いとこが全然祖父母宅に来ない愚痴を祖母から聞いて、あぁ、叔母さんは逃げきれたんだなって思った。
うちは代々創価で、叔母さんは会員じゃない人だった。小さい頃はよくいとこに会ってたけど、高校に上がってから会えなくなって、どうやら上手いこと交わしているらしい。
なんなら今は、おばさんじゃなくておじさん(祖母の息子)が完全に窓口になって、祖父母宅とは関わらないようにしてるみたい。でもそれでいいと思う、いとこはこのまま、学会には関わらないで生きていって欲しい。そっちの方が絶対幸せになれるから。小姑(うちの母)とかにも絡まれて大変だっただろうなぁ。
願わくば、わたしの知らないところで幸せになって欲しい。わたしが知ることになるというのは、学会に捕捉されてしまったということだから。わたしも、彼女の幸せを遠くから願うことにする。
いとこが全然祖父母宅に来ない愚痴を祖母から聞いて、あぁ、叔母さんは逃げきれたんだなって思った。
うちは代々創価で、叔母さんは会員じゃない人だった。小さい頃はよくいとこに会ってたけど、高校に上がってから会えなくなって、どうやら上手いこと交わしているらしい。
なんなら今は、おばさんじゃなくておじさん(祖母の息子)が完全に窓口になって、祖父母宅とは関わらないようにしてるみたい。でもそれでいいと思う、いとこはこのまま、学会には関わらないで生きていって欲しい。そっちの方が絶対幸せになれるから。小姑(うちの母)とかにも絡まれて大変だっただろうなぁ。
願わくば、わたしの知らないところで幸せになって欲しい。わたしが知ることになるというのは、学会に捕捉されてしまったということだから。わたしも、彼女の幸せを遠くから願うことにする。
長年母親と二人っきりで生きてきて
その母も精神疾患を抱えてついには自ら命を絶って
残された私は天涯孤独
親戚づきあいもなく友人もなく
本当に本当のひとりぼっち
別に決心してたわけではないけど
どうせ自分はもう一人で生きていくしかないんだ…といろんなことを諦めていて
だけど数年たって
やっぱりとてつもなく寂しくて辛くて
”家族”の距離感で心を開ける人間関係なんてもう誰とも築ける気がしない
当たり前に家族・友人・恋人と一緒にいられる世の中の人たちがうらやましくてしょうがない
自分がみじめすぎる
だから、正直もう外にも出たくない
多少のみじめさは残るだろうけど…
もう何も考えたくない
家族だからというよりも、付き合っている頃からそうだ。私をニコニコしながら見つめて、なんか喋れば爆笑して、「おまえとおったらおもろいわ。どこのどいつもかなわんわ」みたいな感じで私と一緒に過ごしてくれる。
私の何が面白いのかはよくわからないけど、腹から声出してグハハハと笑ってるので何かがツボなんだろう。私も、それだけ楽しそうにしてくれるなら満更でもない。これが相性ってやつか。
朝起きて「ハグしておくんなまし」というと両手を広げてハグしてくれる。寝室は別だけど、寝る前は「チューしないの?」と聞いてくれる。
唐突に「野菜にくっついてた昆虫を飼う」と言っても怒らない。なんなら1日1回くらいは生きてるか確認してる。「ゴミ捨てやっておくんなまし」と言いまくってたら、いつの間にか週二回ぜんぶしっかり捨ててくれる素敵な旦那さんになった。こちらが料理をしたら洗い物を担当してくれるし、ゴミの日の前日は排水口もしっかり洗ってくれる。
それらが彼の負担になっていないか気になるところだが、そんな風にしてくれて私は快適幸せハッピーエブリデーなので、本当に文字通り、毎日心からありがとうと思う。
週末は彼の方がよく料理をしてくれる。焼きうどんやチャーハン、ラーメン。私が作らないものを上手に作るので出来上がるのが楽しみ。調理器具も食べるまでに洗ってくれるので洗い物がラクチン。私は魚を焼いた後のグリルの洗い物を彼に任せてるのに。
平日、リモート勤務の日は私がつくる。大したものはつくらないけど、ふと「これはおじいちゃんになっても食いたい」なんて言ってくれることがあって嬉しい。痩せ型からムクムクと太り続ける彼がこれ以上太らないように魚にしたりササミにしたりしてるけど腹はどんどん出てくる。なぜなのだ。
一緒に暮らして2年半。結婚して数ヶ月。婚姻前後で特に何もかわらない生活をしてるけど、彼の結婚指輪がチラッと目に入ると「おそろいだ!」とか「私の旦那さんだ!」とか思えるので嬉しい。
出会ったのはコロナ禍に入ってからなので、2010年代はこんな毎日が待ってるなんて思いもしなかった。
それも50代とかのおばさん
おそらくセックスしなくなって、このまま一生セックスしないって思うと怖くなるんだろうな
おばさんだから一切気を使う必要ないし、めんどくさくなったら切ればいいだけ
もちろんお世辞は言えよ
30代って言われても分からないとか、かわいいとか適当に褒めとけば、脳みそ腐り始めてるから簡単に信じる
後はとにかく性欲のはけ口に使うだけ
それが一番喜ぶから
中国、改正国防教育法施行 小中高大で強軍へ意識向上「兵役は栄誉の雰囲気つくる」
https://www.sankei.com/article/20240920-ECJK6Y6QIRNEVNICBFY3PGUT2Y/
小中高校、大学と教育の各段階で目標を設定して国防意識を向上させ、兵役に就く意欲を高める。
我々もやらなければならない
「振り返ると、あの時代はやはり、日本の近代政治において最も暗い時期だったと思います。」
203X年、政治学者や社会評論家たちは、202X年に起こった日本共産党(JCP)の政権奪取について語る時、その口調には重い沈黙が伴う。彼らは、あの時代がどれほどの混乱と失望に満ちていたか、そしてその後遺症が今なお日本社会に影を落としていることを痛感している。
202X年、日本は長年の自民党政権が突如として崩壊し、JCPが第一党となった。この大転換の背景には、経済の長期停滞、深まる経済格差、そして自民党政権に対する国民の信頼崩壊があった。特に、若者たちは未来に希望を見出すことができず、自民党の保守的な政策が彼らの生活を改善することはなかった。就職難、住宅価格の高騰、少子化の進行、そして年金問題が絡み合い、多くの若者は「変革」しか道はないと感じていた。
「JCPが政権を取ったのは、国民が積極的に共産主義を支持したわけではなく、既存の政党に絶望した結果です。彼らは、もはや失うものがないと感じていたのです」と、ある政治学者は語る。国民の多くがJCPに託したのは希望ではなく、破壊的な変革によって何かが変わることへの淡い期待だった。しかし、それがどのような結末をもたらすか、誰も理解していなかった。
JCPが政権を取ると、直ちにその理想主義的な政策が打ち出された。最低賃金の大幅引き上げ、労働者の権利強化、累進課税の強化、大企業への規制強化が次々と施行され、政府は「労働者のための新しい時代」を謳い上げた。しかし、その影響はすぐに経済に現れた。中小企業は増大するコスト負担に耐えられず、倒産が相次ぎ、雇用が急激に縮小した。
「労働者を保護しようとする政策が、逆に労働市場全体を破壊してしまいました。企業は資本を海外に移し、失業率は急上昇。残された労働者たちは、希望があったはずの政策に失望していました」と、当時の経済学者は述懐する。失業者の増加は、JCPが掲げた「平等な社会」という理想とは程遠い現実を突きつけ、社会的な混乱が一気に広がった。
国内の経済問題に加えて、JCPの外交政策もまた重大な転換点を迎えた。日米安保条約の廃止という政策は、彼らが政権を握る前から掲げていたが、政権奪取後にそれが実現に向かって進み始めると、国内外で強い反発が生じた。アメリカ政府は日本の防衛義務を放棄するかのような動きに対し、厳しい態度を取り始め、日本は一気に国際社会から孤立し始めた。
「防衛の空白をどう埋めるのか、政府は明確な答えを持っていませんでした。非武装中立を掲げたものの、現実の脅威に対して無策であることが露呈しました」と、元防衛省高官は述べている。中国や北朝鮮の軍事的脅威が増大する中、日本は自らの安全保障を担保できなくなり、防衛力強化に急遽乗り出す必要があったが、それはJCPの理念と大きく矛盾していた。
さらに、JCP内部では早くから対立が生じていた。理想主義を貫こうとする急進派と、現実路線を模索する穏健派の間での争いが激化し、党内の団結は次第に崩壊していった。当初、改革の旗手として国民の期待を集めたJCPであったが、内部の混乱が続く中で政策は一貫性を失い、党内の一部は離党を示唆するに至った。
「党が掲げた理想が実現できず、むしろ国民生活を悪化させてしまったという自覚が、党内の若手議員たちに広がり始めました。改革が進まないどころか、全てが行き詰まっていたのです」と、元JCPの党員が当時を振り返るように、政党内部での分裂が政権運営に大きな打撃を与えた。
こうした混乱の中で、国民の間には急速に幻滅が広がった。JCP政権に期待をかけていた層は、経済の悪化と外交問題に直面し、自分たちの選択が間違っていたことに気付き始めた。特に、地方経済は完全に崩壊状態に陥り、失業率の上昇と福祉の低下が重なり、国民生活は次第に悪化していった。
「私たちはあの時、変革が希望になると信じていました。しかし、現実は違った。私たちの選択が、むしろ日本をさらに苦しめる結果になったのです」と、当時若者だった国民が述べるように、社会全体が「変革の失敗」を痛感するに至った。もはや希望はなく、政治に対する信頼も完全に失われていた。
「あの時代は、私たちがいかに無力だったかを象徴している」と、203X年の社会評論家は語る。JCPの政権運営は理想と現実の乖離によって破綻し、日本社会は深刻な分断と停滞に陥った。この経験から得た教訓は、「政治の選択がいかに国の未来を左右するか」という厳しい現実であり、今後の日本社会がこれを乗り越えるためには、あの「悲しい時代」の失敗を忘れてはならない。
「日本があの時、何を失ったのか。そして、それを取り戻すのがいかに難しいか。それを思い出すたび、私は胸が痛むのです」と、識者は静かに言葉を結んだ。
「どうすれば変えられたのか、悔やんでも悔やみきれない」
多くの識者がこのように反省の念を抱きながらも、振り返れば、それはもはや手遅れであることを知っている。あの時、何かが変わっていれば――もっと早くに、目の前の問題が見えていたならば――日本は、異なる未来を手にしていたかもしれない。だが、その「もしも」は、今となっては叶わない夢であり、選び取った結果の重さを受け入れるしかないという現実に、人々は否応なく直面している。
「私たちは無力だった。しかし、もっと無力だったのは、あの危機が目前に迫っていたにもかかわらず、誰もがそれを本気で直視しようとしなかったことです。無知や油断、そして過信が日本をあの道へと進ませたのです。」
振り返って見えるのは、自らが選び取った決断の結果であり、それを避けることができたはずだという後悔の念に駆られた国民の姿だ。もしも当時、もっと冷静に、もっと現実を見つめていたら――この反省は未来の日本に引き継がれなければならない。
識者はそう締めくくりながらも、その言葉には、深い屈辱と悔恨がにじんでいた。失われた時代に何もできなかった無力感が、未来への一歩を踏み出すべき教訓として刻み込まれた。そしてそれは、次の世代に託された希望への道標となることを願っているかのように、静かに語られていた。