はてなキーワード: 釣りとは
無制限に許したところで、それだけの対価が払えない人が増えていくだけなのではないだろうか。その状況下では転売は起こせない(欲しがる人がいなければ、値段をそれ以上釣り上げても、利益を生むという目的が達成できない)だろう。
いくら値段が釣り上がっても価値として見出されるなら,それだけの人間がその物を価値として見出してるんだからそれはそれでいいだろ.だいたい物の価値はある範囲の中にいる人間がその物をどのくらい欲しがるのかで決まるわけで,オークションや転売のように欲しい人間が「自分ならこの金額まで払える」といって物の金額が決まるというのが一般的でないというのか.
「ありがとう、でも自分に自信がないからごめん、君には釣り合う人がいるよ」って角立たないように断っただけで、
「お前みたいなショボい人間と付き合いたくねーよ」
以下、THE IDOLM@STER MILLION THE@TER GENERATION 13 りるきゃん 〜3 little candy〜に関するネタバレを含みます。
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こないだ担当の野々原茜のユニットのりるきゃんのCDを買ったんだけど
一目惚れした憧れの先輩に思いを伝えたけど相手の男子は全くその気がなくてさ
相手の自分に対する感情が嫌いとか好きとかじゃなくて"無"だったんだよ…
「自分の気持に嘘つかなくていいよ」って友達に言われていつも明るい茜が泣いてたんだよ
「悔しいよ」「あんなに好きだったのに」って
りるきゃんの3人が号泣してる場面、俺も家で聞いててほんと号泣しちゃってさ
ほんと辛いよなあ…
辛かったんだよ
大学に入ったサークルで一目惚れした女子にがんばってアプローチして
それまで中学でも高校でも恋愛とか知らねーとりあえず部活一番じゃタイプだったけど初めて恋して
他の奴らは「まあ優しいやつではあるけど暗いよね」って感じで理解してくれなかったけど
俺だけはほんっっっとにすきだったんだよな
しょーもないことで笑ってあーーーーーーー俺この瞬間生きてるわーーーーーって思って
4,5回目の飯の帰りに告白して
なんか驚いた顔されて「そんな風に思ってたなんて知らなかった」って答え先延ばしにされて
2日後にLINEで「ありがとう、でも自分に自信がないからごめん、君には釣り合う人がいるよ」って
俺はこんなに好きだったのになー
「どうせ自分なんて」っていつも言ってたけどなんで俺が応援してるって知らなかったのかなーーー
それとも俺ごときに応援されてもなんとも思ってなかったんだろなー
友達にいじられたときはあー元気出さねえとなって「振られちゃったわー笑まじあいつ喪女かよ」って明るくしてたけど
ほんと辛かったんだよ
女子目線のボイスドラマなのになんで男の自分重ねてんだよって不甲斐ないのはあるんだけどさ
結局このボイスドラマも茜が片思いしてた男子は別の彼女とくっつくことになって
まだ自分に自信がないままなのかな
俺はいつまでも応援してんだけどな、どうせ届いてないんだろうけど
それとも自信を身につけて他の男となかよくしてんのかな、そうだったらいいんだけどなあ
俺は男だらけの研究室でなんの浮いた話もなく過ごしてるよ
2年前のことこんなに引きずってたなんてボイスドラマ聞くまでは自分では思わんかったな
あーこれ書きながらまた泣いてら
例えばコンビニでバイトしているときは、釣り銭間違いなんか日常茶飯事だったし、
作業のやり方は、5-6回教えてもらわないと絶対覚えられなかった。
どのくらいの頻度でつり銭間違いしていたんだ?
この世には2種類の人間がいる。やらかす人間とやらかさない人間である。私は後者の人間だ。やらかす人間とは、目があてられないほどに不器用で要領が悪く、他人からはどうすればそうなるの?と首をひねられ、挙げ句の果てには、ほとほとあきれられしまう状況にまでもっていくことのできる、悪い意味ですごい人間のことである。実際、私がやらかしたことに対して「逆にすごい」と評されたことが少なくない。
私がやらかす側の人間だという兆候はかなり前から現れていたように思える。学校生活では肝心な時に忘れ物が多かったり、時間割をよく間違えたりとか今思うと瑣末なやからしにすぎないのだが、たしかに他の人々と比較するとその分野では頭一つ抜けていた印象はあった。しかし、友達同士だったりクラスメイトといった内輪では笑って済まされるような場面が多かったので、そこまで私のやらかしは前景化しなかった。
その時から、やらかして笑いをとるスタイルを自分のものにしていた。図らずとも、私の最も得意とする笑いの取り方のひとつになってしまっていた。やらかしを笑いに昇華するという、ある種の荒業をやってのけるのは容易なことではない。今思うと、私がやらかしても、クラスメイトからはまぁあいつならそれくらいするよね、みたいな私なら許容される雰囲気が漂っていたし、それによってクスクス笑いが起きて場が和むという悪くない効果を上げていた気がしないでもない。私のやらかしは、周囲の諦観とも呼ぶべき雰囲気と嘲笑によって覆い隠されていたのだ。そういう状況だったもんだから、いじられキャラとしてのポジションを欲しいがままにしていた当時の私にとって、『やらかすこと=おいしい』という笑いの方程式が構築され、頭の片隅にあったことは間違いない。情けないことに、失敗で笑いを誘いその失敗をごまかすというなんとも残念な芸風を図らずとも確立してしまっていたのだ。今思えば、それは私なりの生存戦略だった気がする。やらかす側の人間だった私が生き延びる唯一の方法、それはやらかしによって笑いをとることだった。当時はまだ前景化していなかった私のやらかし指数の高さは自覚こそなかったが、自分の無意識においては既に把握済みだったのかもしれない。私がやらかしても事なきを得る環境をでっちあげようがために、私が大なり小なり失敗を犯しても笑ってもらえるような人間になるように、私の無意識が普段の言動や立ち回りを決定していた気がしてならない。
私がやらかす側の人間なんだと、いよいよ本格的に意識するようになったのは、大学生になってアルバイトを始めた時からだった。バイト先では、数々のやらかしをしてしまった。恥ずかしくて惨めな気持ちになるのでここではあんまり書きたくないのだが、例えばコンビニでバイトしているときは、釣り銭間違いなんか日常茶飯事だったし、作業のやり方は、5-6回教えてもらわないと絶対覚えられなかった。どんなに簡単な作業でも1回で覚えるのは不可能であった。ピ◯ーラ でバイトした時もコンビニ同様釣り銭間違いがひどく、もうなんで自分はこんなダメ人間なんだと自責の念にほぼ毎日襲われていた。やらかしても内輪では笑いで済まされるが、仕事だとそうはいかない。社会という荒野に一歩でも出ると、どんな小さな失敗でも許されないのだ。現在は、そういう事情もあってバイト恐怖症に罹患してしまい、バイトを探すこと自体は好きなので毎日かかさないのだが、またやらかしてしまうのではないかと私が犯した数々のやらかしがふと頭をよぎると、とたんに怖くなって申し込むのには二の足を踏んでしまう始末である。私にとって、なにかをやらかすことは前未来的に決定されている、避けられない宿痾みたいなものなのだ。バイトでもこんな体たらくなんだから、社会人としてはやっていけそうにないだろうと悲観している。
これ男女逆の釣りなのではなかろうか
これは、公立小学校に通う子どもが、学校でもらってきたチラシに書かれていたことばです。
どのようなチラシかというと、地域で行われる、防災意識を高めるイベントのものでした。
自衛隊の災害派遣車輌の展示や、自衛隊災害派遣カードゲームの配布などがあり、自衛官と対戦できるカードゲーム大会も行われるようです。
その、カードゲーム大会の説明文が、「自衛官をやっつけよう!!」だったのです。
もし、これが「警察官をやっつけよう!!」だったらどうでしょうか?使うとまずい表現だと感じませんか?
この表現が許されそうな場面を考えてみました。
力士と子どもたちの交流イベントで、力士と取組ができるというものであれば、「おすもうさんをやっつけよう!!」という表現でも良さそうです。
ここで問題なのは、これが「公立小学校で配られたチラシ」であるということです。
「釣りなんじゃないの!?」と思われた方は、このイベントを知っている方の目に付くまで拡散するよう、お願いしますね。
きっとそのうちのどなたかが、証拠の画像を上げてくれるでしょう。
どこに問題があるのか分かりにくかったようなので追記しますね。
災害時にお世話になることになる自衛官に対して、あまりにも失礼だと感じるのですよ。
ここで無難な表現は、せいぜい「自衛官と対戦しよう」「自衛官と一緒に遊ぼう」くらいではないか、と。
自分たちを守ってくれる方々に、敬意がないのです。
こういうチラシで、こういう表現を平気で使ってしまう感覚が恐ろしい。
例えばこれは
猫と犬どっちがかわいい?
なら、まぁ5:5だろうからアンケート取る意味あると思うのよ。
でも、
世紀末の時代、僕は匿名掲示板には真実が書かれていると信じ込んでいた。
(中略)
伸びるものもあれば伸びないものもあり、それらの釣果はまちまちだけど1つ確実に言えるのはそれらのほぼ全てがウソであるという事だ。
僕の書いた嘘を本気にした人たちが、アドバイスやマウントを投げかけては去っていくのを見るたびに、あの頃自分が真実だと思っていたことも同じように嘘であったことを実感する。
狭い画面の中で見てきた、この世界中のありとあらゆる奇妙な出来事、クラスの誰もが知らない自分だけが知っている、嘘みたいだけど本当にあった話、それらのうちで本当に本当だったのはきっと1割にも満たないだろう。
生身の人間が嘘ばかりつくのならインターネットで人は真実を語るはずだ、そんな生温い願望を持ち続ける者たちを釣り上げることで、自分の中で何らかの効力感を得ようと目論む人種がインターネットには多数潜んでいる。
僕もかつて、その願望に振り回された1人であり、今はその願望で人を振り回す1人である。
インターネットは嘘ばかりだ。
現実も当然のように嘘ばかりだ。
嘘ばかりの世界で生きていくには、それを楽しめるようにならないといけない。
そのために僕は今日も嘘をつく。
喪失感ではない。
心というかおなかのあたりにぽっかり穴が空いた感覚がする。よくいう喪失感に例えられる表現だ。しかしこれは喪失感ではない。
彼らは活動休止宣言をしてから実際の休止まで2年の猶予を与えてくれた。
何度も何度も彼らのあいだで話し合いを重ね、彼らも関係者も現状できる最大限の納得できる落としどころを見つけ、尚且つファンは心の整理をつけるのに時間がかかるだろうからと、この時期の発表。
何もかも妥当な決断だと思えた。何も間違ったことなどないと思えた。
それさえ切ない。
発表を知った時わたしはライブハウスにいた。とあるロックバンドのライブの日だった。
驚いて思考が一瞬止まったけれども、楽しみにしていたライブだったし、いま全力で楽しまなければバンドメンバーにも失礼にあたると必死に頭を切り替えて演奏をきいた。
終演後、ライブの余韻にすこし浸って、この度の発表をした彼らのことを考えた。
みるみるうちに視界が滲み、暗くつらい気持ちになった。たった一瞬で何もかも嫌になった。
彼らのことを憎いとは思わない。ずるい、にすこし似た感情を抱いた。
こんな気持ちになるくらいならもう誰も何も好きになりたくないとさえ思った。
でも、それでいいのかな?とも同時に思った。
チケットが当たって高揚した、当日までワクワクしながら準備して、いざコンサートで人生で1番じゃないかってくらい幸せな時間を過ごして、次のツアーまで早く会いたくてソワソワして、CDや雑誌やグッズに囲まれて、彼らの言動を深読みしたりファン同士の様々な意見を目の当たりにして勝手に嬉しくなったり落ち込んだりした。
思春期の大事な時期を彼らに寄り添ってもらった。それにどれだけ救われたか。
彼らが誇りに思うファンでいたかったから、彼らが恥ずかしく思うような行動はしないと心に決めていた。彼らに会いに行く時胸を張って笑顔でいられるようにと、本気でそう思っていた。
彼らを好きになったからこそ(わたしが勝手にだけども)辛い気持ちになったり嫌な思いをしたり、たくさんのことがあった。
でもそれをはるかに上回るくらいたくさん良いものも貰ってきたと思う。
少なくとも「好きにならなければ」なんて口が裂けても言いたくないくらいに。
ネガティブな感情もポジティブな感情も彼らからもらったものはやっぱり何も捨てたくない。
例え今まで、そしてこの先どんな嫌なことが起こったとしても。全ての感情含めて大事に歩んでいきたい。
そうは思うのだけど、しばらくは前向きにはなれそうにない。
わたしが1番熱心に彼らを応援していた時期から、もう何年も経っている。彼らが何か変わった訳ではなく、ただわたしが好きでい続けるのに疲れてしまったというだけだった。不安定な時期で、周囲の言葉に惑わされがちだったということもある。
あの頃から随分時が経って、休止という発表をもっと冷静に受け止められると思っていた。そんなことは一切なくて、彼らの決断を知った時からずっと大きく心が掻き乱されているし、気を抜くと涙が出てくる。
彼らの会見を見た。活動休止だというのに彼らは笑顔で、記者の粗野な質問には瞬時に強い意志で切り返して、どこまでも誠実で、やっぱり彼らを好きになって良かったと会見を見ている間何度も思った。
だからこそ、いやだつらいさみしいという言葉は間違っていないけどあの場に少々不釣り合いな気がしてしまって、口にできない。ある意味言わせてもらえないところが最高にずるいと思う。こんな誠実で大好きな彼らに、行かないでなんて言いたくないのだ。言いたいのに。事実彼らはどこにも行かない。嵐はずっと嵐でいつづけてくれる。そういう選択をしてくれた。今までくれた幸せな時間はなくならないし、休止なのだからいつかまたという夢も見せてくれる。それでも、さみしい。
彼らが5人揃って当たり前に活動している日常から、そうではない日常に移行する。その期限まで2年。2年経つまでにわたしたちは普通の顔をして、彼らが活動していない日常を生きていけるようにならなきゃいけない。そんなの全く自信がない。
現時点では、意外にすんなり受け入れられるのかもしれないという気持ちと、そんなの無理だよさみしいという気持ちが交互に押し寄せてくる。
会見を見て、彼らの誠実さに触れて、彼らの決断にどうしようもなく納得してしまった。こんな風に彼らが活動休止している日常に納得し、受け入れる日々が来るんだろう。
彼らは休止してもいつもわたしたちに寄り添ってくれるんだろう。だからこの気持ちは喪失感じゃない。何も失ってはいないから。ただ深く深くさみしいのだ。