はてなキーワード: るろ剣とは
ちなみにONE PIECEの初版が史上最多を記録したのは2010年代に入ってから。
80年代後半連載開始のジャンプ黄金期の連載陣が初版100万部を超えたのも90年代に入ってからだろう。
ざっくりで70年代1作品、80年代5作品、90年代7作品、00年代6作品、10年代3作品くらいと見るべき。
で、90年代半ば連載開始組は暗黒期でるろ剣くらいしかいないし、00年代後半から10年代前半はワンピ・ナルト・ブリーチの三本柱が盤石で新連載があまり出てこなかった時期。
つまりコミックスの売上どうこう以前にラインナップにムラがある。
「金をかけまくったアクション映画なら受ける」という事実から導きだされるのは
「日本でアクションは受けない」ではなく「日本ではアクションに金をかけられない」だろ。
さすがにここはひっくり返せない。
別にるろ剣や鬼滅のファンは「アクションは嫌いだけど我慢して見ている」わけじゃない。
特撮はあくまで子供向けだし子供向けとしてもさほど売れてるわけでもない
結論を言うと、現代の若者は世界に愛想をつかしており、救う価値が無いと思っている、ということである。
一方、資本階級である老人は、この世界は皆にとって素晴らしく、救う価値があると思い続けている。
映画、創作で人気が出るものは、その時代の二次創作である。ターミネーター・北斗の拳は冷戦時代の「いつか核が落ちて世界が荒廃してしまうかも」
という恐怖の二次創作として、読者は共感し、物語に入り込んだ。
どちらも来るべき運命を、救世主が救うというストーリー。当時の皆はこの世界は救う価値があるし、自分が上に立って救いたい、という救世主に憧れる思想があった。
当時は若者がそれなりに多かったし、世間の目も若者に向いていた。
しかしそういった作品も、冷戦が終わり、反戦的雰囲気が醸成されていくにつれ、
そこから最終兵器彼女やエヴァンゲリオン、スターウォーズwp1も、ある意味セカイ系に近い。のような、「大人の事情」によって子供が世界を救わされるという作品が幅を利かせてくる。いわばセカイ系と呼ばれる作品だ。
ここまでは、まだ現代が舞台で、この世界は救う価値があるかはわからないが、自分は英雄になって世界を救ってみたい、といわば中途半端な思想だった。しかし、スターウォーズやジュラシックパークが幅を利かせてきたように
「ここでないどこか」への幻想というものが生まれてきたのもこの時代なのではないかと思う。
そこから、異世界系の物語、ゼロ魔だとかが人気になる。千と千尋の神隠しもそうだ。「大人の事情」によって子供が「異世界を」救わされるという作品が表立ってくる。
しかしここまでは、この世界は救う価値があるかもわからないけど、戻る価値はあった。自分は英雄になって世界を救いたい、という思想は残っていた。
そしてそこから不良マンガが流行った。一種のパラダイムシフトなんかではないかと思う。
この世界は救う価値は無いが、少なくとも自分の周りの地域は救う価値はあるんじゃないか。地域の中の英雄くらいには慣れるんじゃないか、という思想。
しかしそれもすぐ終わる。不良が色々やらかしたのを見た人々は、反骨精神も、世界の価値も、英雄譚的物語も、現実だとしょうもなくくだらないものに見えてしまった。
全てが虚無でダサいものになってしまった。というより、不良は伝統と化した。
特攻服を買うのは一部の金持ちのボンボンの子だけで、不良的ツッパリも逆に今の教師世代からは推奨される始末。twitterで決闘の話が、守るべき貴重な青春物語として保護されるようになった。
そして現代に至る。景気は良くなってると言うけれど、肥えるのは中年の資本家だけ。若者は職にはありつけるが賃金は低い。年金問題がよく語られるが、それを見て解るのは
貧しい若者の金が、さらに肥えてる中年に吸われていく絶望的な営み。消費税が上がって、年金問題が解決すると喜ぶ老人たち。世の中にあふれる物語も、左翼全盛期の中年の為に用意されたポリコレばかり。
洋画もシリーズ物で興行収入を稼ぐものばかり。結果、なろう小説が流行る。
なろう小説は「行きて帰らない物語」だ。英雄になりたいとは思っても、ニヒリズムに溢れた主人公で、人の上に立ちたいという欲望は薄い。
この世界は救う価値が無くなり、英雄にはなりたいけれども、人の上には立ちたくない。自分の周りの大切なヒロインを守ってればそれでいい。
という価値観である。一億総るろ剣時代だ。皆を助ける事は出来ないが、自分の周りくらいなら助けられるだろうと言う世界観。
現代を救う話は、共感できなくなってしまった。むしろ現代を壊す側の方に感情移入してしまう。
天気の子が売れたのも、そういう世相を反映してるのではないかと思う。君の名はまでは小さな地域を救う話だったが、天気の子はセカイを壊す話だ。
ゼロ年代あたりで生まれたセカイ系の物語に対する回答、「一人の子供ですら潰して利用する世界に価値はない」という回答。
「何も知らないままで、知らないふりをしてる」豊かな人たちに「何も足さず、何も引かないでください」と訴えかける作品。
ジョーカーが人気が出たのも、そういう世相を反映しているからではないか。
現代を描くには否定的になり過ぎ、異世界を描くには肯定的になり過ぎる世界。この先はどうなるのだろうか。
異世界にすら絶望して、人一人、自分すら救えない話になるのだろうか。
ひょっとすると、ジョーカーは一種の異世界モノなのではないかと思う。兎に角世界を壊して、勝手に皆が英雄として崇め、ニヒルな笑顔でそれを見つめる。
敵の描き方にもよるが、共闘したり償いを意識したりする方向が普通か
当然、志々雄は改心しないわけだが、それで面白くするには、読者の納得がいる
志々雄は死んだ
史上最強の弟子ケンイチも「活人拳」と「殺人拳(闇)」を描いているが
最後の方は、どこが闇だよって位に、殺人拳側も善性を表出させる
「赦す」ためには、赦しに値するナニカを描く必要があるってことだ
少年漫画で、主人公が小さい子供だと、「何でも赦す聖人」に描かれる事がある
その場合、読者が納得するための無慈悲な死刑執行人は別に用意される、るろ剣の斎藤のように
少女漫画ではヒロインが菩薩のように描かれるから「何でも赦す聖人」を多く観察できる
苦悩・悲劇・事件が描かれ、解決・赦し・開放をもってカップルに至る
「何でも赦す聖人」の気持ち悪さは、いわずもがなで、主人公が人外になってしまうことだ
過度に「無垢」や「慈愛」を描くと、それはそれで人の道を外れる
主人公を「菩薩レベルのいいひと」に描く必要がないのなら、インガオホーな展開の方が、読み手もスッキリするし展開も楽だ
改心を描くほうが難しいし、それを描かなかった場合、見逃した後の被害が想起されてしまうからな
・ハットリくんのケンイチと夢子。主人公の足手纏いやワガママキャラは許されないため。この二人の処刑が第1章のクライマックスになるだろう。ケムマキも多分死ぬ。
・ドラえもんのスネ夫とジャイアン。あらすじで死が明言されてもおかしく無いポジション。ひみつ道具で無双するのび太の最初の犠牲者はこの2人になるだろう。
・ドラゴンボールのクリリンとベジータ。主人公でもないのに可愛いヒロインとくっつくキャラは許されないため。(まあ、原作でも何度か死んだけど)
・ワンピのコビー。格下だったキャラが主人公に追いついて来るのは許されないため。(途中でかなりのゲスに改変される可能性が高い)。