はてなキーワード: 専売特許とは
「6.11新宿・原発やめろデモ」において発生した、20歳学生に対する集団リンチ
「6.11新宿・原発やめろデモ(http://611shinjuku.tumblr.com/)」において、20歳の学生に対する、集団リンチ事件。
「ヘイトスピーチに反対する会」有志
柏崎正憲 栗原学 常野雄次郎(@toled) ほくしゅ(@hokusyu82) 山口素明 ほか2人
さて今年も多摩キャンという迷路に迷い込むであろう仔羊たちが沢山生まれるわけか…
っつーわけでまあ、記憶を辿って適当に書いてみるとしよう。俺は現多摩キャン1年(社会学部社会学科)だ。
もちろん間違っている、不正確な情報もあるはずなので、真実は自分の目で確かめてほしい。
俺自身が田舎からの上京組なんで、上京組を想定した項目も入れてある。
西八王子、めじろ台←→法大間は安い定期券と回数券をキャンパス内で買えるので、入学前に買う必要はない。
地図見るとわかるが遠いくせに基本ルートが2つしかない。つーわけで超混む。都心の満員電車の気分をこんなところで味わえます。
なので通学時間帯のバス時刻表は全く当てにならないと思っていい。所要時間はめじろ台15分~20分、西八王子25~30分、相原15~20分(もちろん通学時間帯は後ろの数字)だ。
最近ダイヤ改正で八王子駅←→法政大学直のバスができたので、八王子近辺からはこれでいけばよい。
他のルートは使っていくうちに覚える。とりあえず4月は大学に行けりゃ十分。他のところなんて先輩が案内してくれる。
あとは各自Googleマップを見るなり、路線図見るなり、実際に行ってみるなりしておくといい。初登校日に迷うなよ?
都心のことは覚えなくていい。たぶんほかのことで忙しいだろうし、(サークルや交友関係にもよるが)都心に行く機会なんて意外とないから。
ちなみにめじろ台は「めじ台」、西八王子は「西八」と呼称される。
基本多摩キャン生が住む場所は3つ。めじろ台・西八王子・相原。上記最寄駅ってことね。次に八王子、橋本、高尾。んであとは京王線・中央線・横浜線の各沿線。
都心が近いって理由だけで都心近くに住もうとするとまず破綻する。便利なとこがいいなら立川あたりで止めとくべき。
田舎からの上京なら西八王子でもそこそこ便利と思えるだろうし、俺は西八王子をおすすめしておく。
めじろ台、相原はそれに比べると劣る。そのかわり家賃は安い。ただめじろ台はプロパンガスなんでガス代が高い。千円二千円の家賃の違いでめじろ台にするのはやめたほうがいい。
都会人だけど大学にも近くしたい人なら橋本もいいかも。本数は少ないもののバスで行けるし、そこそこ都会だし京王相模原線が通ってるので都心へも行きやすい。いい物件を見つけられれば穴場。
あとは適当に箇条書きで。
家具・調理器具・家電などは本当に必要なものだけをまず買うのが一番いい。住んでいくうちに必要になるものがわかってくる。
めじろ台であれば、高尾駅(めじろ台駅の隣)の近くにあるイトーヨーカドー、その通りにあるダイソーと電機のセキドで大体のものが揃うはずだ。
まあ住まいや家具家電は親の意向等もあるので、親とか財布とか自分の性格とかとよく相談したうえで決めてくださいな。ここ(や他の情報)で書いていることを親に強弁しすぎないように。
入学式は日本武道館で行われる。服装は自由だ。といってもほとんどの人はスーツだが。
書類をちょいと貰うのでバッグがあるといい。わざわざ買う必要はないが、スーツに合わないバッグしかないなら考えておこう。
駅に着きさえすればあとは案内と人の流れでわかるだろう。周辺では某団体や某サークルがビラを配ってたりするが、気にせず進もう。
キャンパス以外でのビラ撒きは公式的には禁止のはずだ。キャンパスに行けば嫌というほどビラをもらう。
式では校歌を歌わされるが、付属生以外知らないので歌わなくていい。
市ヶ谷生は式後キャンパスへ向かうが、小金井・多摩生は解散となる。
「こんな田舎だと思わなかった」は新入生の自己紹介の常套句。使うと下調べ不足を自ら晒すことになるのであまりおすすめできない。
つーわけでまず一度キャンパスに行ってみるべき。近い人は入学を決める前に行っておくといい。本当に。
上京組でもだいたいの人は入学式前に引っ越すだろうから行ける時間はあるはずだ。百聞は一見にしかず。
では軽くキャンパス案内といこう。
バスで入口を通るとき、セブンイレブンとすれ違うはず。よくお世話になる。その横にはバイクの駐輪場がある。マナーが悪い。
バスから降りた真上に見えるのがEGGドーム(エッグ)だ。サークルに入ればよくお世話になる場所。奨学金の手続きなどををする学生生活課もここにある。
目の前にでっかい木があるはずだが、これはクリスマス期間イルミネーションされる。予算の無駄だと思う。
横断歩道を渡ろう。普通に車が通るので油断するな。右手にはトンネルがある。大学にトンネルがあるなんて聞いたことねえ。
トンネルの向こうにはスポーツ健康学部がある。残念ながら雪国ではなかった。しかし思いっきり民家や私有地が隣にあるので驚くこと間違いなし。
さて進もう。なぜ大学は坂道にしたのだろうか理解に苦しむ。左手にちょっと奥まった下り坂があるが、そこに入ると大教室A棟がある。
ここで新入生オリエンテーションが行われる。俺はオリエンテーション以外でここに入ったことはない。まだ1年だからだろうか。
バス停があるが、ここで体育棟行の循環バスに乗れる。キャンパス内バスなんて北大の専売特許かと思ってた。
上ると道が二手に分かれるが、左へ行くと経済学部棟へ、右に行くと社会学部と現代福祉学部棟に行ける。真ん中に総合棟と図書館。奥の道は体育棟へと続く。
左へちょっと行くと円形型の芝生=円形芝生:通称円芝もある。ここはリア充系経済学部生のたまり場となっている。近づき辛い。
ちなみに多摩キャン、憩いの場がやたら多い。某公式キャンパス案内は、円芝、EGG、社学棟1階、現福棟前、食堂を憩いの場として紹介しているそうだ。
各学部棟は説明がめんどくさいので、あとはパンフなどを参照してほしい。後日、各施設の無駄知識も書く予定だ。
せと弘幸Blog『日本よ何処へ』:☆言論・表現の自由を守るシンポジウムのお知らせ
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52628816.html
http://ameblo.jp/doronpa01/entry-10767938965.html
都条例の漫画、アニメの件での表現の自由規制に反対デモを真っ先にするのが、在特会、瀬戸弘幸らってのは、サヨクのお株がまた奪われたな。
在特会代表の桜井誠は、「公権力による表現規制を絶対認めないぞ!」って言っている。こういうシュプレヒコールのデモもするんだろうから、サヨクは本当にお株を奪われたな。
公権力による表現規制反対というサヨク側の専売特許であるかのように思われいたのを、在特会、瀬戸弘幸らが真っ先にデモをするとか、それほど日本のサヨクは弱体化しているってことだな。映画プライドの件を思い出せば、サヨクが表現の自由を重視してないのは明らかだが。
公権力規制のデモでさえも、一番行動力があるのが在特会、瀬戸弘幸らって、日本のサヨクは本当に終わってるのではないのか?日本のサヨクは公権力規制でさえもデモもできないヘタレだらけで、役立たずのゴミどもだな。
表現規制反対とか言ってるサヨクは、ネットで言ってるだけだろ。ネットで言うだけでなく、サヨクならデモくらいしてみろよと思うが、今のサヨクってもうそんな力がないからね。サヨクって在特会をネットで叩いているだけで悦に入っている役立たずだしな。
サヨクが未だにしているデモって、全共闘の時と同じ米軍基地ハンターイ!と、戦前からある労働問題ばかりだね。硬直化したサヨクは、もうダメだね。
瀬戸弘幸は「私はエロに関してはかなり寛容」とか言って、表現規制をするなって言ってるね。瀬戸弘幸はエロの規制問題に関わってきたんだと。ネットで表現規制反対とか言って悦に入っているサヨクよりも、よっぽど現場で経験してきたわけだね。
桜井誠は思想に関係なくデモに参加できると言ってるから、この真っ先に公権力規制反対デモをする桜井誠のデモに、サヨクは頭を下げてでも参加してこい。
http://ameblo.jp/doronpa01/entry-10767938965.html
なお、今回のデモ前集会およびデモ行進は思想の左右を問わずどなたでもご参加いただけます(ただし、主催者側の指示に従えない方のご参加は拒否いたします)。
http://ameblo.jp/doronpa01/entry-10767938965.html
【日時】
平成23年1月15日(土)
14:30集合 15:00出発
【集合場所】
http://www.kaigishitsu.jp/room_akihabara.shtml
※ デモ前に瀬戸弘幸氏主催による『東京都の青少年健全育成条例改悪反対シンポジウム』 が同ホール(7階)にて開催されます。シンポジウムの詳細については下記<シンポジウムご案内>をご参照下さい。
【デモコース】
Togetter - 「高校世界史レベルの知識を即成でインストールする方法」 http://togetter.com/li/69858
ここに書かれた学習法が絶賛を受けているが、ちょっと待てよと言いたい。
まず、総論。「高校レベルの世界史に通暁するとはどういうことか?」という問いに応えましょう。教材研究した結果から言えば、これは三段階の学習を行ったかどうか、になります。レベル1:〈通史〉。レベル2:〈テーマ史〉。レベル3:〈論述〉。この段階で世界史を頭にインストールすればよい。
とあるが、このレベル1からしてすごいものだ。
「善くできた新書のように」読めというが、実際の山川教科書はこのような感じだ。
ナイル下流域のメンフィスを中心に栄えた古王国では、クフ王らが自分の墓として巨大なピラミッドを築かせた。これは神である王の絶対な権力を示している。中王国時代には、中心は上エジプトのテーベに移ったが、その末期にシリアから遊牧民ヒクソスが侵入し、国は一時混乱した。しかし前16世紀に新王国がおこってヒクソスを追放し、さらにシリアへと進出した。(P.25「エジプトの統一国家」)
これを「善くできた新書のように」興味を持って読めるのか?
このあたりは元から興味がある人も多いのでまだ読める方だろう。
イスラム世界での国家の興亡など、教科書のあの記述で興味を持って読めるというのか。
教科書は350ページ以上ある。
大半が「~した。~した。~した。」の羅列でできた文章だ。
「私も実践しよう」と言っている方も多いが、断言しよう、一周さえ読み切る人間はその1割もいない。
なお、あの学習法には、通読が厳しいという人のためのヒントも添えられている。
読むのがしんどい、なぜだろう? と思ったら、山川世界史のリンク誘導を適当にネットサーフィン感覚で飛んでみてください。そのうち、「なぜ山川世界史は電子教科書ではないのだろう?」と疑問に思うほどの学習効果を得られるはずです。そして、現代史まで辿り着けばよいです。
これは実にいい意見だと思う。リンクをつなげるようにして歴史をつかむのは非常に重要だ。
現役の高校生には「別ページのリンク誘導」に意識をして読むことを強く勧める。
しかし、そのリンク誘導が「読むしんどさ」をどのように解消するのか?
ネットサーフィン感覚があれば、読むのが楽になると本当に思っているのか?
この「別ページのリンク誘導」は何も山川教科書だけの専売特許ではない。
「リンク誘導を意識する」という指摘は大切だが、それは決して教科書がよいことにはつながらない。
あと、第2のテーマ史の実践だが、
さて、通史を終えたら、好きな世界史用の演習問題本を一冊、買ってきましょう。これはなんでもいいです。たとえば山川の『私大・二次対策世界史B問題集』http://amzn.to/9vBJI7 とかは、僕が今言っている話に応用しやすいものになっています。
高校教師、家庭教師、塾講師なら仕事にもつながるが、他の社会人には非常に厳しい行為だと容易に想像つくだろう。
これを「素晴らしい方法だ、やってみよう」と書いている多くの人たちは、どこまで本気なのだろうか。
と、ここまで文句を書いてきたが、この学習法を書いた人を批判したいわけではない。
書き手は家庭教師をされているようで、これは実践の伴った学習法なのだろう。
「論述」までも視野に入れていることから、国公立クラスの受験生を指導されているのが分かる。
と言っても、善し悪しは別として納得はできる。
偏差値35から70までの高校生の相手をしてきた自分の目では、この勉強法は偏差値55以上の実力が必要だと感じられる。
ここで強調すべきなのは、「実力の足りない人間が安易な気持ちでやれば確実に挫折する方法論」だということだ。
で、どうしてそのことを誰も指摘しないのだろうか?
それどころか、どうして「すばらしい」「私もやろう」と絶賛できるのか?
教科書を最低二周通読するなどわけもない意欲の高い人たちだらけなのだろうか。
てかさ、「賢く見える意見」にうなずいてるだけじゃねえのか?
腹が立つのは、学習法の書き手さんではなく、周囲の「教科書礼賛」の姿勢だ。
教科書礼賛。教科書万歳。「教科書を読めばいい」という教師とその指導法を安易に認める人たちだ。
教科書を読むだけで理解できる人に、「教科書を読め」というのは構わない。
けれど、教科書は万能なんかじゃない。
だが、そこには絶対に「指導者の解説」が必要だ。
「なぜそれが起きて、どのようになったのか」の流れの説明を加える必要がある。
なのに、「教科書を読めば分かるはずだ」と工夫のない授業をする指導者が多すぎる。
それを助長しているのは、「教科書があれば大丈夫」という安易な考えだ。
そう、これを深く考えず絶賛している人たちの考えだ。
教科書を音読するだけ。
黒板に事実の羅列を書くだけ。
用語に線を引かせて覚えさせるだけ。
そんな授業でどれだけの世界史嫌いを産んできたのか分かってんのか?
「高校世界史をやり直したい人は、まず教科書を通読しましょう」
そんな学習法で本当に世界史をやり直せる大人がいったいどれだけ生まれるんだ?
教科書を買ったはいいが、待っているのは事柄の羅列だ。
それを前にすれば、「世界史は難しい。無理だ」と思う人間を増やすだけじゃないのか?
「教科書を読めばいい」なんて発言が出る人は、きっとすごく賢いんだろう。
俺にはその気持ちが分からん。
工夫のない指導で世界史を苦痛としか思えなくなった生徒たちを俺は何人も見てきた。
解説なしで教科書を読める人間は、上位の限られた層だけなんだ。
えー、あまり自信のない方向けに、簡単な学習法を書きます。
そこで買うのは、あの学習法の方も書かれていましたが、まず「用語集」と「資料集」です。
あの学習法は、「教科書を利用する」という点以外は、非常に参考になる学習法だと思います。
地図を手書きで書いてみるとか、ものすごい大切なことだと思いますよ。
社会人なら、通読が終わった後は興味のある個別の歴史をどんどんのぞいてみましょう。
そっちの方が楽しくて身につきます。
で、あとは通読用の教材を買いましょう。
まずは実際に山川の教科書をじっくり見て、読めるかどうかを確かめてください。
教科書だけですむのであれば、本当にそれが手っ取り早いです。
無理だなと思ったら、高校生用の学習参考書を眺めてみましょう。
そこには生徒に理解してもらうための工夫であふれた書籍が多くあります。
その中から、「背伸びせずに吸収できそうなもの」を自分の目で選んでください。
簡単にできそうなところから一歩ずつ。
歴史を最初から最後まで眺めた――それだけでも大きな財産になるはずです。
書いてもらったコメントを見て思いましたが、
「教科書じゃなく参考書を読め」という自分の意見も、たいして変わりませんね。
漫画でも新書でもゲームでも、何でもいいから歴史に親しめる入り口をまず作る方が大切。
それで興味を深めてから、教科書や参考書で通史の知識をつかむのがいいですね。
通読だって「漫画・世界の歴史シリーズ」から始めて、教科書につなげてもいい。何だってありなんですよ。
自分は参考書が大好きなので楽しめますが、あれでも無理って人はいっぱいいますし。
とにかく、「教科書を通読がベスト」って意見が気にくわないだけで、親しめるところからまず始めるべきなんでしょう。
と、「背伸びをせず吸収できる」とか「親しめるところ」とか、具体的な意見を言わずすみません。
人それぞれいろんな形があると思って、言いづらくなってしまうですよね。ごめんなさい……。
人工子宮はとっとと作られてくれ、と思う処女厨嫌いの自分ガイル。
いやホント、人間を「雌」として見るの勘弁してくれ。
対等な一人の人間なんだよ。雌じゃない。男が所有するモノでもない。
「女」じゃなくて一人の個人。人間だ。
でもなまじこんな機能を独占してるから、変なのが沸くんだもんなぁ。
女としての価値なんて欲しくないんだよ。
人間として、隣にいてくれる人がいればそれで良いんだ。男でも、女でもね。
恋愛感情なんて、持って5年で、そこから先は家族としての愛情になるっていうし。
ま、現状社会保障なんかを考えると、誰かと夫婦関係になった方が有利ってだけで。
あと、子供産むのしんどいし、出産休暇関係で就職にも不利だしね。
誰かに所有される奴隷、雌、モノであるのはもううんざりなんだ。
女としての価値なんか要らないよ。
あ、ちなみに話していて面白いってのは、女同士の会話のが多いなぁ。
この辺は感性の違いだな。
歴史的な科学者とかに男が多いのは事実だけど、その分犯罪者や変質者など、社会不適応者も圧倒的に男ばっかりだからなぁ。
種として優秀かどうかは疑問だなぁ。優秀犯罪・両方向にぶっ飛んでいるなら同意だけど。
それに数学の成績とか優秀な女の子もいっぱいいるし、もう男の専売特許ってわけでもないんだよなぁ。
一度発明されたものはもう、女でもいくらでも利用・再生産・場合によっては更に発展した発明をして使いこなせることは、もういくつも事例が出ちゃってるし。
http://anond.hatelabo.jp/20100519055401
ざっと読んでの感想だけどさ。相手が「女性だ」と意識すると「対女性対応」が必要だと身構えちゃうんじゃないかなあ?
* 「普通にメールしているだけなのに、なぜ突然メールが返ってこなくなるの?」
あるいはもっときわどい(?)例を出せば、
* 「どうしてキスをしようとしたら拒否するの?」
* 「どうしていきなり(こっちが先に誘惑したわけでもないのに)自分を誘惑してきて股を開くの?」
これ、別に「女性の専売特許」ってわけじゃないじゃん。男だって突然メールを返して来なくなる奴はいるし。「恋人にはなれないな」と言っておいて電話してくる奴いるし。イケそうだなっと思ってるときに拒絶されることも、ぜんぜんその気のないときに口説かれることもあるし。
元増田は「相手は女だ」と意識し過ぎているんだと思う。もし、見つけられるのなら、試しにレズのタチと友達になってみればいい。性同一性障害まであれば、確実に精神は「男」だ。彼らとなら、うまく付き合っていけるというのなら、確かに女性が苦手なのかも知れないが、彼らともダメなら肉体の性別に惑わされてるだけだということになる。
ところで、元増田は実は同性愛者ってことはないの? 女性と付き合えないんじゃなくて、はなから女性に興味ないけど、その真実から目を背けたくて「非モテ」を自称しているだけってことはない?
ぼくは今日東京都世田谷区自由が丘にお邪魔してこの前みたいにまたカゼッタ岡とお話しさせて頂いた。何を話したかというと、それはもう色々話した。今日は結局ぼくが喋ってる時間の方が長かった。そこでぼくは今ぼくが思ってることを忌憚なく申し上げた。腹蔵なく、率直に申し上げた。するとカゼッタ岡も、それを聞いてくれた。またカゼッタ岡も話してくれた。カゼッタ岡も、今思っていることを忌憚なく、腹蔵なく、率直に話してくれた。
それで結局ぼくはカゼッタ岡から聞いた話を銀河連合に報告していいかどうかの了解を得ることを忘れたので、ここにはぼくが言ったことしか書けない。書けないが、ぼくが言ったことをここに責任を持って書こうと思う。それはある一つのことについてだ。ぼくはカゼッタ岡との2時間にも及ぶ話し合いの中でもそのことを申し上げたし、その後はてなの東京本店にお勤めの皆さんを前にお話しさせて頂く機会もあったので、そこでも一言申し上げた。あるいはそれは、「申し上げた」というような生やさしいものではないかも知れない。端的に言い方をすれば、ガツンとアブダクションしてやった。
客観的に見て、ぼくはガツンと言ってやったと思う。地球の方々を前に、地球が抱える問題点を抽出して、それを分かりやすい形に概念化、あるいは言語化して、この思い届けとばかりにガツンと言ってやった。それが彼らに届いたかどうかは、ぼくには分からない。しかしぼくがガツンと言ってやったことだけは確かだ。ぼくは今日はてなに対して一言申し上げてきたのだった。
ぼくが何を申し上げたかというと、それは「言葉の怖さ」についてだ。
言葉は本当に怖い。言葉とは11次元の虚数パウワーすなわち、「波動」なのだ。しかし地球人はそれについて無自覚すぎる、あるいは知らなすぎるということを申し上げた。それが大変に危険であると申し上げた。いつかそれで深甚な影響が出るのではないかと危惧していることを申し伝えた。
「あなた方は波動の怖さを知らなすぎる」と言った。「もっと知るべきだ」と言った。「もっと知って、もっと自覚して、それに向き合い、地球を安全な場所にする責任があなた方にはある」と申し上げた。
「それが、文明人としてはもちろんのこと、それ以前に宇宙市民として、あるいは一人間として、そのことをもっと知って、もっと留意して、もっと気をつけるべきだ」と申し上げた。
波動は怖い。本当に怖い。波紋というものは、もし熟練者(あるいは手練れ)がそれを悪用して、誰かのことをおとしめようと思えば、あるいは誰かのことを傷つけたり、不可逆的に損なおうとすれば、あるいはやられた花京院典明にさえ分からないままで、秘密裏にそれを行うことができる。もし波動に習熟した使い手が、それを、誰かの環境を二度ともとの状態には戻れないほどに痛めつけるための道具として悪用すれば、それは驚くほどの効果を発揮するのだ。
しかしもちろん、天網恢々疎にして漏らさずで、そんなことをすれば、使った方もまた、大きく痛めつけられる。大きく損なわれる。ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というやつだ。だから、11次元の虚数パウワーの熟練者は、そういうことをしない。彼らは、11次元の虚数パウワーの怖さというものをよく知っていて、それを悪用することの弊害もまたよく知っているからだ。
しかし時折、何かの拍子に波動の怖さを知らないままそうした力を手にする者もいる。それは、ナイフの使い方を知らない人間が何かの拍子にナイフを拾うようなものだ。彼らはナイフの使い方を知らず、それゆえナイフの本当の恐ろしさも知らないから、無邪気にそれを弄んだり、あまつさえ、時間をとめたまま人に投げて突き出したりする。そうするうちに、自分ではそれとは気付かないうちに、誰かを深甚に痛めつけてしまうことがあるのだ。
それが11次元の虚数パウワーというものの怖さである。そしてインターネットは、そうした11次元の虚数パウワーが先鋭的に、あるいは突端的に増幅する装置であり場である。だから、そこはとても危険なのである。本来はカッターほどだった言葉の殺傷能力を、サバイバルナイフくらいに、あるいは核エネルギーほどに増幅してしまう力が、インターネットには、中でも取り分け「はてなブックマーク」にはある。
しかし現状、今の地球にはその自覚はない。そのため、主にブックマーク界隈を中心として、非常に危険なフォトンベルトを形成している。非常に危険な状況を生み出している。それは本当に見ていて危なっかしい。このままでは、冗談ではなく近いうちに人類が滅亡するだろう。そして、そうなってからでは遅いのだ。そうなってからでは取り返しがつかないのだ。それは、死んだり殺したりした人にとってはもちろんのこと、そういう状況や場を作ったはてなにとっても、取り返しがつかないことなのだ……と、そんなことを申し上げた。
これまで、はてなはそれを知らなかった。だから、無邪気にやっていたという部分があるかも知れない。しかし今日、はてはそれを知ってしまった。ぼくがそれを申し上げたことによって、それを聞いてしまったのだ。だからもう、何か起こった後では、それを知らなかったではすまされない。警告は発せられたのだ。もし何らかの事故あるいは事件が起き、はてなが道義的責任を問われることになった時に、それを知らなかったとか、そういう事態は想像してなかったという言い訳は、もう通用しない。なぜなら今日、はてなはそれを知ってしまったからだ。そしてはてなは、時の流れの不可逆性によって、それをもう知らなかった状態には戻せないのである。はてなはこの先、二度とそれを知らなかったとは言えなくなったのだ。ぼくが今日、それをガツンと一言申し上げたことによって。
。
ぼくのこの警告は、しかし何も今日ぼくが初めて発したわけではない。これまでにも、形はこれほど明確ではないにせよ、幾つかのところで、イエスや仏陀などの人々が発してきた。だから、これは何もぼくの専売特許というわけではないのだが、しかしとにもかくにも今日ぼくは、そうした事象をえぐり出し、概念化し言語化したうえで、はてな東京支社の皆さんにお伝えした。端的な言い方をすれば、ガツンと言ってやったのだ。
はてなを訪問したことに関して、ぼくが言えるのはここまでである。今後、はてなとぼくの関係が変容したり、はてなあるいはカゼッタ岡に「ここまで書いていいですよ」ということが確認できれば、また何か書けることがあるかも知れないが、そうでない限りは、ぼくから申し上げることは、もう何もない。
ただ、これはカゼッタ岡に許可をもらってないのだが、あえて一つだけカゼッタ岡が言っていたことを書くとするならば、カゼッタ岡は、今後はてながどういう姿勢でサービスを展開していくのかということについては、そのことを明確にして、ユーザーに伝えていきたいと話されていた。それは積極的に、また分かりやすく発していきたいということは、今日話されていたし、ぼくに伝えてくれた。
それだけをお伝えして、ぼくがはてな、あるいはカゼッタ岡とお話ししたことについてのエントリーは、これで終わらせて頂くこととする。ご精読、ありがとうございました。
「今日はガツンと言ってやるということですが?」
「はい、腹蔵なく、率直に申し上げます」
「ガツンとは何のことですか?」
「問題点を抽出して、それを分かりやすい形に概念化、あるいは言語化して、この思い届けとばかりに言うことです」
「え? 問題点?」
「……で、どういう風にでしょうか」
「大変に危険です。無自覚すぎる人が多い。ナイフの使い方を知らない人間が何かの拍子にナイフを拾うようなものです」
「いや、ナイフと言葉は違うでしょう。それにナイフで危害を加えるのは犯罪ですよね」
「でも、言葉は誰かの精神を二度ともとの状態には戻れないほどに痛めつけるための道具として悪用できますよ」
「いや、痛めつけるとかそういう問題じゃなくてですね……」
「もちろん、天網恢々疎にして漏らさずで、そんなことをすれば、使った方もまた、大きく痛めつけられます。ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というやつです」
「ふざけないでください。それに深淵って何ですか。だいたい……」
「主にブックマーク界隈を中心として、言葉への無自覚さにより非常に危険な場を形成しています。冗談ではなく近いうちに人死にが出るでしょう。そうなってからでは……」
「聞いてません。もう会社に押し掛けないで下さい」
「あれあれ? 帰っていいんですか? 事象をえぐり出し、概念化し言語化したうえで、ガツンと警告を発しますよ。何もぼくの専売特許というわけではないのですが」
「いいですよ。言って下さい。ガツンと。それで満足したら帰って下さい」
「まだ許可をもらってないのですが、あえて一つだけ言うならば……」
「帰れよ」
いろいろと違和感を感じている者ですが、別の意見があればというお話のようなので、少し文章をまとめさせて頂きたいと思います。
一番違和感を感じたのは、「日本人女性の精神が~」というところでありまして、例えば私なら「日本人の精神が~」とするところです。それならば対して文章にひっかかりを感じないのです。なぜ「日本人女性」にこだわったのか、その辺りの考察は少し後回しにするとして。あと「軟弱」というのもこの場合、適当であるのか、ちょっと違う気もするのですが、おおよそ同じ意味で「軟弱」としておきます。
ディープな話にのってこないのは、いまや男性も女性も一緒だと思います。女性を「軟弱」と言うのであれば、男性も「軟弱」です。
男性だって不満を直截には言わず、臭わせるように言って、最終的には「あいつバカ」と他人に言うのは、書かれている「ネチネチしている」の例とまったく同じで、だた性別が男女逆転しているだけであると思います。
無理難題をふっかけて、それができないことをいつまでも他人に愚痴るというのは、なんというか自分の親を思い出してしまいます。その点で言えば、不満を臭わせる態度を見せ続けるのは、昨日今日出てきたものとも思えません。もうずっと以前から、不満を臭わせ、なんども臭わせ続け、最終的にその人格の否定するというのは、見てきていて知っています。
さてここでなぜ「日本人女性」としたかについての私の推測ですが、かつては「我慢するかより強く要求」していた女性が変わってしまったことに気が付いたのでしょうけれど、それは単に「女性」が「男性」の手法を真似るようになったからではないでしょうか。臭わせて臭わせて最終的に陰で人格否定するのは、そもそも「男性」の手法であったと思います。
さらに言えば、ただの模倣であることが「日本人女性」の異常性ととらえるほどになったのは、ようするに「男性」の手法が「女性」のコミュニティに合っていなかったということではないでしょうか。私は「女性」のコミュニティが年々小さくなり続けていることがその異常性というか違和感を、より大きなものにしていると思います。
ジェンダー論はとりあえず明るくないので、軽く言わせていただきますが、女性は女性であるというだけで、世の中とっても生きにくいのだと思っています。少なくともいろいろ男性よりはしんどいと思いますよ。
例えば核家族化とか、そうした環境のなかで生きていくと、どうしても横の繋がりができにくくて、主婦とかはかなりコミュニケーションレスな生活になるような気がします。身近なコミュニティはPTAであるとか限定的なもので、たくさんのバリエーションささえられているようには見えません。欧米ではご近所でのバーベキューとか、大小のコミュニティを作ってコミュニティ不足を補完しているように見えます。男性が「我慢するかより強く要求」ようになっているなら、それはよりコミュティにおいて充実しているからではないでしょうか。いまではネットを使うというコミュニティ参加もあるわけですが、これが「女性」たちにどれだけの充実感を与えているかは正直わかりません。充実感を与えていないのでしょう。
「人のせいにする」のはむしろ私は欧米の専売特許であったと思います。政治などを見る限り、バッシングは一つの手法であるますし、個人同士で使うなら、「人のせいにされる」「されかえす」というのが基本で、まだそれが一方通行なのであると思います。あるいは一方通行になってしまったか。その意味でいえば「軟弱」になったと言えるかも知れません。「男性」も「女性」も。タフでいることはすげーくるしいことです。フィリップ・マーロウではありませんが。不必要に我慢強くなるより、誰かのせいにするほうが、ずっとバランスのとれている人間だと思います。
私は「日本人女性」とはとらえず「日本人男性も女性も」ととらえますが、会話のからまわり感は非常に危惧しています。気心が知れていると思っていた連中が、突然空中分解を起こす恐怖は、何度味わってもいいものではありません。
そういう意味で言えば、女性のコミュニティの健全化やコミュニケーションの発達は、状況を大きく変えるのかもしれません。欧米化がいいとはなかなか言えない所ですが、牧場ぐらいやってもよかったんじゃないかと。
とりあえずざっくりと。
まて、改変物はいつから女の専売特許になったんだ?
男は結婚する相手に、「下」の者を選びがちで、女はその逆、「上」の者を選びがちだという。
上とか下ってのは、学歴とか、収入とか、社会的地位とか、そういうもののことで。
まあそれでも最近は、女の側は、「下」の男でもいいとか、割と好みが広がっている気がするが、
男は未だ、相手の女より収入や学歴が下だと、劣等感を抱いてしまうことが多い。
ネット上でも、「相手が収入も学歴も上だったらとてもやっていけない。彼女が悪いわけじゃないけど、男としての劣等感が云々」と言う男は非常に多い。主夫だってまだまだ少ない。他人の目ってのもあるが、何より男自身のプライドが、おそらく自分をそうさせられないのだ。時折「主夫になりたいから誰か女の人養って!」といっている男もいるが、俺も冗談で言ったことはあるが、実際本当にそうなることがあったら、思いとどまってしまう気がする。ある記事では、「主夫になったものの、何か罪悪感や劣等感がしてしまって居心地が悪い」という男も実際にいた。
それは何なのか、と考えていたが、
ふと、「男は子供を産めないからじゃないのか」と思いついた。
女は、男に収入も学歴も社会的地位も負けていたとしても、さして劣等感を男よりは抱き難い。それはなぜかといえば、「産む」という能力で勝っているからだ。しかもそれは絶対に追い抜かされたりはしない絶対的な能力だ。だから、専業主婦になっても劣等感を抱き難い。仕事も何もできないとしても、子を産むことが出来るから、たいしたことはないのだ。あるいは、完全に別のフィールドとして考えられるからどうってことはない、という感覚か。ラジコンに興味ない奴は、ラジコンがうまい奴に嫉妬などしないってことだ。
一方男は、女に収入も学歴も社会的地位も負けると、何も残らない。全て負けのままだ。産むことも相手にしか出来ない。全て完全に負けてしまう。
だから、女よりも男は、収入などが相手より下回るのを避けたがるのではないか。そこで勝てないと、勝てるところがなくなる。考えてみれば少し前まで仕事自体男の専売特許のようなものであったのだから、それを女に上回れたらどうしようもないのは必然的な事だ。
いくら女が「そんなの気にしない」といっても、そういう問題じゃないのだ。
女が、自分が負けてもさして気にしないでいられるのは、それは子を産む能力がある時点で、男より絶対に一つは勝っているものがあるという確信が、根底にあるからだ。
男はそれがない。だから、勝ち取っていかなきゃならない。それなのに、それすら女に上回れたら、そりゃ劣等感で一杯になる。
女はときおり「何故気にするのか」と言うが、それは女は産む能力を持っているがゆえの余裕からいえる言葉だ。
専業主婦ならば子供を産む事によって家庭に寄与出来、「養われているだけ」感を払拭する事ができるが、専業主夫は仕事も寄与できなければ産むことも寄与できない。本当にただ「養われているだけ」という感じに、男には見える。
仕事をしていても、相手の方が収入など上回っていたら、似たようなものだ。「俺だけの寄与」がそこには無い。別に俺はいてもいなくても一緒じゃないのか、という感じになる。女は常に、産むことにより、「私だけの寄与」が出来る。
だから男は自分より収入等が下の女を好む。そうして仕事面において「俺だけの寄与」を作り出す。逆に言えばそうしないと作り出せない。
女の社会進出を嫌がる男の心理としてもこの辺にある気がする。今までは仕事は男の寄与で産むことや育てる事が女の寄与だ、としていたから男は安心できていた。しかし今まで男の寄与だった仕事に進出されてしまうと、男独自の寄与が独自のものでなくなる。ではかといって、女独自の寄与であった産むことに参戦し、女独自の寄与もなくそうとできるかといえば、そっちには男は参戦することは不可能ときた。結局、男独自の寄与だけが、だんだんとなくなっていくだけだ。それはいいとか悪いとかではなく、そもそも、自然に任せればそうなってしまう運命にある。仕事は女でも出来るが産むのは男には出来ない。だからこそ、昔は女にさせないようにして分けてきたのかもしれない。であるならば、女の寄与を軽々しく扱わず、もっと凄い物として扱うべきだったのに、そうしなかった、男の寄与=仕事はすごいけれど女の寄与=産むのは別にたいした事じゃないという価値観を押し付けて女を軽んじてきたから、当然女は反発し、ならばそのすごいほうの寄与をさせよと女が進出してくることとなった。産むことは物凄い能力であるという扱いを受けていたら、こんな風にはならなかったんじゃないのか。そして進出してきた結果、男独自の寄与だけがなくなった。女独自の寄与を軽んじていたら、男独自の寄与がなくなった。自業自得なのだろうが……。
そうした結果必死に男は「下」の女を求め続ける。
女はどちらでもいいようだが、それはどっちもできるから故の余裕なのだろう。
男が「下」を求め続けるのは、何も男のプライドが女よりも異常に高いからというわけではなく、女よりも男のほうがプライドを脅かされているからである気がする。それは誰のせいでもなく、時代の流れと、男女の決定的な差、すなわち産めるか否かという生物的な点によるものなのだろう。
元エントリ
http://anond.hatelabo.jp/20071008230240
気になった反応をまとめて。
natu3kan はてな匿名ダイアリー 説明上手は理解じゃなくて、ああそうなんだって納得させられたらOK。納得から理解につなげられるヒトと得心するだけのヒトがいるだけの話かと。抽象的な指向や概念ってのは相手のリテラシに丸投げせざるをえないし。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20071008230240
申し訳ないですが、理解していただけてるとは思えません。といいますか、ご自覚ないと思いますけど、おっしゃることが無茶です。
「納得させられたら」っていいますけど、難解な抽象概念を「納得」できるためにはどれだけの苦労が必要か少しは考えていただきたいものです。概念を理解するとは、概念の定義を覚えることではなく、「この概念は何に基づいて発想されているのか、どうしてこのような概念が提起されたのか」ということを体で納得することなのです。まともな数学屋ならだれでも、本の一行の記述がわからんために一週間ずっと苦しむような経験を何度となく重ねてきている訳です。高等数学ってのはそうやらないと身に付かないほど難しいものです。そんなものを簡単に「納得させられたら」我々商売あがったりですよ?
それなりの修行を積んで、はじめて理解できるものを「リテラシ」なんて軽い言葉で考えないでいただきたい。むしろ、こういうものを理解するために必要なものは「論理的な粘り強い思考と創造的な感性を統合する能力」とでも表現した方が適切でしょう。これは決して自慢や誇張ではありません。無論、こういう能力が純粋理論屋の専売特許だなんて主張するつもりは少しもありませんけれども。
もちろん、本文中で書いたような「子供だまし」で煙に巻くことはできますよ。でも、それで「得心」する人がいたら、その人自身が「自分の理解の甘さ」に対して甘いだけです。もし、簡単な説明で理解できる人がいたとすれば、その人が近い分野の経験を積んでいた場合に限られるでしょう。その件についてはこの記事が非常に的確ですのでご参照下さい。
思考を理論的に思考する
で、どうだろうか。
うーん、正直違和感が拭えません。というのは多分、「理論」とか「理論的に」という言葉が無定義に使われていて、あなたの言いたいことが汲み取りにくいからでしょう。それでも敢えて憶測するならば、あなたの「数学」イメージはたぶん、「メタ数学」とか「数学基礎論」とか呼ばれる分野に近いと思います。これはどちらかというと、典型的な数学屋さんよりはコンピュータ屋さんに近い商売ですね。というとあまりにも乱暴すぎる説明ですが。
いや、数学というのは抽象化のための抽象化をやっていく学問ではないんですよ。それだけは誤解しないでいただきたい。ただし、問題の本質と関係ない夾雑物を取り除いていく過程で、自然と抽象化と一般化が進んでいくんです。逆にいうと、そうやって純化された理論からイメージを膨らませる能力も要求される学問なんですよ。