2019-01-28

虹の彼方へ

喪失感ではない。

心というかおなかのあたりにぽっかり穴が空いた感覚がする。よくいう喪失感に例えられる表現だ。しかしこれは喪失感ではない。

彼らは活動休止宣言をしてから実際の休止まで2年の猶予を与えてくれた。

何度も何度も彼らのあいだで話し合いを重ね、彼らも関係者も現状できる最大限の納得できる落としどころを見つけ、尚且つファンは心の整理をつけるのに時間がかかるだろうからと、この時期の発表。

何もかも妥当決断だと思えた。何も間違ったことなどないと思えた。

いやだやめてなんて言うつもり毛頭ない。微塵も起こらない。

それさえ切ない。

発表を知った時わたしライブハウスにいた。とあるロックバンドライブの日だった。

驚いて思考が一瞬止まったけれども、楽しみにしていたライブだったし、いま全力で楽しまなければバンドメンバーにも失礼にあたると必死に頭を切り替えて演奏をきいた。

終演後、ライブの余韻にすこし浸って、この度の発表をした彼らのことを考えた。

みるみるうちに視界が滲み、暗くつらい気持ちになった。たった一瞬で何もかも嫌になった。

彼らのことを憎いとは思わない。ずるい、にすこし似た感情を抱いた。

こんな気持ちになるくらいならもう誰も何も好きになりたくないとさえ思った。

でも、それでいいのかな?とも同時に思った。

チケットが当たって高揚した、当日までワクワクしながら準備して、いざコンサート人生で1番じゃないかってくらい幸せ時間を過ごして、次のツアーまで早く会いたくてソワソワして、CD雑誌やグッズに囲まれて、彼らの言動深読みしたりファン同士の様々な意見を目の当たりにして勝手に嬉しくなったり落ち込んだりした。

思春期大事な時期を彼らに寄り添ってもらった。それにどれだけ救われたか

彼らが誇りに思うファンでいたかたから、彼らが恥ずかしく思うような行動はしないと心に決めていた。彼らに会いに行く時胸を張って笑顔でいられるようにと、本気でそう思っていた。

彼らを好きになったからこそ(わたし勝手にだけども)辛い気持ちになったり嫌な思いをしたり、たくさんのことがあった。

でもそれをはるかに上回るくらいたくさん良いものも貰ってきたと思う。

少なくとも「好きにならなければ」なんて口が裂けても言いたくないくらいに。

ネガティブ感情ポジティブ感情も彼らからもらったものはやっぱり何も捨てたくない。

例え今まで、そしてこの先どんな嫌なことが起こったとしても。全ての感情含めて大事に歩んでいきたい。

そうは思うのだけど、しばらくは前向きにはなれそうにない。

わたしが1番熱心に彼らを応援していた時期から、もう何年も経っている。彼らが何か変わった訳ではなく、ただわたしが好きでい続けるのに疲れてしまったというだけだった。不安定な時期で、周囲の言葉に惑わされがちだったということもある。

あの頃から随分時が経って、休止という発表をもっと冷静に受け止められると思っていた。そんなことは一切なくて、彼らの決断を知った時からずっと大きく心が掻き乱されているし、気を抜くと涙が出てくる。

彼らの会見を見た。活動休止だというのに彼らは笑顔で、記者の粗野な質問には瞬時に強い意志切り返して、どこまでも誠実で、やっぱり彼らを好きになって良かったと会見を見ている間何度も思った。

からこそ、いやだつらいさみしいという言葉は間違っていないけどあの場に少々不釣り合いな気がしてしまって、口にできない。ある意味言わせてもらえないところが最高にずるいと思う。こんな誠実で大好きな彼らに、行かないでなんて言いたくないのだ。言いたいのに。事実彼らはどこにも行かない。嵐はずっと嵐でいつづけてくれる。そういう選択をしてくれた。今までくれた幸せ時間はなくならないし、休止なのだからいつかまたという夢も見せてくれる。それでも、さみしい。

彼らが5人揃って当たり前に活動している日常から、そうではない日常に移行する。その期限まで2年。2年経つまでにわたしたちは普通の顔をして、彼らが活動していない日常を生きていけるようにならなきゃいけない。そんなの全く自信がない。

現時点では、意外にすんなり受け入れられるのかもしれないという気持ちと、そんなの無理だよさみしいという気持ちが交互に押し寄せてくる。

会見を見て、彼らの誠実さに触れて、彼らの決断にどうしようもなく納得してしまった。こんな風に彼らが活動休止している日常に納得し、受け入れる日々が来るんだろう。

彼らは休止してもいつもわたしたちに寄り添ってくれるんだろう。だからこの気持ち喪失感じゃない。何も失ってはいいから。ただ深く深くさみしいのだ。

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