はてなキーワード: それはひょっとしてギャグで言ってるのかとは
追記。
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嬴政が「戦争をなくすために中華を統一する!」「人間の本質は光だ!」とかぶち上げて侵略戦争してるけど、
秦が中華を統一したところで中国の内戦に限ってすら戦争がなくなることなんて全くなかったわけだし、
統一後も圧政が元になって民衆の恨み買いまくってるし、クソデカ陵墓作らせたり不老不死に執着したり、
董卓や曹操が可愛く思えてくるほどやってることが悪役そのものなんだが、よくこんな人物をここまで美化できるなと思う。
漫画自体は戦争描写がめちゃめちゃ面白いし大好きなんだが、嬴政を正当化するのは無理がありすぎて滑稽ですらある。
極めて現実的な統治を語った呂不韋に対して、何の根拠もない理想論で論破した風に描かれているシーンとか滑稽の極みで、
あれにほだされて蔡沢とかが「胸が苦しい!」みたいになってたのとか、「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」としか思えなかった。
エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
大学2年生をしている。
キリスト系の大学に通ってるんだけど、神学的な講義がぜんぜん意味不明だった。
なので、一生に一度と思い、聖書に挑戦してみることにした。
率直に感想を述べる。
長かった……とにかく長かったー! ぜんぶで2000ページ以上もあった。
そのうえわたしは、本を読むのが遅い。なので、1ページに平均3分ちょっとかかった。詩編だと2分くらいかな。
なので、1ページにつき3分とすると、2000ページで6000分=約96時間も読んでいたことになる。こんな読書体験は初めてだ。
得られる物はもちろんあった。半年もかかって読み終えたのだ。成果なしでは悲しすぎる。
全文引用はちょっとどうかなと思うところもあったけど、この聖書の発行元は、250節までは引用OKとしている。
なので、この2編だけグサッとまるまる引用する。ほかにもちょっとだけ引用している。冒頭の詩は、『詩編』(追記:雅歌の間違いでした)という閑話休題的な部分から取らせてもらった。(私が持っている)旧約聖書の1052ページに載っている。
子どもの頃、こんな題名のドラマを観たことがあるかもしれない。
放蕩息子のたとえ
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
最初は意味不明だった。お前は何を言ってるんだ? そんな気分だった。
さて、解説サイトを巡ったところによると、この掌編というのは――父親を神に、放蕩息子を(いつも罪を犯しがちな)迷える人間に喩えているらしい。
なるほどと思った。イエスの説話にはたとえ話がよく登場するが、たとえ話の中でもたとえを使っているのだ。
神は寛容な存在だ。聖書においても、寛容さが重要な徳であると述べた個所が多くある。
現代社会においてもそうだ。昔に比べると、個人に対する寛容さが求められるようになっている。傍目では愚かに見える行いであっても、当人の意志を尊重する。自己決定権というやつだ(うろおぼえ)。
聖書というのは、なんかもういろいろと今の社会を先取りしているのだ。いや違う、普遍的というやつだ。どんな時代でも共通する大事なことを、ひとつひとつ、じっくりとしっかりと述べている。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
――ルカによる福音書 16.1-13(16章の1節~13節) P.140
「それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?」という、中学生の時に読んだ漫画の台詞を思い出した。
読み始めは、聖書らしい勧善懲悪を期待していた。読了後は、こいつやりたい放題だな! と感じつつ、この物語は何を意味しているのだろう――今度は自分で考えることにした。
こたつ机の上で、通勤途中の自転車で、トイレの中で、サイゼリヤでの雑談中に、神学のWeb講義中に、何度も考える機会があった。
わからなかった。結局。
それで、解説サイトを巡ってみることにした。どうやら聖書のたとえ話の中でもメジャーな作品らしい。
しかし、わからない。どの解説サイトを読んでもしっくりこないのだ。
どのサイトにおいても、「どんなに苦しい状況の中でも、神の国に行くために最善の行動を取ることが大事」と書いてあった。不正にまみれた富でいいので、いつか最後の審判が訪れて、永遠の国に住む時のための友達を作っておくべき、みたいなことが書いてあった。
例えば、主人が召使い3人に、自分が留守の間お金を預ける話がある。3人の召使いの中で、そのお金を資産運用によって一番増やした人が主人に一番褒められていた。お金を土の中に埋めておいた人は、主人の命でそれを取り上げられ、一番増やした人に渡ったうえ、彼は外の暗闇に追い出されてしまう。
(だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる)
でも、その一方で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」みたいなことを述べた箇所が同じ新約聖書に3つ以上はある。
約二千年前に作り始められたわけだから、矛盾する箇所も当然あるだろう。しかし、それにしても不正な管理人の話には納得がいかない。
そうこう考えてググっているうち、こんな本をアマゾンで見つけた。
要約すると、長い年月に渡って聖書が写本され続けた結果、当初は存在しなかった物語や解釈や意図が入り込んでいった、とのことだ。
ならば納得できる。この『不正な管理人のたとえ』の真実は、こうだ。昔、聖書を写本していた権威ある人が、「このネタ入れたら面白いんじゃね?」的なノリで挿入したシュールギャグだったのだ。それが不正な管理人のたとえの正体である――解決。
解説サイトやヤフー知恵袋なんかでこの掌編を肯定している人は、もしかして、あれじゃない? 権威に弱い人なんじゃないか?? おかしいものはおかしいとして、はっきり言わないといけないんじゃない??? と、わたしは思いました。(小学生並みの感想
聖書を読んでよかった。
はっきり言おう(ここイエスを意識している)。わたしにとって収穫だったのは、多くのコンテンツの原典・元ネタであることを確認できたからだ。以下のようなものがある。ネタバレ防止のため、どの作品に派生しているかは原則述べない。
例えば、①エジプトの王宮でのモーセ&アロン VS ファラオの対決時に、お互いの杖を蛇に変えてバトルする場面とか、②サムソンが今わの際に両手で二本の柱を押し倒して数千人を巻き添えにして死ぬところとか、③ペルシャ王クセルクセスが、「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」って2回も言うところとか、④大岡裁き(どちらが本当の母親か決めるやつ)の元になった母親2人の諍いの話とか、⑤ダビデの三勇士の一人イシュバアルは、槍のひと突きで800人を殺してしまうとか、サラっと書いてあって思わず吹いた……。
ほかにも、ここには挙げきれないほど多くの漫画や小説やゲームの元ネタに会うことができた。これだけでも読んだ甲斐があるというものだ。
特に、士師記のサムソンには笑わせてもらった。スラップスティック・ギャグコメディの原型が聖書にあったなんて! 高橋留美子も、これを読んで『うる星やつら』の肥やしにしたのかもしれない。
聖書というのは、宗教書というよりは総合文学の書であって、これを基に、その人がどう人生を生きるか考えるきっかけにする、みたいなコンテンツなんだと思う。
聖書は、各編によって色あいが相当違う。格調高く綴られた世界創造の語りだったり、長い旅と王国の繁栄の中で主人公が次々と交代していく群像劇のようにも見えるし、小説上のジャンルはだいたい網羅している(冒頭の詩は兄×妹の恋愛ものだ)し、どんな生き方が正しいのかという論じ合いもあるし、お笑いな感じの喜劇もあるし、いきなり箴言集になったりするし、詩もたくさん出てくる。
ところで、聖書に出てくる神は、その時々によって寛容だったり不寛容だったりする。人によらずとも、矛盾していると感じることがある。
キリスト者を迫害した人や、信心や律法の罪を犯した人を赦す場面もあれば、かの有名なオナンさんはあっさりと殺されるし(彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。)、聖者エリシャを「禿げ頭出ていけ」と詰った子ども達42人は、突如現れた熊2匹によって皆殺しに遭っている。
同じ人でもやることなすことに筋が通っていたりいなかったりすることがあるし、理不尽だと感じた運命が後に自らを利するものであることがわかったりするし、法律や常識に反した行動がみんなの共感を得ることだってある。
わたしが若者でいられる時間は少ない。あと10年以内には若者ではなくなってしまう。それまでには、ひとかどの人物になっていたい。今回、半年がかりで聖書に向き合った経験が生きたらいいなと思っている。
最後に、物語の背景を知らなければ厨二な詩としか思えない台詞を書き留めて結びとする。
サタンの弄びにより、死に等しい皮膚病に冒されてしまった義人ヨブの独白の一部だ。
東京都青少年健全育成条例改正案に反対する緊急ネットワーク:声明
http://blog.livedoor.jp/fujoshi2010/archives/51650119.html
http://www.labornetjp.org/news/2010/1292161525976staff01
セクシャルマイノリティを否定と言ってるけど、
セクシャルマイノリティのゲイを否定して、おもちゃにしてきたんだけど。
まさか、根来祐はBLがゲイを描いた同性愛の漫画とか思ってるのか。
セクシャルマイノリティ否定批判って、
最初から「多数派候補にいれるのは民主主義者。棄権者は反民主主義者」と言ってるわけで、最初っから最後まで棄権者を叩くことしか目的にしていませんが何か。
やはりこの指摘が図星だったか。
A「お前、馬鹿だよな」
B「(゜Д゜)ハァ?お前オレがうらやましんだろ?」
A「だってお前成績悪いし人の話聞かないじゃん」
B「やっぱなwww妬み乙www」
A「いや、妬みとか、訳分からん。やっぱこいつ馬鹿だ。」
B「お前、ひょっとしてオレのこと馬鹿だと思ってるべ」
A「最初からそれしか言ってませんが何か。」
B「やはりこの指摘が図星だったか。」
………
A「…それはひょっとしてギャグで言ってるのか?」