はてなキーワード: 臓腑とは
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
まず最初に警告しておく。
タイトルにもある通り、私は殺虫愛好家であり、今から始めるのは基本的に殺虫の話だ。
もしあなたに潔癖症の傾向があるか、名前を聞くのも嫌な虫がいるのなら、どうかこの先を読まずに引き返してほしい。
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ここ数日ネットの各所では、大雑把にまとめてしまえば「社会的に認められない性的嗜好をどう扱えばいいか」という話題が飛び交い続けている。
これに対して「社会的に嗜好としての理解はされずとも、行為に対しての感謝はされる」立場、殺虫愛好家の私にも少し思うことがあったので、拙いながらも書き連ねてみようと思う。
先程から繰り返している通り、私は「虫」を「殺す」のが好きだ。
アリンコを踏み潰し、羽をむしったトンボをカマキリに食わせて楽しんでいた子供時代の精神をそのままに、罪を犯さない程度の社会性を身につけて成長した。
まだ性的興奮を覚える域には至っていないが、虫を殺すことで多幸感を得ている自覚は十分にある。
そして運良く、殺虫行為が日々の業務として認められる職種……飲食店で働いている。
はっきり言ってしまうが、飲食店の厨房から虫を根絶するのは無理に等しい。
水道管、換気扇、近隣の家屋、届いた段ボール、侵入経路はいくらでもある。
それに奴等は生命のスパンが短すぎる。いくらでも生まれていくらでも産む。
だからこそ、私のような殺虫愛好家はこの仕事を飽きなく楽しめる。
私の業務は手洗いがてら洗面台にたかるチョウバエを泡で捕らえることから始まり、店を閉めた後で厨房の床に湯を撒いて彼らの子供たちが力なく流れていく様をせせら笑って見送りながら終わる。
それまでの間にも、醤油の匂いを嗅ぎつたショウジョウバエにアルコールを吹き付け溺死させたり、積荷に紛れたチャバネゴキブリを段ボールごと踏み潰したりもする。
定期的な殺虫剤の撒布も、死骸の後始末まで含めて喜んで行っている。特にゴキブリワンプッシュ。あれはあえて隙間から明所へ出てきて死ぬよう設計されていることもあり、私との相性は最高だ。力なく這い出てくる大小様々なゴキブリをモグラ叩きのように仕留め続ける。正直テーブル拭いてるより楽しい。
毎日ではないが、野菜をおいしく食べていた青虫を虫食い共々ゴミ箱に叩き付ける日もある。電灯につられて入店してしまった蛾をそれとなく握り潰す日もある。屋根の下で横たわるセミファイナルに引導を渡す日もある。
……それ以上となると飲食店として必要な業務ではないので、わざわざ外に飛び出して殺したりはしない。それといついかなる場合もその後の手洗い消毒は忘れない。
そうした私の殺虫行為は、少なくともこの飲食店という小さな社会では満場一致で「善行」と見なされている。
店長やオーナーからは、汚れ仕事も進んで引き受ける点を評価してもらえている。
同僚からは、急に湧いた虫を始末すれば、例え社交辞令だろうとも感謝は必ずされる。
客からは、逆にもし虫が料理の中に入ってしまえばクレームを入れられているわけで、それを防げている以上は相対的に良い心象を持たれているはずだ。
と、ここまでは「私自身の頭の中で考えている以上は」美談なのだが。
この場のように、こういった話を人に打ち明けてしまうと、少なからず次のようなことを考える人は出てくるだろう。
「命を弄んでいる奴のどこが良い奴なんだ?」
「虫を殺して楽しんでる奴は、欲求がエスカレートして犬猫や人間まで殺し始めるんじゃないか?」
私だって殺虫行為そのものを、手放しに善行だとは思っていない。
どんな虫にも生きる権利が認められる世の中なら、私は快楽殺虫鬼として裁かれるだろう。ジャイナ教に従えば、来世の私は虫以下の存在になっているだろう。
しかし私は、人の飼っているカブトムシを籠から出して引きちぎるような、殺虫に狂った人間じゃない。
童心に帰り、野山の虫を惨たらしく殺してやりたい気持ちも否定できないが、社会人としてあるからには、社会として許されるまでの殺虫をしているだけだ。
それが「虫」なだけでは殺さない。それが店にとっての「害虫」ならば、実害がなくともその状況に於いて「不快害虫」として認められるならば、殺すだけだ。
仕事として認められ、誰かから感謝される行為だから、私は白昼堂々……とまでしてはいけないが、縁の下で率先して虫を殺し、それで満足している。
そして、これは私に限った話だとは自覚しているが、私は虫以外の動物を己の手で殺したいとは一切考えていない。
端的に言うと血や骨、臓腑の処理をしたくないのだ。オタマジャクシ一匹だろうが死なれたら困る。ホイホイに引っかかるヤモリとか本当にやめてほしい。
私が楽しみながら触れられる脊椎動物の死骸は、血管や臓物と切り離された、おいしい食肉やあたたかい毛皮だけだ。私の職場が調理肉の状態で届く店で良かった。
そんなように、「虫を殺して楽しい」と「飼われた犬猫や人間の殺害」みたいな、一見段階的な関係にも見える嗜好と犯罪行為との間には、社会的な規範や、倫理的な了解や、個人単位の好き嫌いなどいくつもの細かい隔たりが存在しており、それらが人を犯罪行為に走らせぬよう機能しているはずだ。
それでも、私の場合はただ、恵まれていただけだ。私が殺虫の認められる社会に所属して、私が殺虫で喜ばれる仕事を得て、私が殺虫以上の欲求を持たないから、全てが噛み合い今の今まで機能しているだけだ。
これが、物議を醸した先の人物のように、社会として認めらなかったり、正統な仕事として実行できないものだったり、満足せずに発展しうる欲求だったりしたならば、私はとてもじゃないがこんな話を増田にしたためている場合ではない。私が起こしうる犯罪について真剣に考えなくてはいけない。
いや、殺虫に関してもそれが犯罪になりうるものではないか、誰かの権利や尊厳を損なうものではないか、立ち返らなければいけないことに変わりはないが。
■恋ができないことがコンプレックス
根っからの陰キャで生まれてから16年間一度も恋人ができなかった。
田舎のデカい中学によくある苛烈なカーストで溺れ死ぬことを防ぐべく無理して作った友人はみんな陽キャで当たり前のように恋バナをしていた。
いや陽キャじゃなくたって陰キャは陰キャ同士でよろしくやっている。私に恋人ができないのは私が陰キャだからではなくて、私がちょっとおかしいからだ。私は人間として失格に違いない。みんなが当たり前に他人に恋をして、距離を詰めて、付き合って、デートしているのに私にはその当たり前のことすらできないんだから。
口には出さなかったけどそういう気持ちで中学生活を送っていた。
息苦しい中学を卒業して高校に入り、生まれてから16年と1か月たったころ。中学の同級生だった男友達から毎日LINEが来ていて、私もその子のことは趣味が合う貴重な陰の友達として大好きだったから返事を返すのが楽しかった。ゲームのこと、勉強のこと、Twitterのこと。
でもやりとりを続けているうちに、あれ?と思った。もしかしてこいつ、私のことが好きなのか? BL小説ばかり読んでいて恋愛の実践経験ゼロの残念な私にでもわかるくらいあからさまな好意だった。
コンプレックスが溜まって恋に恋する状態だった私は必死に相手から告白の言葉をひきだした。これで私にも彼氏ができる! 人並みの高校生になれるチャンスを逃してなるものか! 今思うと本当に失礼だな。自分のコンプレックスを解消するために友達を完全に利用している。アクセサリーじゃねえんだぞ。
交際関係にある人間たちは密に連絡を取り合ってイチャイチャするっていうのが当時の自分にはイメージとしてあったから、5日間くらいは毎日夜遅くまでLINEをしていた。こっぱずかしいやり取りをしていた気がする。でも1週間たつと、友達時代は楽しめていた毎日の連絡がなぜかちょっと面倒になってきた。結局6か月後の別れる直前には、LINEは週一で会うのは月一くらいの頻度になっていた。とにかく相手から熱量のある感情を向けられるのがつらかった。同じものを返せないし、重荷だし。
ここで恋愛経験値が0から1になった私は学んだ。お付き合いっていうのは相手との関係を維持するために努力する意気がある人どうしでするものなんだ。当たり前のことだけどどんな人間関係でも築くにあたっていろんな制約が生まれるわけで、その中でも恋人関係なんていうトップクラスに密な関係を築くなら心身にそれ相応のコストがかかる。私のような自己中でちゃらんぽらんな女は恋人を作るなんて人並みの生活にふさわしくないんだ。
それからしばらくは恋愛向いてないからしょうがないよねとわかったようなふりをして生きていたけど、身をもってお付き合いの大変さや世のカップルたちが他人に費やすエネルギーの大きさ尊さを知ってしまった分、それができない自分に対するコンプレックスはどんどんどんどんふくらんでいった。
次の転換期は大学に入ってからだった。上京してきた私はさまざまな人の新しい考えに触れて、地元にいたころより視野が少し広がった。その恩恵かはわからないけど、どうやら自分は男性より女性に性欲を抱くらしいということも分かった。
で、相変わらず本当にバカなんだけど、今まで恋ができなかったのは対象を間違えていただけで女性なら好きになれるかもしれない! とか考えて、2丁目通いだのLGBTサークルだの始めてみた。どれもそれなりに楽しく過ごせるんだけど、一回会ったらもう次はいいや、相手に会う時間より自分の時間が大事だし……と思って2回目には続かなかった。問題は対象の性別じゃなくて出会いより自分を優先しちゃうその態度だろうが。
しばらくしたら大学のサークル(LGBTではない普通の課外活動)ですごく気になる子ができた。趣味も価値観も合って、一人暮らしの私の家によく泊まりにくる子。運動してるからきれいに筋肉がついて引き締まった体をしてるけど、太股はむちむちしててかわいい。いつもその子のことをつい目で追ってしまって、なにしろ今までそんな経験なかったからもうこれが恋なのね!! って信じてしまい、私も恋ができるんだ、他人に熱烈な懸想ができるんだとすごく救われた気持ちになった。我ながらばかばかしいと思うけど本当にこれだけで自分が真人間になれたと本気で思っていた。相手はノンケだから付き合えたりはしないけど、一番近い友達でいたい。結婚式でこの子の友人代表としてスピーチができたら幸せだなぁなんて完全に自分に酔っぱらっていた。
でもそうじゃなかった。初めて女の人と寝てからわかった、私があの子に抱いているのは恋心なんかじゃなくてただの性欲だ。性欲を視線に乗せてあの子の身体を追っていただけだったんだ。それに気づいて、しょっちゅう泊まりに来てくれるような大事な友達に性欲を抱いていた自分を心底気持ち悪いと思った。それと同時にやっぱり私は恋ができないんだなあと実感して、もういいかげん人並みであることを諦めて欠陥品の自覚を持たないといけないと思った。女性に性欲が向く人間であることについては臓腑にストンと降りてきてなんの葛藤もなかったのに、恋愛ができないことについてはめちゃめちゃしんどい。
これ読んでる人は恋愛ごときで人間失格とかバカじゃねーのかって思ってるよね。私もそう思う。アセクシャルの人にも怒られそう。
でもコンプレックスってそういうものじゃない? 他人の意見なんかどうでもよくて、私個人の劣等感で完結してる。理性では取るに足らない差異だとわかってても心がそれを受け入れられるとは限らない。
寂しいから恋人がほしいとか、生活の中にウキウキができるように好きな人がほしいとかじゃなくて、みんなが当たり前にできていることを全くできずむしろ苦痛にすら感じるのがほんとうに恥ずかしくて悲しくて、悔しいから恋をしたい。片思いでも何でもいいから人を好きになってみたい。友達として大好きな人は何人もいるけどその先のときめきを感じられたことが一度もない。恋バナを聞いていても相手の感情が想像できなくて退屈にすら感じる。他人なんか面倒なら縁を切ればいい、つらいなら二度と会わなければいいと思うんだけどきっとみんな「そういうことじゃない」って言う。
失恋した友達は私のことを「恋愛に左右されずに生きててかっこいい、うらやましい」って言うけど、私は能力的に劣ったかっこ悪い人間だよ。私からすれば失恋して泣いちゃうくらい他人を真摯に愛していたあなたのほうがかっこいい、うらやましいよ。
なんで生きながらえてるんだろうなあって思う。
それでオッケイって女、そんなにたくさんいるのかなあ。
「たったひとり」になりたい女のこが含まれていって
他の女の子とエッチしている好きな男を想像して眠るんじゃないかなあ。
たぶん、擦り切れるほど、何回も何回も想像してる。
そんなのイヤだって言ってしまえば、もう好きな相手と会うことはなくなるから
そんなことを複数人にやっていたら、3人に1人くらいは、
なぜかヤリチンは今日も生きながらえ、女の子は血を流し続ける。
血を流し続けたところは癌化して、女の子の心を蝕む。
そういうことが平気でできちゃうような奴は、往々にしてけっこうモテるんだよなあ。
でも大好きな女の子を前にうまく話せなくなるような男の100倍はモテる。
女の子にやさしくするのと、地獄に落とすのが上手なヤリチンを駆逐するほうがよっぽど急務だよ。
助けてください。
http://anond.hatelabo.jp/20160728000910
お前は今まで心の底から渇望したことがないんだろう。そして、求めても得られず、何年も苦しんだことがないのだろう。あまつさえ、お前にとっての「プラスマイナスゼロ」になるために、ただ「ふつう」になるためにゴミのような境遇から這い上がらなければならない人間のことなど何も気にかけていないのだろうな。
俺はそれが許せない。
お前のように、何も求めずとも得てきた人間。
健康的な精神、健康的な肉体、趣味、友達、親、彼氏、社会的な成功、生きる理由などなくても生きられる暖かい暖かい生活をして生きたお前。
俺は憎悪する。
お前の境遇そのものではない。その境遇にあって何も感じず、その無知から軽い気持ちで他者を見下す前をこそ憎む。
お前が不幸になったときはゲラゲラと笑ってやろう。お前の子供が入院したときは鉢植えの橙百合を贈ろう。
それまでは幸せにな。無病息災でな。お前に何かあったとき、俺が耳元でゲタゲタと笑ってやる。
しかし俺は強烈に生きている。生きざるを得ない。お前の生活レベルに遠く及ばずとも、はいつくばっでも生きている。
お前、お前のような人間がいる。そのことにだ。
お前が憎い。
お前の文章のすべてが憎い。
夜景がきれいだとか、ここからの景色は雄大だとか。そういう気持ちでのぞき込んだのだろう。
お前はもうわかっているだろうが、お前がうらやむ綺麗な夜景にはゴキブリが生きるために蠢いている。
お前、お前を俺は許すことができない。
のぞき込むのは簡単だ。しかしお前のような人間が、「ふつう」を光り輝かせて上から降りてくると、それまで「普通」だと思っていたやつらは「俺は底辺だったのか」と意識せざるを得ない。闇の中で身を潜め、温めあってそれなりに幸せに生きていたのに、光をいきなり浴びせられ、自分たちがゴキブリだったと気づかせられる。お前にはわかるまい。
お前は罪びとだ。
しかし断罪はできない。するつもりもない。お前は罰を受けるべき人間ではない。幸せに、子供と夫と生きていけばいいだろう。
呪いを、恨みを俺が乗せる。
お前は幸せになるべきだ。俺たちを踏みつけて、生きていくべきだ。
お前を憎みながら、俺は蠢いていく。
いつかお前のレベルまで這い上がるのが俺の生きがいだ。そしてもっと上へ、もっとまともなところへ行きたい。
それが俺の生きがいになってしまった。
人間、本当に憎い時は息を吐くんだな。お前のおかげで分かった。
お幸せに。
生きがいなど幻想だ。
光を逃れて陰に入った安心感だけで生きていけるのだ。