はてなキーワード: 小学校とは
「言葉は変化する」
メガネをクィッと上げながら「幼稚な君たちはわかってないと思うけど」みたいな雰囲気を出してくる。
残念きわまりない。
みんなとっっっっっっっくにわかってるんだよねそんなことは。
わかった上で、「その乱れは変化として許容できるところまで来ているかどうか」とか「現時点で新しい語彙と認めてしまってもよいかどうか」を論じてるんだよね。
裁判にたとえると、みんなが「刑期はどのくらいがいいか、執行猶予をつけるべきか」と話し合ってるところに割り込んできて「有罪だぞ!」と騒いでる人。
言ってることが周回遅れなわけ。もうそのレイヤーの話は終わってるのにね。
きのうは「一番」を「1番」と書いてもよいかが話題になっていた。
いますね、何人か。変化するおじさん。
まったく相手にされず「はいはい(苦笑)」という雰囲気がほかのブコメから伝わってくる。
「言葉は変化する」という意見の背後には、「だから日本語の乱れは許容すべきだ」という価値観が隠れている。
だがよく考えてみてほしい。
あらゆる言葉の乱れを許容するということは、誰もが自分が好きな意味で言葉を使っていいということになる。
既存の単語の意味を捻じ曲げることだって変化には違いないわけだからね。
若手社員がお客さんに「こちらの資料を拝見してください」って言って差し出したらどうする?
叱るでしょ? 「これも日本語の変化だから」って笑って許容するの?
コーディングしたプログラムをコンパイルして実行ファイルを作ることを「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットを作る」と言ったっていいわけだ。
言葉の意味や使い方には互いの中である程度の共通認識が必要で、コミュニケーションはコンセンサスの上で成り立っている。
つまり、野放図に言葉の意味が変化してしまったらコミュニケーションが阻害されるわけ。
だから義務教育には国語という教科があって、言葉の意味や使い方について統一した見解を子供のうちから学ぶわけよ。
バベルの塔の建立に腹を立てた神は人々から共通言語を奪い、バラバラな言語を与えた。
人々は意思の疎通が難しくなり、バベルの塔の建設をやめて世界に散り散りになってしまった。
言葉は変化するおじさんのやっていることもこれだ。秩序の破壊だ。
「言葉は変化する」と言いたくなったらまずやってほしいことがある。
自分が小学校か中学校の先生になったつもりで、生徒がテストに書いてきたらマルをつけるかバツをつけるか考えてみてほしい。
あるいは、小学校か中学校の子を持つ親になったつもりで、子が宿題に書いていたらどう言うか考えてみてほしい。
「言いたいことはわかるが、それでは点数をやれない/もらえない」
そう思うんだったら、まだその日本語の乱れは変化として許容するには時期尚早だということだ。
赤と緑のライトで状態を表す家電品が増えたので、色覚異常が原因で日常生活に支障が出る事が多くなった。
例えば充電器は「赤が充電中」「緑が充電完了」な製品が多いが、色の判別が出来ないので諦めて半日充電するとか。
色覚検査をして、出来たのはレンズがピンク色のサングラスみたいな物だった。
・小学校時代のトラウマ「石原式色覚検査表」の丸に、数字が見えた
・毎年デパートで見かけた緑色の謎看板に、赤文字で「Merry Christmas」と書かれているのが見えた
色覚異常の話題で見る「写真を2枚並べて、片方に特定の色を重ねる」画像は、今まで大抵同じ画像に見えていた。
もしかしたら色覚レンズで見るピンク色の見え方が正しく、今までピンク色が認識出来ていなかっただけで、世界はピンク色だったのかもしれない。
しかし景色がピンク色で上書きされるので、違和感がひどい。白米や紙などの白色がピンク色になる。
誰もが自明の前提として、大学は金持ちの道楽だと理解している。
基本的には、社会の大半の業務に関する汎用知識は、小学校から高校卒業までの年月をかければ十分獲得できる。
しかし大学はわざわざ高い学費を支払って学ばなければならないのだ。
貧者の親は、子供に対して「学費はお前自身で稼げ」と言うだろう。その子供が学ぶ能力があっても、である。
自分自身で学費を払わなければならない者だけが、「大学は金持ちの道楽である」という文章を真に理解することができる。
しかし、学ぶことは主体的行為であるので、大学を必要としない。
仮に「超弦理論を学びたい」と思えば、インターネットを使うだけで学ぶことができる。
この世の中はすでに「アテンションエコノミー」であると言われている。なぜ大学へアテンションを注ぐことを当たり前の行為と考えなければならないのか。
確かに、学歴フィルターといって応募者を足切りするJTCも沢山あるだろう。だからなんだというのか。東大・京大へ行けない者は高卒で良いではないか。
例えば英語とプログラミングのスキルを持っていれば、国際的に働くことは可能だろう。そのようなスキルは無料で手に入れられる。
エリートたちが金の余裕のある層を評価し、社会を牛耳るならば、非エリートは別のやり方を模索するべきだ。
エリートに従順に従うのではなく、非エリートのコミュニティを作り、非エリートのやり方で知識・スキルを向上させ、そのコミュニティの中でイノベーションを起こす。
シリコンバレーでは、大物が大学中退者であることが多いという伝統がある。
従順な羊であることをやめよう。非エリートは、羊を先導する山羊であることを望め。山羊は確かにスケープゴートとして駆使されるが、経験豊富であることは確かだ。
小学生はその自由と人権を学んでる最中なのでね……私たち大人と同じように考えない方がいいよ。
まあ一度小学校の現場(とくに低学年)に来てみなさいって。本当にすごいから。
管理が「面倒」とかいうレベルじゃないから。あれをコントロールできる先生すごいよ。
私だって学校も先生も嫌いだったけど、はじめて尊敬したもん。学校ボランティア行って。
たまにコントロールしきれてない先生もいたりするけど無理ないと思う。
人権以前に「人間になる練習中」の子が多いのよ。その無秩序を放置すると普通に躾できてる子たちがしんどいし。
とにかくまずは教室の秩序が大事。子供たちの(心理的な)安全の方が大事。自由とか人権とかいうお話をするのはそれからなんだよ。
「小学校でシャーペン禁止」が吹き上がるたびに、いっぺん小学校きて先生やってみ?って思っちゃう。
少なくとも小学生の子(特に活発な男子)がいたら、なんで小学校でシャーペンを禁止したいのか理解できると思うんだけど。
コンセントに芯を突っ込むとかそういう話「だけ」じゃないのよ。
>管理が面倒だしガキが調子づくのはムカつくから全部禁止にしたろ、とか
>無意味で不合理なルールに後付けで無理やり理由を考える、とか
確かにうちの小学校も低学年のとき「鉛筆キャップ」さえ禁止になったこともあって、なんで?ってなったけど、
実はキャップ持ってくのが流行ってて、でも落ちたやつをうっかり踏み潰したりとかで、トラブル続出になってたってわけよ。
キャップを盗った盗らないのトラブルもあったりで。たかが鉛筆キャップされど鉛筆キャップなのよ。
鉛筆キャップでこれだからシャーペンはもっとすごいことになりそうよね(まあ高学年になればトラブルも減るだろうから解禁してもいいだろうけど)。
そんなんが毎日、毎時間ちょっとずつ起こること想像してみて?ご存知のように先生暇じゃないのよ。同時に他のトラブルも起こるんだから。
学校の事情を知ると、何かの禁止の背景には何かあるんだなって想像するようになる。
一見死ぬ程くだらないとか不合理とかに見えることも、聞いてみればちゃんと事情があってしょうがないかなって思えることもあるんだよね。
想像力や好奇心?そう思ってた時期が私にもありましたが、そう思うならそういうのにいちいち付き合ってくれる学校に入れた方がいい。