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はてなキーワード: 社会科とは

2021-01-31

anond:20210131210723

そーだよな、

同じ自分勝手な嘘つき御気持ち論なのに、

経済学者のほうが社会科地位資産もある、

って可笑しいよなー

2021-01-28

anond:20210128150447

系統だった取り組みとしてはインクルーシブ教育があるね。

これは海外でも日本でも推進されている。

それと別に日本特有の超高齢化社会からこその要介護者・要介助者受け入れの意義もある。

児童のうち少なくない人数が将来は介護職、医療職、その他の社会福祉職に就くことになるが、小中学校社会科や保健体育の授業だけではちょうどその辺りの知識が学べない。

からこそ介護実践知識同級生を通じて学んでおけば、将来の進路選択に生かすことができる。

それ以外の進路に進む児童にとっても、要介護者の増加とともに家族介護従事する人も増えていく時代なので、若いうちから介護・介助の経験を積んでおくことは必ず役に立つ。

健常者にとっては一見理不尽理由で授業やその他の活動が中断することもあるだろうが、それも介護においては日常茶飯事だから

2021-01-22

私大理工系のいいところって本当になんもないよな?

専門教科は大学入るまで何一つやってないんだからもちろんのこと、実験もやってないしレポートいたこともないか科学技術に関する、経験に基づいたもっと普遍的知識技能でも高専よりはるかに程度が低い

さらに3科目入試から国語社会科といった文系科目は到底お話にならないレベルしか到達していないだろう

しか学費は1年通うだけで高専の5年分より高額らしい

マジで私大理工系には利点も強みも何もない

2020-12-20

anond:20201220212731

そういう構造的な問題自分も疑問に思ってた。

先進国とかって呼び方キレイだけど、基本的欧米の国々が植民地支配をして、被支配から色々奪ったり、あるいは利用して自国を儲けさせるシステムを作ったりしてきたって社会科で聞いてた。日本がどうだったかについては話がややこしくなるし詳しくないからおいておく。

環境を壊さないと生きていけない世界を作っておいて今更何言ってるのだろう、と自分も思う。

まあ先進国が気付いたんなら、これからはいわゆる途上国からもう変な搾取をしない方向に進んでくれることを願うばかりだ。

2020-12-11

私立大学理工系存在意義

私立大学理工系で4科目入試を課すのは早慶のみ。ほとんどの私立大学理工系入試で3科目しか要求されません。国語社会科日本史世界史倫理政治経済、乃至現代社会)のような文系科目がないだけではなく、理科もたった1科目を選択するだけでよいのです。ですから合格するためにはあまり学力必要ないのだといえましょう。

一方、私立大学理工系入学してくる生徒はこれまで専門科目は何も学習していないし、実習の授業も受けたことなければレポートを書いたこともない。

このように学力でも専門科目でも高専に勝るものが何一つない私大理工系に、一体何の価値があるんでしょうかね。

おまけに学費高専の5倍以上かかってしまます。驚きですね。

私立大学理工系、行かないほうがよいのでは?

2020-12-10

社会科

社会科選択倫理政経にしとけばよかった。

せめて世界史日本史にしとけばまだマシだった。地理とか選ぶんじゃなかった

2020-12-07

ぼくのこと天才肌だと思ってる人がたま〜におるけど、逆に【興味ないことしか勉強できない人間】なだけです。

オリックス監督生え抜きの人少ないなぁ〜福良さんの前は誰かな?」

パ・リーグ全チームの監督歴史に詳しくなる。

みたいな勉強方法なんです。私

結果、「変なこと知ってる」人間になるわけですが、疑問を発見するスタート凡庸だとポンコツな答えしか出ない反面、疑問やしたいことがマニアックだと…【他の人が知らないけどずっと使える知識】を見つけられたりします。

詰め込み教育すると詰め込んでる途中に疑問を覚えて脱線するタイプの子

ぼくのこと「人の話聞いてないでしょ?」って言う人が一定数いるんだけども…聞いてはいるけど、自分の中でパーツが揃わないと活用できないんですよね。

ぼくのやってることって表面的には変わっとるかもしらんけど、人から得た知識やコツを自分の形で表現するとああなるだけです…はい

僕の変わった部分というのは、「疑問や好奇心がないと勉強しない」って部分にあるかと思うんだけども…僕の口から出てくるのはすごく凡庸ビジネス用語やコツなんですよ。

そりゃそうだ。

独特過ぎる部分を扱いやすサイズにする「小さくする」ためのテクニックの方が無理して勉強したことだもん

疑問を覚えないと勉強しない、自分課題を見つけないとやりこまない…って言うのは、世の中の役に立つとか人を感動させるとは限らんのですよ。

人が興味を持つ話や商品に落とし込もうとする方にぼくは苦労することが多いからそれを語るけど…他の人は逆なだけ。テクは学べるが、独特の切り口に悩む

「色々教えたのに、あなたからは何も教わってない」

あなたの何がすごいのかよくわかんない」

みたいな声ももらうんだけども…一応、わかることやできあがるまでの過程は丁寧すぎるほど説明してんだぜ?

たださぁ…俺が知ってる理論使っても、俺と同じようになる人はすごく少ないからねぇ…

学校社会科の授業中ずっと地図帳眺めてたタイプの子供だから中学校の時にずっと地図眺めてたせいで、世界史を覚え始めると結構早かったです。

逆に英語で前のめりになれた授業は大学の授業の条文やニュースを読む授業とかなんです。

教科書があわないとやる気でない種類の子

ぼくとは逆に理論を素直に実践できる人や、「必要から勉強します」って人のほうが絶対社会成功すると思います

まぁ、そういう人が面白いとか有能とかそういうことはわかんないですけど…評価はしやすいと思います

やってほしいことをやるし、やってることを周りが理解できるから

好奇心から入る人」に向けた入り口ってすっごい大事で、それがしたい事もあって、ぼくは野球の話書く時に

監督歴史が、ビジネス経営決断みたいで面白いよ」

ラミレスの人柄は日本人に足りない部分を持ってて面白いよ」

みたいな切り口から攻めてる。

その観点イチロー自伝作って欲しい

2020-10-25

anond:20201023231024

北海道の事例しか詳しくないけど、

札幌

大友亀太郎

函館

堀川乗経、時任為基、小野基樹

旭川

高畑利宜

釧路

佐野孫右エ門

帯広

依田勉三

地域偉人」が知られるきっかけ(予想)

小学校4年生の時に社会科地域歴史を学ぶんだけど、これでそれぞれの地域の「偉人」が知られるのだと思う。

社会副読本に出てくる。みんな習うからなんとなく認識再生産される。

象徴的に扱われすぎて実像乖離している場合もあるんだけどね。

2020-10-16

anond:20201016075022

>>小学校社会科の授業「田沼意次無能でした」←いや、普通に名君です

これ自体が嘘やろ。田沼意次無能だったなんて小学校はもちろん中学でも習ったことないぞ。

そもそも有能・無能なんて評価義務教育でやるか?

そもそも君って何や?田沼老中だろうが。藩主として名君だったとかそんな話?そんなん学校でやるか?

2020-10-09

暴力に囚われていないという幻想

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-10-08

暴力に囚われていないという幻想(改稿)

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-10-07

哲学抽象化言語化学問

これを理解してない奴に哲学を教わった人間が「あんなん俺、幼稚園児のときに気づいてたわーかーっ俺が歴史に残るべきだわー」とか抜かしてるのを聞くと本当にキッツい国になったなあってね。

あのな、中身は誰でも思いつくんだよ。それを後世の人間がサッと聞いてすぐに「あんなん」と言えるぐらいのレベルでスーッって頭に入るような表現をしたのが凄いわけよ。

「赤という言葉がない世界で赤という言葉発明しなさい」みたいな感じかな?

いや、「ゼロ発見」に近いと言ったほうが分かるな。うん、こっちで行くわ。ゼロという概念のものはみんな漠然と半分はわかってるんだよ。でも、それに名前を与え、定義を固め、その概念を完成させた上で無駄なくパッケージングして人類末永く共有できるレベルにまでしたのが凄いわけよ。これが発明な訳よな。発明ってのは、世界最初にその発想にたどり着くことって思われがちだが少し違っててな、皆が使えるような形で提供した奴らの中で運が良かった奴のものなんよな。(この辺はまた別の話やから割愛するけど)とにかく、みんなが使いやすい形になつてることが発明の条件なんだ。

哲学ってのは、発見って言葉が使われがちだけど、これはちょっと乱暴な言い方というか、若干界隈の方言が入ってて、一般的用法だと発明って表現使ったほうがしっくりくるパターンが多いんよ。コギト・エルゴスムとかイデアとか、こうやってワシが適当言葉をいうだけで、中身知ってたら意味が頭に浮かぶやろ?これが哲学的な概念発明なんだな。言葉を作ったのでも、名前を当てはめたのでもなく、概念発明したんよ。

その概念について、前々から薄々そういうのがあるって気づいてても、それを皆が使いやすパッケージング出来てないならそれはまだ発明とは言えない。そして、その思いつくのと発明するのとでは間にスッゲー広くて深い谷間が広がってんのな。まさに谷間よ。降りていくのもしんどい、進むにも真っ暗、登り直すのは更にキッツい、長居すれば気が狂いそうになる。そこを乗り越えてきたのが凄いんだな。その谷間の近くで皆があれこれ頑張った末に橋までかかった状態でそれ渡って「こんだけ?」とか言ってもしゃーない。その辺をなー、上手く教えられる人の下で哲学は学んでほしいんだがなー。

まあ、大抵の中学高校だと哲学なんて社会科国語のおまけ科目だもんなー。片手までやってる人に多くを求められんのはしゃーなしではあるわ。

つらたん

2020-09-03

anond:20200903184858

大昔のイランイラク戦争時代に、地理担当社会科教師が『イ・イ戦争は言い辛い、なんでン・ク戦争と呼ばないのだ』と、いかにも良い思い付きだという顔で授業の途中にのたまわってクラス全員困惑した思い出。。。

2020-08-29

大学数学を学ぶために」高校数学があるって立ち位置なのかそもそも

理系大学に行くのは全体からしたら一部だし、大学数学を学ぶといってもあくまで道具としてって立ち位置な人は理系の中でも多い。

となるとその中で数学それ自体を学ぶのはさらに一部。

数学科で専門的に学ぶ場合理論からし高校数学よろしくないというのはまあそうなんだろうし、

史学からみた社会科とかでも同じことはありそうだけど、

そもそも高校勉強って別にそういう目的じゃないし別にいいのでは、では甘いのだろうか。

2020-08-27

anond:20200827190707

そもそも私立文系3科目受験でも数学選択して受験できるところは普通に多いし

数学世界史日本史から選択とか。まあ社会科選択肢については色々違うだろうけど。

文系数学は遅い高校でも高2まで終わる可能性が十分にある一方で社会・・・って場合もあるし。

anond:20200827184633

それだとかなりの割合の「文系」が増田にとっては文系になってないってことになってるだろうな・・・

受験数学文系でも結構普通に使うし、使わない大学に結果進学した人でも第一志望のために勉強はしたって人は多いし。

確率統計に関しては文系でも大学でやる場合が多いし。

そのあたりをテストして出る成績はともかく、論理力は付けてないと数学なし受験でも現代文とかできるか厳しいし。

上位大学になればなるほど、単純暗記では社会科とかも厳しくなっていく。

一切数学やってないけど国語的な論理力ある人を理系だと誤認識してしま可能性無くはないのでは。

2020-08-21

早生まれだった自分語り

早生まれの不利は大人になっても続く』という見出し記事最近話題になっていた。

高校入試偏差値所得にも影響しているという記事で、統計的3月4月偏差値が約4.5違うというものだった。

  

1993年3月31日生まれ

6歳になりたて、小学1年生の入学時には身長109センチ趣味スーパーファミコンドラゴンボールZビデオ視聴。

好きな食べ物は近所のかっぱ寿司で食べるお寿司。おじいちゃんが大好き。

すでに当時、幼稚園に置いてあったひらがなの書き取りが苦手で、勉強するために行く学校不安を持っていた。

ひらがなの書き取りより一人でスーファミをするか、読めないゲームの取扱説明書を眺めることのほうが好きだった。

小学校へ入学するにあたって、家で何かドリルをやらされたりということはなかった。3つ下の妹が1人。

    

小学校1年生の2学期後半、もしかしたら自分はやっぱり勉強が嫌いなのかもしれない。と初めてハッキリ感じた。(当時は苦手、というより自分勉強が嫌いかも。という感覚だった。)

そう感じたのは1年生が使う「さんすうセット」から卒業した時だった。

今まで視覚的にすうじを追っていたのに急に文字になった途端混乱した。1~5までの数字計算なら頭の中におはじきを思い浮かべその数を数えた。

5以上が出てくると考えるのもしんどくなり、鉛筆が止まるようになった。隣の席の子を気にしながら指折り数えた。

しか学校の授業は進む。どんどん進んでいく。そのうち先生クラス内の学力差に気づき、わからない人が居たら遠慮なく声かけてねと言ってくれるようになったが

職員室は入りづらく、先生も大抵居ない。2度ほど先生からクラス勉強についていけない子達に声をかけて補習が行われたが、自分から声をかけることはほとんどなかった。

当時にしてみれば、先生は忙しそうに見えたので時間を取らせるのもなんだか悪い。とも思っていた。

そんなことを考えるものから、授業中にわかりません。と言うことはまず無かった。授業中、自分だけわからないことが怖かった。

  

体育。一番小さいサイズ体操服を着て走り回り、1年生になって初めての健康診断が行われた後、背の順で並ぶと一番前になり、前へならえでは小学校6年間一番前で手を腰に当ててふんぞり返っていた。

夏のプールでは一番浅瀬で泳ぎ、先生達には常について回っていてもらっていた。

学校行事に「持久走大会」というものがあった。1年生は校庭を3周。

今でも当時の録画を見ているかのように覚えてる。150人ほどいる学年でビリだった。

ビリから2番めからも相当離され、残り半周を学年みんなが、そして親御さん達が全力の声援を送る中。

顔と耳を真っ赤にしながら腕をめちゃくちゃに振って走った。親と仲がいいA君のお母さんなんか名前まで叫んじゃって。

恥ずかしかったし悔しかったし辛かった。達成感はほんのちょっぴりで、もう2度とこんなことしたくないと汗まみれになりながら思った。

  

得意と言える科目も特になく、ぼんやりと授業を受けるようになった。

もうすでに躓いてわからない科目は聞いているだけだったし、授業の後半に配られたプリントは授業中に解き切ることができず提出しそこね、隠すように机の中に仕舞った。

そのうち授業中に提出できないなら無理やりにでも提出すればいいのでは?と

割り算プリントデタラメ数字を並べて、クラスの賢い子たちと同じくらいのタイミング先生に見せにいくも怪訝な顔をされ、突き返された。

考えて答えを割り出すことよりも、提出することに拘った結果だった。

  

小学5年生の頃には科目すべてが苦手に感じて自分は不出来な人なんだなと自覚していた。

国語漢字の覚えが悪く、社会科47都道府県いつまでも覚えられなくて居残りをした。

音楽練習したつもりだったリコーダードレミの歌はクラスで下から数えた方が早かった順位だったし、美術風景画や人を描くのはまぁまぁできたつもりだが、立体物はからきし苦手だった。

4年生から始めたスイミングスクール甲斐あって、高学年になったら持久走はなんとかビリから抜け出した。

  

  

  

中学はもうすでに小学校の時点でついていけなくなった学習状況に拍車がかかり、赤点スレスレか、がっつり赤点を取るかだった。

中学には水泳部所属したが、3年生にもなると後輩にどんどんタイムを抜かされ、結局水泳部の中で一番遅い状態にもなった。

  

(書くか悩んだが案外いろんな所でやっているようなので)

中学運動会自分の生まれた月によって割り振られる、「春夏秋冬組み分け運動会」だった。

1年生の時に割り振られ、中学生活3年間自分は春組として運動会を迎える。

タイトル通り、この運動会には欠点があった。

夏組・春組が強く、冬組はここ数年4位から脱却せずにいた。秋組に至っては万年3位だった。

毎年夏組と春組が接戦を繰り返し、最終的に毎年夏組が優勝をさらっていく。

  

1年生の5月頃に、先生から各組への割り振りが始まる。

夏組に割り振られた6月まれガッツポーズをして喜び、その学年の生まれ割合から冬組に割り振られた10月まれ先生に詰め寄り、春組に割り振られた人たち同士で3月まれ4月まれかの確認あいっこが始まる。

秋組に割り振られた人たちは特段リアクションは薄かった。

  

秋組以外は今年こそ妥当夏組・秋組を狙い奮闘し、夏組は連続首位を逃すまいと躍起になっていた。

運動会を開催してみると、やはり夏組が優勝し、春組が悔し涙の2位。涼しい顔で3位を秋組が握り、終わるころにはあきらムードの冬組がうなだれていた。

中学1年生の運動会を終えて初めて、早生まれや冬組が体力的に劣っていると体感した。

ぼんやりしがちな性格のせいで単に学習についていけないだけかと思っていたが、なるほど、早生まれはこうして遅生まれ、夏生まれとの差ができるのか。と納得したシーンだった。

  

から5年前の運動会、実に30年ぶりくらいに冬組が優勝したと聞いたときはもう知っている後輩も居ないようなこの年の運動会の結果を喜んだ。

きっと当時の学生たちはそれはもう喜んだことだと思う(最下位になってしまった秋組には来年がんばれ、と手を合わせた。)

  

  

  

高校公立高校へ行ったが、やはり勉強についていけなかったのと家計を助けるためアルバイトしつつ、通信制高校マイペースプリントを進め、コツコツとDTPデザイン勉強をした。

高校生にもなるとインターネットはかなり身近になり、勉強がすごく苦手というと、家庭教師を志望しているネットの友人が声をかけて勉強Skypeながら見てくれたりと、本当にちょっとづつ勉強を再開したりした。

通信制高校へ通いだしてからはかなりストレスなく勉強できるようになり、自分の進行度で確実に学ぶことができたのが嬉しかった。

  

正直今でも変わらないが、答えを導き出すために考えるということがすでに苦手で放棄するようになってしまったのが今となってはもったいないなと思う。

もちろん、小学生当時の私に考え続けるという根性がなかったことも問題の一つだったのかもしれないが、早生まれがどうして不利を背負い続けてしまうのかという話に関しては

適切な学習環境必要なのではないか、と当事者自分は思った。

  

ちなみに、小学校1年、2年生を担当してくれた先生自分と同じ誕生日の美しい先生だった。

聡明で明るく、朗らかな先生が大好きだったし幼いながらも尊敬していた。

きっと先生は、早生まれがどういう不利な状況にあるのか知っていて声をかけてくれたのかな、と思うと

なかなか声をかけられなかった過去自分歯がゆい思いを馳せた、『早生まれの不利は大人になっても続く』記事だった。

2020-08-11

不況時に減税、好況時に増税って常識じゃないの?

小学校社会科でやるレベルだと思うんだけど、

自民も立民も、なんで不況時に増税する(or減税しない)の?


マジで意味からない

経済学常識が俺が小学校ときに習った頃と変わってる?

2020-08-08

anond:20200808134249

義務教育ちゃんと教えないのが悪い

管理されたプール海水浴場じゃないかゴミで足が負傷したり草に絡まって水深が浅くてもおぼれ死ぬとかな

社会が悪い

社会の授業で背水の陣意味を教えない社会教師が悪い

浅い川でも背後にあれば初見では容易に逃げられない

2020-07-28

anond:20200728151102

学校卒業してから、苦労して1000万以上投資して学んだことを なんで学校がおしえるんだ?

とくに公立校、俺たちが個人事業主として1000万も投入したノウハウを、私学はともかく、公立が教えられるっておもうってどういう教育してんだ社会

ITの話はまぁおしえてもいいとして、社会なにやってんの? 公立民業圧迫ぐらい教えろ

anond:20200728151102

学校卒業してから、苦労して1000万以上投資して学んだことを なんで学校がおしえるんだ?

とくに公立校、俺たちが個人事業主として1000万も投入したノウハウを、私学はともかく、公立が教えられるっておもうってどういう教育してんだ社会

ITの話はまぁおしえてもいいとして、社会なにやってんの? 公立民業圧迫ぐらい教えろ

2020-07-27

ワースト教師ベスト3

3位 授業をしない社会科教師(中学)

授業中の説教が長い

2位 教科書ノートも使わせない国語教師(高校)

教師が喋ってるのをひたすら聞く、苦痛

1位 盗撮逮捕されたロリコン担任(小5)

ある日から急に担任が来なくなって、のちに着替えの盗撮逮捕されたことが発覚した。気に入った女子にはべっとり張り付いて贔屓、男子には難癖をつけて怒鳴るというやべえ奴

みんなもクソ教師を教えてね!

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