年度の変わり目は、うちの職場の繁忙期だ。前年度の後始末をしつつ、新年度のスタートを滞りなくできるよう仕事を進めないといけない。
が、片付けられない女でかつマルチタスクの苦手な私は何から手を付けていいのか分からない状態に陥っている。たぶん淡々と前年度の仕事を片付けるのが一番楽だと思うけど、宅急便が届いたり、注文した品物の納品が来たり、電話がかかってきたりしてそれもままならない。
文房具とか仕事に必要な消耗品の手配をするのも私の仕事なんだけど、簡単にカタログで選んで注文できる品物ならともかく、型番とか調べて業者に手配しないといけない代物になると面倒になって後回しにしてしまう。
上司は別室にいて私の仕事の進捗を把握できないし、同室にいる先輩は片付け大好き人間で仕事の段取りも良いので、とっととやるべきことを片付けて帰ってしまう。私は一体どうすれば良いのだ?たぶん残業とか休日出勤とかしないと間に合わない状況なんだが、基本的に怠け者で楽して生きて行きたい人間なので、定時が来ると帰りたくなるし、休日に出勤するなんてあり得ない。
机が片付いてないと、必要な書類が見つからなくて手間取ることも多いけど、何から片付ければいいか分からない。昼間は特にあちこちから頼まれることも多くて、マイペースで一つずつ片付けることもできず、混乱してなかなか仕事が前に進まない。
自分では発達障害もしくはその傾向ありなんじゃないかと思ってるんだけど、私の机が汚いという人はいても私の混乱を気にかけてくれる人はいない。自分にあれこれ頼んでくる人たちの方が確かに残業とかが多いので、気を遣ってもらおうというのが間違いかも知れないけど、とにかく職場にいるのが苦痛だ。
あ~発達障害の診断書手に入らないかな。医者とかに「この人はいっぺんに色々な仕事をこなすことができないので、仕事の振り方に配慮してください。」って言ってもらえると嬉しいんだけど。
ケッタって言ってる
案ならわかるけど「べき」と言い切る理由は?
本社やメインの開発拠点は文字通りフレックス制を上司への許可を得ることなく利用できる。
一方、工場関連の部署と開発部署が同居する我が拠点は「工場と協力体制を築く必要がある」などという謎理由により、定時出社が不文律。
フレックス出社しようものなら、異端児扱いされる。一応言っておくと、使えないわけではなく、上司に逐一連絡しさえすれば取得可能だが、そんなのめんどくせえ。
百歩譲って、わいが工場の生産に関わる部署の人間なら「ぐぬぬやむなし」と思えるが、ただ同じ場所にあるというだけで「分かっているよな?」と同調圧力かけられるのは何なの?って思う。
その割に、退勤のフレックスは緩いんだよなー謎。
以上、新入社員の戯言でしたと書こうと思ったが、まだ新入社員は研修期間だったわ。2年目の戯言でしたー。
(使えるだけマシなどの想定コメントは甘んじて受け入れる)
けものフレンズ2について1への「悪意」があると良く言われる。あるいは悪意ではなくとも、「1の優しさと相互認証に対して、孤独と自己肯定の物語を描こうとした(筆者要約)」(http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52306934.html)といった意見がある。
確かに、そう受け取れる描写はあるのだが、その多くは、1と2の思想基盤の違いから来てるのではないかと思うのだ。
けもフレ1のジャパリパークは、人間がいなくなって長らく経つ世界で、動物たちが気ままに暮らしている世界である。「ヒト」というのもフレンズの一種であり、対等の存在として描かれる。
一方の、けもフレ2では、人間と動物の違い、人間が動物の上に立つモチーフが強調される。拍手とご褒美を要求するイルカしかり、イエイヌしかり。ここに居心地の悪さを感じるのは当たり前の話であり、「悪意」を見いだす人も多い。
これはしかし、けもフレ2が、けもフレ1を否定しているというよりかは、アプリ版等の大本のコンセプトに近い。今からなら漫画版が一番手に入りやすいだろうか。そのコンセプトは、昔風の「動物園」であり「飼育員と動物」「飼い主とペット」の友情物語である。飼い主とペットに上下関係はあるが、お互いそれに満足しており、飼い主は責任持って、ペットの世話を世話をし、ペットは飼い主を喜ばせ、芸をする。それはそれで、一つの関係だろう。
なぜ、それが、けもフレ1で変わったか。理由はいくつか考えられる。
大きな理由は、舞台が「人間がいなくなってる世界」だからだろう。人間の世話に答えて動物が人間を好きなのは良いとして、人間がいなくなってる世界で、それでも一方的に人間を崇める動物というのは、まぁ、あまり気分のいいものではない。
もう一つ。現代的な動物園は、見世物的な展示、ショーは避け、動物になるべく野生に近い生活をさせ、ありのままの生態を見せる方向へ進んでいる。フィクション上の動物園がどういうものであっても良いと思うが、現実の動物園とコラボ、協力する作品において、旧時代的な動物園を肯定したくない、というのもあっただろう。
けもフレ1は、サファリパークだったり、行動展示だったりする現代風の動物園、アプリ版、けもフレ2は、旧来の見世物的な展示をする動物園と言った具合だろう(参考:http://kemono-friendsch.com/archives/77528)。
けもフレ2は、おそらくは、アプリ版の「飼育員と動物」関係に基づいて話を作ろうとしたのだと思う。が、けもフレ1の続編という形も取ったため、前述の矛盾点が噴き出してしまっている。アプリ版の路線を復活させるならさせるで、どうすれば良いかを練るべきであった(それが許されない環境は多々ある)。
「人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。多分これは「悪意」ではなく、「深く考えていなかった」ことだろう。
同様に「人間と対等な知的生物」としてのフレンズを描いた続編で、「人間に芸を披露して喜ぶフレンズ」を出すのは、えぐい。これも「悪意」ではなく以下略。
気持ちよいお話のセオリーの一つとして、内面世界と外部のシンクロというものがある。
主人公が悩んで心が暗い時は、夜だったり、雨が降ったりして、世界も暗くなる。
主人公が悩みを克服すると、夜が明けたり、空が晴れたりして、バトルで勝利したりする。
リアリティラインが低い作品の場合、深い理由がなく、そのまま内面が世界に反映する。
魔王が復活する時は、黒雲が渦巻いて雷が鳴ったりする。悩みを克服した主人公は、勢いで超パワーアップしたりする。
現実レベルが高い作品の場合、そうはいかないので、偶然で説明できる範囲のささやかなことであったり、なんらかの理由、必然性があったりする。
主人公が悩んでる時に、雨が降ってるのは、「たまたま」「偶然」の範囲であり、悩みが吹っ切れて、主人公がバトルで勝つ時は、「悩みのせいで今まで気づかなかったけど、あいつにはこんな弱点が」という閃きがあったりする。
けもフレ2では、カタカケフウチョウ、カンザシフウチョウが、内面の声を代弁しまくる。キュルルの「思い入れ」が、絵を通したり、通さなかったりして、直接、セルリアンに反映するらしい。これらの深い理由、解説等はない。
ホテルでは絶滅動物のリョコウバトのぬいぐるみが売り切れてたりする。「たまたまリョコウバトだけ売り切れだった」なら「作中現実としては偶然」で済むが、「レッサーパンダとオオアルマジロとリョコウバトが少なく、ハブはいっぱいある」までやると偶然では説明できなくなる。が、これも理由は特に語られない。
ここからわかるのは、けもフレ2は、リアリティラインが低めの、「ふわっとしたファンタジー・童話的な世界」であるということだ。
一方、けもフレ1は、作品内論理の整合性は、SF的に取っている部分が大きかった。ラッキービーストが人の声にだけ反応する、ジャパリカフェに、太陽電池がある等、SF的なガジェットがあり、崩壊世界の日常がどう維持されてるかが目配りされている。もちろん、作中で全部の設定を説明するわけにはいかないにせよ、目につく範囲での、あからさまな矛盾は減らし、それによって、「かばんちゃんの正体」と言った謎に緊張感が残った。
けもフレ2単体で見た場合、リアリティライン低めの作品だと受け止められるのだが、リアリティラインが高めの1を見たあとに2を見ると、アラや問題が多く見えてくる。
ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的にリアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる。ここもまた「悪意」ではなく以下略。
イエイヌの報われなさっぷり、ビーストがホテルの下敷きになったことを誰も気にしてない等は、悪意として描くなら、もっと強調のさせ方、後への繋げ方があるはずなわけで、ストーリーとして処理しきれなかったと考えたほうがよさそうだ。
・かばんさんに何があったかはわからない、偉い人が作るだろうと
・かばんさんの経緯は知らないが、再会の喜びを描いた
サーバルがなぜ、記憶をなくしたっぽいのかも、かばんさんとの間に何があったのかも、監督自体知らされてないのなら、「それっぽい」シーンでお茶を濁すくらいしかできないだろう。
もちろん設定がないだけなら、他にやりようがあったかもだが、こういう状況だと設定がないまま、あーしろこーしろと言われた可能性が強い。ご愁傷様である。
自分が見た範囲では「けもフレ2」に見いだされる悪意は、1,2のコンセプトの差(およびそれに対する無策)、脚本・演出技術の未熟、現場のしがらみ、などで説明がつくものであった。
嫁が人のモノを勝手に捨てる。
子供が2歳ぐらいのころに俺が買ってきたお風呂のアヒルさんとかシャンプーハットを、
・どっちも買って数年で真新しい状態。
・5歳になった今ではほとんど使わないが、邪魔になるほどスペースを喰うモノではない。
こんな状況でなぜ易々とゴミ箱に突っ込むという判断をしてしまうのか。
その前にも、ずっと中古車に乗っていたところ、嫁の強い要望で新車を買って、
人生で初めて新車を買った記念に新車のパンフとか書類一式を押し入れにしまっていたら
何のために稼いでいるのか,陰鬱な気分になる。
よく話し合えってことだよ