はてなキーワード: 蔑称とは
年々、発達障害とされる人々は増えている。
以下、発達障害者を発達と略す。
あと、ここでは「発達障害は障害ではない」とか「スペクトラムの問題だから」みたいなことは扱わない。そんなこと言われても現実にあってないし何の慰めにも奮起にもならない発達は多いだろ。昔は発達にも居場所があったみたいな話も同じく。ただの社会的隔離を美化してる場合がある。
なんで発達が増えてるのか、医者と、教師の知り合いに聞いてみたことがある。それぞれの考えは違っていた。
ある中年男性の医師は、一般生活に求められる技術や社会性のハードルが上がり過ぎたから、と言っていた。つまり殆どは外部の、要因だと。
教師は、ちょっと違ったことを言っていた。後天的な要素もあるけど、それに反応してしまうトリガーについては常に先天的にあるだろうし、それには確かに遺伝があるのでは、みたいな事を言っていた。
上の意見は参考意見として、俺が言いたいのは、発達は新人類じゃないかってこと。そしてそれをめちゃくちゃに、クソみたいに、バカみたいに誇って良いんじゃないかってこと。
クソとかバカとか書いたのは、図書館とかにある上品な福祉本みたいな生やさしい肯定ではなく、社会に敵対したりキモがられたり腫れ物にされたりする存在なのを本格的に誇るために。
「発達」「アスペ」「コミュ障」・・・言葉や名前が付けられたと思ったら、すぐにそこいら中で蔑称となって蔑視が広まってる。
アスペルガーの時も、ほんの少しの間にアスペ、アスペ、アスペ。「アスペを採用しないようにはどうする?」「彼氏がアスペかも!」「アスペは犯罪気質がある!」みたいな記事だらけになった。
今度ネット上で流行ってた「ケーキが切れない」とやらもそうなりつつある。そして社会は発達障害と向き合うことなく、排除と嘲笑と腫れ物扱いのやり方だけ上手になるんだよな。
これまで、発達はそれぞれ一人一人の苦しみのなかで閉じ込んでしまっていたり、自助グループみたいなのに繋がっても「定型の、現行の社会」に矯正されるための監視された自助みたいなことしか出来なかった。
CPの人たちは「青い芝の会」という戦闘的な障害者活動をしてたし、なんなら同性愛者もラディフェミも色々やってる。発達もそろそろ似たやり方をとるべきなんじゃねえか。
発達は、よく「挨拶や謝罪の形式みたいな社会的マナーや文化が備わってない」と言われる。いいじゃん。新しい文化作ろうよ。今まで現れてきた色々な文化もマナーも、「新しく」作られた瞬間はあるんだろ。発達もそれなんだよ。それが見れて嬉しいだろ。学者は心配してないで、これについて論文書けよ。
カサンドラがどうとか「発達は身近な人を傷つける」とか騒ぐやつもいる。いいじゃん。俺たちは新しい人間関係のモデルを今作ってんだよ。なんでパートナーが発達だって分かった瞬間「答えが得られた」気になってんだよ。相手が発達じゃないなら「傷つき度25」で発達なら「傷つき度100」なのかよ。
でも、個人的な人間関係ばかりやっても限界があるし根本的な問題は解決しない。もっと根幹に切り込もう。
発達障害手帳の効果が他の手帳よりかなり少ないよな。役所にみんなで乗り込んで訴えようぜ。
発達は税金関連の処理が苦手だよな。税務署を占拠して「もっと簡単にしろ、発達の税金軽くしろ」って示威しなきゃだめだ。
「ケーキの切れない」とかなんとかで有名になって、発達がかなり牢屋に入れられてる事が分かったじゃん。それでそんな記事みて「なるほどな」って思ってるだけなの?刑務所を取り囲むべきだろ。発達を社会に返せって。社会が発達と直接向き合って新しい文化を作る機会を奪ってるって。
少数民族レベルでも自治権を得て、これから増えていく発達の数に見あった土地を得るべきでは?
強めに書いてきたけど。
発達が増えてるとかいう情報に触れて、発達自身が何で卑下しなきゃいけないのか?それに腫れ物ともキモがりともつかない態度で接する社会ってなんなの?その社会は必要な社会なの?って事なんだよな。
そしてそれは、発達が、ホモ・サピエンスの新しい形みたいなこと、そういうレベルにしないと、説明がつかない。ホモ・ハッタツトゥス。
俺は定型社会こそぶっ壊れるべきだと思うから、どんどん発達障害の社員が面接をすり抜けて会社の「慣習やマナー」を滅茶苦茶にすればいいと思うし、どんどんキモいコミュ障が「正しいコミュニケーション」を破壊してくれればいいと思ってるよ。発達と定型社会の対立軸が揃いつつある今、根本から発達障害者とされた人々が社会を問うていく必要がある。
発達は新しい人間だ。発達も、アスペも、コミュ障も、「青い芝の会」をやろう。CPがバスを占拠した様に、発達も社会を占拠しよう。「不自然」を「自然」にしよう、というかそんな言葉を辞書から消そう。
Vtuberリスナーはよくテンプレ批判に対してアイドルを引き合いに出して反論しているが、そもそもアイドルに金を貢ぐ行為からしてよく分からないのは自分だけだろうか。思うに、「バチャ豚」の蔑称を用いて批判を繰り返すような人間は私みたいにそういう人間の心理が理解できないのだろうと推測する。
まず、グッズをコレクションしたり、メンバーシップの恩恵を受けたりなど単なる体験ではなく「実物が手に残る」ということに対してお金を使う例。これは全く問題なく理解出来る。特に、ゲームなどでコレクター気質の自分からするとグッズなんかを(実際に買い集めたことはないが)集めたくなる気持ちは実によく分かる。メンバーシップの限定動画や配信なども繰り返し視聴可能という点で実物が手に残ると言って差し支えないだろう。問題は「実物が手に残らない体験」についてである。アーティストのライブのように多額の費用を投じて行われる一大イベントならまだしも、基本的に無料で視聴可能なゲームや雑談の配信に対してであるのだから尚更である。もちろん全ての投げ銭が煩悩に支配されている訳ではなく、純粋に「応援したい」「感謝を伝えたい」といった心持ちで投げ銭する人がいることは分かっている。その上で、本当に、理解が出来ない。
Vtuberというのは、デジタルのガワを被ったただの配信者である。たかだか一人の異性との写真、たかだか一個人のゲームプレイ映像。たかだか一人の異性との握手、たかだか一個人の雑談。たかだか一人の異性との二言程度の会話、たかだか一個人からの感謝の言葉。これはただの個人の感想でしかないのだが、これらに金銭を使うぐらいならば美味い飯でも食った方が余程幸せなんじゃないのかと思ってしまう。金銭を虚空に消し去り手元に何も残らないことに虚無感は感じないのだろうか。私も出来心でソーシャルゲームに少額課金してみたことがある。最高レアのキャラクターを入手し束の間の喜びを感じたものの、その快楽が過ぎ去った後に残るのは虚無感だけであった。恐らく私がスパチャを投げようもんなら恐ろしい程の虚無感に襲われ、たちまち泡を吹いて死に至る。
分からないなりに考察すると、彼らは決して自分を裏切らないVtuberを、決して自分を裏切らないルックスを持つアイドルを、心の拠り所にしているのではないだろうか。これらに共通するのは強い信頼感である。身近な人間と比べても、自分の望まない行為や結果を起こす可能性はかなり小さい。
では、他人がそうしている間私は何を心の拠り所にしているかというと、何も無い。自分が何を欲しているのか、何をしたいのか、分からない。投げ銭を連投するリスナーをカオナシとはよく言ったものだが、何を隠そう我々こそが真のカオナシだったという訳である。しかし、動いて喋る二次元のキャラを見ても、優れたルックスであざとく振る舞う人間を見ても、何も心は動かない。それは心の拠り所にはならない。その結果が、「バチャ豚煽り」なのだろう。理解できない人々の反対側に自らを置くことで、居場所を無理やりねじ込んでいる。彼らの出来上がる過程としては同性愛差別主義者などと同じで、理解できないことに対する根源的恐怖が彼らを狂わせているのである。
Vtuberリスナーはよくテンプレ批判に対してアイドルを引き合いに出して反論しているが、そもそもアイドルに金を貢ぐ行為からしてよく分からないのは自分だけだろうか。思うに、「バチャ豚」の蔑称を用いて批判を繰り返すような人間は私みたいにそういう人間の心理が理解できないのだろうと推測する。
まず、グッズをコレクションしたり、メンバーシップの恩恵を受けたりなど単なる体験ではなく「実物が手に残る」ということに対してお金を使う例。これは全く問題なく理解出来る。特に、ゲームなどでコレクター気質の自分からするとグッズなんかを(実際に買い集めたことはないが)集めたくなる気持ちは実によく分かる。メンバーシップの限定動画や配信なども繰り返し視聴可能という点で実物が手に残ると言って差し支えないだろう。問題は「実物が手に残らない体験」についてである。アーティストのライブのように多額の費用を投じて行われる一大イベントならまだしも、基本的に無料で視聴可能なゲームや雑談の配信に対してであるのだから尚更である。もちろん全ての投げ銭が煩悩に支配されている訳ではなく、純粋に「応援したい」「感謝を伝えたい」といった心持ちで投げ銭する人がいることは分かっている。その上で、本当に、理解が出来ない。
Vtuberというのは、デジタルのガワを被ったただの配信者である。たかだか一人の異性との写真、たかだか一個人のゲームプレイ映像。たかだか一人の異性との握手、たかだか一個人の雑談。たかだか一人の異性との二言程度の会話、たかだか一個人からの感謝の言葉。これはただの個人の感想でしかないのだが、これらに金銭を使うぐらいならば美味い飯でも食った方が余程幸せなんじゃないのかと思ってしまう。金銭を虚空に消し去り手元に何も残らないことに虚無感は感じないのだろうか。私も出来心でソーシャルゲームに少額課金してみたことがある。最高レアのキャラクターを入手し束の間の喜びを感じたものの、その快楽が過ぎ去った後に残るのは虚無感だけであった。恐らく私がスパチャを投げようもんなら恐ろしい程の虚無感に襲われ、たちまち泡を吹いて死に至る。
分からないなりに考察すると、彼らは決して自分を裏切らないVtuberを、決して自分を裏切らないルックスを持つアイドルを、心の拠り所にしているのではないだろうか。これらに共通するのは強い信頼感である。身近な人間と比べても、自分の望まない行為や結果を起こす可能性はかなり小さい。
では、他人がそうしている間私は何を心の拠り所にしているかというと、何も無い。自分が何を欲しているのか、何をしたいのか、分からない。投げ銭を連投するリスナーをカオナシとはよく言ったものだが、何を隠そう我々こそが真のカオナシだったという訳である。しかし、動いて喋る二次元のキャラを見ても、優れたルックスであざとく振る舞う人間を見ても、何も心は動かない。それは心の拠り所にはならない。その結果が、「バチャ豚煽り」なのだろう。理解できない人々の反対側に自らを置くことで、居場所を無理やりねじ込んでいる。彼らの出来上がる過程としては同性愛差別主義者などと同じで、理解できないことに対する根源的恐怖が彼らを狂わせているのである。
https://twitter.com/lazaniatabetai/status/1479465784967860224
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https://twitter.com/vyNhaNK2NRhm0Xc/status/1479419088544100355
「専業主婦を奴隷呼ばわりしているフェミニストなんて存在しない」って言われていたけれど、実際には大勢いるよね?「奴隷」じゃなかったら「家畜」とか。
いや、正確には専業主婦に限定した話じゃなくて既婚女性全般を「奴隷」認定している訳だからちょっと違うが。
私はフェミニストだからこそ、既婚女性を「奴隷」呼びするのはやめて欲しいと思っている。
だって奴隷って当人の意思に寄らずに虐げられる弱者であって、救済すべき対象でしかないじゃん。蔑称として「「奴隷」という言葉を使う人権意識の無さがちょっと信じられない。