はてなキーワード: 介護保険とは
元生活保護受給者でアスペと鬱で精神2→3級だが、少し前に、ようやく社会人(正職員待遇)ができるところまで戻ってこれた。
社会人といっても某飲食の一兵隊なので、世間一般でいえば「負け組」とか「底辺社畜」の類だと思う。
そして生活保護をそれより上だの下だの、そういう序列をつけて優越に浸りたいというわけでもない。生活保護には大変お世話になり、このセーフティネットがなければI was gone.しているか、生きていても反社勢力の捨て駒か何かになっていたかもしれない。雨風が凌げる快適な部屋で、布団にくるまって眠れて、贅沢しなければ日に三度の食事に困らず、人の道を誤らないように暮らせたのだから、福祉事務所の方角に足を向けて眠れない。
といっても別に変わった経緯でもないと思う。地元の公立小・中・高を経て地元の宿泊業を営む会社に入りホテルマンとして働き始めたのだが、不規則勤務・薄給に加えてお局の係長からのパワハラにより精神崩壊して退職、精神2級判定、実家に帰る、雇用保険の失業給付が尽きる、実家から出される、保護開始……こういう順序だったと思う。
実家での待遇は良くなかった。特に兄が酷かった。両親も最初の頃は同情的だったものの長男(兄)の機嫌を損ねるわけにもいかなかったのだろう、次第に冷たくなり、雇用保険の給付が尽きるときに30万円を渡され、今のていたらくで盆と正月以外は実家に近寄るなという旨のことを宣告された。田舎だけに周囲の目もあるし、やむを得ない措置だと思うし、今更それを遺恨に思ってもいないし、ここでズルズル寄生を許可されていたら今頃は立派なニートのできあがりだったことと思う。もっともそのときは、ああもうこれは死刑宣告だなと目の前が真っ暗にはなったが。
とはいえそう簡単に自殺できるなら何も苦労はない。役場の障害福祉課(精神障害者の手帳の件でお世話になっていた)に話をしたところ、ありがたいことにこんな穀潰しに親身になってくれ、提案をもらえた。
ひとつは「障がい者のグループホームに入居して集団生活を送る」こと、もうひとつは「手持ちのお金でとりあえず単身向けの安い賃貸を契約して住む」ことだった。いずれにしても精神2級の状態で今後の生活にかかるすべての経費をまかなうことは不可能だろうから、生活保護の申請は前提と言われた。一刻も早く家族(特に兄)からの攻撃から解放されたかったので、障害程度区分(介護保険でいう要介護1~5みたいなの)を取ったりするために必要になる時間も惜しみたくて1Kの賃貸アパートを契約してそこに引っ越すことにした。引っ越すといっても冷蔵庫や洗濯機は家族共用なので家電量販店で買ってアパートに届けてもらうことにし、段ボール箱5つ分くらいの荷物を自室から原付のリアキャリアに縛ったりステップに置いて運ぶだけだから、引越し自体もあっけなく終わった。父のワゴン車に積んで運べば1回で済んだだろうけれど、その迷惑をかけるのも躊躇ったのは覚えている。
生活保護で月に支給される額はおおよそ12万円程度。障害基礎年金は無事3級が出たが、年金は収入として申告し、その分減額される(生活保護+年金になるわけではなく、他の生活保護受給者と同じ金額で生活をすることになる)システムなので、年金が出たからといって裕福になるわけではないことを知ったが、とりあえずこれで、贅沢しなければ衣食住が許されるくらいのベースができた。原付(125以下)が、「事故を起こしたときにちゃんと賠償できるように任意保険にも加入すること」を前提に保有・運転してもいいといわれたのは助かった。
『働かずに食う飯』が美味いかどうか……。考え方に個人差はあると思うが、私にとっては何を食べてもあまり味がわからなかった。保護費支給日に、月に1回くらい口の栄養をと思って高い外食(といってもファミレスとか回転寿司くらいだが)をしても、味に感動するようなことはなかった。むしろ高い飯を食べると罪悪感が強かったようにすら思う。
刷り込みとか色々あるかもしれないが、とにかく、『今この時点において、自分より無価値な人間はいない』ということを感じていた。卑屈になりすぎていたのかもしれないけれど、今の自分が生み出せるものといえば二酸化炭素と排泄物しかないわけだから。テレビを持っていなかったのでもっぱらラジオだったのだけれど、野球中継を聴いて贔屓のチームの選手が拙いプレーをして点を取られたときにも、自分ごときが選手を叱咤できる立場じゃない、となって、野球中継さえまともに楽しめなかったくらいになった。
鬱もなかなかその頃は酷く、家事は勿論のことながら入浴すら自発的にできなかったので障害福祉サービスで週3回ヘルパーさんが来てくれるようになり、相談支援専門員さんがついてくれることになった。モニタリングという定期的な面談のときに「ラジオで野球を聴くのすら申し訳ない」というようなことを話すと、就労継続支援B型という作業所を紹介してくれた。見学に行ったところは障害の程度や意欲に応じて、ほとんど遊んでいるに等しいレクリエーションのようなことから集合住宅や公共施設などの清掃まで幅広くやっていたところで、「ちゃんとできるかどうかわからないが、清掃作業をさせてもらえるなら」という条件で通所し始めた。週1日・午後のみから始めて、少しずつ増やして週4・午前午後になり、報酬として工賃を2万円くらいいただけるようになった。まったくの無価値ではなく、月2万円だが自分にそれだけの価値を認められたことが嬉しかった。もちろん収入なので生活保護の支給額は減るのだが、勤労による収入の場合は控除が認められて、2万円工賃をもらえれば月に1.5万円くらいは実質的に自由になるお金が増えた。この頃には、「月1回くらいは口に栄養しても」の罪悪感も少し薄れ、熱々のハンバーグがとても美味しかった。
……とここで、レジで会計をするときに壁に貼ってあったポスターを見て、「アルバイト募集されているんですね。未経験歓迎とありますけど僕みたいなのでもいいんですかね?」などという畏れ多いなんてレベルを超越した暴言を吐いてしまったのだ。
レジカウンターを挟んで二言三言のあとバックヤードに連れて行かれ、店長がいる時間帯に履歴書を持って面接に来てくれという話になってしまい、そこから何をどうしたかよく覚えていない。作業所までそう離れていなかったので、まずは作業所に駆け戻ったのだけは覚えている。
後日、作業所の管理者さん同行で面接になった。店長と施設長が最初に長く話し、最後の方で何か言いたいことはと問われたときに、施設長が言わなかったこと(生活保護受給中とかただの精神2級ではなくアスペルガー症候群もあること)を言った。施設長がいい顔をしていなかった。ここで仮に採用に繋がれば作業所の実績に繋がる大事なところなので、その足引っ張りになることをされたら困るというのが施設長の本音だと思うが。
採用の前にまず実習ということになった。熱々の料理をお客様にぶちまけるような致命的な失敗こそしなかったが、皿は相当割った。14番テーブルに持って行くはずの料理を24番に誤配したり散々だった。高校生の先輩バイトさんに使えないと舌打ちされたのも覚えている。
……が、総合的な評価はそこまでダメではなかったのか、まずは週2日のランチタイム要員として採用された。10時半から15時の4時間半。百戦錬磨の兼業主婦のパートさんにはこき使われたが数多のフォローや配慮をしてくれて感謝しかない。
週2日と4時間半が次第に延び、フルタイムになり、正職員待遇になった。精神の手帳も2級から3級に見直された。生活保護は基準より収入が上回ったため停止され、半年後に打切りになった。福祉事務所に頭を下げに行ったら担当のケースワーカーさんに激励していただいた。
正職員待遇とはいってもあくまで障がい者雇用なので、健常者とまったくの同一条件ではないけれど、少なくとも今は野球中継を素直に楽しめるようになったし、親や兄・妹との関係もある程度戻ったと思う。兄のところには2人子どもがいるし、妹も近々結婚するらしいことを聞くと、私は家庭を持っていないことが兄や妹と較べてレベルが下だが、これはさすがに相手のあることだから自分だけが足掻いてどうにかなるものでもないし、仕方ない。
お金だけがすべてではないが、今は保護費より相当多い給与を貰えているし、そのおかげで保護の頃より僅かだが広く便利がいいアパートに移った。雑誌や文庫本くらいならそこまで財布と相談しなくても買えるようになったし、何より「お天道様の下を堂々と歩ける」ようになった。
もちろん、今後また何かの弾みで生活保護に助けてもらうことにならないとも限らないが、保護に依存しないように、備忘録として残したい。
母親はアルコール依存で父親はギャンブル依存で時々暴力行為もあった。
虐待を受ける事はなかったし、むしろモンペとして俺を守ってくれたが、なにしろ貧乏だった
相手が商用車で点数がどうとかで警察通さず示談を依頼してきたから、沢山慰謝料ふんだくったらしいよ
工業高校を出て就職した頃から、どうやら家庭環境が普通じゃない事に気が付いた
親は借金まみれで俺が稼いだ金をすべて取り上げた。なので20才で家出同然に自立した。結婚して子供もできて、生活は苦しかったが、なんとか暮らしてきた
父親は60で死んだらしい。年金を掛けていたらさぞ悔やんだことだろう。母は仕事をしたことがないし父親の遺族年金もない
それで母親は生活保護を申請したようで、俺に扶養義務者のなんちゃらって通知が来て父の死を知った。扶養は当然お断りした
でも母とはその頃からたまに会うようになった。アル中の人って、酒を飲まなきゃ臆病で良い人なんよ。酒を飲んで暴れるのも体力がいるようで、70過ぎてからは酒ものまず引きこもりのような生活をしていた
でも保護課の人が運動しないからって保護費を通帳振り込みから現金支給に替えたらしく、そうしたら役所に行かなくなって、そのまま餓死しかけたらしく警察と病院の世話になった
一命はとりとめたらしいが半年ほど入院していた。保護課の人からその時再度扶養してくれと言われた。申し訳ないが断った。養える経済力がないから。
保護費で借りてる賃貸住宅は住まずに半年過ぎたら解約しなきゃならないらしい。そこで入院半年のタイミングで数日間退院し、すぐにリハビリ病院に転院し、そこも3か月しかいられず施設をケアマネ?に探して貰った。
今は有料老人ホームに入っているが、生活保護なしでは叶わなかった。入居敷金が25万。引っ越し費用に家財撤去費用が20万ほどかかるらしい。申し訳ないが自分には出せない。
しかし生活保護を受けたままだと公費負担にしてもらえるらしい。そして月々の生活費として、手作りの食事つき看護師常駐の施設で賃貸資料とか込々で月に15万。介護保険負担金が3万ほど。これが公費にしてもらえる。
医療費も全額公費。施設で必要な消耗品や衣類や雑費は毎月2万程度いただけるらしい。毎月20万とか、毎月そんなに年金貰おうと思まったら、どれだけ稼いでなくてはならなかったんだろう。
もしも毒親でなかったら、あの時親を見捨てる事はしなかっただろう。そうなれば今頃は共倒れになってたと思う。
父が死んでもなんとも思わなかった。母がホームに引っ越す時の荷物の整理も何の躊躇もなく全部捨てる事が出来た。今は親に関するストレス事が全くない。
TVもある
「介護施設なんて介護認定受けた老人しか入れないだろ」って思うかもしれないけど
家で何らかのトラブルがあって、どこにも行けない人
介護施設がそんなことやってるって国は知ってるのかなあ?
関係ないけど「短期入所利用30日を超えない様にして1日だけ家に帰って直ぐ来るってのを繰り返す遣り口」とかも国は承知の上なのかね
(ショートステイなのにロングとして使う。30日超えると実費になるから、そうならない様に何とかして1日だけ家に帰る
その他にも違った手口で「居続ける」ことが可能だ。介護保険制度の目を潜って行うチート行為だよね
ショートに居続け+老健数ヶ月利用で絶対家に帰らない。特養に入れない・有料にも入れない老人はこうやって余所に預けられている)
老人蔓延り過ぎ
というか、老いると漏れなく受刑者状態になるのがきっついすねー(一日中椅子に座ってろって言われるとか…刑務所の方がまだマシじゃないかって思うわ)
この手の人「老後のためにある程度は資産形成」っていう、無意識的に国民皆年金と国民皆保険をあてにしてるからすげーむかつくんだよね。
この人が現役世代じゃなくなった時、年金をもらわず、介護保険も使わず、健康保険も10割負担してくれるならなるほど、そりゃなんの文句もないが国民皆年金と国民皆保険を前提に資産形成してるやろがい
これ指摘すると「自分で収めた年金をもらって何が悪い」とか言い出すやつおるが全然ちげーわ、お前の収めた年金はお前の両親や祖父母が今現在もらってるやつの一部だわ
ついでにお前の親と祖父母世代が年金でいくらもらってると思ってんだ、元増田を含めた俺らが出してるのって、自分の健康保険料(の一部)と親の年金(のほんの一部)だけだからな
「どう生きようと人に迷惑をかけてないならかまわない」のは正論だけど、明らかに人の恩恵に預かって老後を過ごす気満々のくせに偉そうにしてんじゃねーよ
せめて口だけでもいいから「あなた方の子供に混じって生涯現役!死ぬ当日まで働いて健康保険料も厚生年金も納め続けます!」くらい言って欲しいわ
うちの地元だと逆だなあ。
お前は優秀だから地元を出ろ、ここにいたら駄目だ、と教育して、都会に出したがるのが続いている。地元には大学が無いからかもしれないが。
総論として少子化対策や過疎化対策大事だねっていいながら、みんな自分の子どもや親族には、田舎にいちゃいけない、都会に出ろって言うんだよね。
高校生は地元就職の僅かな人を除いて殆ど域外、7割は県外に出るという有様。家業がある人も出ちゃうんだぜ。笑うだろ。
だから、できるだけ若い人をつなぎ止めようと、地元の素晴らしさを語るのは、そんなに悪い事じゃ無いんじゃないかなあと思うんだけど。
まぁやり方にもよるんだけどさ。
地元、二十代の人口がむちゃくちゃ少ない。大学出て就職のために帰ってくる人はそんなに多くない。
30代半ば以降になってUターンで帰ってくる人が結構いるので、人口分布が面白いことになってる。IターンもそれなりにいるがUターンが多い。
で、独身者で帰ってくるのは殆どが男。独身の若い女性が物理的にいないため、出会いはない。婚姻率の低下とそれに伴う少子化が止まらない。
都会に行くのはもうとやかく言わない。
そのかわり、最近は、故郷との繋がりを切らさないようにしつっこく行動している。
自治体の広報誌をせっせと郵送したり、年1回、地元だけで使える商品券と、通販でも使えるぞと特産品カタログを送ったり。近場の都市部で頻繁に地元民の集まりを開いたりしている模様。
年末年始には、都市部から地元へ帰郷するための補助金付き格安ツアー(交通費2万円を、これを使うと往復3千円w)を用意するとか、涙ぐましい努力をしている。で、これらの財源は、そういう連中が納めたふるさと納税という。笑える。自家発電じゃん。
関係人口を増やすんだって。でも関係人口で地元の労働力不足をなんとかできるか?ってできっこねーじゃん。どうするんだろうねこれ。でかい会社の工場があるんだけど、工場労働以外の選択肢があまりない。選択肢は無いのに人が足りない。
まぁその結果Uターンが増えているのはよいことなんだけど、俺みたいな独身ばっかりUターンしてきてどうするんだろうね。最近無駄にソロキャンパー向けのキャンプ場ばかり増えている。おっさんの都を作りたいのかな。俺はそれでいいんだけど。
さらに定年後帰ってくるジジババも増えている。それを当てにしたサ高住ができたりしてて、今後介護医療ばかり負担増間違いなし。健保と介護保険爆上がり。このままだとたぶん滅ぶよこの町。
氷河期世代以降は都会からのUターン組がマジョリティなので、もう昔の因習とかはあんまり感じられない。因習と一緒にお祭りなんかもなくなっちゃったけど。コロナ禍でそれはさらに顕著だ。
まぁ俺の周りのコミュニティだけだからそれを代表で語っていいかはわからん。
ただし女性も働いていないと、専業主婦やってると遊んでるとみられるのは、同じかもな。もちろん男性の方がそれは顕著だけども。