はてなキーワード: エヴァンゲリオンとは
それをそのままの形で己の作品として発表すれば悪評を得るだろう。
ではここでその諸問題、「なぜ文章のパクリは忌避」されるのか。
それについて考察しようと思う。
そこで私がその作品から、富士山に対する描写をそのまま引用すればパクリとされる。
それはその「文章」を無断で引用したことを咎められるのであって、「富士山」そのものを流用したこと事態に問題は生じない。
すなわち「富士山」との表象を描写すること自体には、「パクリ」とする概念が存在していないのである。
ここで述べたいことを平易に、そして換言すればこういうことである。
なぜ文学作品の文章を光景として捉え、その文章を描写することは禁止されるのか?
ということである。
詭弁的に述べれば、こういうことだ。
「私はその文章をパクったのではない、私はその文章を光景として読み取り、私が感じたままにその文章を描写しただけである」
その理由こそが、この諸問題としての根源的なものであり、すなわち「パクリ」という行為は、文章を盗む行為ではない。
それは、作者の感性、思考を盗むことに他ならず、端的にも形而上学的に述べれば、それは作者の「魂」を盗むことである。
つまり、富士山としての描写自体に「パクリ」としての表象が生じないのは、富士山としてその表象を捕らえた際、そこには個々人において異なる情動、思考、感性が働くことに由来する。
自分が認識した事象を正確無比に相手に伝えるのは不可能である。
なぜなら知覚した事象を言語化する際に、ノイズが生じることは不可欠だからである。
仮にこうしたコード化によってもノイズが発生しないのであれば、それは他者と自己を境界線が存在しないことに成り、それは他者の存在を消失させてしまうことにつながる。
よって、他者としての存在とその存在性の認識こそが自己認識における伝達として生ずるノイズとしての証明であり、故に完璧な意思疎通は不可能である。
実際に自分が認識したものを完全に換言するのもまた不可能である。
ここで本題に戻ろう。
彼らは実際、事象に対する見事な描写に評価を与えるのではなく、
仮に富士山としての事象、光景が、文字として表せるコードとして定義化されたとしよう。
すると橙色をR132・G90・B18として示せるように、富士山も同様に共同認識のコードにより共通の形で表記することができるだろう。
その際において、富士山を示すコードを流用しようと、橙色の場合と同様、そのコードを”パクリだ!”と批判されることはないだろう。
文章の引用、パクリとされる行為は文章を盗むのではなく、作者としての”ノイズ”を盗むのであり、人は意思の疎通として害となる、その”ノイズ”に価値を置いている。
人間は巧みに描写された事象を求めて作品としての文章を読むのではない。
それは正確さに欠ける、個々人として個人的な感性と称される”ノイズ”を読む行為に他ならないのだ。
つまり、人はノイズを読み得ようとすると同時に、その”ノイズ”の出処を正確に知ろうと欲するためである。
それはすなわち、”ノイズ”の正体が判明しておらず、その”ノイズ”としての概念自体をアニミズム的にも崇高する謂れを持ち得ているからである。
これこそ換言すれば、
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」
ネットでめっちゃ持ち上げられているので(メインストーリーだけ)遊んだんだけど、ビックリするぐらい大した事がなかった。
スタッフがエヴァンゲリオンがめっちゃ好きなんだということだけは伝わってきたけど、それ以外については「あっ、はい。そっすね(こんなツクールRPGみたいな話をやるために何億円使っとるんやコイツら・・・・)」としかならんかったよ。
第四の壁を突破してて凄い!←は?単に「おいそこのお前ゲームコントローラー弄っとる奴!おい!今までありがとうな😉」してきた後にラスボスをレイドボスっぽく倒すだけやんけ。つーか最後にレイドボスとかそんなん今どきのソシャゲじゃ当たり前過ぎて今更やわ。
このゲームを過剰に褒めてる人達は全くセンスが無いと思います。
結局この人達ってさんざんパンチラ直前の尻を見せられたことによってルッキズム的な洗脳をされているんですよ。
最後の最後まで「うおおおおおシン・エヴァンゲリオン劇場版めっちゃ面白いから見に行かなきゃだぜ―!」「俺達も駅ださないと駄目だぜ!」「こういう時エヴァならクラシック流すから俺達も流すぞ!」「やっぱエヴァは電車だよなぁ……」で走り抜けていった馬鹿っぷりは凄かったけど、マジでこの作品に対して俺の心に残ったのは「コイツラ本当にエヴァが好きなんだなぁ……(呆れ」だけな。
(1/3)
Q:マリは奥さんの安野モヨコさんがモデルというのは本当?
A:マリのモデルが妻だと解釈した文章や動画等を散見しますが、それは一部の人の解釈・憶測にすぎません。— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022
(2/3)
マリの人物像(アスカ他もですが)は鶴巻監督の手によるところが大きく、制作時の事実とは違います。
キャラクターやストーリーの解釈は観客の自由な楽しみですし、本作にもファンのフリーな知的な遊び場としての余地を持たせています。 https://t.co/Knj2CZt0Lv— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022
(3/3)
しかし偏った憶測でスタッフや家族を貶められるのはあまりに哀しいことなので、この点についてはハッキリと否定しておきます。 https://t.co/HNI7lrHopJ— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022