はてなキーワード: 緒方剛志とは
新アニメの開始で、ブギーポップ懐かしい!原作いまどうなってるの?ていうかまだ続いてるの?という人々も少なからずいると思われるので、シリーズを振り返りつつ現在の大まかな状況を説明する。
今のところ明確にブギーポップシリーズとして刊行されているのは以下の22作。
電子書籍ストアなどでは、作者本人が執筆しイラストレーターも共通しているスピンオフ『ビートのディシプリン』『ヴァルプルギスの後悔』各4巻もブギーポップシリーズとして扱われているが、ここでは除外する。
ブギーポップシリーズは、刊行順の並びで大雑把に三つに区切ることができる。
(12/26追記:この区切りは自分が個人的に勝手にそう思ってるだけの便宜的なものです)
第二期(01年〜13年)
10.ハートレスレッド〜18.さびまみれのバビロン
各時期の特徴を見ていこう。
一見ありふれた現代日本の日常の背後で、巨大な組織が絶えず暗躍し異能者が世界を変革するべく活動する、謀略論的世界観。
思春期の不安定な心と世界の危機がいっとき交差する、叙情的・詩的な青春小説としての側面。
五人の主人公の視点による五つの章で一つの事件を立体的に語る、という第一作の笑わないに代表される、トリッキーな構成。
ごく一部の準レギュラー的な存在を除いて、基本的に新規のキャラクターもしくは既存の脇役が主人公となって毎回半ば独立した物語が展開される、いわば全ての巻がお互いの「外伝」であるようなシリーズの組み立て。
緒方剛志の洗練されたイラストと、鎌部善彦によるシンプルかつ洒脱なブックデザイン。
少女達の間でささやかれる都市伝説であり、普通の女子高生の別人格?として現れ黒づくめの格好で口笛を吹きワイヤーを操る死神もしくは世界の敵の敵……という、その他の世界設定からは遊離しているとしか思えない謎の、しかしビジュアルデザインも含めて圧倒的に魅力的な存在、ブギーポップ。
ラノベの流行をTRPGベースの異世界ファンタジーから現代ものに塗り変えただとか、現在大人気のあの作家やこのゲームライターも影響を受けただとか、当時の存在感については既に色んなところで言われているので各自Wikipediaなどを参照のこと(大げさだったり紛らわしかったりする情報もあるので眉に唾をつけながら)
具体的なデータは分からないが、売り上げ的にも恐らくこの時期が絶頂だったのではないか。今回アニメ化の対象となるエピソードも、ほぼこの範囲からと見ていいだろう。
この時期で注目すべき巻、という話になると、一作目の笑わないはもちろんのこと、それ以外も全部と言うほかない。
王道のボーイミーツガールを軸に、前後編同時発売というボリュームで作品世界が大きく広がった、リターンズ1・2。
予知能力者の少年少女によるささやかなコミュニティがたどる儚い運命を描く、もしかしたら謎部活もの・残念系の先駆と言えるかもしれない?パンドラ。
閉ざされた高層建築というアクション映画を思わせる派手な舞台設定で、最終巻となる可能性もあったためか一旦シリーズを総括するような大団円が心地良い、歪曲王。
笑わないに近い連作短編構成で、シリーズの重要キャラクター「炎の魔女」とブギーポップの誕生を描く、ブギーポップ・オリジンとも言える、夜明け。
ジレンマを抱えた創作者の心をアイスクリームに託した、ペパーミントの魔術師。
屈指の人気キャラクターの登場巻であり、二人の男が巡り会い激突する、シリーズ中では比較的ストレートに「熱い」展開が見られる、エンブリオ二作。
以上の9巻はわずか二年の間に刊行されている。ほとんど月刊ペースで新刊を出すような恐るべき速筆ラノベ作家も存在する現在ではさほど目を引く数字でもないが、当時としては驚異的なスピードだった。それが一世を風靡する大人気シリーズであればなおさらだ。
次に述べる第二期では、複数の他シリーズと平行して執筆していたとはいえ一期と同じ巻数を出すまでに十年以上かかっていることと比べると、初期はどれだけ筆が乗っていたのかよく分かるだろう。
ちょうど一度目のアニメ化、実写映画化の時期を境にして、やや作風に変化が見られた。
能力の存在そのものは以前からさほど珍しいものではなかったが、それまでは物語の中の一つの要素でしかなかった戦闘に、武器として用いるのが半ば当たり前となった。
各巻の主人公格にはたいてい非能力者も一人は配されているし、エンブリオのような異能者対異能者の直接的な戦いがそんなに多いわけではないが、それでもいわゆる「能力バトルもの」という印象はかなり強まった。これを理由に作品から離れた読者も多い、らしい
細かい部分だが、能力に(多くの場合洋楽由来の)名前がはっきり設定されることが多くなったのもこのあたりからだ(言うまでもないがブギーポップはジョジョの影響を大いに受けている)
世界の敵、もしくは敵候補側の視点が薄くなり、一期のように主人公の一人として扱われることが少なくなった。これと同時に、世界の敵の動機に世直しというか率直に表現すると「人類補完計画」に類するものがほぼ見られなくなった。
異能バトル化の進行と併せて、表面的には「邪悪な敵役を主人公たちが討ち滅ぼす物語」という単純な構図にやや接近することになる。
多くの場合複数の視点で展開されること自体は変わらないが、各視点をそれぞれ一つの章(短編)にしたり、時間を大きく前後させたりというような凝った構成はあまり見られなくなった。
数少ないレギュラーキャラである霧間凪が、二期半ばの13作目のオルフェの方舟以降、ブギーポップ本編に登場しなくなる。恐らくは、凪が主人公のスピンオフ『ヴァルプルギスの後悔』との兼ね合いによるものだと思われる。この不在は、21作目のラビット・ランで再登場するまで長く続いた。
言葉にしにくい部分だが、一期においてはまだ、各巻が主に何を題材にしているのかが、なんとなくではあるが伝わるという印象だった。それが二期では、テーマ的により込み入った話が多くなり、分かりやすい共感や盛り上がりからは遠ざかった感がある。そのぶん作家性がより強まった、とも言えるが。
第二期の注目作としては、
霧間凪のライバル?的な存在が初登場する(以降の出番はほぼスピンオフ)、ハートレス・レッド。
設定上最大に近い「大物」の登場巻であり、以後、他シリーズも含めて作中世界に大きな影響を及ぼす出来事が語られる、ジンクスショップ。
暗い森の中を延々と歩き回る閉塞感と晦渋さのせいか読者の賛否が極端な、ある意味で二期らしさを象徴する作品といえる、ロスト・メビウス。
本当に大事なことは既に終わっているという、これまでもシリーズに見え隠れしてきたものの見方が改めてテーマとして大きく扱われ、青春とバトルのバランスの良さから?二期の中では読者の評価も高い、沈黙ピラミッド(沈ピラの愛称で親しまれている)
などがある。
現行の作品群。
近刊の最も目立つ特徴として、主に第一期作品で主人公格だったキャラたちが、再びメインを張っていることが挙げられる。
基本的には新規の登場人物もしくは既巻でのサブキャラが主人公となることが多かったものの、かつての主役がメイン級として再登板という展開自体は一期でも二期でも存在した。たとえば、歪曲王の新刻敬、ロスト・メビウスの織機綺、化け猫のフォルテッシモなど。しかし、デカダント・ブラック以降はそのようなキャラクター配置が今のところ全ての巻で一貫して見られる。
三期各巻で主人公格として再登場した既存キャラは以下の通り(カッコ内は過去の主演巻)
これらのキャラは初期作品の評価に比例して人気が高く、シリーズ上でも重要人物と見られているが、彼らが登場しているからといって、いわゆる「本筋」が大きく進展するだとか、シリーズを畳みにかかっているといった気配はあまりない。相変わらず核心の周囲をぐるぐると周るような展開が続いている。
また、こうしたキャラクター配置がテーマから導かれたものなのか、それともある種の商業上の要請によるもの(早い話がテコ入れ)なのかどうかも不明。
それ以外の傾向としては、概ね第二期のそれを継承した形になっている。ただ個人的に一つ気になる点として、新規キャラクターの「格」の低下ということがある。
あくまで作品から受ける印象だが、三期で初登場した新キャラ達には、作者の思い入れというものがあまり感じられない。戦闘能力の強弱などの問題ではなく、良くも悪くも人格的な面で個性が薄く、その内面に寄り添い掘り下げるような視点も弱くなっている。
特に、世界の敵もしくは世界の敵に至らない程度の「悪役」の造形はこの傾向が強い。あからさまに傲慢だったりするいけ好かない人間として登場して、実際にいけ好かない人格のまま説教されたり死んだりして退場する、というケースがほとんどを占めている。
また、主人公≒視点人物として再登場している一期のメインキャラ達はたいてい洞察力に優れ、過去の巻で既に何事かを成したいわばひとかどの人物であるため、彼らの視点で描かれる新キャラはいっそう底の浅さが浮き彫りになってしまうというキャラ格差の問題もある。
世界中の誰しもが、たとえ一見取るに足りない存在であっても世界の敵になり得る、というようなテーマの反映なのかとも思うが、それにしてもクソ雑魚ナメクジに過ぎるし、そういう「敵」ばかりではさすがに辟易してしまう。なにより、たとえばあのスプーキーEですら持っていた、人格の複雑さ・意外性というものがほとんど感じられないのは寂しい。
悪役なら悪役でいいので、せめて初登場時点では、恐ろしさや底の知れなさをもう少し演出してくれないものだろうか。あるいはいっそ、無理に毎回新規のキャラを多数登場させることを控えて、ほぼ既存キャラだけで話を回し始めてもいい頃合いではないかと思うのだが……ムーンライトに一度だけ登場したカレー屋など、もっと掘り下げてほしい旧キャラも既に十分以上に存在することだし。
自分の目から見たブギーポップシリーズのこれまでと現状は、こんな感じだ。
結果的に後半はほとんどネガキャンのような書き方になってしまったが、そういう意図は毛頭ない。むしろ、こんな風に不満を持ちながらもなんだかんだで楽しく追い続けている読者もいるぐらいには今も魅力的なシリーズなんだよ、ということが言いたかった。信じてほしい。
今回のアニメ化の影響で原作が売れたり読まれたりするとしても、そのほとんどはアニメ化の範囲であり新装版も出る第一期、それも前半に集中することだろう。だが、これを機会に未読の二期・三期作品にも手を伸ばしてくれる元読者がたとえ一人でも現れてくれるなら、非常に嬉しい。読んだら一緒に文句を言おう(文句言う前提)
関係あるのか分かりませんが、2018年は原作ラノベ開始20周年です。
2000年のアニメ「ブギーポップは笑わない Boogiepop Phantom」は、原作『笑わない』(正確にはその実写映画版)の、アニメオリジナルの後日談というべき内容でした。今回は原作エピソードにある程度沿ったアニメ化となるため、今のところ特に関係はないものと思われます。
サプライズ的に使われる可能性もありますが、とりあえず現在公表されているOP・EDはMYTH & ROID「shadowgraph」、安月名莉子「Whiteout」となっています。
MUSIC - PRODUCTS|TVアニメ「ブギーポップは笑わない」公式サイト
そのテイザーPVはアニメ化決定発表時に公開されたもので、プロデューサーいわく、作品に対する意気込みを示す「ハッタリ」だそうです。そのため、ブギーポップと霧間凪(及び公開時点では判明していなかったが水乃星透子も)以外のキャラクターは、あくまでPV用に一から作ったオリジナルキャラで本編には登場しません。
TVアニメ『ブギーポップは笑わない』 ティザーPV - YouTube
TVアニメ『ブギーポップは笑わない』 PV 第2弾 - YouTube
最初に笑わないを3話(!)で、次がリターンズになることは確定しています。その後があるかどうかはまだ曖昧。
アニメ「ブギーポップは笑わない」特集 悠木碧(ブギーポップ/宮下藤花役)&大西沙織(霧間凪役)インタビュー - コミックナタリー 特集・インタビュー
アニメではまず第1~3話で「ブギーポップは笑わない」編が放送される。
第4話からは原作の第2~3作目となる「VSイマジネーター」編をオンエア。その後の放送エピソードは、追って発表されていく。
CHARACTER|TVアニメ「ブギーポップは笑わない」公式サイト
ブギーポップの衣装デザイン以外はほぼ新規に描き起こしています。また、時代を現代に合わせたことでスマホなども存在する設定になっているようです。
(「2018.5.28 本プロジェクトに関するお知らせ」を参照)
BOOKS - PRODUCTS|TVアニメ「ブギーポップは笑わない」公式サイト
原作者の別作品に登場する、設定上エコーズと関係の深いキャラにデザインを合わせたのではないか、という推測がされています。もちろん真偽は不明。
先行上映の情報によると居ないそうです。
先行上映の情報によると、少なくとも笑わないでは吹かないそうです。
それは緒方剛志によるコミカライズの新装版です。原作の新装版(単行本)の刊行スケジュールは、
となっています。
また、現在連載中の「リターンズ」「夜明け」のコミカライズ単行本1巻も、12月28日に「笑わない」コミカライズ新装版と同時発売となります。
BOOKS - PRODUCTS|TVアニメ「ブギーポップは笑わない」公式サイト
残念ながら、ぼくにはそんなものはない……でもな、夢を守ることはできる!変身!(広がる宇宙の中Can you feel〜♪)
擁護してあまつさえ吉澤観音を「たつきのおこぼれ頂いてる身分」というような言葉で蔑んだくせに
まず、原作者およびイラストレーター(以下絵師)がアニメ制作に参加するかは、ケースバイケースである。
ほとんどのアニメでは原作者が多少の口出しをする程度で終わるが、近年は原作者がアニメの脚本を書いたりするケースも増えてきた。
ただ、基本的にアニメの制作は制作会社におまかせするものであって、原作者および編集部が主導権を握っているわけではない。
アニメ化の企画も、出版社が立てているわけではなく、まずアニメ制作会社が立案して、それから出版社に打診している。
(でもカドカワが主導してそうなアニメ化前提のメディアミックス企画とかはどうなってるんだろう? 教えて偉い人!)
アニメの「キャラクターデザイン」とは、原作のキャラクターデザインをもとに、アニメで動かしやすいよう、アニメーターがアレンジすることである。
「漫画家や絵師がいちからキャラクターをデザインする」という意味でのキャラクターデザインは「キャラクター原案」と呼ばれる。
ライトノベルの場合、キャラクター原案が作家なのか絵師なのか曖昧なところもあるので、「キャラクター原案」ではなく「原作イラスト」としてクレジットすることも多いようだ。
今回の騒動ではこのあたりを混同して、「緒方のキャラ原案を廃止して新たに別人がキャラ原案を作った」と勘違いしている人が散見された。
余談ながら、オリジナルアニメの場合でも、キャラクター原案は有名絵師、キャラクターデザインはアニメーターと、分担していることは多い。
『俺妹』や『魔法科』のように、もともとアニメーターが絵師として起用されていたので、そのままアニメのキャラクターデザインも担当した、という特殊なケースもある。
以上を踏まえた上で、今回の問題を整理しよう。
緒方剛志がアニメ化発表時に素直に反応していることもあり、アニメ化の話が通っていなかったということは考えづらい。
「見たことねえ」「認めてねえ」というのは、あくまで「キャラクターデザインの確認が回ってこなかった」ということについてだと思われる。
既に説明したとおり、原作者および原作絵師がアニメ制作に「参加していない」ことそのものは異常事態ではない。
「参加したかったのに外された」のか、「納得の上で外れた」のかは、現状では判断しづらいように思われる。
そもそもアニメのキャラクターデザインは「元のデザイン」から変える仕事である。
今回はかなりキャラデザの癖が出ているが、このくらい原案と変わってしまうことはそう珍しくない。
緒方剛志は「ブレザー着たヤツに日程を合わせる為に短期間で絵を描かなきゃいけないからムカつく」と言っているのであって、
「ブレザー着たヤツにキャラデザを合わせて絵を描かなきゃいけないからムカつく」とは書いていない。
印象論だが、緒方剛志の怒りは「連絡がなかったこと」よりも「キャラデザがダメなこと」に向いているように思う。
つまりキャラクターデザインの仕事に対する怒りなのだから、マッドハウスと話をつけようとしたのではないか。
マッドハウスの広報アカウントにリプライを送ったあと「無視ということでよろしいんですね?」からの「監督辞めるってよ」なので、
「監督が辞めると言った」という話し合いはリプライの前に行われていたはず。
アニメ化発表→緒方がキャラデザを見て怒る→マッドハウスと話し合うも決裂→広報アカウントにリプライ→返答がなかったのでぶちまけてすっきり
という順番なのではないか。
この場合、緒方とマッドハウスの話し合いをカドカワがセッティングした可能性があるので、
本件で「カドカワが働いてない」と断言するのは保留したほうがいいのではないかと思います。
知らん。
いまのところの印象では「アニメの制作からは納得の上で外れたがその結果として出てきたキャラクターデザインが(緒方目線で)あまりに酷かったので後から文句を言っている」の可能性が高いと思っている。
ただし、私はそんな極まったアニオタではないので、アニメ制作のところについては間違いがあるかもしれない。
詳しい人のさらなる詳説があったら嬉しい。
特に「キャラデザってどのくらい原作サイドに確認するの?」「キャラデザの決定を原作絵師に伝えないってありうるの?」というのが分からない。
・決定直前に確認を取るだけ
・決定後に知らせるだけ
など、いろいろ考えられる。
「現場による」って言われそうだけど。
『ブギーポップは笑わない』の(再)アニメ化について、原作イラストレーターの緒方剛志氏がお怒りのようです。
https://togetter.com/li/1210951
本件では片方、つまり緒方剛志氏の主張だけが世に出回っているので、部外者であるネット民には真相は分かりません。
しかし、KADOKAWA周りではけものフレンズ騒動、「とある新人漫画家に、本当に起こったコワイ話」騒動と、やたらトラブルが目立つ印象があります。なぜなのでしょうか。
わたしはKADOKAWAの関係者ではないので思いっきり想像で語りますが、こんな感じではないかと思います。
1)KADOKAWA全社的な体質と言うよりは、個々の編集者(担当者)がやらかした問題である
世の中では企業の従業員が何かトラブルを起こすと、あたかもその会社全体の問題であるように語られますが、現実には、トラブルを引き起こすのはたいてい個人(しかもいわゆる「使えない人」)です。
出版業界の場合は特に、作家(漫画家・小説家問わず)と編集者個人の関係で成り立っているところがあり、作家側にも出版社と仕事をしているというよりは担当編集者と仕事をしているという感覚の人が多いのではないかと思います。エロ漫画業界だと編集者が移籍すると担当作家もごっそり移籍するなんてことがままありますが、そういう出版業界独特のやり方によるところが大きいのかなと。
2)KADOKAWAは元々別の出版社であったものを寄せ集めた集団であり、「KADOKAWA」全体としての意識が薄い
参加のブランド一覧( http://ir.kadokawa.co.jp/company/bc.php )を見ていただければ一目瞭然と思うのですが、KADOKAWAは多数のブランドを抱えており、しかも元々各ブランドは別の出版社でした。
そして各ブランドはKADOKAWAの旗のもとに集結したあともそれぞれ従前のように出版活動を続けており、互いに配慮したり連携してなにかしようという意識は皆無であるように見えます。
現在の組織図がどのようになっていて、トップから末端までの意思伝達がどれくらいのスピード感でなされているのかは知ったことではありませんが、全体として風通しが良い企業であるとは傍目には到底思えません。
で、結局のところ何が言いたいかと言うと、ネットで語られがちな「クリエイターvsKADOKAWA」みたいな構図はそもそも存在せず、ネットの皆さんが戦っている相手はKADOKAWAそのものでなく、イメージ悪的な、幻想の「KADOKAWA」であるということです。よって、KADOKAWA最悪だなとネットでいくら声が上がろうが、何にもならないのでは? ということです。
末端社員がトラブルを起こすたびにクリエイターが声を上げて、しばらくして事態が重大だと判断されたときにようやく上層部が動く、そういう鈍重な組織なのではないでしょうか。KADOKAWAって。
個人的にはKADOKAWA自身にこの鈍重な組織体質を改善する気があるように思えないので、KADOKAWAの一部の人がトラブルを起こすたびに「KADOKAWAが悪い! またKADOKAWAか!」ってネットで騒がれる風潮はとうぶん変わらないと思います。
けど、それってめっちゃ不毛なんですよね。「批判は何も産まれない」じゃないですが。
しかしKADOKAWA(の偉い人)は、このままずっとやっていけるとマジで思ってるかなと疑問にはなります。5年後10年後のKADOKAWAがどうなっているかは、野次馬的には見ものですね。
■はじめに。
今のリーフの隆盛を準備した作品が『雫』なのは、『To Heart』から入ったユーザーには理解できない事かもしれない。その理由については後述するけど、筆者が美少女ゲームについて書いたのは、『雫』の紹介記事が最初なので、思い入れも強いし、ある意味で呪縛にもなっていた。そんな筆者が、1998年の最初に買った『雪色のカルテ』は、その呪縛を見事に吹き飛ばしてくれたのだ。まずはここから始めよう。
■雪色のカルテ
『WoRKs DoLL』のTOPCATが、昨年、Peachから発売した作品。3人の患者を診療しながら、診療所を運営するSLG。原画は緒方剛志氏。
最初はポンと投げ出されたような状況で、迷いつつプレイしていた。しかし、過剰さを抑えたキャラクター、台詞、イベントの数々が、散発的ながらも徐々に物語を形作っていく緊張感の虜になってしまった。具体的には、主人公に対し、患者たちが徐々に心を開いていき、医師と患者の関係性が変化していくあたりの展開の上手さだけども、何よりも世界観の徹底ぶりには敬服した。
まず、登場人物全てが、多面性を持っていた事には驚かされた。加えて、投薬などで感情を制御し、それが数値化されてしまうという、人間の限界と悲しさを突いたクールな設定にも惹かれた。『プリンセスメーカー』で、ぬいぐるみを大量に与えて、娘の機嫌をコントロールするという、安永航一郎のまんがのネタにも使われた設定があったが、医師と患者という設定で、それは、普遍的なリアリティを持った訳だ。
このゲームでは、病の本質を「精神的、または肉体的コミュニケーションの欠落」と捉えた上で物語を形成している。そして、シナリオだけでなく、システムやビジュアルなど、全ての要素が有機的に結びついて、完成度の高い作品を作り上げた事には、驚きを越えた衝撃があった。
■いちょうの舞う頃
Typesから発売された、「純愛」をテーマにしたAVG。恋人や家族との関係を軸に、青春の原風景を丁寧に描いた作品である。
『To Heart』という、強烈な爆弾が炸裂した後の、美少女ゲームに於ける恋愛の扱いというか、回答としては、一つは『ホワイトアルバム』のように、恋愛のダークサイドに踏み込んでいくというのがある。ただ、この方法論は、安全な幻想を提供する為に純化されたギャルゲーの流れに逆らっており、自身の属するジャンルの存在意義を否定しかねない、パンクな危うさも孕んでいた。
『いちょう』の場合は、その逆で、過剰な演出をできる限り抑え、細かい日常描写の積み重ねで見せる手法を、更に押し進めた形になっている。この方向性は『To Heart』自体が、TVアニメ化の際に強調している。ただ、物語性よりも、ピュアな感性がものを言う領域であり、むしろ、作り手側の負担は大きくなっている気もする。イージーリスニングというのは、発想としてはさておき、技術的には非常に難しい。
『いちょう~』の洗練されたビジュアルイメージは、この方向性の作品では屈指だ。ただ、個人的には、あまりにも健全明朗な展開には、気恥ずかしさを感じてしまうし、都市圏周縁のベッドタウンという、土着的な要素が少ない舞台設定には、渇きにも似た不安を覚えてしまった。もっとも、中上健次の『枯木灘』のような舞台設定のギャルゲーがあったら怖いし、出る訳もないのだが。
Leafが『To Heart』に続いて、世に送り出したAVG。美少女ゲームのセオリーを覆す、実験的なシナリオが賛否両論を巻き起こした。
かつて、『雫』で描かれた心情は、マイノリティの闇だった。毒電波というメタファーは、思春期の疎外感や、強烈な自意識を揶揄していた。物語である以上、結末に救済=日常への回帰を用意してはいたが。
だからこそ、まだ若かった筆者や、筆者の周辺はこの作品を熱烈に支持していたのだ。そして、『To Heart』は、その闇を潜り抜けた人々の物語だった。でも、それは同時に闇を忘れてしまった人々の物語でもあった。もっとも、思春期という暗黒は、いずれ回収されていくものだし、ユーザーの支持を得た以上、闇を見つめる必要は無くなっていた。美少女ゲームもまた、開かれた場所に向かっており、闇を知らない幸福なユーザーも増えた。
しかし、闇を忘れられなかった人々もいた。そして産み落とされたのが『ホワイトアルバム』だった。確かに売れた。しかし……もはや、毒電波に心情を仮託する事もできず、幸福な妄想の為に仕掛けられた世界にすら、違和感を感じる……荒涼とした場所に取り残されたマイノリティの為の物語が、予定調和とも言える、約束された祝福の世界を描いた『To Heart』の次回作なのだ、ある意味、これほど不幸な作品も無い。
肉体性を見事に排除した「マルチ」という理想の偶像を作り上げた後で、既に、過去の神話に過ぎないアイドルビジネスを、物語の舞台として、肉体性との相克を描いた事が、既に同時代的ではないし、結果的にこの作品のバランスを崩している。
けれども、不完全ゆえに、プリミティヴな負の破壊力を生み出し、まさにロックンロールな、『ホワイトアルバム』の名に恥じぬ作品が出来上がったのだと思う。
丁寧に練り込まれたシナリオのAVGと、明朗明快なRPGという違いはあれど、アリスソフトは1998年も好調にヒット作を出している。
もう一つ、筆者の遺伝子に刻み込まれた作品として『AmbivalenZ~二律背反~』がある。ロマンティックな復讐と因果の物語は筆者を大いに酔わせてくれたが、その流れを汲む『デアボリカ』では、内省的な描写を突き詰め、同じテーマに対しても、異なるアプローチを試みている。理想と現実、純愛とエゴ、といった、二律背反なテーマの相克に対し、複数の回答を用意した(選択の幅を増やした)事で、物語としての奥行きが深まったのは特筆できるだろう。
『ぱすてるチャイム』は、前回も取り上げたし、こちらも良いゲームだけど、説明不足の事柄もあり……例えば、ゲームが進行して、実際に呪文などを覚えて、パラメータの意味がやっと分かるというのは、昔とは異なり、ストイックさとは無縁のユーザーが増え、レベル自体も拡散拡大した状況からユーザーを幅広く取り込むには、少々敷居の高さも感じたのだ。……そう、長い間、最も安定したメーカーであるアリスソフトも、時代との折り合いを考えなくてはならない時期になったのだな、と筆者は痛感したのだった……。
■反省と近況と総括。
前回は某誌で使いそびれた文章をベースに書いたんだけど、これからは、特定のゲームに絞らない状況論の方向で行こうと思います。文体もまだ一定しないしなあ……。それ以前にちゃんと続くのか、これ(笑)。……ところで、筆者は、ギャルゲーの本質は、ストーリーの練り込みによって、キャラクターへの感情移入を高めていくものという認識があるのだけど、声優の起用やグッズ展開の方を前面に押し出す昨今の状況には、正直言って、違和感があるんだよな。まあ、これも、年寄りユーザーの単なる戯言なんだろうけどね~。あ、次回のサブタイトルは、「アンドロイド少女は電気羊の夢なんか見ない」です。BGMは野口五郎『甘い生活』でどうぞ。