はてなキーワード: 音階とは
音階をなぞるのは人並みにできるみたいで、アカペラならば普通だという感想を頂くのだが
演奏とタイミングをあわせて歌うということが下手なのだと、数年前に気づいた
普段それで困るということはないのだが、カラオケへ足を運ぶことが増えるこの時期になると
演奏とずれたまま歌い続けるというのは反応に困るのだと何度も聞いた
アカペラならば普通だという評価はカラオケの採点機能にもあらわれる
タイミングを外している箇所では"現在の得点"は非常に低くなり
タイミングが合っている箇所では"現在の得点"が一時的に跳ね上がるのだ
自分でも、外しているか否かの判断はできるのだが、その補正が下手なのである
何度も歌うのを止め、歌い直しをすればいつかは流れに乗れるのだろうが
聞かされる側にとってそれは苦痛なのではないだろうか
そんなことを考えて、間奏が入るまで外れたまま歌い続けることにしてしまう
死にたいってか、自己嫌悪ってかそこまではいかないが、悔しいというか、もうわからん。もう素直に恋人がほしい。
きょうミスド言って勉強してたら、となりにきれいな同年代の女の人が来てさ。で、きれいな女性がくるとね。だからソワソワしちゃんだよね。どうしようもなく。自分から話しかけられたら最高なんだが、まぁ、できるはずなくて。看護系か何かの勉強してたからそれをツカミにってのも無理があるし。で向こうから話しかけられることなんてないしね。でさ、そういう人ミルとさ、自分の恋人だったらなっと思うわけでさ、高望みって言われてもさ、嗚呼。
特にかわいさとか求めていないんだよ。でも、きれいなひとは好きなんだよ。嗚呼、そういうひとみてるとさ、潤うじゃん心。みてるぶんには、さ。ってことはやっぱ関係性望んでないのかなんて。それなら、アイドルや二次で充分ジャン。でも、それも夢中になれなくって、宙ぶらりん。
そんなだから勉強は集中できないわけでさ、一生懸命向こうもやってたからがんばれなんて心じゃ応援してんだけどさ。4、5時間くらい。その途中でさ、その子の友達が来てさ、会話はじめてしちゃってさ、もうきになってシャーないよね。店員がカフェオレのおかわりもってきたけど、「いりませんけっこうです」の声の音階がかなりみだれてたよね。譜面に起こしたらきっと、教授らへん、変な顔すると思う。しかも二人の会話でさ、男の名前出てきたりすると悔しいくてさ、嗚呼。ほかにも大学なのか専門学校なのかとかきになってさ。
で結局、そのこが返った一時間後ぐらいに僕は帰ってさ、なんもなかったな、なんてさ。
二十年くらい生きて来たけどさ、もうどうなるのって、気が気じゃなくてさ。まあ、ただの臆病なのはわかってんだけどさ、女性に関する過去のトラウマはあってさ、それがブレーキかけてたりすることあってさ。でも向こうから傷を治してくれる天使はこの浮世にはいなくてさ。
そんな自分でもひと肌恋しくってさ、最近。孤独だと抱擁ができないから駄目みたいなことをいったのはたしかアーレントだっけか。ひと肌恋しさゆえにマッサージ師を定期的に雇ってたのはグールドだっけか。
誰かを愛したい。アニーサンバッディトゥラ♪ってビートるずも歌ってるやん。愛した経験がない。愛する人がいない。一方通行であれ通わす心がない。寂しい。なんで何の不自由もなく恋愛できるやつおんの。そいつらを「XXXしたいくらいさ!!」とわめき散らしたのはちょうど一週間前か。
結局、また魔魔と話すしかないのか。こんな愚痴がいくつ増田にかきこまれたのだろうか。星の数ほどあるとおもう。
シコればすっきりしたと思うけれど、今日はなんかそれだと負けた気がするので、文章でやりきれない感情を発射してしまいました。すみません。こんな感情のくりかえしばっかのLIFE であth。
ミク好きな人は好きでいいと思う。
(あれはミク自身が言ってんじゃないかw)
少し音楽やってた人なら絶対わかると思うけど、声には響きっていうのがあってですね。
テレビでたまにやってる素人のアカペラをうまいと思っちゃう人とかなら、わからないかもしれないけど、歴然とした差があるんですよ。
技術的にも、人間だとエ母音がめちゃめちゃ難しいし、響かせるのもすげえ難しいわけだし、下降音階とかもすげえ難しいんだよ。
人が歌うと、そういう技術に戦慄することってたびたびある。
でも、ミクの声では、というか、人間以外の声ではそれはありえないんですよ。
例えば人だと「エー」って言うだけで俺は感動できるけど、ミクの「エー」では絶対感動できない。
音はあってるけど、響きのない音を機械的にはめてるだけ、以上のものがないんだよなあ。
あと、「違和感がある」って理由から否定してる人もいるけど、「違和感がある」が歌のうまい下手を決めるわけじゃないんだよ。
例えば外人が日本語の歌を歌ったら違和感ありありになってしまうんだけど、それが本物のうまい歌手であれば、違和感があってもやっぱりうまいんだよ。
だから、言うなれば、ミクは音で、人は声なんだよな。
それが悪いってわけじゃないし、好きだって人は好きでいいと思う。
でもでも、俺は下手な歌手の歌(中島美嘉とかトミーなんちゃりーとか大塚愛とか)も、長く聴けないんだよ。
でも、ミクの曲はいい曲は好きだし、こういう文化はいいと思うし、「歌ってみました」が全員下手だったらミクバージョンで聴くこともあるなー。
ちなみに俺はミクでの歌の作り方を知らないのでわかんないけど、ひょっとして完璧にはめたらすごくいいものになるの?
「メルト」とか「ワールドイズマイン」とか、最近の「どういうことなの」とか、みんなミクバージョンで聴いたけど、うまいとは思わんかったけどなー。
そのへんより完成度の高いものがあるなら、教えてくれたらぜひ聴いてみたいです。
あ、「ミックミックにしてあげる」は、テクノっぽいし、歌短いしノリノリなので、うまいか下手は別にして聴けるようになってるなーとは思う。
アイポッドにもいれてるよ。
まあ、ミクいいじゃん! っていうのは俺も全面的に同意するけど、ミクが下手って言うのは単に好みじゃん! って言われたらそれは全否定したくなるな。
近親調以外の転調を遠隔調への転調と定義することで、調性圏内の和声は飽和した。広い意味での調性、あるいは無調、またそのようなものの連結は、厳密には定義されず、慣習として認知されるにはまだ歴史の積み重ねが足りない。
もともと、教会旋法があり、そこからの選別を経た結果として残ったIonian、Aeolianが一時は主導権を握り、和声的連結ももっぱらこの二つを考えたものだ。
ところが19世紀、ドビュッシーが教会旋法を再評価する。(厳密にはドビュッシーに限らず、かのリストや数々の音楽家から群発的様相をもって現れてきたものだが、代表はドビュッシーである、ということは異論はないはずだ。)そのドビュッシーの「帆」は、全体にわたってMTL1、すなわち全音音階が散りばめられ、幻想的な雰囲気を醸すことに成功している。後にも先にも全音音階が効果的に使われたのはこの曲のみといっても過言ではない。
この時期は、既存和声の崩壊が随所に現れる。トリスタン和音、神秘和音といった概念はこれまでの和声に衝撃を与えた。型破りな進行と、限定的、効果的なものが共存したそれは矛盾をはらむことなく組み込まれていくこととなる(もちろん、穏健的な層からの反発はあった。今でこそ評価の高いドビュッシーの作品すら「誤用」と声を挙げるものもいたのだ。)
SomethingNewを求めた先に、過去の歴史の再評価があったとはなんとも興味の惹くところだが、この時代の印象主義に限らず、あらゆる作曲家は新たな音楽観の萌芽を享受し、育んでいったのだ。
また、クラシック音楽界隈以外にもJAZZの誕生など、別方面からムーブメントが起こったのは見逃せない。巨大な市場が成立すれば、作曲家も無視するわけにはいかなかったのだ。JAZZ史を俯瞰するだけで何十万字という文章が書けるが、今回は省略しよう。とにかく、新たなアプローチが産声をあげ、互いに影響されたのだ。
そのなか、新規性が斬新さを持ち過ぎて受け入れがたい空気が醸成されたのもまたひとつの事実である。ストラヴィンスキーの「春の祭典」は、初演当時そうそうたる作曲家――ドビュッシーやサン=サーンスなど――が席を同じくしたのだが、その結果は賛否両論がふさわしく、それ以前「ペトルーシュカ」まで彼を評価していたドビュッシーすら、この演奏以降をもってアンチポジションを取るようになるほどのものだったのだ(もっとも、ニジンスキーのあの振り付けを初めて見て冷静に評価しろというのもなかなか難しい注文だと思うが)
これを期にして、というわけではないが、今後の音楽シーンは「クラシックな」ところから乖離していく動きが目立つようになる。シェーンベルクがドデカフォニーを確立し、システム的な面が強調されるようになる。後のセリー技法に直結するこの動きは、今日穏健派からは黒歴史認定されている。
時系列的に和声の展開を捉えれば、それは不協和音程の和声的獲得である。現在パワーコードやモーダルクラスターなど、ごくごく当たり前に用いられるのも、こうしたプロセスを経たものである。
では、この先どうなるのだろか。
すでに一部急進派は、微分音を積極的に導入し、1オクターブを何十分割にもしてきた。穏健派も遅れながら、限定的な用法で微分音を導入しつつある。十二音を崩壊させてどこへ行こうというのだろう。
絵が描きたいのに、ヘタなのでどうしよう、って悩んでる人へのアドバイスだけど、見方を変えると、これって例えば「カラオケで歌いたいけどヘタ」っていうのと一緒だと思った。
ありがちな悩みとしては「音痴・音が外れる」・「自分の歌い方がなんかキモい」ってのがあると思うけど、つまり「歌のエッセンスを吸収・理解してない」って事だから、そこをまず、自分の自意識というか潜在意識の中に刷り込む、という作業が必要になってくる。
よく言われるのは「バケツをかぶって歌う」という方法で、つまり『自分の喋る・歌う声を、自分の意識で「ちゃんと」認識する』ための回路を、自分の脳味噌の中に作りあげるための作業だ。バケツをかぶるのはさすがに恥ずかしい、という人は、右でも左でもいいから、自分のしゃべった声を片方の耳でよく聞こえるように、片手で『耳を大きくするような』感じで覆うといい。お勧めは、左耳(感情をつかさどる右脳と直結してるから、というのがその理由らしいけど)。
それができたら今度は、「自分の歌った声をまず録音し、再生して自分の耳で聞いてみる」というプロセスを経験してみる。『自分の行動を客観的に捉える』という作業で、大概の人はここで「自分の声のキモさ」というものに悶絶するようだ。つまりそれだけ、普段は自分の声や喋り方について、無頓着というか、意識して発声している人が少ない、ということ。
そこで目(?)をそむけず、どこがどうおかしいのかって事を、きっちり意識する。上手くなりたいのなら、一連の歌声の中で、自分で気づいた点について、ノートを付けてみるといい。
本当はここで、楽譜が読める(音階を視覚的に認識・置き換える)だけの知識があればいいんだけど、それは特に無くてもかまわないと思う。歌詞カードの部分に「ここで一瞬、タメを作る」とかメモを書く程度でも、とにかく「歌う際に、歌詞で気をつけるべき部分」を自覚的に理解しておく。
あと、「俺、滑舌が悪くて、何言ってるのか分からないってよく言われるんだよね」って人もいると思うけど、そこらへんは「お年寄りの人に、大声で、ハッキリ・ゆっくり語りかける」つもりで、歌詞を読み上げる練習をやってみると、あんがいと解消が早い、と思う...
あと、カラオケがうまくなるには、歌手の歌い方のモノマネをするのが有効だ、っていうのはよく言われる話だけど、声のトーンをたんに真似るだけじゃなく、例えば「歌手の表情や姿勢」まで真似てみるというのは、本当に有効。だから歌を聴くだけじゃなく、できればPVとかで歌手の細かいしぐさの格好まで徹底的に真似るのも、いいと思う。
それから、たまには目をつぶって「耳に神経を集中させて歌声を聞いて」みて、歌ってる人がどういうアクションをしてるのかを、想像してみる。なーんとなく曲を聞くんじゃなくて、「歌い手の表情を想像」できるように、意識を高めて聞いてみる。そうすると、真似る対象のイメージがすっと頭に浮かぶ→あとはそれを真似て歌う、というプロセスが自然に出来るから、そうなれば歌う事はぜんぜん苦じゃ無くなる。
それができたら、今度は筋トレに相当する「ボイストレーニング」も、簡単なものでいいから並行してやってみるべき。歌う際に腹筋を使える(腹式呼吸)のと使わないのとでは、それこそ雲泥の差がつくし。
ここで高音や低音の部分の声が出ない、という悩みについてなら、高音部分はファルセットというか裏声を使えるならそれで誤魔化す方法もある。低音の場合だと、多少は体格の問題が出てくるけど、秋川雅史(「千の風になって」の人)のような感じで、腕を広げたりして姿勢を変えると出易くなる、気がする。ま、このあたりは、興味があるなら専門家にちゃんとした指導を受けたほうが早いよ。
もちろん、絵が上手く描けなくて悩む人よりは、歌が上手く歌えなくて苦に思う人って、タイプとしては少ないとは予想する(絵が下手なのは見てすぐ分かる事だし)けど、苦痛に思ったりしながら歌の練習をするっていうのは、やっぱり間違ってると思う。だって、気持ちよく歌うことって、単純に楽しいじゃん。上手く歌えたら、かっこいいじゃん。
でもよく、芸能人カラオケ大会とかの番組で、ブサイク芸人が酷評されたりする場面もあるけど、あんなのは無視していいと思う。ジャイアンリサイタルじゃない限り、誰かが歌う事が他人から非難される事って、あまり無いはず、だし。
それと、英語の歌を歌いたいなら、もちろん原曲を何度も聞き込むのは大事なことだけど、簡単な英会話や文法も勉強するとさらにいい。もっともここらへんは、歌える人にとっては「何を今さら」な事かもしれないけど、歌詞の内容を熟知したうえで歌うのと、そうでないのとで、これまた曲の深みがぜんぜん違ってくるのは、言うまでも無いよね。
健闘を祈る。
陰鬱な空から雨が降り注いでいた。街が灰色に蝕まれていく。くすんで、濡れそぼっていく。
宵口の窓辺から覗く世界は、ほんのりと濃紺に染まっていた。行き交う車のヘッドライトが煌々と筋を刻んでいる。等間隔に立ち並ぶ街灯は、どこか所在がなさそうだった。漏れ出す家々の明かりがやけに白々しく見える。
閉め切ったガラス窓に、水滴がぽたぽた、打ち付けてはゆっくりと流れ落ちている。やがてひとつになって、窪地に溜まり、淀み、溢れて排水溝に流れ、支流は河へ、本流となって海原へ……。白光のもと、再び上空へ駆け昇っては、いつもみたいにどこかに降り注ぐ。
滑り落ち始めた一滴をなぞりながら、この雫はかつていつこの街に降っていたのだろうと考えた。数日前かもしれないし、数週間前かもしれない。数ヶ月、数年などという期間も候補に考えられなくはないような気がした。そもそも、混ざり合い、どこの、いつの雨なのかが分からなくなってしまっているのだ。数十年、数百年、数千、数億年――あるいはもっと、それ以上にも及ぶ悠久の時を深海の底で眠り過ごしてきた初めての一滴である可能性も捨てきれなかった。
可能性が選択となって、頭の中で遮るものなど何もない広大無比な高原の如く展開していく。そのあまりにも壮大なスケールに、思わずくらくらしてきてしまった。軽い眩暈に瞳を閉じて、冷たい硝子に額を押し付ける。
透明な境界は、視覚的に透明であるために捉え難いだけで、確かにいまここに存在している。なるほど、姉にとってはこの敷居を跨ぐことがなによりも大変で、困難で、恐ろしいことだったのだろうなとぼんやりと考えた。
顔を上げる。後頭部を窓に、背中からもたれかかるようにして立ってみる。何年もの間、碌に光が差し込まなかった、内からさえも照らし出されなかった小部屋の中には、染み付くかのように重たい、へばりついてくる、濃厚で濃密な掬い取れるかのような闇が沈んでいた。
そんな部屋の中央に、天井から輪が釣り下がっている。簡素な机と、スチール製のベッド以外に、例えばポスターだとか、本棚だとか、CDラックだとかが病的なまでに何もない部屋の真ん中に、タオルで作られた即席の絞首台が設けられている。
込み上げるようにして息を吐き出した。そこに浮かんでいた表情が、安息そのものだったことを思い出す。彼女はやっと苦しみから解き放たれたのだ。姉は絶望的な辛苦から逃れることに、その手段を用いることに成功してしまっていた。
視界の右端、壁に面した机の上に、一冊のノートが置かれている。先ほどざらりと読み終えたばかりのノートだ。全ての紙面を埋め尽くそうとしていた心象は、あるときは言語であり、あるときは稚拙な絵であり、スケッチとなり、あるいは音階となって私の目に代わる代わる飛び込んできた。そしてその内容は、私が思っていた以上に、家族が知っていた以上に壮絶なもので、どうして姉が今日までの日々をこの小さな部屋の中で完結させなければならなかったのか、あるいはどうしてその部屋の中からさえも逃れなければならなかったのかを如実に示してきていた。
『やさしさノート』と題されたその一冊は、これまで姉が関わってきた人たちに対して、こんな自分をまだ見捨ててくれないでいる家族に対して、そしてこの世に存在しているありとあらゆる人たちに対しての謝罪を冒頭に据えて、つらりつらりと始まっていた。
ごめんなさい。
その一言を、姉は一体何度このノートの中で繰り返したのだろう。対象となった人の人数は? おそらく、私がこれからの人生で頭を下げることになる人数を優に一万倍以上超えているはずだった。姉は自らがここに存在していることを呪い、悲しみ、恨み、溜まりに溜まった申し訳ない想いを吐き出すために何度も、何度も何度も何度も何度も、ごめんなさいと謝り続けるしかなかったのだ。
完全に他者を排し、愚直に紙面とだけ対峙しながら、強大な感情に取り憑かれてペンを走らせ続けていた姉の姿を想像する。漆黒に染まった部屋の片隅で抱いていた苦しみを、廻りまわり続けていた激憎を、決して消えることのなかったその業を思い、私は再び絞首台に目を投じた。
「大変だったんだね」
彼女に向けることのできる言葉は限られている。姉の苦しみは、絶対的に姉にしか分からないものだし、他の誰かが、とりわけ私になんぞは共有できるものではなかったのだから。
姉は、小さい頃から聡明で、何でもできて、いろいろなことを知っていて、たった三つしか歳が離れていなかったはずなのに、幼い私にはまるで全知全能の神様のように映っていた。同時に、幼稚園でいじめられていないかと心配をしてくれて、守ってあげるからと毎日一緒に通学してくれていた。姉の掌はどんな時も私の小さな右手を包んでくれていて、そのぬくもりを、感触を抱いていられれば、私はどんなことにも立ち向かっていけるはずだったのだ。
歯車が狂いだしたのはいつのことだったのだろう。気がついたときにはもう修復など効かなくなってしまっていた。歯はぼろぼろに欠け落ち、空回りをするばかりでうまくいかなくなってしまっていた。
姉が賢すぎたのかもしれない。本を読みすぎたのかもしれないし、私に気を回しすぎたのかもしれなかった。あるいはそれは私の問題で、そして姉を取り巻いていた周囲の問題でもあって、徐々に変化し拘泥していった姉の人格を見抜けなかったからなのかもしれなかった。様々な事柄をたったひとりで考え処理するのにはまだ小学生にすぎなかった姉は幼すぎたし、置かれている状況も恵まれすぎていた。
多眠が始まったのがちょうど中学生になった年で、以降姉は塞ぎがちになり、与えられた問題を集中的に考えることができなくなった。部屋から出られなくなったのはその翌年だ。どうすることもできないまま姉は自らの精神によって自室に追いやられ、そこから抜け出すことができなくなってしまった。
姿を、心無い人は蔑み、揶揄し、大袈裟に嘯いた。面白おかしく吹聴する者もいた。何を隠そう、私自身がそうだった。
情けない姉、駄目な姉、わがままだから絶対的に社会に求められない。荒んでも、落ちぶれても、ああはなりたくないよ、などと知ったような口をはいていた。友達と家族の悪口を言い合う行為は、思春期を迎えた嗜虐的な子供心にはとても気持ちのいいことだったのだ。纏わり付いている繫がりというものを、私は心底疎ましく思っていた。
だから、姉が私に謝る必要などないのだ。どちらかといえば私のほうこそ彼女に謝らなければならなかった。苦しみに喘いでいた姉に細心を払うわけでもなく、あろうことか邪魔者扱いをしていたのは私だったのだから。
姉は、どんな時も私のことを穏やかな視線で想い続けてくれていた。この小部屋の中にいなければならなくなりながらも、想像を絶するような苦しみの中にありながらも、真摯に私のことを心配し続けてくれていた。
それを、それを私は――
……後悔など、するだけ無駄だ。淀みの中から掬い上げて振り返り続けることなどは無意味だった。高校に進学し、幼い恋を、出会いと別れを重ねて、大学に入学する前にはちゃんと理解していた。
いまここにいる私には、彼女に言わなければならない言葉がある。
「ごめんなさい」
姉に対して、何もできなかったことを、何もしなかったことを、それどころか邪険に思い扱っていたことを。実家を離れるようになってから、ずっとずっと謝りたいと思い続けていた。
床に降ろした腰に冷たい感触が伝わってくる。膝を抱えて小さく、誰もぶら下がっていない絞首台を見上げた。その小さな輪が作り出した痣を思い出してぐっと震える唇を噛み締めた。
階下では、両親が恐慌をきたしながら救急隊の到着を待っている。通報からもう二分ほどたっただろうか。意識を失った姉に付きっ切りで、私がいなくなっていることには気が付いていないようだった。
「お姉ちゃん……」
こんなの駄目だよ。ずるいよ。私が永遠に謝れなくなってしまうじゃないか。
身勝手な考え方だとは理解していた。もしくはそれこそが姉の願いであり、最初で最後の、多大なる復讐なのかもしれなかった。でも、それでも私には、姉にまだ言いたいことがたくさんあったのだ。
大学生活がどんな風か。好きな音楽や小説のこと、テレビ番組のこと、おいしい喫茶店のこと、教えたいことがたくさんあった。姉には私を知ってもらわなければ駄目だった。かつて守ってもらっていた、ずっと心配してもらっていた姉には、伝えなければならないことがたくさんあったのだ。
ギブ・アンド・テイクの関係性。貰っていた寛大な想いに、私はまだひとつも返事を返せていない。だから――
「駄目だよ。まだ死んだりしちゃ」
握り、額に押し当てた両の手に祈りを込めた。幸い、発見が早かった。不穏な物音に只ならぬ予感を抱いた私が、姉の部屋の扉を蹴破ったのだ。きっとまだ助かる。絶対に助かる。助からなければならないはずだった。彼女はまだ生きなければならない。他の誰でもなく、彼女自身のためだけに。
救急車のサイレンが近くなる。家の前で停車。救助隊が声を上げながら駆け込んでくる。
気を失っていた姉はすぐさま運び出されて、両親と共に病院へと運ばれていった。離れていく救急車を、留守を預かると決めた私は、姉の部屋からじっと見送る。
伝え足りない想いがあるのだ。
霖雨の中を点滅する赤色灯を、角を曲がって見えなくなっても、私は凝視し続けていた。
音の高さは周波数で表現される。周波数が2倍になったとき,われわれは音色が保たれたまま1段「高く」なったと感じる。4倍で2段。2^n倍でn段となる。これに必然性はなく生物的所与条件にすぎない(たとえば,3倍を1段と感じたり,100Hzごとに1段と感じる生物がいてもよい)。人間の耳は20Hz~20000Hzまでの音を知覚できるので,最大10段程度(2^10=1024倍)の音色を聞き分けられることになる。
1段を細分化する制度が音階である。分割の仕方には2つの論点がある。まず,いくつに分割するか。一般によく知られているのは12階に分割する方法(12音階)だが,これが「正しい」わけではない。5音階や3音階を採用した音楽文化も存在する。次に,どのように分割するか。先述のとおり音色は比で決定されるので,差で分割するのは普遍性に欠ける(1段内のみなら可能だが,2段目以降に適用したときに破綻する)。人間の耳は最小で周波数の0.3%が変化したときにその変化を感知できることが知られている。よって1.003以上の比で分割することになる。各音の比を可変にして,常に整数値になるようにしたものを純正律,また各音の比が一定になるようにしたものを平均律という。平均律12音階制を採用した場合,各音の比は12√2になる。これは無理数であるので,これをもとに音楽を奏でるときには近似値を用いなければならない。
F = f * 2^(x/12)
と表すことができる。なおfは基準音,xは基準音からの隔たりを示す整数(音程)である。前提から自明であるが,これは離散的な値をとる。
音階に基づく音を時系列に沿って表示する記号体系として五線譜が広く用いられている。周波数の高低を視覚的な上下に置き換えて示すため直観的にわかりやすい。この五線譜を周波数のグラフとして考えることができる。各々の線は等比的な増大を示すため,対数グラフである。ただし一般的な五線譜の記法は7音階+5半音という古典的な考え方に基づいているため完全な対数グラフではない。
「一番身近なマイノリティ」として理解を深めよう的な記事が某所に。
それ自体は良いことだし、右利きの私としては特に文句を言うつもりもないけど、この機会にぜひ、もう一つの身近なマイノリティである「絶対音感」についても取り上げて頂きたい。
このエントリでは、絶対音感を「楽器などの単音・和音を聞いて、その12音階の中での音名を、他の手がかりなしに識別できる能力」と定義する。研究によると、総人口の1%程度が絶対音感を持っているらしい。個人的な感覚としては、日本人だとその割合が2%~3%程度に上がるように思われる。左利き以上のマイノリティだが、それほど珍しい部類ではない。
たいていの場合、人に絶対音感を持っていることが知れると、「便利でしょう」などと言われるが、そんなことはない。絶対音感を持つものには、それなりの苦労がある。
例えば、小中学校での合唱コンクール。時期が近づくと、クラス全員で教室や運動場などで練習したりする。音楽室での練習なら、ピアノがあるのでそれに合わせて歌うことになるが、ピアノのない場所やテープを用意していない場合にはア・カペラとなる。これが問題なのだ。たいていは指揮者、あるいはまとめ役の人間が頭の音を出し、それに皆が続いて歌い出すのだが、これが合っていない。カラオケで言うと、キーが違う状態となる。なんだか違う曲を歌っているような気分になるし、音域によっては、本番だとうまく歌えない人も出てくるかもしれないため「それは違う」と言いたいのだが、みんなが歌い始めた中でそんなことを言い出してもただの空気の読めない人間にしか見えない。こうして、頭の中で移調しながら、周りに合わせて歌うしかないのである。
左利きのように、違うことが他人から見て明らかなら、日常で何か不都合が生じたとき、その不便さが他人から見ても明らかである。しかし、絶対音感に関する不便さというのは感覚的なものであるため、他人から見て分かりにくい。理解をしてもらうどころか、その違いを分かってもらうことが難しいのだ。そんなわけで、左利きより数は少ないが、絶対音感についてもいろいろなメディアで(興味本位ではなく)取り上げて欲しいと思う。
せっかくだから絶対音感まとめWiki的なものを作ろうと思ったけど、忙しいのでやっぱやめ。誰かやる気のある人がいたらよろしくです。
こまかいところだけど、あとあと混乱するといけないからな。
レミファ#ソラシド#レなら同じである
言わんとしてることはわかるけど、正式にはドレミファソラシドは単にスケール(音階)の音の並びを言ってるだけ。長調ならどれでも、ハ長調でも二長調でもどれでも、ドレミファソラシド。全部同じ。
ハ長調の場合、C(=ド)、D(=レ)、E(=ミ)、F(=ファ)、G(=ソ)、A(=ラ)、B(=シ)、C(=ド)。
二長調の場合、D(=ド)E(=レ)F#(=ミ)G(=ファ)A(=ソ)B(=ラ)C#(=シ)D(=ド)。
あとは同じ。
ただ、 慣用的に...CDEFGABC...を...ドレミファソラシド...と言い換えてはいる。だけど、移動ドの概念を意識したほうが、たぶんあとあと便利じゃないかな。
今までカラオケというものに全く興味が無かったわけではないが、人前で歌うなんて恥ずかしいし、歌いたい曲も無いのでベーシストであることを理由に、聴いたり演奏する方が好きだと避け続けていた。友人4人に連れられて入った薄明るい部屋では、緊張して、いっそう無口になっていた。まず、上手だと言われている友人Aがバラードを歌う。DAMの精密採点で93点。友人Bが歌う。88点。友人Cと友人Dがデュエットして歌う。81点。ここ数年のアニソンや、オリコンヒットチャートなんかに興味がほとんど無い俺は、彼らが得意とする曲に関する情報を全く知らなかった。Do As Infinityとか悲愴感とかELLE GARDENとか、名前は知ってるなと思う程度。リモコンが回されたとき、俺の手は既に汗だくだった。
友人AがiPodで前もって聴いておくと歌いやすいとアドバイスをくれたのだが、俺のソニーのウォークマンに入っている曲はクラシックとUKロック、邦楽は椎名林檎フリークで、くるりを1ヵ月に1回聴くぐらい。同じ曲ばかり1ヵ月程ずっと聴き、飽きたらまた別の曲を1ヵ月聴くサイクルの人間だから、歌える曲が全然無い。正直に歌えないと言うと、友人Cが強引に創聖のアクエリオンを送信し、一緒に歌おうと申し出た。歌える曲だったのでサビから通して歌い、俺の緊張はほぐされた。点数もそこそこだった。歌うことは決して恥ずかしいことじゃないし、難しいことでもない、と思った。楽しい、とさえ思った。
自信を付けた俺は9mmParabellumBulletの曲を入力し、歌った。自分の声とテンポと音階に愕然とし、歌唱中にも情け欲しさに苦笑いをした。結果は60点。どうやら最低点。最初はこうだと皆言う。くるりのばらの花を歌う。68点。くるりの別の曲を歌う。60点。どれも彼らの知らない曲。俺の歌に関して、もう誰も何も言わなくなり、俺は疲れて寝息を立てるするフリをする。そして、それにも彼らは興味関心を持とうとしない。同じく1度も行ったことの無い友人Dは70後半以上で終了まで歌い続けた。俺がもう独唱することは無く、強引にマイクを回されることも無かった。
死にたかった。恥ずかしかった。寝起きで気分が悪いと言い、電車で先に帰った。気遣いができる彼らは俺が去ってからすぐに、俺のことを話題にして笑っているのだろう。そんなことを思いながら家に着き、受験前と変わらぬ部屋に篭って少し寝た。
他の増田がいってたけど、あれ一発どりなの?
だとしたらなおさらすごいとおもうんだけど。
12音階としてはずれてるけど、スケールとしては常に一定してはずしているように俺には聞こえるよ。
たぶんちょっとピッチベンドするだけで、びっくりするほど普通の歌になっちゃうとおもう。
「ぽ」ーにょ「ぽ」ーにょの「ぽ」とか異様なほど一致してない?
あぁいう発声時の音をぴっちり揃えるのはプロの声楽家で絶対音階をもっていても無理だとおもう。
ただ、裏のおっさんがふらふら不協和音とってるのが嫌なだけじゃないの?
確かになじめない音ではある。でもそれもふくめてわざとでしょ。
素材は粗いかもしれないけど、これのディレクションはたいしたもんだとおもうんだけど。。
何かと不器用なことで悩んでいる。
まず、体育。球技がだめ。ボールをうまく扱えない。サッカーも小3で始めたが1年もたなかった。気がついたら感じる劣等感。
バレーでボールが飛んできてもうまく返せない。なぜかボールがまっすぐ上がらない。なぜかサーブが入らない。
サッカーで飛んできたボールをうまくトラップできない。見当違いな方に蹴ったボールが行く。シュートなんてもってのほか。
バスケなんて論外。あんな小さい輪っかに入るわけないっつうの。だいたいドリブルができない。ボールがついてこない。
当然他の種目もダメ。短距離走だけは平均ぐらいあったから何とかなったけど、長距離走なんか下から3番目から5番目くらい。
器械体操系はちょっとできたけど、別にめざましい活躍をするわけでもなく。
あと、カナヅチだった。中二のときは「生物は進化し陸に上がったのになぜわざわざ退化する必要があろうか」などと言っていたなあ。
図工、あるいは美術。
どうやったら絵が描けるのか分からなかった。大してやっていることは変わらないだろうになんであんな作品の質が変わってしまうのだろうか。
裁縫、ミシンなどは必ず残らされていた。終わるの後ろから3番目か5番目くらい。出来も下から3番目から5番目くらい。
先生の注意を反芻してしっかりやろうという意思はあるはずなのに、できない。
思うように手が動かず微妙にずれる、もしくは何かしら注意点とかやり方を忘れてやってしまう。
さらに、気がついたら作業が遅れている。友達と一緒にやっているように見えて、気がついたら二倍くらいの差がつく。
遅い上に雑でしかも回りにやり方聞いて迷惑をかけるという最悪な奴だ。
調理実習は野菜をとってくる、プリントを引っ張り出す、フライパンを洗う、箸を洗う、皿を洗う、そういうことしかしなかった。いや、できなかった。
音楽。これはもうちょっとましだった。小2からピアノを始めていたからだ。1年でやめてしまったが。
しかし、ましだというだけで、別に何もなく。
リコーダーは、指が回らなかったか音がちゃんと出なかった。まあ、それだけならみんなそうだから別に平均くらいなのだが、なぜか「音を聴いたらそれが音階上のどの音か分かる能力」を持っていたためにプライドは高く、ちょっとできないだけでずいぶんな劣等感を感じた。
そして、音痴だった。音を外す。歌っていると気がついたら音が外れている。「音を聴いたらそれが音階上のどの音か分かる能力」は歌には効果を発揮してくれなかった。リコーダーとか音がはずれるとそれを敏感に感じられたが、歌だと何も感じなかった。
中学に入って吹奏楽部に入って楽器を始め、結構頑張って楽器に関するコンプレックスはできずにすんだが、歌うことにおける音痴は直らなかった。カラオケなんかとんでもない。
授業だけでない。他の場面でもそうだった。
休み時間にするあやとり、折り紙。全然出来ない。あやとりなんかさっぱりだし、折り紙も、まず紙を半分にしっかりできない。裏側の白いのがはみ出る。どうやったらそうならずに折れるのか皆目分からない。
スキー、スケート。家族みんなができるのに自分はできない。中学のときに、4つ下の弟は思う存分滑っているのに自分は全然できなかったという記憶が残っている。
あと、自転車が乗れない。気がついたら乗れないままだ。
プログラミング。中学時代、周りにオタクが多かったんだが、彼らのうち何人かがプログラミングを始めた。自分も始めたが挫折。なぜかエラーが頻出する。周りはそういうこともなく形になっていった。
ゲームも苦手だ。対戦ゲームは最初っからへただし上達も遅い。後から始めた人の方がすぐうまくなるからやる気をなくす。ボードゲーム、カードゲーム、テレビゲーム問わず。
文化祭の準備で木材を切ったり、塗ったりするのも自分はできなかった。あまりに遅いし、あまりにできあがるものの質が悪いからだ。
とりあえず娯楽という娯楽、作業という作業において人より遅く、質が悪かった。
勉強だけはそこまでひどくなかった。
だが、これらのコンプレックスは消えない。何をやっても他人に劣る。
他人(いわゆるステレオタイプとしての一般人)よりできることは、まあ楽器がちょっとできるというだけだろうか。
でも、プレゼンテーションとか演説とかは得意。初対面となかよくなるのは得意。
しかし、人と比べると、当然のようにできることが出来ない上にしゃべることしか能がないのは本当にどうしようもない人間。さらに、病弱だとか家庭環境が悪いだとかのハンディキャップがあるわけではない。
悲しくなってくる。
このような悩みを共有できる人はいないのかねえ。
とりあえず聞いてほしくて増田に書いてみた。
何が悪くてこうなっちゃったんだろう。幼少時にずっと図鑑読んでて絵本も読まず折り紙とかそういうことを全くしなかったからか?
それとも、何事も続かない性格だったからか?
専門ではないのでアバウトですが。
「チャンチャンチャンチャン」は3つの音の間に半音程がないから、割と調性を感じさせない3音で、
コードとの関係からはペンタトニック(5音階:7音階から2音を省いた音階。沖縄音階なんかもそう)の
一部と解釈できると思う。
ペンタトニックはテトラコルドていう3音階が2つ積み上がったものと解釈できて、一般にはアジアっぽさを感じさせる音階と言える。
一応↓のように表記するけど、西洋の音階との一番大きい違いは主音がないことで、中心がコロコロ変わりうる。
Wikiにもあるけど、ドーファ、ソードの間に、互いに完全5度の関係にある2音がどこに入るかで、雰囲気が変わってくる。
例えば、
(1)ドーレbーファーソーラbード、なら雅楽その1(都節?)。
(2)ドーレ ーファーソーラ ード、なら雅楽その2(律とか呂とか?ここらへん曖昧)。
(3)ドーミbーファーソーシbード、ならいわゆるロックのペンタ、民謡音階など。
のように。
このイントロ3音は(便宜上)(3)の一部って感じではないかと。
でも「中国っぽい」と感じる要素で一番大きいのは音色じゃないかなあ。
使ってるスケールの問題じゃね?
普通、西洋はダイアトニックスケール使うから、このイントロみたいな使い方はしない。
西洋風にやりたいなら、この音配置は逆。
この順序でいきたいのだったら洋楽なら、ここは半音下の音をつかうはず。
じゃないと次のコードにいけないからね。
同様にBメロのところは、
ピッチベンドで西洋音楽ではいっちゃいけない所に音を飛ばしている。
あと、微妙に12音階外れた音いれてるのもオリエンタルを感じさせる要因なんじゃないかな。
イントロのこの単純な刻みもDTMなのにわざわざアタックだけずらしてるよ。
ほら貝を吹いたときみたいな音の変化というのかな。
そういう工夫がされてる。
http://anond.hatelabo.jp/20070609162039
ド …… 赤
レ …… 黄
ミ …… 緑
ファ …… オレンジ
ソ …… 水色(空色)
ラ …… 紫
シ …… 白