はてなキーワード: ビニールとは
先ほど母がクリーニング屋に行って帰ってきてしばらくすると、
「サービス券もらってない!」と大声を上げた。
聞くと、持ち帰り用のビニール袋をお断りすると10円のサービス券がもらえるところ、
今回店員さんが渡し忘れたらしい。
先ほどの剣幕と対照的に猫なで声で
「もらってないと思うんですけどぉ~」
とか言いながらどうやら首尾よく次回来店時にもらえる算段をつけてもらえた様子。
「細かいことでもこういうことの積み重ねが大切なのよっ!」
とついでに大見得を切る母だがあのさあその電話の通話料だけで10円くらいかかってんじゃね?
と喉元まで出かかったけど
「ちゃんと家計簿つけてて良かったわ~こういう細かいソンも見逃さなくなるんだから!」
ってるんるんの母にツッコミを入れるのも不憫ではばかられたのですが、
こんなこと考える私の方が細かくてオロカなのでしょうか。
ある平日の京浜東北線の電車に乗り込んだ時、ふっと、堆肥のような臭いがした。
なんとなく口臭(奥歯に詰まったカス臭?)のような気もしたので自分の息が臭わないか確かめてみた。
が、特に臭わない。
そうこうしているうちに次の駅について、座席が空いたので座った。
座席が空いた理由はすぐに分かる事になる…。
座席に座ったら途端に臭いが強くなった。
眉をひそめて周りをキョロキョロと見回している人がいる。
二人連れが怪訝な顔をして「…何?」「…なんか臭くない?」とコソコソ話をしている。
隣の車両に移る人もいる。
右隣の人が立ち上がり、遠くの別の座席に移動していった。
そうしたら臭いがいっそう強くなった。
右側に座っていた人がいなくなったら臭いが強くなったという事は…臭いは右から来ているのか?
ちらっと右を見てみたら一番端に男が座っていた。
ホームレスのような不潔な感じの風貌をしている。
臭いの元はこの男か、あと数駅だしこの程度の匂いならなんとか我慢できるかな。
…と思った瞬間、その男が突然
キエーーーーーーーッ!
と絶叫して頭をかきむしりはじめた。
はげしく咳き込みながらキー!キエーッ!キー!と奇声を上げ続ける男。
時々痰を吐くような音もする。
車内は恐怖に凍りついていた。
もはやみんな男から視線を外して何事もないように振舞おうとしているのが分かった。
顔をひきつらせて泣きそうな若い女性もいる。
男の奇声と奇行はしばらく続いた。
男から遠くにいる何人かは隣の車両に移っていたが、近い人は恐怖のせいで動けない。
俺も男とは近いので動けなかった。
怖がって逃げる事でコイツを刺激したくはない。
皆バタバタと避難するような速度で我先にと出ていった。
隣の車両に移った人も大勢いた。
人が一気にいなくなり周辺の座席がたくさん空いた。
隣の車両は立っている人が結構いるのに、この車両だけは異様なほど空いている。
人がいなくなったせいで伝播力が上がったのか、また臭いが強くなった気がした。
さっきの駅についたどさくさで一つ隣の座席に移動したのみで、男とは依然同じ車両のまま。
自分の心臓の音がバクバク聞こえているほど本気で怖かったが、なんとなく怖いもの見たさでこのまま目的地に着くまでここに座っていようと思った。
「何かのネタになるな」と思った。いや、ネタにしなきゃやってられない。
そう、ネタにしようと思ってしまった。(だからこれを書いた。)
いつのまにか男は奇声を上げるのをやめていた。
相変わらず異臭は漂っている。
知らずにこの車両に乗ってくる人は可哀想だな…誰も乗ってこなければいいのに…と考えていたが
その思いも虚しく、駅につく度に人が乗ってきて空いている座席に座り、次の駅についたら無表情で降りてしまうという予想通りの行動が何度も繰り返されていた。
男は時折大きな音で痰を切る。
奇声を上げている頃に比べたら随分おとなしくはなっていたが、車内の雰囲気はおかしいまま。
ただ異臭がするというだけで車掌を呼ぶわけにもいかないし、一体この男をどうすればいいんだろうという感じだ。
(こういう時本当にどうすればいい?車掌を呼んでもいい案件?)
そしてとうとう俺の降りる駅に着いた。
ようやく異臭と緊張感から解放されると思ったら、その男も立ち上がった。
同じ駅に降りる様子。
ついて来られたら…同じ目的地だったら…と怖くなったが、
降りたらさっさと駅から逃げよう。と気を持ち直した。
癖っ毛で脂ぎったボサボサ髪。
マスクをしている。
薄汚れたシャツ。
中年のような出っ腹。
何かをパンパンに詰め込んだボロいビニール製バッグを3つほど持っている。
その足がなんだかグチャグチャで変な色で、汁のようなものが靴に染みていた。
臭いの元は多分これだ。
そういえばいつか田舎で見た、車に轢かれて放置された動物の死体がこんな臭いを放っていたような気がする。
腐臭だ。
この人の足は腐っている。
臭いはずだよ。
とにかくさっさと駅から出た。
振り向いたら男の姿はどこにもなかった。
ホッとした。
今までに出会った人の中で一番異臭を発している人だったと思う。
鼻に残る臭いを感じながら、
腐った足は痛くないのだろうか?
腐っているので痛みも麻痺しているのだろうか?
咳き込んだのは何かの病気か?
その病気のせいで足が腐ったのか?
末端が腐るといえば糖尿病か?太っていたし…
病院には行かないのか?
金銭的な事情か?
どうしてこんなになるまで放っておいたんだ?
助けになってくれる人はいないのか?
あの男はあんな体でこの先どれだけ生きられるのか?
色々な事が頭を巡った。
俺がどれだけ考えても詮無いことだよなあ…。
さる土曜日、国立国会図書館の関西館にヒマを潰しに行ってきました。存外良かったのでみなさんにお知らせ。
Official サイトはここ。http://www.ndl.go.jp/jp/service/kansai/index.html
外観がこれ。
http://mbp.tumblr.com/post/13545972949
中は天井が異常に高く、吹き抜けみたいなホールを下っていくのでなんか得した気分になれます。
なかはあんまり写真とっちゃダメっぽい雰囲気だったので写真ありません。
設計どこだろ。
第一の目的はこれ。最近論文読める環境にないのでネタ探しと興味本位で行ってみた感じ。
しかし!蔵書はされていても全部のジャーナルが電子化されているわけではありません。
化学系だとScience Direct系は読めるんですが、ACS系やNature系は書物としてなら読める感じです。
車で行くしか方法がないと言っても過言ではないほど区画整理された土地にあります。
SPring-8を彷彿とさせる。しかしあそこよりは都会かも。
場所は京都府相楽郡精華町といって京都の南、奈良との県境くらいの場所です。
B5以上の書類が入るバックはロッカーに入れる必要があります。電話とかも原則禁止。
カメラ禁止。持ち込みPCは場所を限定して許されているようです。
入るために一時入館証を発行する必要があります。住所電話番号まで必須。
館内でインターネットするためには継続カードみたいなのを発行する必要あり。
こんな僻地の国会図書館来てまでスポーツ新聞やらインターネットしてるひと、
かたや難しそうな本を読んでいるひとなど。
ビニール袋みたいなのに入れれば持ち込みできる?のかな、
隣のおじさんはずっと縮刷版の新聞読んで唸ってました。
ボロクソ書いたとこもありますが、みんなの財産なので国会図書館、一回暇つぶしに行ってみてはどうでしょう。
見た目の良さは度外視している。
本当にずぼらでめんどくさがり(しかも貧乏)だが、できるだけ清潔に便利に(そしてできれば健康に)暮らしたいという人向け。
そんなの今更目新しくねーよってことばかりだけど一応。
俺は、めんどくさがり屋だが、それ以上にパンクしやすい人間だ。
ゴミ、未実行の工程(畳む、拭く、しまう(直すってのは方言らしいです、すまん))などが貯まると、パンク、というかショートして何もできなくなり、どんどん散らかり汚くなっていく。
だからできるだけ、工程を減らしつつ、ひとつひとつの工程のハードルを低くしつつ、散らかりにくくすっきりした暮らし方を目指している。
■オサレじゃなくていいが、すっきりと清潔にしたい
■できるだけ自炊したい(俺は人工甘味料で腹を壊しやすい体質だし、カップラや弁当を食い過ぎるとニキビができるからな)
■↓意外ににめんどくさくないこと
金のある人はもちろん外食やなんかでもいいんだが、俺は如何せん金がない。
メンドクサイ→外食、ってできればいいんだが、それができない。
メンドクサイ→でも金無い→カップラーメンとか安い弁当→体調壊す、ってなっちゃうんで、
体に良い(マシ)なものを、いかにインスタント食品のように簡単に(できれば美味しく)食すか、という風に工夫している。
ご飯やスープを冷凍していれば、カップラーメンをたべるのと同じくらいの時間で、腹を満たすことができる。
■↓失敗した!!
■↓これから引っ越したり、新生活をはじめるやつに言いたいこと
続ける秘訣は在庫を切らさないこと、つまりはまとめ買い、かもしれない。
アルコールティッシュなんかも、
なくなる→詰め替えがない→買い忘れる→また買い忘れる→なんとなくヤル気失せる、
ってなっちゃうんで、クイックルワイパーとか、アルコールティッシュなんかは買いだめが良いです。
■追記(11/08/29)
もちろん何もかも習慣化してシステマチックに動くのが一番良いかもしれない。でもなかなかできない、ずぼらだから。でもできるだけ頑張ります。
服も何度もたたもうとしたんだが、
最初は調子よく畳む→忙しくなったりで畳めてない洗濯物がたまる→パンクする、ということの繰り返しになってしまう。
確かに俺はずぼらに見えないかもしれない。
でも俺はハウスダストアレルギーと弱い腹の持ち主なので、ある程度きれいにしておかないと、鼻水下痢お化けになってしまうのだよ。
その条件下でいかにサボるか、という風に生活していたら、こういう感じに落ち着いた。
実際俺は、一人暮らしを始めて2年くらいまでは、半年に1度くらい必要に迫られて大掃除をするだけ、六畳間が一杯になるほどゴミを貯め、食料を腐らせ、食器をカビさせ、洗い物のたまったシンクから腐敗臭をさせ、あらゆる粉類をこぼしまくり、出したものは出しっぱなし、服は床に山のようにぐちゃぐちゃに…という生活をしていたのさ。もちろん友達なんか呼べねぇ。生活の質も著しく悪い。台所がちらかって料理できないから、出来合いのものばかり食って腹を壊し、大事なモノもすぐなくす。毎日ホコリやカビのせいでかゆいし鼻水だらだら出るし。
これはそういう事態を改善するための最低限の習慣なんだよ。
そしてこれは、そんな俺にできる精一杯のことだ。はっきりいってこれ以上やることを増やすと、パンクして元の状態に戻ってしまうだろう。
まあ、ずぼらに思えないわな。真のずぼらのみなさん申し訳ない。
なんというか、別にホコリで痒くなったりしないし、腹も壊さないし、ニキビもできないし、ものをなくしたりしない人ならば、
掃除とか整理整頓とかしなくていいんじゃねーですかね。こういうのは必要に迫られてる人だけすれば良いというか。
俺も数年前までは、自分はそういうことが必要のない人種だと思っていたし。
でも、あまりにも常に鼻をずーずーやっていて目が充血、ひどい時には喉がピーピーなりだすので、
こりゃなんだろうと病院へ行ったら、ひどいハウスダスト(その他あらゆる花粉)のアレルギーだったことが判明したのですよ。
それで、抗ヒスタミン剤なんかを飲んでやりすごそうとするんだけども、眠くなったり、ホコリとかダニが多すぎて薬が効かなかったりやらで、
それに、脂漏性皮膚炎という皮膚の病気と、脂っぽいものと甘いものですぐにニキビだらけになる顔の持ち主なんで、
ところが、小さい頃から母に、
「出したものはしまいなさい!」「服を脱いだら洗濯機に入れるか畳みなさい!」「蓋を開けたらしめなさい!」「ものをこぼしたら拭きなさい!」「部屋を片付けなさい!」を、
家を出るまで言われ続け、1度もできたことのなかった俺なので、本当にできないんですよ。
「ふっ。本当のライフハッカーにゃ特別な道具なんていらねー。砂糖の袋なんか洗濯バサミでとめときゃいいんだよ」
とか思ってやってみるんですけど、その一手間「洗濯ばさみで袋を閉じる」ということが出来ず、開けたまま放置、湿気て塊だらけにした挙句、こぼす。
野菜食おうと思って野菜炒めとかつくるけど、思ったより野菜食えない割に手間かかるし美味しく作れないし、ですぐにやめる。
そんなかんじで試行錯誤してるうちに、いきついたような感じです。
私は犬を飼っていましたが、3月11日の震災の時に殺しました。
理由は避難先に連れていけない事、食料やスペースの余裕がない事などで、
悩みましたが、結局、殺す事に決め、暴れるので先にロープで手足を縛ってから、
首を絞めました。
絞めている最中も凄く暴れて、時間がかかってしまったのが非常に辛く感じられました。
保健所も津波の被害にあって、とてもペットの処分をお願いできる状況ではありませんでした。
もしこの場所に戻ってくる事があるなら、改めて埋葬してあげたいと思いました。
先日、その事を知人に話すと、知人はかなりの勢いで怒り出しました。
「とんでもなく残酷なことをしてる、信じられない、どうして一緒に連れてきてやらなかったの?」
と知人に聞かれて、私は、とてもそんな余裕は無かった、と答えました。
「なら他の飼い主を探せばいいじゃない」
あの状況ではとても難しいと思います。
「そこを何が何でもなんとかするのが飼い主の責任ってもんでしょうが!命を何だと思ってるの?」
私は、だからちゃんと処分したんだ、保健所も機能してなかったし、と言いました。
「なら、そのままにしておけばよかったじゃない。鎖を外して、生きていけるように」
それこそ飼い主の無責任だと思う。ペットを野放しするのも、それでペットが他所に迷惑をかけるのも。
ビニール袋に包んで地面に埋めた、という処理の仕方には大変な問題がありそうですが。
「それでも、何とかするでしょう。家族の一員なんだから。邪魔になるからって、簡単に家族を見捨てるなんて」
簡単に見捨てたつもりはありませんでしたが、しかし反論が思いつかず、私はそのまま黙り込んでしまいました。
私はどうすればよかったのでしょうか。
人生を半分くらい投げたらロックンロールな気分は消えて、酩酊したいような気分で、でも別に学校行きたいなんて思うわけもなくて、ああ最後までなんかちょっと違う感じだったよなとか思いながら、最初から最後まで医学生ぽくないって言われたこと思い出しながら、なんとなく憂鬱な気分で、でも留年してくそ暇な時間を過ごしているときにおれは別に暇だとか退屈だとか感じていなくて確かいつもこんな感じだったよなって思う。わけわからない気分。勉強するつもりで買った本は全然頭に入らなくて、いやレトリックの本はなんとなくあたまのなかで形にはなったんだけど特に文章としてまとめられるような感じじゃなくて、なんにもわからなくなっちまった。憂鬱な気分を抑えるために外に出て歩いて、いつも思い出すのは運動好きな体育教師が心を病んで辞職したこと。結局運動は健康になるし憂鬱な気分を吹き飛ばすけれども、一時しのぎのものにすぎなくて、最低な今日。時々凄くはかどる日があるけど今日はぜんぜんそんな日じゃなくって、何がどうなのか僕はわからなくて人生の何にも向いていないような気がする。こうやってひきこもってへんてこな文章を書いて永遠に無視され続けるんだって、もちろん保坂和志が書いたように小説がそういう感情を負の側面に持っていくということは確実にあって、覗き込む心が覗き返してきてそのせいで頭が痛くなり心が暗くなり心配事があふれだす。自己啓発本読んで片付けようとした部屋は相変わらず汚いままで、明日になったら全部捨てようとかそんなことを思う。捨てよう捨てようと考えてずっと捨てられないのは僕の部屋がいろいろな余計なもので溢れているせいで、殆どのものは捨ててしまえるのになって思う。だけどおれはぜんぜんすててこなかった。そういう事なんだと思う。永遠に読むことのないであろうドイツ語のプリントやルーズリーフやビニール袋を捨てることが出来なくて、いい加減に捨ててしまわなければと思う。僕はものに囲まれすぎた。こいつらが思考をごちゃごちゃにする、なんてことはなくて、いや、ないのかどうかはわからないが、相互作用でどっちがどっちというわけではないのだろう。いずれにせよおれはとても物を片付けるのが苦手だから物は少ないほうがいい。有名なコピペの鉄道模型を捨てられて、殆ど全てを捨ててしまった夫のように、スーツケース一枚だけの荷物にしてしまえばいいのだ。父は僕にボランティアにいくのはどうだろうと思った。たしかにそれは納得出来ることだったが、ボランティアはボランティアを求めているのであって、おれの更生を求めているわけではない。できればシェアハウスでどうにかこうにか生きたい。思い出した、昔のこと。長距離走でおれは結構得意だったから前の方走っていて、後ろのヤンキーがぜーはーいいながらスピードをあげてきて、苦しそうな顔をしながら走って粘ってくるのがすっごいつらくなって、おれは走るのが辛くなった、別にペースをあげたからとかそういう話じゃなくて、なんだか泣きたくなってしまったのだ。それでおれはちょっとだけペースを落として、彼の声が聞こえないところまで下がったら、おれはこのまま頑張り抜こうとかいう気持ちが無くなってしまった。別に同情しようというのではない。ただそれがおれにとってはつらかったのだ。同じことが今も起こっている。年上の再受験生がひいこら言って、生活かかっていて、そんな中でおれはなんだか嫌になってしまって、そういう競争を強いるしくみが・・・。もちろんこれは軟弱なのかも知れない、真っ先に潰されるのかも知れない。そして長距離走のときみたいに、おれはどんどん転げ落ちていくのかも知れない。
ノーパソの端子部分にサブンとかかったらしい
帰ってきてその話を聞き事務所に行って、ノーパソを逆さまにしたらノーパソの内部の穴から汁がポタポタこぼれてきた
柔らかい布で水気を拭き、水気が落ちなくなったら、ケーブル類を外して、バッテリーも外す
ノーパソを乾燥剤入りビニール袋に逆さまに入れ、両側に支えを置いて2日間放置
今日、動作を確認しにいって電源入れたけどOSは起動するものの「キーボード動作 方向キーが駄目」「ハードディスク 駄目」
「マイコンピュータ 開けない」「マイドキュメント 開けない」と散々だった
データの大部分はUSBメモリに入れて保管するように教えてたんだけども、最近、USBメモリは外していて入ってないデータもあるらしい
傘の端から滴り落ちる雨粒を見やりながら、ぼんやりとAのことを思い出していた。ぼってりとした雨雲が犇めき合う季節になると、彼は眉間に深い渓谷を刻んでしきりに舌を打ち鳴らしていた。
至る所で蛙が鳴き声を上げている。あの日も同じだった。夥しいほどの蛙が、姿も見せずあちこちで喉を震わせていた。
あの日、Aはいつにもまして苛立っていた。いつになく舌打ちの回数が多かったし、形相までもが歪み始めていたのだ。
家路を共にしていたわたしは気が気ではなかった。狂おしいほどの不快感というものを、生まれて初めて目の当たりにしていたのだ。両目が釣り上がり、眉間はもちろんのこと鼻筋にまでしわを寄せたAの容貌は、この世のものではない黒々とした悪意に乗っ取られてしまったかのようだった。
なんとかしなければならない。少し後ろを歩きながらわたしはそう考えていた。早急にAの不快感を発散させなければならない。いつその矛先がわたしに向くかわからなかったのだ。
梅雨空の下、わたしは沈黙したまま歩き続けた。つかず離れずAとの間に一定の距離を保ったまま進み続けて、不意に先生の話を思い出したのだった。
それは先生が子供の頃に行っていたという遊びのことだった。パン、と弾けるのだという。ひどいことをしていたものだと、先生は苦笑交じりに語っていた。
わたしは先をゆくAにおずおずと話しかけてみた。ねえ、蛙に爆竹を仕込んでみない。
声を聞きピタリと立ち止まったAは、しばらくの間前を向いたまま立ち尽くしていた。やがてゆっくりと振り返ると、わたしが口にした言葉の意味が掴めないといったような表情で虚ろな視線を寄越し始めた。わたしはそのとき、意味もなく愛想笑いを返した。だけに留まらず、沈黙に耐えられなくなった末、その背中を押し出してしまった。
よくわからないけどさ、イライラしているんでしょう。だったらやってみようよ。嫌いな蛙を懲らしめてやろうよ。
本当に、その程度の思いつきだったのに。
わたしはAの眼の色が変わっていく様をまじまじと見つめてしまった。
それも、そうだな。
ぞっとするほど酷薄な表情を浮かべたAがそう言った。彼のものとは思えないほどに冷え切った声色だった。わたしは思わず鳥肌の立った二の腕を抱いていた。ねっとりとした暗黒色の感情が、形をなしてAの背後に立ち込めているかのようだった。
わたしは今すぐにでもその場から立ち去りたくて堪らなかった。とてつもなく嫌な予感がした。「絶対を破ってしまった後ろめたさ」のような感情が、怒涛のごとく押し寄せてきていて呼吸をするのが苦しかった。
今なら当時わたしが呑み込まれた感情が何であるかがはっきりとわかる。あれは呆れるほどに純度の高い恐怖だったのだ。生理的本能的な原始の恐怖。それが驚くべきほどの奔流となってわたしに流れこんだのだ。お陰でわたしはその場からぴくりとも動き出すことができなかった。Aと向き合ったまま、両足が地面に縫い付けられてしまっていた。
にっ、とAが笑った。
何も言わずに再び前を向いたAは、歩き出しながらわたしに指示を出した。ありったけの蛙を捕まえて公園まで待ってきてくれ。口調は穏やかそのもので頼みを聞いてもらうときのそれに近かったものの、内実その根底には逆らいようのない高圧的な意図が宿っていた。反故にすることなど、できるわけがない。恐怖に支配されたわたしの首はほとんど自動的に頷いていて、わかったと端的な服従の誓いまで口にしてしまっていた。
絶対だぞ。
念を押されたわたしは、帰宅するや否やプラスティック製の小さな水槽を抱えて再び雨の町へと飛び出した。
蛙を捕まえなければならなかった。一匹や二匹では足りない。胸に抱えた水槽から溢れんばかりに捕まえなければならなかった。そうでなければ、どうなるかわからない。どこかたがが外れてしまったような様子のAが、何をしでかすともわからない。
かえるかえるかえる。わたしは死に物狂いで蛙を探し続けていた。大きいものから小さなものまで、見つけたら片っぱしから水槽に突っ込んでいった。かえるかえるかえるかえる。まだ足りない。まだ足りない。全然足りない。
ただ、恐慌状態にあったわたしは少しだけ運が良かった。Aが指定した公園には小さな溜池とそこに向かって流れる側溝があって、そのため草むらや生垣の中から途切れることなく蛙を見つけることができたのだった。加えて、その年は例年になく蛙が以上発生していた。わたしの右手は次から次へと蛙を捕まえていった。
十五分くらいで水槽の半分ぐらいが蛙で埋まった。随分な量だった。抱える左手が重たくて辛かったことを覚えている。しかしながら、それでもまだ蛙が足りなかった。こんな量じゃ満足してもらえないと思い込んでいた。
狂おしいほどの強迫観念だった。ストレスからくる吐き気まで催していたと思う。Aという圧倒的な恐怖に苛まれていたわたしは、グロテスクな体を所狭しと寄せ合った蛙たちの上に、捕まえていたのと同等かそれ以上の蛙を詰め込んでいった。
それからもう二十分ほど探し続けて、わたしはようやく水槽の蓋を閉じた。見れば、限界まで詰め込まれた蛙が壁面に抑えつけられながらもぞもぞと動いている。腹を向けていたり、背を向けていたり。ある蛙は押し付けた眼球が潰れかかっていたし、最初の方に捉えた蛙にいたっては、底のほうで身動きも取れないまま胃袋を吐き出しているようだった。
わたしは右手に傘を左手に水槽を抱えたままAが来るのを待っていた。早く公園に来て全てを終わらせてほしいと願う一方で、どうかこのまま絶対に来ないでくださいと望まないわけにはいかなかった。
雨は途切れることなく傘を叩き続けていた。根こそぎ集めたつもりだったのに、依然として蛙の鳴き声は四方八方から鳴り響き、傘に反射して頭上からも降り注いでいた。
どれほどの時間立ち尽くしていたのだろう。じっと足元に落としていた視線を持ち上げたわたしは、雨にくすんだ公園の入り口に現れたAの姿を目にすることになった。ドクンと心臓が脈打つ。血流が速くなって、外気が急に寒くなったように感じられた。
Aはゆっくりとわたしの方へ歩み寄ってきた。手には買い物袋。大きな大人用の傘を差して、これから行う行為にふさわしい服装であるかのような暗い色の服に着替えていた。ただ一点、スカイブルーの長靴だけが場違いに目立っていた。そこだけが異質なまでに邪気がなく、わたしは急にぞっとしなくなった。
たくさん集めたな。Aはわたしが抱えた水槽を見下ろして満足そうに言った。十分過ぎるくらいだ。思う存分楽しめる。にやりと歪んだ笑みが目の前に広がった。喜んでもらえたから、取り敢えずはほっとすることができたから、わたしも笑顔を返そうと思った。けれど、こちこちに強張った表情筋はぎこちなく伸縮することしかできなくて、声さえ口に出せなかった。
やるか。Aは素っ気なく口にした。わたしは命令を受け取ったロボットのように水槽の蓋を開ける。蛙を一匹取り出すと、彼の右手に手渡した。洗練された無駄のない無機質な動作だったと思う。蛙を受け取った彼は、買い物袋の中から小さなダイナマイトを取り出し、無理やりこじ開けた蛙の口に詰め込んだ。
がそごそと左手に持った薄いビニール袋を騒がせて、取り出したライターをわたしに差し出す。
点けてくれ。両手が塞がってて、何も出来やしない。
わたしはこくんと頷いて彼に従う。ライターを受け取り、石火をジャリジャリならして、揺らめく小さな炎を作り出した。
やろうか。そう、彼が言った。わたしはまたこくんと頷いて、そっと導火線に火を近づけた。
シュッと小気味いい音が聞こえて、細かな火花が飛び散った。Aはすぐさま蛙を放り投げた。
口の中に爆弾を放りこまれた蛙は、降り注ぐ雨の中、カタパルトみたいに宙空へ飛び出して、緩やかに下降していきながら、途中で、唐突に、弾けた。
乾いた音だった。蛙は空中で四散した。緑色の体から、予想もしていないほどの赤をまき散らして、四肢と臓腑をズタズタに引き裂かれた生命は、何の理由もなしに爆散したのだった。
べちゃり、と砕け散った血肉が地面を穿つ音が聞こえた。前にも増して雨は強く振り続いているのに、その音だけはしっかりと耳まで届いた。
べちゃり。
わたしは隣に佇むAに眼を向けた。
彼は声を上げず、身動ぎもせずに、じっと散り散りになった蛙の残骸を見つめていた。異様なまでに見開かれた瞳孔は、直前まで意思を持っていたはずの残骸を網膜にさんさんと焼き付けているようだった。
ぽっかりと半開きになった口に微かな笑みを浮かばせていたような気がする。その口元にだけ笑みを浮かべて、Aは食い入るように死体を眺めていた。自らの行為に心から耽溺した怪物のようだった。
ゆらりとこちらに向き直ったAは、もう一回やろうぜ、と言ってきた。わたしはこくんと頷くと、再び蛙をAに手渡した。それ以外に選択肢がなかったのだ。ライターに火をつけて導火線に近づけた。
蛙が弾けた。何匹も何匹も爆ぜて死んでいった。殺されたのだ。Aとわたしは殺戮を繰り返していた。雨降る公園が血肉に染まり、地表を覆う水たまりまでもが真っ赤になり始めても、わたしたちは蛙を殺し続けていた。
途中から爆竹を使うのが面倒になったらしいAは、おもむろに残りが半分前後になった水槽に手を突っ込んだ。そのまま躊躇いもなく手を握る。ぐーぱーぐーぱーと、ハンバーグをこねるかのように蛙たちを握りつぶしていった。
惨劇にわたしは小さな悲鳴を上げた。抱え込んだ水槽の中で生々しく蠢く蛙たちがいとも簡単に圧死していくのである。Aが右手を開閉するたびに、ぐちゃぐちゃと凄惨な音が鳴り響いた。ぷちぷちと気泡が潰れるような、密に詰まった組織が圧迫されて破裂していく音が断続的に聞こえてきていた。
わたしは水槽の中の地獄をじっと見下ろしていた。眼を閉じることができなかった。背けることも。かと言って、Aと視線を合わせることも怖かった。Aが目の前にいたから、ただじっと耐え忍ぶことしかできなかったのだ。目撃者として、共犯者として、わたしは蛙が死にゆく様子をありありと見せつけられなければなからかった。
水槽からは生温かい臭気がねっとりと立ち上ってきていた。時折血肉が勢いよく噴き上げて、わたしの服に付着していった。胃が痙攣を繰り返す。喉の奥から逆流してきた酸っぱいにおいが生臭さと入り交じって、如何ともしがたい臭気を醸しだす。滲んだ涙でわたしの視界は霞み始めていた。鼓膜には、依然としてミンチをこねる水っぽい怪音がこびりついている。
とうとう堪らなくなって、わたしは水槽を手放してしまった。地面にぶつかって、どろどろに潰された真っ赤な流動物が地面に広がっていく。中にはなんとか生き残っていた蛙が数匹残っていた。彼らは変わり果てた同胞の海から這い出すと、懸命に逃げ延びようと地面を跳ね始めた。
その一匹一匹を、Aは踏みつぶして回った。何度も何度も足を振りあげて、全体重を掛けて踏み躙った。ぐりぐりと擦りつけられた蛙は、すり鉢にかけられたかのごとく原型を留めない。それが蛙であったという事実さえ蔑ろにしながら、Aはわたしが捕まえた全ての蛙を、一匹残らず殺し尽くしてしまった。
わたしは公園から逃げ出した。Aのいないところへ行きたかった。走って、走って、全力で走って、全身水浸しになりながら家に帰った。しばらくしていから傘を忘れてきてしまったことを思い出したが、取りに戻ろうなんてことは考えられなかった。
その日わたしはほとんど一睡もできなかった。雨はなおも振り続いていて、蛙の鳴き声はそこかしこから聞こえてきていた。
翌日。Aはどこにもいなくなっていた。
あの日の出来事は、いまでもわたしを縛り付けている。蛙が苦手で仕方が無くなってしまったし、雨が振るたびにあの水槽から沸き立っていたにおいを思い出すようになってしまった。
けれど、それも当然の報いなのかもしれない。結果としてAに加担し、わたしの蛙を殺しまくったのだから。恨まれて当然なのかもしれない。
梅雨になるたびに、意味なく奪われる命のことを考える。供養し、謝り続けようと、心に決めている。
必要もないのにどんどんちぎって持ち去る老婦人を見た。
隣で私が見てても平気なようで、失望というか、ああいう下品な行動だけはすまいと思った。
ああいう女は恥ずかしいと考えていたけれど、家のじいさん(認知症あり)が
飲食店で楊枝をやたらもち去ろうとするときには、そういう失望はそういえばしてないと思った。
身内のじいさんには家にたくさんあるよって止めさせることが出来るから
失望までは感じないのか。
じいさんが認知症だっていうことが分かってるから「仕方ないな」と思えるのか。
老婦人は同性だから、点数が辛くなるのかもしれない。
(と思うと己の中の男女差別みたいなものに暗澹たる気持ちになる)
じいさんのときとは違って注意できない自分への負い目も蔑みの気持ちに混ざってるのかな。
姉に愚痴ったら、そういうものを盗んでかなきゃいけない程の
気の毒な人だと思っておきなよと言われたがもやもや。
南三陸町歌津にて行っている青空屋台では、食料品のご支援を大変多くの方に戴いております。
しかし野外の仮設キャンプの為、支援品を収納できる場所が無く、
ビニールシートで作ったテントの下に、食料品のダンボールが直で置かれている状態です。
特に食料庫にネズミが入ることでサルモネラ菌の感染が予想されます。
南三陸の海沿いではガスや水道の復旧の見通しが立っておらず、炊き出しは被災者の方々の生命線になっております。
そこで虫獣から食料品を守る為の物資をご支援いただきく存じます。
大型の冷蔵庫が使えれば理想的なのですが、アルミラックなどで食料品を地面から離すだけでも虫獣害を防ぐことができ、
■お米などが沢山入るような衣装ケース、
をご支援いただきたく存じます。
ご家庭に余っている様なもので構いません。
事前にご連絡戴いてから、ヤマト運輸の発払いにて、発送お願いいたします。
住所:〒988-0423 宮城県本吉郡南三陸町歌津枡沢68-1
■ご連絡先:nevergiveup.utatu@gmail.com
妻と結婚して3年以上過ぎた。
私たちは中学の同級生である。高校時代から付き合い、途中別れることもなく結婚した。そういう経緯であるから、私たちはお互いをよく知っているものだと思っていた。
結婚前に義母には「うちの娘は全く掃除ができません。それでもいいですか?」と言われていた。そうはいっても、いわゆる「しつけ」のちゃんとした家庭であったから「全く掃除ができません」は謙遜だと思っていた。たしかに結婚前に妻の実家の部屋に行ったときは荷物が雑然と置かれていた。しかし、だからといって「全く掃除ができない」という事はないだろうと思っていた。彼女は高校時代から自分のお弁当は自分で作っていたし、字も綺麗であったし、ノートも整理されていたから、「全く掃除ができない」は冗談だと思っていた。
本当に掃除ができない。正確に言うなら、「物が捨てられない」。
私はその事実に気がつくまで、「物が捨てられない」人は2パターンに分けられると思っていた。「ケチ」と「優柔不断」である。ところが妻はどちらにもあてはまらない第3のパターンだった。
「物を捨てるという概念がそもそもない、あるいは異常に希薄化されている」のである。
具体的にいえば、ゴミをゴミ箱に捨てるということすら、彼女にとっては努力が必要な行為である。自分が鼻をかんだティッシュをそのまま床に置く。使用済みの生理用品もなぜか、床に落ちている。
もちろん全くゴミをゴミ箱に捨てないわけではないが、例えば、ゴミ箱がいっぱいになっていたとする。そこにゴミを捨てたら、ゴミ箱がいっぱいだから当然あふれるわけだが、そうしてあふれたゴミが周囲に散らばっても気にしないで、そのまま放置する。ゴミ箱のゴミ袋を交換するのは、いつも私であるが、必ずゴミ箱周辺のゴミを片付けなければならない。
このように「物が捨てられない」がために、掃除ができないのである。それ以外のことはできる。食器を洗うことはできる。食器を食器棚に戻すこともできる。それなのに、それなのに、納豆のケースとあの小さなビニールは流しにそのままだったりする。
これは学習障害のような、あるひとつのことが困難であるような障害なのだろうか?と思ったものである。何度注意しても、ゴミは床にそのまま放置しているし、使用したツナ缶を洗ったまま、流しに放置する。
同居人としては、不思議で仕方ない。なぜ「物が捨てられない」のだろうか。なぜ、ゴミをゴミ箱に入れるということすらままならないのだろうか。
私は注意深く妻を観察した。
そして気がついたのは、妻の実家では、鼻をかんだりするときに、義父がゴミ箱を持ってくるか、義父がゴミを受け取ってゴミ箱に捨てているということだ。流しのゴミも義父が集めて、家の外のゴミ箱に持って行っている。
これで納得した。妻の実家では女は何も捨てないのだ。捨てるべきものは男が回収し、男が責任をもって捨てるものなのだ。そのように育ってきたわけだから、私の家では、私がその役目をやるのが妻にとっての普通なのである。常識としてゴミをゴミ箱に捨てるということを妻は知らないわけではない。ただ、それはあくまで社会的な常識であって、家の中での習慣ではないのだ。
おそらく妻はこのことに気がついていないし、私もそれを言うことは、妻の育ちを否定することになるので言わない。少しずつ軌道修正を行うのみである。
私も、蛍光灯やテレビをつけっぱなしにするという癖がある。これは実父も同じである。この癖があるのは私の実家の中では、父と私の二人だけである。母はもちろんのこと、二人いる兄弟にもこの癖はない。
以前、そのことについて母から「あなたたち二人は若い頃から一人暮らしをしていた。きっと寂しいから自然といろんなものをつけっぱなしにする癖がついたんだと思う」と言われたことがある。納得的な説明だった。
今では、自分のつけっぱなしの癖も相当改善されたので、妻の「物が捨てられない」も、時間をかければ改善できると思う。
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どうも。
http://anond.hatelabo.jp/20110331142556
の続きです。
私の友人が福島原発の作業から帰ってきましたので、報告します。
なお、皆様のおかげもあり現場で免震重要棟での宿泊は見直しになり、
一部の作業員を残して通いに変わったそうです。
経過
作業員は、B土木建設会社から下請け会社(つきあいがある会社)に声がかかり、
その会社から6人が行きました。いまは、交代して別の6人が働いています。
はじめに、ホテルに荷物をおいて福島第1原発(福島県大熊町)の事故対応
で作業拠点となっているサッカートレーニングセンター「Jヴィレッジ」に向かい、
いる作業員は、東電、東芝のエンジニア、(日立は見なかったようです)電気作業員、土木作業員です。
自衛隊の隊員と消防の隊員には会わなかったと言っていました。基本的に常駐していません。
作業員は、白い紙製の防護服、そのしたにつなぎ(ビニール製)その下に下着(登山用なのか白いのでした)をきています。
作業命令は、東電のミーティングがありその後に作業員と打合せでした。
(自分は下請けでいったから本部の人と話すことはないからだと思うと話していました)
そのため、道路の復旧や港に船から物資を降ろせるように、港が波打っているので
とにかく重機は被爆していて他に回せないので、壊れかけの重機しかありません。
バックホーの爪がないバケット、暗渠を掘るような細いバケットで作業しています。
車とか重機が散在しており、撤去したいですが個人の財産なので手をかけるなと言
われているようです。明らかに壊れている車もどかせませんし、バックホーもありま
すが、財産の関係で使えないです。でも被爆しているので他に使えないにのです。
作業していては、放射能を毎日計測していて2号原発は放射線量が高く近くで作業が出来ないそうです。
原発内作業は、汚染されている水が炉心のすぐしたまで溜まっていて、
中身は、コンパネと土のうで、吹き飛んで無くなった扉をふさいだりしただけです。
でも建物内の作業は、線量が多いので1時間と決められていたようです。
理由は、施設が壊れすぎていて再起動になるような状況じゃないと話していました。
原発の爆発で、迎えにある原発の本部事務所は、ガラスが全部割れていて使えなく
1日目
10時に、カロリーメイト(別の日クラッカー)、野菜ジュース1本、水500㎜1本
19時に、カップ麺とご飯、(別な日はご飯とさば缶)
でも、毛布は人数分無く、さらに洗うとかしていないので、
前の人が使ったのが置いてあります。
また、狭いので寝返りもできないくらい密着して寝ていたそうです。
でも29日からは、免震重要棟に宿泊しないよう東電から話があり、
(基本的に宿泊は、県外の遠いところから作業にきた人だけでした)
何より、食事とか悪いので何とかして欲しい、
また、もっとマスコミはこの復旧作業をしている実態を報道して欲しいと話をしていました。
準備するモノ:水風船たくさん、風船を膨らませるための注射器型ポンプ、コンドームたくさん、大型ジップロック、防腐剤、ブルーシート、40Lのゴミ袋
作ったモノ:構造材でベッドの枠。
0.買い物:水風船&ポンプ(楽天)、コンドーム(NLS)、ウォーターベッド用防腐剤(楽天)、ブルーシートその他(近所のホームセンター)
1.ウォータベッド用の防腐剤を水に溶いて、その水を水風船にポンプで入れて膨らませる。直径7cmくらいのを400個以上は作った。
2.その後、水風船を防水を兼ねてコンドームに入れ、コンドームの口を縛り、大型ジップロックに5個程度をひとまとめに入れる。ここまでが一番たいへんほぼ1日かかった。一人でやってると気が滅入ってきたので、途中で、近所にすんでるいとこの大学生とその友人二人に声をかけて、半日バイトしてもらった。これなんですかと盛り上がる。
3.ホームセンターで買ってきた構造材でベッドの枠を作る。縦2m×横1.2m×高さ30cm程度。材のカットはホームセンターでやってもらった。持って帰ってから、ドリルで穴を開けて、長ネジで留めて、枠内側の下側に、補強の角材を接着剤で貼り付けた。
4.ベッドの枠に、ブルーシートをかぶせ、形を整える。
5.40Lのゴミ袋の中に、ジップロックを6個ずついれた。そして、ブルーシートの中にどんどん並べていく。
6.ブルーシートを折り返して、フタする。
7.適当な毛布を上に敷いて、できあがり。
感想:あー、たしかにウォーターベッドだわ。ラブホテルのウォーターベッドに比べるとボヨンボヨンしない。反発力が強くてセックス向きだと思う。沈みの程度もどんだけ風船を入れたジップロックを重ねるかでかなり調整できる。たぶん水をジェルに替えてもできるかもしれない。欠点は、ブルーシートがガサガサいうことと水漏れの心配くらい。激しく動くと、微妙にジップロックが動く。ただし、袋物を作り、ダウンジャケットの要領で全体を連結したり、位置がずれにくいように適当にウレタンスポンジの棒をゴミ袋の間にセットすれば動かない気がする。注意する点として水風船が柔らかすぎると、ボヨンボヨンになりすぎるので、気持ち堅めになるようにした方が良いと思う。
総費用は材料代1万5千円程度+バイト代6000円でした。なかなか使える。水漏れが怖い人は、ブルーシートの代わりに、トラック用の防水幌か園芸のビニールハウス栽培用のビニールシート(厚手)を使ったり、一番下に、吸水シートをひいたり、ネコトイレ用のシリカゲルをひいとくと良いと思う。
1ヶ月ほど使って分かったこと:やっぱり微妙に水漏れする水風船がある。10個に1個程度は、漏れて小さくなっている。ただし、コンドームが破れたものはないため、水もれ自体はしていない。最初からコンドームでいけばよいのだが、そうすると形が円筒形になるのが気にいらない。寝心地はいい。ただ、寝入りばなはやっぱり寒いね。一番上に電気毛布を敷いて寝るようになりました。
彼女と、このベッドの上でセックスしてみました。タイミングを合わせるためにはリズム感がいりますね。でもリズムが合えば、すごく楽。特に騎乗位がいい。正常位も反発が上手い具合に利用できるといつもの3分の1くらいの力でOK。彼女が足を伸ばした伸展位も反発力とリズムがうまく使えると小刻みに動かしているわりにはストロークが長くなり、それに伴い刺激が強くなり良い。
この1ヶ月で改造したところ
・枠の底に、1.2cm厚の防水ベニア板(表面がオレンジ色のコンクリート型枠用、ホームセンターで購入、カット)をつけた。
・枠の各部に、防水シーリング
・底部に足をつけた。足は洗濯機用の防振ゴム、接着剤で固定、12個。ある程度、点で支えないと、なんか枠の安定が悪い。ガタガタ防止。
・ブルーシートがカサカサうるさいので、ビニールハウス用のビニールシート(農協の資材売り場で購入)に換えた。
・枠の底の内側に、ぼろ絨毯を枠ちょうどの形に切って敷き詰め、さらに厚手の毛布2枚を一面に敷いた。なんかの拍子に足や腰が底付きすることがあり、そのとき、板や床だと痛い。また底に柔らかさがあるとジップロックが動かない。
・セックスしている時に、ほんのちょっとだけでも腰の位置が決まる場所があると楽なので、柔らかめのウレタンスポンジのカタマリを横方向に一本だけ置いた。べつにウレタンスポンジの必要はなく、薄手の長枕とかでも良いかもしれない。位置は現在真ん中よりちょい上だが、微調整中。
業務の前に書店に寄ることが、半ば習慣化していた。
人の声の重なりのような、妙なざわつきを感じる。
地面が揺れていることに気づいたのは、その後だった。
一昨日の余震だろうか?それならばすぐに収まるだろう。
生まれて初めて体験する激震が、我が身を、そして店全体を揺らしたのは、そんな甘い考えが脳裏をよぎった瞬間のことだった。
本を買うより、身の安全の確保が第一だ。
店を出る瞬間に、視界の片隅だけに見えていたものだけど、その光景は良く覚えている。
激しく揺れ動く地面と同様に、あまりにも落ち着きのない思考が私を動かしていた。
だけど私は運が良かった。ガラスが割れる軽やかな音に気づけたから。
目の前で、ガラス造りの街灯が落ちて地面に砕け散った。
あと数秒、私の走りが早かったら、危なかったかもしれない。
まずは身の安全の確保だ。最優先事項にやっと気づいた私は、元々いた書店の入り口近くにある金属の柱にしがみつく。
建物の近くにいては倒壊に巻き込まれるのではないか、という考えもあったが、倒れそうには見えない外見のビルであったし、何よりも、屋根があった。
何かが落ちてきても、屋根があれば最悪の事態を免れることが出来るだろう。
一息ついて油断した、その瞬間を見逃さずに追撃するかのように、それはやってきた。
もっとも、どんな覚悟も、あれの前には無意味だったと思う。
視界に入るもの全てが揺れ動いていた。地面が左右に揺れる、というのを視認したのは初めてだったと思う。
地鳴りと悲鳴が重なる。震度表には「立っていられないほどの揺れ」という表現があるが、まさにそれであった。
銀色の柱にしがみつき、身体を支えること以外、何も出来なかった。
勇気ある人は、危険な位置にいた女の子たちを比較的安全な場所へと誘導していた。
その後、ガラスの街灯がまたひとつ落ちた。ガラスの破片が散らばったけれど、気にしている余裕はない。
私は死ぬのか、この世は終わるのか。本当にそう思った。
長い、長い、私の体感では3分ほど、実際はもっと短いだろう(これを書いている時点では正確なデータがないのです)、
だけど長い地震が終わって、私の思考はまた落ち着きのないものへ切り替わっていた。
そうだ、職場に行かなければならない。
揺れが収まり、身動きが取れることを確認すると、私は職場のビルへと向かった。
エレベーターは動かない。12階立建てのビルの3階に職場はある。
階段の壁は一部が崩れ、破片がそこらに落ちていた。非常灯がなかったので、昼と言えど薄暗かった。
それは階段だけではく、各階でも同様のようであった。日の光が差し込むだけ、階段よりは明るかった。
ドアを押しあけ、オフィスへ入るとほぼ同時に、余震が襲いかかった。あの本震の直後の余震である。実際にどれほどの震度の余震だったのか、これも現時点ではわからないけれど、本震と同じくらい強いものに感じた。
「危ないから入ってきちゃ駄目!」と悲鳴に近い声が私に掛けられたけれど、入ってきてしまったものは仕方ない。
オフィスの中にいた他の方々とともに、私は机の下に身を隠した。
自ら飛び込んできた私はともかく、朝から働いていたオフィス内の人々は、突然の、しかも未曾有の大きさの地震を受け、憔悴しているようだった。
それから、階段を降ってビルを出て、一度は近くの小学校へ避難した。しかし、地域の方々の避難が最優先であるため、解散の命令が出るまで、私たちは歩道で待機していた。
その間も余震はまるで容赦しない。地面が揺れる、街灯や電線が揺れる。大きな看板が地震で壊れていて、たくさんの人が携帯電話で写真を撮っていた。
本震の最大震度が7と聞き、やっぱりね、とか、宮城県沖地震かな、などという話題が上がった。少量ながら雪が降り始めて、とても寒かった。
地震保険の話があった。我が家には適用されるのだろうか。いや、それよりも我が家は無事か。
携帯電話を操作して、自宅に電話をかけるも、繋がらない。当たり前のことだった。
それからしばらくして、今日のところは解散、ということが上司から伝えられた。私は家まで歩いて帰ろうとしていたけれど、同じ方向に住まいがある同僚がいたので、家の近くまで送っていただくことになった。
車道は当然のように渋滞していた。加えて、一部を除いて、信号も動いていない。
仙台市中心部から郊外へ移動しようというのだから、渋滞に巻き込まれるのは致し方ないことだ。30分で100メートル移動出来たかどうか、ということもあった。
正直に言えば、自宅まで徒歩で戻った方が、早く家についたかもしれない。しかし、車で送って頂いて本当に良かったと思う。
そう思う理由はいくつかある。ひとつは、複数の人とともに移動することによって、不安や恐怖と言ったものを少しは紛らわせたということ。また、車にはラジオが搭載されているから、最新情報を確認することが出来たのも大きい。外気を遮断し、暖をとりつつ移動出来たというのもある。被災直後から、仙台市内には断続的に雪が降り、吹雪くことさえあったから。
最終的なマグニチュードが8.8であるという報道を聞き、私たちは笑うしかなかった。この地震で亡くなった方が出るかもしれない、という話題にもなった。これを書いている今現在、確認されている死者は1000人以上であると聞いている。ここまで多くの方が亡くなってしまうとは、あの時、思いもしなかった。
移動中、私は家族が心配でならなかった。特に、自宅にいるであろう、母。我が家は築25年の木造住宅である。自宅が倒壊してしまったのではなかろうか、それに母が巻き込まれてしまったのではないか、心配で心配で溜まらなかった。
同乗している同僚は、2歳のお嬢さんを心配していた。夫の実家に預けているのだが、連絡が取れないのだという。
私も母との連絡は取れない。「頼りがないのは良い証拠」であるという、この場にはまるでふさわしくない故事を信じるしかなかった。
被災直後であるから、携帯電話は全く役に立たない。それはとうに承知していても、家族の安否を確かめたいというのは当然のことだ。電話はとても繋がりにくかったが、幸い兄との連絡はついた。それから、機械に疎い家族が見るかどうか分からないが、災害伝言板に書き込みをしておいた。
車に乗っていても、余震は我が身に伝わる。窓から見える外では、多くの人が歩いていた。結婚式の最中だったのか、よそ行きの格好のまま避難する人、スーパーのビニール袋を被る人、クリーム色のカーテンを纏う人、様々いた。
1、2時間も経つと、日が傾き、徐々に日の光が失われていった。明かりがあるのは車ばかりで、どの店、どのビル、どの建物も真っ暗なままだった。唯一、警察署だけは明るかったけれど、自家発電装置はいつまで持つのだろうか。
これだけの巨大な地震であるにも関わらず、高層ビルの倒壊がなかった、このことはすごいことだと思う。
しかし、それは外見の話だ。どこも大なり小なりの被害を受けていて、壁が崩れたり、窓ガラスが割れたりするのは当たり前、水道管が壊れて、水が溢れだしている家もあった。
3時間半ほどの時間を掛けて、自宅の近くまで送って頂いた。ここからは、歩いて帰ることになる。
外はやはり寒かった。実際の気温だけではない。街のどこにも光がない。駅の近くにある大きな交差点、そこの信号は機能していたけれど、他の信号は依然光を失ったまま。これまで車で通り過ぎてきた光景と同じく、街のどこにも灯りはなかった。
この夜の空は、山中で見るもののようだった。星座が確認出来るくらい、綺麗な星空。あまたの星がいつもと同じように、黒のキャンパスの上で煌めき、瞬く。暗い街並みといつにも増して美しい夜空を、私は生涯、忘れないと思う。
さて、この地震では、かなり多くの方が避難所での生活を余儀なくされている。
我が家はかなりましな状況であるということを、ここで記しておく(こうやって被災最中に手記らしきものを書いている時点でお察しの方も多いだろう)。
何せ、不自由なことは多いものの、自宅で生活が出来ているのだ。現在、これを書いている3日目の朝も、白いご飯を食べ、暖かな野菜のスープを飲み、ゆで卵まで頂くことが出来ているのだから。
4時間かけて自宅まで戻ってきたが、電気はついているはずもない。もしかしたらみんな、避難所にいるのかもしれない。あるいは……。
最悪の事態を思い浮かべながら、玄関を開ける。ただいまと誰もいないかもしれない家に声をかける。返事はすぐに戻ってきた。
家族は全員、茶の間にいた。みんな、無事だった。そのことに安堵の息を漏らしつつ、私は茶の間に入った。
意外なことに、茶の間は暖かだった。捨てるつもりでいた石油ストーブを物置から持ってきて動かしていたのだ。停電していても暖が取れるのはありがたかった。さらに、ストーブの上にやかんを置けば、時間はかがるがお湯が湧く。パンを置けばカリカリに焼ける。外は氷点下にまで冷え込む中、石油ストーブで外から身体を暖め、お茶で内からも暖める。とても幸せなことだった。これを呼んでいらっしゃる皆様には、是非一家に一台、石油ストーブの購入をお勧めする。
家の中には、父、母、兄、それに近くに住む親戚の小母さんがいた。小母さんは、この地震で誰とも連絡が取れず、また誰も帰ってこないという。家の中は地震で家具が散乱しており、中にはとても入れない。一人でいるのも不安である。そのため我が家に来たのだという。
自宅へ帰って来た頃、時刻はもうすぐで8時を迎えようとしているところだった。こたつの上には大きな蝋燭が立てられていて、その脇にラジオが置かれていた。懐中電灯もあるにはあるが、あまり明るくないので、部屋全体は照らせない。そのため、トイレに行く時等、移動する際に使われていた。
そういえば、自室に小さなライトがあるのを私は思いだした。いつだかに、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったものだ。おもちゃに近いが、電球ではなくLEDなので、大きさの割には強い光を出す。
本棚が倒れたため、本で埋め尽くされ、足の踏み場がない部屋へ行く(自室の荒れ方がまた素晴らしかったので、出来ればお見せしたいところであるが、この時既に携帯電話の電池が切れていた。残念である)。机の引き出しの中にライトはあった。スイッチを入れると、白い光が散乱した部屋を照らした。
また、その時の私は、黒いタイツにストッキングと随分冷える格好をしていた。荒れ果てた部屋からジーンズを引っ張りだして着替えた。ついでに、タオルケットと毛布を茶の間へ持ち出した。
茶の間に戻り、ライトで辺りを照らしてみせると、蝋燭や懐中電灯よりも広い範囲をより明るく照らせたので、当座はこのライトで部屋を照らすことになった。裸火がなくなり、火事の可能性が低くなったのでひとまず安心した。
余震は断続的に続いていた。これを書いている今もそうだが、大小の関係なしに、何度も何度も地震に遭っていると、いつも地面が揺れているような感覚に襲われる。恐怖が完全に拭われることはなく、むしろ大きい余震があるたびに増大していった。
母は、少し昼寝をしようとしていた時に地震に見舞われたそうだ。これほど大きな地震であれば、逃げることをまず第一に考えそうなものだが、母は42型の液晶テレビが倒れないか心配だったらしい。テレビを支えつつ、近くの柱にしがみついて、本震を耐えきったそうだ。
兄は仕事をしていた。オフィスの中にあったパソコンは全て倒れて使えなくなったそうで、しばらくは仕事にならないだろう、それどころか解雇されるのではないか、と心配していた。
父もまた、仕事をしていた。スーパーでカゴ集めのパートをしている父は、地震の瞬間に店内にいた。これは危ない、と思い、しかし出口からは遠い場所にいた父は、普段は閉じられたままのガラス張りのドアをこじ開けて外に出たという。後から聞いた話によると、父の勤務地のスーパーは、天井が落ちてしまったそうだ。
ラジオから聞こえてくる男性の声が、この地震による被害の状況を伝える。泉区で家がひとつ倒壊した、壁に挟まれて死んだ人がいる、火災が発生した、津波で何もかも飲み込まれた……。いつもの夜のラジオなら、軽やかな音楽や楽しげに話すDJの声が漏れてくるのに、今宵は厳しい現実と、それを乗り越える手段が、無機質に流れ出ているだけだった。
私が自宅に帰宅して、1時間ほどして、親戚の小母さんの娘さんが帰ってきた。
この時、電話はまともに使えなかったが、メールやインターネットならば使用可能な状態にあった。
機械音痴らしい小母さんは、メールを打てない。私が代わって、娘さんに「小母さんは我が家にいる」との内容を打ち、送信したところ、娘さんはすぐに我が家に駆けつけた。それまでは近くの避難所を当たっていたらしい。
娘さんの勤め先は、長町にある。我が家は仙台市泉区に位置しており、長町とはかなりの距離がある。娘さんは同僚の方から自転車を借り、ここまで帰ってきたのだった。それまでに1時間半の時間を要したそうだ。
午後の10時頃に、小母さんの旦那さん、つまり小父さんが帰ってきた。小父さんは地震発生直後に車に乗ったのだけど、ひどい渋滞に巻き込まれて、この時間に帰ってきたのだという。実に7時間もの時間をかけての帰宅だった。
先にも述べたが、被災はしたものの、我が家はかなりましな方だった。屋根瓦が吹っ飛んだり、壁に多少のひびがはいったりはしたけれど、とりあえず住める状態にはあったのだから。停電していて茶の間以外は真っ暗だし、ガスも当然止まってはいるけれど、この時点で水道は使用できた。トイレも流せる。これだけで、精神に随分と余裕ができた。とは言っても、時間が経つにつれて水圧は低下していき、2日目の昼には断水になってしまうのだけど。
しかし、断水前に風呂に水を貯めておけたのは良かったと思う。おかげで、今のところ、トイレの水には困っていない。流石に大しか流せないので、そこらへんの節約は必要だ。
とにかく、電気とガスが使えないのが痛い。そうは言っても、ライフラインが回復するまでは今ある環境で耐えるしかない。母に菓子パンを食べるように勧められたが、遠慮して、お茶だけ飲んでいた。……皮下脂肪が厚いので、少しの間飲まず食わずでも耐えられる。
夜の11時を迎えたところで、両親に就寝するように言われた。どうせ、余震が続いて眠れないので、次の日の夜明け、6時50分頃まで起きているつもりだったが、せめて横になるように、と言われたので、茶の間の畳の上に体を横たえた。今夜は座布団が枕の代わりだ。寝転がり、目をつぶるだけで、少しは休むことができる。
形だけの就寝をし始めて1時間。日付が変わった後、ふと母の携帯電話を見てみると、2、3時間前まであった電波がなくなっていた。メールやネットならば使えたのに、それすら出来ない。ラジオ以外の情報獲得手段がない。ニコニコ動画やユーストリームでNHKの放送をしている、とラジオは伝えていたけれど、そんなもの役に立たない、と思った(もちろん、まだ電池のある携帯電話等を持っている人には重要なのだと思うけど)。ちなみに、家に帰ってきた時点で、私の電話の電池は切れてしまった。
日の出まであと6時間。ラジオは伝える。どうか日の出まで、希望を持ってと。ラジオは伝える。現実を。荒浜に、200から300の遺体が流れ着いたとの報を聞き、涙が頬を伝った。
3時か4時になった頃、NHKのラジオが音楽を流した。2曲流れて、1曲は確か「カノン」だったと思う。そのおかげがどうかは分からないが、私は少し、眠ることが出来た。余震がある度に起こされはしたものの……。
長い、長い夜を過ごしているうち、私はひとつ思いついた。
被災している最中から、忘れないうちに、体験談を記しておこうと。
携帯電話は使えない。iPadは不向きだ。だから今、pomeraを使って書いている。我が家にて、単4電池を使う懐中電灯等もなかったから、こうやって書いている。
これは被災してから2日目に書き始めた。現在荒削りながら、被災当日のことを書き終えて、5日目である。出来れば電気が繋がった3日目のことまで書いて、増田に上げられれば、と思う。私なんか、とてもとてもましな方だったけれど、千年に一度とも言われる天災の体験談は書いておかなければならないと思った。……エゴイストで申し訳ない。
また、普段は趣味で小説のようなものを書いているので、そのような表現があり、読みにくい箇所も多々あったかと思う。このことについてもここでお詫びする。
私が住んでいる仙台市泉区のとあるところでは、3日目で電気が繋がり、4日目で携帯電話の通話及びメールが使用可能に、そして現在、5日目の朝にネットが復旧した。
ただの一サラリーマンだけど、なんとかしたい。なんとかは、したい。
鍛えてやることはできても、守ってやる事や教えてやる事はできないんだよね。
そして、大抵の人は、守って欲しいか、教えて欲しいわけだから、俺の出番はないのよ。
ちっちゃいけど、スーパーでビニール袋もらわなかったり、コンビニで箸もらわなかったり、なるべく、資源を喰わないように、生きていくから、許しておくれ。
あえていうなら、勉強しておくれ。英国数理社 じゃなくても、美術でも音楽でも、職人技でもいい。勉強しておくれ。
もう、若くないから無理がきかない。出来る範囲で、日本の産業が伸びるように、サラリーマンひとり分はちゃんと、戦うから。
もし、負けて、経済が減衰しても ゆるしておくれ。
「煙か土か食い物」とは何か?
以下、作中で主人公の祖母が言うセリフ。
「生きてても虚しいわ。どんな偉いもんになってもどんなたくさんお金儲けても、人間死んだら煙か土か食い物や。
火に焼かれて煙になるか、地に埋められて土んなるか、下手したらケモノに食べられてしまうんやで」
ケモノに食べられることは確率的に少ないにせよ、日本人の場合、まあ大抵は煙になりますな、確かに。
身近に人の死を体験し火葬まで立ち会ったのは、やはり祖父と祖母の葬儀の時だが、その時の率直な感想を言えば、
「無茶するなあ」
という感じ。みんなさめざめ泣いていたけど、僕はそれよりもついさっきまで自分がよく知る人間だった物体が思いっきり燃やされて灰色の骨片と化すというダイナミックな事実の方に圧倒された。けっこう頭蓋骨とか骨が厚い部分は燃えきれなくて残ってたりするんだ、これが。そんな「おばあちゃんの様子」を見て、
「なにも燃やさなくてもなあ」
とアホみたいなことを横にいた弟につぶやいたりした。衛生的な面からも、残された人が思いを断ち切るという面からも、火葬はなかなかいい手段とは思うが、死んだからといって家族を燃やすとはなんと野蛮な…という気持ちは正直いまも消えない。いや、土葬の方が土のなかの経過を考えるとはるかにグロテスクなんですけどね。
ごろりと転がった骨のカケラよりも、死は妙な瞬間にリアルになるものだ。
祖母の死から何年もたって、自宅の引き出しを整理していたら、一緒に温泉に行ったとき祖母が買ってくれた、変な
小判の形をしたビニールの財布が出てきた。それを見つけた瞬間、ずっと出なかった涙がどんどん出てきて自分でも
なんでいま?とあきれかえった。すぐに涙とまったけど。
ゴメン、俺ほんっと、頭悪いわ。まったく理解できない。
レイプされる女にはレイプされるなりの理由があって、傘にはないってどういうことだよ。
ここ日本では「無記名」で「放置」された「ビニール」の傘は持っていかれるに十分な条件(理由)がそろってるんだよ。
お前、何の話してんの?
レイプと傘泥棒の話じゃないの?