はてなキーワード: 緘黙とは
個別の喧嘩の発端は…こちらに責があることもあれば向こうに責があることもあるし、最初は自分が我慢して済むならそれでもいいやと思ってたんだけど、やっぱり理不尽な怒りの暴発を難度も経験すると、徐々にこっちの自尊心が削れてくるし、不機嫌の徴候が見えるだけで心理的に身構えてしまうんだよね。無意識のうちに、相手の地雷(どこに埋まってるかわからないんだけど)に触れないように立ち回るようになる。そうすると家庭が安心できる場でなくなってしまう。
もともと彼女自身にも、そういう感情的制御ができないことの自覚はあるし、直したいとも思っているんだけど、キレてる最中に「そういう言い方や態度はよくないよ」と意見しても耳に入らない。「どうせ全部私が悪いんでしょ」「はいはい、また私のせいなんだよね」となって会話を打ち切り、刺々しい振る舞い(ドタドタ歩いたりドアを閉めたりモノを乱暴に扱ったり)して、後には不機嫌な空気だけが残る。これがなんともやるせない。一定時間が経って落ち着くと、何もなかったように振る舞うか、一応は「ごめんなさい」と言ったりもするんだけど、そういう殺伐とした感情って人の心を痛めつけるんで、お互い何もなかったように振る舞っていても、やっぱりこっちの心は無傷じゃなくて、刺されたり殴られたりした疼きが残る。たぶん相手の心も無傷じゃない。どっちにもいいことがない。
で、子供が生まれて物心がついてきたのを機に、お互いに真正面からこの問題に向き合うことにした。子供が親の逆上や不機嫌に萎縮するようになったら誰にとっても不幸だ、というのはお互いの考えが一致していたので。
実はこの「子供との関係」というのが重要で、結論から言うと、彼女が毒親(母親)に非常に悪い育てられ方をしてきたことが全ての起点になっていた。母親、自分から見ての義母は、幼い頃の彼女を蹴ったり殴ったりした。氷点下に近い納戸に数時間閉じ込めるという身体的虐待もあったし、ネグレクトも罵倒もあった。理由は、折り合いの悪い義祖母に顔立ちが似ていたから、ということもあったようだし、良家同士の見合い婚で専業主婦になった自分にとって「育児を成功させ、娘は良家に嫁がせる」ということが唯一かつ至上の役割になっていたこともあったようだ。それほど受験戦争が激しくない地方にあって小さい頃から娘に複数の塾や家庭教師をつけ、成績が思うように伸びなければ「あんたはなんでできないの」「私が恥をかく」と詰め、娘の夏休みの自由課題が賞をもらった翌年からは、傾向と対策を踏まえて母親が課題を制作し、受賞すればそれを周囲に誇るようになった。義母にとって娘は自己の付属物であり、自分の能力と努力を表示する成果物だった。これは娘側の一方的証言ではなく、義母本人がそのことを問い詰められて(娘以上に感情的に)キレたり、逆に緘黙する状況を自分も見ているので、嘘や極端な誇張はないと思う。
そういう母親との間で育った娘である奥さんは、根本のところで自己肯定感がとてつもなく低く、「自分には価値がない」という強迫観念に苛まれていた。彼女は親元から離れたあと、亡父の尽力もあって学歴にはやや不相応な金融総合職につくことができ、廻りの高学歴の人達に揉まれながらも持ち前の根性で「コネ入社の腰掛けさん」に留まらない営業成果を出し、職場でも多くの同僚に認められるようになった。でも、これは見方を変えると「自分が無価値な人間ではない」ということを自らアウトプットや業績評価によって証明し続けなければいけなかったからそうしていたわけで、その「頑張り」は結局は不安と強迫観念によってドライブされてたんだよね。背景にそういう動機があって「頑張り続けなければいけない」人がどうなるかというと、最後はメンタルヘルスを崩し、拒食症になり、自己都合で退職した。つらい。
その後いろいろあって彼女は自分と結婚したんだけど、お互いに落ち着いている時に(感情的にチャージされてない状況で)この課題について話し合い、時にはネットの情報や心理学の書籍なども参照しながら考えるなかで、激昂の背後にあるのは自己肯定感のなさだということが見えてきた。彼女は成長の過程で「人間は能力や実績によってだけ認められるわけではなく、ただ人間であるだけで価値がある」という確信を得てこなかった。母親から与えられたのは条件付きの愛で、条件を満たさなければ存在自体を否定された。だから「認められるために頑張る」という所作が身についた。
頑張りの中には「社会的に認められる人格を演じる」ということも入っているから、ソーシャルマナーはちゃんと実践できる。人当たりはよく、好感度も高い。しかしそれはあくまで「舞台」に立って「頑張り」を発揮して評価を獲得しなければならない状況での話で、身内にはこのルールが適用されない。だから親族や家族の中に(彼女の基準で見て)頑張っていない人(例:私はこんなに頑張ってるのに、あなたは)、彼女の頑張りを認めてくれない人、彼女の頑張りの成果をスポイルする人(例:頑張って片付けたのにまた散らかして)に対しては、時に制御の効かない怒りを感じ、苛烈な言葉や行動を直接ぶつけてしまう。自己肯定感が低いから、他者を無条件に肯定できない。自分に課した高いハードルと同じ評価基準を相手にも課し、それを満たさない相手を詰る。そういうメカニズムがあるみたいだった。
ついでに言うと、彼女の母親にとっては娘自身が「彼女の頑張りをスポイルする人」(一生懸命教育してるのに成果を出さずに「私に恥をかかせる」から)だったので、娘に対してそうした精神的身体的DVを繰り返していたわけだ。自己肯定感の欠如と感情のコントロール欠如という点では似たもの同士だった母親と彼女との喧嘩は、ちょっとした言葉尻の棘を捉えて相手を強く咎める(「それどういう意味?」とか「あなたはいっつもそう!」とか)の繰り返しで、なんでもないやりとりがあっという間に激しい罵倒の応酬にエスカレートしたりする。まさしく言葉の刃で刺し合うがごとくで、たまたまその場に居合わせた自分もぐったりと疲弊し、時にはあまりの情けなさに泣くこともあった。
ともあれ、我々2人は「こんなことが当たり前ではいけない、子供をこういう『こじれ』に巻き込まないようにしよう」ということをスタートにして、まず彼女と母親との関係は明らかに機能不全に陥っていること、彼女の母親が過去も今も彼女の自尊感情を蝕んでいること、自尊感情の乏しさが他者への非寛容や感情制御の困難につながっていること、自分は母親の承認/不承認にかかわらず価値のある人間だし、他人もそうだということなどをひとつひとつ確認していった。彼女は最初は「母親はもしかしたら毒親だったのかも」程度の認識だったのが、あまりにも定型的な虐待のパターンのど真ん中に自分がいたことを知り、自分の感情コントロールの難しさが個人の資質というより関係の病理に起因していることを学んだ。そうすることで、母親との関係も1:1の差し向かいではなく、その関係自体を第三者として見る視点を手に入れた。自分はそのときに情報や考察の手伝いはしたけど、結局それは彼女自身の自己探究の道のりだった。
それでどうなったかといえば、状況は明らかに良くなっている。奥さんはアンガーマネジメントを少しずつ理解し、実践している。実際にキレる回数は格段に減った。キレてしまった時はそのままにせず、すぐ言葉にして反省するようになった。YOUランゲージを控え、Iランゲージを使って自分の希望や意志を率直に伝えられるようになった。母親とのやりとりもベタ足の殴り合いをするのではなく、だんだんと「所詮は他人でしかない、母親とのやりとりで感情的に消耗したくない」という感覚を持てるようになってきている。無駄に険悪になることもないが、母親だから近しくしなければいけないという「演技」からもちょっと解放された。やっぱり根本的な原因や構造が見えてきたことで、本人の物事の捉え方も変わってくるんだと思う。
…というわけで、うちの場合は子供ができた結果、徐々に状況がよくなってきたんだけど、これ「子供が生まれたから良くなった」じゃなくて「子供がいるから良くしないといけない」という問題意識を両方が持ったからだと思っている。逆に言えば、元増田の場合、子供ができなくたって「この状況を放置するのは2人の心理的安全性にとって良くない、2人の関係の健康を損ねる」という意識で話し合うことができれば、だんだんと建設的な方向に向かえるかもしれないよ。
さっきも書いたけど、うちの場合は、彼女の病理というより関係の病理だった。だから時間はかかったけど、こじれた関係を解きほぐすことが解決の糸口になった。元増田の奥さんが同じかどうかわからないけど、参考になったらうれしい。お互いがんばろう。
地球温暖化や気候問題に対する彼女の主張に反論するつもりはまったくないし、彼女の行動にも文句はない。
学校を休んで活動をすることに目くじらを立てる人もいるかもしれないが、それは個人の意思だし、別に周りがどうこう言う問題ではない。
16歳という若さながら、国際舞台に立って行動を起こしていること自体は本当にすごいことだと思う。
ただ、そんな彼女に対してどうしても違和感がある。Wikipediaページによると、
トゥーンベリは、彼女が8歳の2011年に気候変動について初めて聞いたと言っているが、なぜ気候変動への対策がほとんど行われていないのか理解できなかった。 3年後、彼女は落ち込んで無気力になり、会話と食事をやめ、最終的にアスペルガー症候群 [12] 、強迫性障害 (OCD) および選択的無言症と診断された。 [13] その診断は「以前は私を制限していた」ことを認めながら、彼女はアスペルガーを病気とは見なさず、代わりに「スーパーパワー」と呼んでいる。
とある。アスペルガー症候群は近年、発達障害が一般にもよく知られるようになってきたことから、耳にしたことがある人も多いだろう。また、強迫性障害もアスペルガー症候群ほどではないが知名度はあるように思える。しかし選択的無言症はどうか。これは場面緘黙症とも言われる疾患であり、詳しくは[wikipedia:場面緘黙症]を見てほしいが、アスペルガーほど知られた疾患ではないと思う。上記にもあるように、彼女はアスペルガーに関しては「スーパーパワー」として肯定的にとらえているが、場面緘黙症については、
So when I was 11, I became ill. I fell into depression, I stopped talking, and I stopped eating. In two months, I lost about 10 kilos of weight. Later on, I was diagnosed with Asperger syndrome, OCD and selective mutism. That basically means I only speak when I think it's necessary - now is one of those moments.
とhttps://www.ted.com/talks/greta_thunberg_the_disarming_case_to_act_right_now_on_climate]において発言している。
これがどうも腑に落ちない。これは場面緘黙なのだろうか。急に話さなくなったり、必要だと思う時にしか話さないという彼女自身の説明には疑問が残る。
もちろん、当時の彼女を診断した医師がそう判断し、彼女はこのスピーチの中でそれを話しただけかもしれないし、時間の都合上分かりやすい表現としてこのような表現になっただけなのかもしれない。
しかし、意地悪な見方をすると、これは場面緘黙症という疾患を利用しているのではないかとも思う。場面緘黙症自体があまり馴染みのない疾患であることから、多くの人はその疾患について「話すことが困難なんだな」程度の認識だろうし、そのような人々がこの話を聞いたとき、彼女に対して「そのようなハンデを持ちながらも環境のために声を上げた16歳の少女」のイメージを強く抱くであろうことは容易に想像できる。場面緘黙だけでなく、アスペルガーや強迫性障害についてもそうだ。
これが可能なのはそれが見えない症状だからだ。身体的なハンディキャップがある人とは異なり、アスペルガーや場面緘黙症は一見しただけでは当人がそういった疾患を持っていることがわかりにくい。しかし逆もまた然りだ。自称しているだけだとしてもそれを見ぬくことは難しい。
グレタさんに関してはいろいろな意見が出ており、親に利用されているだとか、誰かがバックにいるとか、陰謀論じみたものまで出ている。実際のところどうなのかはわからない。
結果的に多くの人々に気候問題を考える機会を与えたことは良いことだと思うが、場面緘黙症についての発言だけは、どうしても違和感をぬぐえない。
私は保育園の時に給食を残さず食べるよう教育されたため会食恐怖症になりました
私の通っていた保育園は厳しい教育なせいもあり、給食も残さず食べるように指導されていました
私はもともと食べるのが遅かったせいもあり時間内には食べ終わりませんでした
しかし保育士の指導は食べ終わるまで食べないといけませんでした
給食の終わりに歌を歌っていたんですが、私だけ歌は歌えずその時間食べていました
それがずっと続いたため私は幼いながらも苦痛を感じ三ヶ月で辞めました
ですが小学生に入るとそれはなくなりませんでした
小学生四年の時教師が変わってから、給食を完食させるまで休み時間には入りませんでした
小学生に入ってからはちゃんと食べるようになったのですがそれでも食べ終わる時間は皆より遅かったです
その積み重ねで私は会食恐怖症になりました
ですが重い人は食事中食べれなくなったり吐き気を催すこともあります
私も一時期食べれなくなった時期がありましたが飲み物しか飲めませんでした
飲むのも緊張してしまうくらい怖いんです
人目が気になって食べる所じゃなくなります
体罰否定派の想定している「体罰が使用されるシチュエーション」っていうのは
・子どもに100点を取ってこいと言ったのに98点しか取れなかったので、ビクビクおどおどして謝る子どもを骨折するまでボコボコに殴り次回は必ず100点を取るように命令する
みたいな感じだけど
体罰肯定派の想定している「体罰が使用されるシチュエーション」は
・スーパーで両手をめちゃくちゃに振り回しながら超音波のような奇声を発しつつ爆走して商品棚に突っ込んで積まれた商品を崩落させたのに知らん顔で立ち去ろうとする子どもを捕まえて頭を平手打ちして叱る
くらいの差があると思う
はてなーは高等遊民多そうだから信じられないかもしれないけど子どもなんておとなしくて聡い子の方が少数でほとんどがワガママでバカな獣だよ
緘黙より多動、いじめられっ子よりいじめっ子メンタル、読書はつまらないけどドッジボールは大好き、他人への思いやりより堂々と自分を優先する、そっちの方が普通
体罰は絶対に絶対に反対!話せば必ず分かってくれる!とか言ってるはてなーも地方の公立小学校とかに放り込まれたらすぐ発狂して体罰肯定派になるよ
便乗。
・袋詰めが雑なコンビニ店員。
入れ方が投げやり。袋に放り込むように入れるなって。
L使えばゆとりを持って入れられるだろ?
ムキになるなよ。
・いらっしゃいませ、ありがとうござましたの挨拶がないコンビニ店員。
場面緘黙ですか?軽く殺意を覚える。メンチを切ってしまうことも。
・レジに長蛇の列ができているのに呑気に前陳してるもうひとりのコンビニ店員。
優先順位を考えろ。
汚えよ。不衛生だろ。
え、何その渡し方。怒ってんの?
Loppi側じゃなくてカウンター内にあるプリンターが紙切れしてるって画面に書いてあるの読めねえのか。
・品出しに夢中になるあまり、通路を通る客を邪魔者扱いするコンビニ店員。
本末転倒とはこのこと。
ご心配痛み入ります。今は家を出ていますし、弟が理解あるのでなんとかなってますよ。
一度カウンセリングに行ったことはあるのですが、みぞおちのあたりが詰まって何か言おうにも不思議と言葉が出てこない
これがもしや場面緘黙というやつかーと驚いたり、人生初の緊張性下痢(だと思う)を経験しました。普段はめっちゃ便秘なのに…
毎日の生活に何か支障があるというわけではないんで、増田で八つ当たりするぐらいで充分かな。
昨日は「うちは父と仲が良かった」「父親を嫌ったりキモイと思ってはいけない」みたいなコメントを見て動悸がすごくなってしまいました。
マジレスだけど。
普通の医者が普通に学ぶときに、選択緘黙に対しては、「ほっとけば成長の過程で勝手に治る」っていうことしか習わない。
ここが一番治療として大事なのであって、原因自体はあまり問われない。だって治る病気なんだから、そんなもののあるかどうかも分からない原因を調べるのにリソースを使うより、他の疾患の研究を進めたほうがいいから。
ちなみに、最近の精神医学は、「精神病は心の病だ」っていう『精神病理学』を排除して、「精神病は脳の病気だ」っていう『生物学的精神医学』の立場がほとんど。
心理分析とかは、あいまいで哲学的で抽象的で、実行力があるのかどうか分からないから、排除しましょうとなっている。
だから、原因は何ナノかなとかは、昔の医学書なんかには書いてるかもしれないが、最近はそういう記述はあっても、そういう風にしときましょう程度。