログ)は殆ど無いため治安は良い。ただしまれに放火魔(炎上マーケティング)がいる。
はてダ市の行政区。開設当初は喧嘩や暴動(炎上)や落書きが頻発しはてダ市の治安悪化の原因だったが現在は割と平和。Google合衆国からのはてダ市への訪問者を増やしている。Wikipedia国と競合するが、教育レベルは遠く及ばない。一時期はネット用語の流行の最先端であったが、近年は衰退している。近年はドワンゴ州ニコニコ大百科町とも競合する。
はてな郡最大の都市で玄関口。ライブドアクリップ市やヤフーブックマーク市よりも人口が多く、delicious市やGoogleブックマーク市に迫る。かつてははてダ市と同じような人口形成と文化だったが、人口の急激な流入により治安が悪化しており、教育レベルも低め。風俗街(エロホッテントリ)、スラム街(2chまとめブログ)や、ゲバルト(政治関連)や暴動(炎上)も有り、Twitter国と同じような問題を抱えている。
はてブ市の行政区。はてブ市内の流行が集まり、Googleニュース市やライブドアニュース市へ繋がる。基本的に住人ははてな郡の役人(はてなスタッフ)。
はてな郡最古の都市だが、近年はYahoo知恵袋市やOKWave市への人口流出が目立ち衰退している。最近は税金が安くなった(無料化)の影響かうごメモ村からの人口流入が目立つ。
はてな郡の中ではやや特殊な位置付け。はてダ市・はてブ市のベッドタウンであるが住民が偽名・匿名で生活している。そのため人口も不明。強いて言えば2ch国に近いが、人口も少なく地区割りも曖昧で住民の傾向もバラバラ。住民は匿名が前提のはずだが、閲覧者を集める目的で敢えて実名で生活するものもいる。
はてな郡の中ではのどかで田園風景が広がる。ここもはてダ市・はてブ市のベッドタウン。絵描き(イラスト系キーワード)や芸人(ネタキーワード)やカフェ(実況)も多く、人口の割には賑やか。近年はうごメモ村からの若い居住者もいる。女性も多い。Twitter国と似ていると言われるが別物である。
任天堂王国との連携(京都連合)により人口が増えている村。ハイク村・人力検索町以外のはてな郡の都市への人口移動は少ない。この村だけ突出して住民の平均年齢が低い。
はてダ市・ハイク村のベッドタウン。写真家が多く住んでいたが、最近はもっぱらアトリエという名の倉庫街となっている。
インフラが整ったオフィス街だが過疎化がすすみ空きオフィスが目立つ。オフィス街なのに村。Google Apps市と比べるまでもない。
人力検索町と並ぶ古都で、かつてははてな郡の中心都市の一つであったが近年過疎化がすすむ。
ハイク村から独立したハイク2村から更に分離独立した村。モバイラー向けの今風なコミュニティの割にいまいち地味な存在。
住民が買ったものを並べて売る商店街。モバイラー向けの今風なコミュニティの割にいまいち地味な存在。
はてな郡の自治体運営に唯一提言が出来る機関として設置されるが、基本的に不具合修正以外の要望はあまり通らない。
はてな郡内の通貨。1P=1円だが基本的にポイントから円の両替はできない。はてな郡内での買い物や住民同士の送金に使われる。
はてな郡内の贈答品。基本的に黄色だが他の色のものは珍しく送ると喜ばれるが、貰ってもなにか有るわけではない。地区によって価値が違う。
はてな郡の役人により設置された実験区。増田町も本来ここなのだが、近年は人口増加により特区的位置づけが薄れてきている。増田町以外の地域は過疎化がすすむ。
本格的な「こどもの国」として設立されたが、治安悪化(しかもリアルでも)が懸念され設立からわずか2週間で廃村。はてな郡の黒歴史の一つである。
アンテナ町に変わり新興住宅地として開発されたが、人口減少により廃町。
セカンドライフ国に対抗すべくハイテクヴァーチャル都市として開発されたが、人口が思うように伸びずラボ特区の一時自治区に格下げ。その後廃村。セカンドライフ国も規模的には市レベル(町レベル?)である。アメーバ州のアメーバピグ村は人口が増えつつある。
Youtube国への玄関口であったが、行政機能の停止により廃村。
>韓流に
>多方面の日本人が
>ウンザリしてたようだ。
9万件も同意が入ってるようだけど、アホかと思った。
言外には「だからフジは叩かれて当然」という言葉があるんだろうけど、
何かを好きな人よりそれを嫌いな人・無関心な人のほうが多くなるのはあたりまえです。
テレビ局が韓流ばかりやってるのは色々事情があるかもしれないが、彼らが営利企業であることを考えれば主要な理由は「視聴率が稼げるから」だと分かるだろう。
つまり、韓流を嫌いな人がどれだけいたとしても、他の番組をやるより「視聴率が上がる」程度に好きな人が多いから流しているというだけなのだ。
もしフジで韓流を見たくないなら韓流以外の番組をもっと見ればいい。でも、最近はテレビ離れとか言ってテレビを見ない若者が増えているそうだ。
テレビを見ないくせにテレビで韓流流れているのは気に食わないのか?幼児のわがまま並ですね。
でもこんな表層のことははっきり言ってどうでもいい。
この散歩デモ参加者やネット上で韓流叩きしてる奴らの問題は、それが嫌韓に基づくものであるくせに誤魔化してるところだ。
高岡の趣旨や彼がネット右翼にどこまで共感してたのかは分からないが、少なくとも発言だけ見れば、言っているのは「韓国の番組を日本でたくさん流すのはおかしい。日本の番組もっと流せ」ってことだけ。
韓流ドラマがつまらんとか朝鮮人は日本から出て行けとか韓国は嫌いとか、そんなこと言ってないしそういう風に捉えられることを(真実は分からないが)望んではいなかったはず。
でも、ネット上のアホ共は高岡を「利用」して自分たちのレイシズム(韓国人は何やってもダメ、日本人はすばらしいという考え方)が正しいと証明されたような気になっている。
そこが許せない。
人には誰だって好き嫌いがある。
この世には子供に萌えたり老人に萌えたり死体に萌えたりする人がいるし、中国が好きな人やアメリカが好きな人やそして韓国が好きな人がいる。
韓流ドラマが嫌いな人もいる。だけど、自分の嫌いなものを見たくないからとデモを起こすバカがどこにいる?
そんなものに500人以上(らしい)集まったということが、どれほどアホなことか、考えなかったんだろうか。中学生とかもいたらしいが、頭の足りない(狭いものの見方しか出来ない)人間が多そうだなという印象は確かにある。
だからこそ先の話になる。好き嫌いだけでデモは起こせないし人は集まらない。
フジを批判するということでようやく集まったという感じだが、それにしたって結局は「俺は韓流が嫌いだ。韓流流すなバカ野郎」ということになって、好き嫌いの次元に落ちてしまう。
韓国人、韓国、そして韓国の文化に対する侮蔑の気持ち、「あんなくだらないもの」という見下す感情があるからこそ、個人の好き嫌いにも関わらずデモが起きてしまったということの真相だ。
そんな事情を知ってか知らないか、多分知ってる人間もいるんだろうが、J-castによれば著名人の中にも何人か「フジ批判」に同調する人間がいるそうだ。
バカとしか言いようが無い。自分たちの発言の影響力をまるで分かっていない。いや、分かっていてやってるからこそ許されざるバカなのだ。
今までネット上の嫌韓勢力はどちらかというとアマチュア的、細々とした大学サークル的に活動してきた。テレビでは全く報道されないし、当然著名人もスルー。
なのにここにきて、表向きは「韓流ばかり流すフジテレビへの違和感」という形でこの嫌韓勢力に加担する人間が現れた。
確かに違和感を訴えるだけなら嫌韓勢力について何も知らなくても可能だろう。だが、それで彼らの無知が許されるわけではない。発言の影響力が一般人のそれとは比べ物にならないと自覚していれば、不用意な発言は控えるはずだ。
諸事情で昨年夏頃から現在に至るまでツイッターで散々非難していた著名ブロガーへ。
>最期になった時、自分が関わったすべての人に、誇りを持って恥ずかしくない人生だったと語れるか。
>今までの自分には正直そこまでの高い意識はありませんでした。
>現時点から将来を考えることも大切ですが、終着点にいる自分を想定し、その時にどうなりたいのかを考えてみる。
>そこでわかったことは、自分のやりたいことだけを勝手に実現する人間ではなく、大切にしたいと思っているすべての人から、
>自分がいたことで良かったと思ってもらいたいということです。そして、それを誇りにしたい。
この言葉が本当ならば、今まで私が非難していたことは水に流そうと思っている。
私にとって、自分がいたことで良かったと思ってもらいたいという状況というのは、
優れた偉業を成し遂げた人ではない。
友人の数が多い人でもない。
相手の長所と短所を含めた全てをきちんと認知してくれる人。受け入れるというほど重たいものじゃない。
時々相手が大嫌いになることもあるが、
その人がいれば、自分も頑張ろう、相手の為に自然に動こうと思える人。
私と相手が読んでいる本、私と相手がツイートしている内容、私と相手が着ている服。。。
時には互いに気に入らないこともあるだろうけど、
しなやかさを保ちながら前進できる空間を共有できること。
すれ違ったら、チューンを合わせ直すことができること。
思っているだけで、なかなか進歩していないけどね。
ただ、この手の著名人は舌先三寸で人格者的な言葉を綴るのが非常に長けている。
実際のビジネスの薄汚さと、ブログで綴る美しさには大きな乖離があり、世の中の消費者はそれらに騙されることが往々にしてある。
私はあなたの今日の言葉をとりあえず真正面から受け止め、陰ながら今後の活躍を祈りたい。
そして、私が言うところの「下流食いビジネスマン」として成り下がらないことを願う。
いつか再び昨年夏に受講した英語講座のような形で、接点があるかもしれない。
それまでに、私も次のチャンスをあたためていきたい。
流行りもんに絡みたい欲望にかられたので思ったことを少し書かせてもらいます。
それに対して、「企業なんだから利益追求は当然」という反論が出ている感じですが、
それにはそれで「公共の電波は利益追求の為に独占していいものじゃない」
って感じの反論で「公共」ってワードで責められてるように私には思えます。
でも、「公共」なんて遵守してどうなんの?
それで視聴率とれんの?
って思う。
つまり、公共とか言ってる人はそもそもテレビ見ないネットで情報収集とかしてる
アタマイイ人たちなようにも思う(何の根拠もないよw)
その人達が望んでることってもしかして、テレビ局に死ねって言ってるんじゃない?
そういうアタマノイイ人たちはこのまま、テレビという存在の影響力は低下して、
つまり、そういうアタマノイイ人たちの望み(意識的にしろ無意識的にしろ)は韓流が消滅することじゃなくて
自分たちがネットで楽しんでる間に、テレビ業界は今まで通り想定の範囲内の当たり障りの無い放送を続けて
誰の思想もコントロールすることなく失墜して、
独占している広告利益と電波を公共へ返還することを求めているのかもしれない。
だとすれば著名人の言う「企業として当然の生存活動をしているだけ」という擁護は見当違いで、
そもそもテレビのガムシャラの生存戦略だから許せなんてなんの反論にもなっちゃいないのかも。
当然。テレビ局が生存しようとすることは悪いことじゃない。
だけどライオンがシマウマを狩るように、自分たちの養分にするために他者を殺すことだって悪いことじゃない。
とか思った。
そんだけ。
Twitterだねえ。
著名人が動いているのを見たり面白い事言ってるのを見るのもよい。
それくらいの、暇つぶし10割でしか使ってないのだけれど、それは活用できていないらしい。
有意義?な使い方っていうのがもっとある。
RTしたりされたり、そうして己を磨いていく。のかな。
#change2011とかいうタグを友達が使ってて、急に欧米が政府がとか言い出したぞなんだと思ったら、皆はもっとすごいや。
どうやらこれはイベントなのね、皆足並みそろえて燃えたぎっている。どーりで大学生が多いと思った。
そしてなんだかむずがゆい。
要するになんかアホらしい。
成長過程といえばそうなんだが、偉そうにまとまりの無い事を無勉強で呟くのはどうかと思うよ。
アウトプットは大事だけれど、それっぽい言い方をする事が練習になるわけではなくて、一応の論理的筋道を立ててモノを言うのがアウトプットの練習になるんだと思うよ。
「世界を変える、そのための努力もする」って、世界を変える事は目的で有り得ないだろが。
ある事をやりたいから、そのために動く結果として世界が変わるだけで。世界を変える事を第一に打ち出すってのは違和感。
その人をモデルとして生きていくのは悪い事じゃないが、その人の勉強量を見たら偉そうなことを言うのを恥じろよ。
知識人のまねごとをするなら勉強しろ。新書、ビジネス本コーナーの人口と、Twitter知識人の人口の開きは一体。
・・・
理解して無いだろお前らって言われてるじゃねえか!
「感動しました、すぐ行動に移します」って!何をだよ!勉強をか!考えてからしろよ洗脳されるぞそれ!
行動力は大事だけど、自分で考えた事を行動に移すんだよ!言われた通りじゃ何も変わってねえだろ!
、と。
世界と較べて日本の大学生は、という論調が多いことから目指すものは世界で通用するリーダーなんだろうけど、大半は日本の就活に飲み込まれ日本企業で活躍して埋没していくのかしら。
結論はプログラミングを学べなのかな?そんなことも聞いたこと無かったのかい。web進化論やら何やら何やらでさんざん言われてる事だろうに。
まあでも、少しでも本当に糧としてくれる人がいればいい、のかね。
もしくは、話を聞いて少しでも全体の意識が高くなってくれれば、それでいい、のかな。
2007年当時、ono_matopeはまだ学生だった。私もオフ会で会ったことがあるが、明るい好青年だった印象を抱いている。彼は、はてなダイアリーを毎日書いていた。どうやらアニメやプログラミングが好きなようで、趣味に生きてるなあと羨ましく思ったものだ。
2007年の暮れに、彼はふぁぼったーをリリースした。当時まだ黎明期だったTwitterを面白く便利にするWebサービスだ。私も利用させてもらったし、こんなものを創り出せるなんて彼は才能のある人間だと思った。そして彼はそのままY社に入社した。
2008年頃、江上という人物が話題に、というか問題になった。私は彼をあまり快く思わないものの静観していたが、ono_matopeは江上を糾弾しにかかった。彼はVoQnやHolyGrailと一緒に戦った。それを見て、何やら嫌なものを感じた。というかVoQnやHolyGrailみたいな連中と一緒になって他人を叩いているono_matopeを気味悪く感じた。まるでテレビ局に電話をかける主婦みたいだ。
2009年、TwitterにRT機能が出来た。ono_matopeはすぐさま、RT機能を批判した。そりゃそうだ。こんなものが流行ったら、ふぁぼったーの意味がなくなってしまう。彼がいまだにRT機能を使わないことに気付いている人は多いと思う。彼は抵抗勢力になった。
また同じころ、Togetterというサイトが出来た。Togetterを作ったYositosi氏はono_matopeと同じY社の社員で、後にTogetterの仕事に専念するために独立して会社を作った。ソーシャルメディアの成功例だ。しかしono_matopeは会社に残った。リスクを負いたくないのだろう。
ono_matopeの作ったふぁぼったーは、大まかに言えば、Favoriteを付けることで「私はあなたに対して敵意を抱いていない」ということを示すツールだ。しかしTogetterは、情報をまとめて世に広めるという使命を持っていた。Togetterはいろんな著名人に使われたが、ふぁぼったーはネットオタクみたいな人しか使わなくなった。ふぁぼられ目当てでウケ狙いの発言をする痛い人も増えた。まさにTwitter世界での抵抗勢力になった。
今のono_matopeは昔と違い、アフィリエイトで得たお金で外車を乗り回し六本木近辺を遊び回っているという(2chで見た情報なので真偽は不明)。昔の好青年は、今や堕落したIT長者になってしまったのか。もう昔みたいな笑顔を見せてくれないのか。私は寂しくて仕方がない。