😺きょうはまだおねむじゃないんでちゅか?
若い頃に化粧していると肌の荒れに対してほんの少しでも気になって、いつもよりも化粧に時間をかけるようになるって。
それを繰り返してると、どんどん時間を費やすようになって通勤時も出勤時もどこでも気になって仕方ないとか。
でも絵を書くのがやめられなくてずるずる続けてたらなんかだせば数十万安定してかせげるようになった
ここまで同じような作業繰り返して18年とかだよ早い人なら3年とか
でもはじめて数ヶ月で、っていうやつは誰もいない
増田は「いつか成功したい」じゃなくて「最初から大成功したい」んでょ?だから苦しいんだよ
でも普通にそれはありえない
こればかりは1億人に1人の才能でもありえない気がする
逆に最初から成功してるように見せかけたくて経歴リセットしたり勉強期間をなにもやってなかったことにするやつはごまんといる
「初めての投稿です」とかたいてい嘘だしね
経験者側になると、それが本当に素人の初めての発想なのか、試行錯誤や失敗した結果調整したものかどうかなんてすぐわかる
増田はそれもわからないからきっかけになった人の裏の努力とかも多分見えてないんだよ
見抜く目が身についてないというか
別の名前であちこちで増田のような挫折してきたけど恥ずかしいからなかったことにしてる人になりたいならなればいい
理想の結果が出なくてもなぜか続けられるものが「向いてるもの」だよ
いただろうか?
さくらももこ氏の訃報を聞いてふと気になったが、どうにも思い出せない。学齢で言えば小学1、2年生の頃だが、どちらかというと幼い頃は『なかよし』に夢中になっていたような気がする。
当時の『りぼん』は、『なかよし』に比べて恋愛要素の強い作品が多いイメージだった。とは言え対象年齢的には、自分のような田舎の女児がぼんやり理解してドキドキできる程度の、恋の入口やもどかしさを描いた作品が多かったのだと思う。
言わずもがなの「ちびまる子ちゃん」と「お父さんは心配症」である。
私は、ひたすらに「お父さんは心配症」の父・光太郎が怖かった。ハイテンションで誌面の中を飛び回り、典子への行き過ぎた愛情から北野くんとの恋愛どころか自分自身まで自虐でぶち壊しまくる光太郎が、ひたすらに怖かった。ページを開きたくなくて、作品ページをホチキスで止めていたかもしれない。他の怖い本はそうしていたから。
逆に「ちびまる子ちゃん」は癒しの作品だった。恋愛ものに息切れした女児のオアシスのように、まる子はただただ普通に、家族と友人と、そこで暮らしていた。あるあるネタと少しだけ古い時代背景と共に、穏やかに、時にシニカルな空気を携えて、毎月私の所へやってきた。
そう、「ちびまる子ちゃん」は連載時に既にレトロだった。私の知っている人気アイドルはヒデキではなく光GENJIだったし、百恵ちゃんは引退していた。アニメ放送を母と見ながら解説を受けるまで、私の中でヒデキと西城秀樹は繋がっていなかったし、百恵ちゃんはまる子が憧れる女の子のままだったのだ。
「お父さんは心配症」の異質性が『秩序の破壊』だったとすれば、「ちびまる子ちゃん」のそれは『虚実を織り交ぜた過去』だったと私は思っている。
乱暴な括りだが、私にとっての当時の『りぼん』作品は、基本的には未来を指向した現在進行形のものだった。ドジで失敗ばかりの現状であっても、これから自分はどうしたいか、どうなりたいのか、主人公は常に考え続ける。人の自然な成熟過程をなぞり、周囲の支えを受けながら、成功も失敗も糧にして成長していく。
そういう理想の学園生活がキラキラと眩しく、同時に私にはどこか息苦しかった。
「今よりももっとかわいくなれる」
その語尾に、私は「…なくてはならない」という言葉を感じ取っていたのだと思う。
作品世界に憧れることと、自分の身に置き換えることは決してイコールではないのだが、拙い想像の中であっても「私はこうなれないだろうなあ」と諦めることは、大人になった今思うより苦しかったのかもしれない。
前述の時代背景と共に、まる子が作者の子ども時代をモデルにしているということは知っていた。つまり、すでに「結末が確定していること」であり、「私ではないひと」の話だった。
まる子も成長し、恋愛や友人関係や自分のコンプレックスに深く思い悩む日が来るのかもしれない。しかし、それは永遠の小学3年生の「ちびまる子ちゃん」のまる子には当てはまらないし、モデルとなっている作者はマンガ家という進路を選択済みなのだ。
私は、まる子でもたまちゃんでも丸尾くんでも花輪くんでもはまじでも永沢でも藤木でもなく、ただの読者として、安心して「ちびまる子ちゃん」を楽しむことができた。
勿論リアルタイムで読んでいた小学生時代にこんなことを意識していたわけではなく、単純に『りぼん』の中で一番楽しんで読むことができた作品だったのだと思う。
クラスのどのカーストの女子でも「ちびまる子ちゃん」は必ず読んでいた。あの頃の共通言語になっていた作品の代表格だった。
その後私はくるりと掌を返し、破壊度の増したあーみんギャグに恐ろしい程はまった。「こいつら100%伝説」は現在も本棚に置いてある。「ちびまる子ちゃん」はもう手元にはないが、「心配症」の方のまる子×心配症コラボの掲載巻は実家にあると思う。
成長していく私は、いつの間にか自分がまる子ではないことに安心するだけでは物足りなくなってしまったのかもしれない。けれど、久々にニュースで見た「ちびまる子ちゃん」の表紙には、やはりとてつもない懐かしさと安心感があった。
そして散々言われているが、彼女の初期エッセイは最高に面白い。読書慣れしていないひとに「おすすめの本は?」と聞かれた時に挙げる1冊に必ず含めていた。
私にとってさくらももことは、この4000バイト強の文字の分しか接点がないひとではある。
しかし、訃報を聞いて、居ても立ってもいられず匿名アカウントを取るおばさんを生み出してしまう、そういうひとだったのだと思う。
ひとつのブームというだけでは片づけられないほどのカルチャーや動きを作り出した人が鬼籍に入ったとき、
もうそれらは更新されたりしないしリアルタイムでのそのお祭りは固定された過去のものになってしまって
なにかが終わりを迎えた感じがする、というのはなんとなくわかるけどな
軽トラぐらい乗れないともてないゾ☆
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20180828/1535441354
これほど切実な告白に対して「俺もw」「仲間w」みたいなこと言ってんのダメでしょ。
アヘン窟かよ。
ブックマーカーもパチンコなんかは親の仇のように憎んでるくせに何故かガチャには甘いよな。
はっきり言って、現在のガチャ(特にFGO)はパチンコより酷いよ。
こういう奴らはもっと徹底的に否定して馬鹿にして痛罵して嘲笑しなければならないと思う。
Twitterでは、ゲーム系迷惑サイトにリンクする奴は問答無用でブロックすべしというルールが出来ているが、
そこにガチャ結果を晒していたら即座にブロックというルールも加えるべきだ。
そのほうがフォロワーのためでもある。
本当に奴らはドラッグの売人と同じだ。
徹底的に叩き潰さねばならない。
小学生向け雑誌にすらメイクのプロanond:20180828204647セスや化粧品ランキングが載ってる昨今、そんな事言ったって無駄だと思う。
親が止めたところで、周りの子がメイクしてたら自分だってやりたいと思うよ。
女の子なら尚更、輪の中にいるには周りに合わせないといけないっていう無言の圧力がある。
tiktokやYouTuberにInstagram、どれを取ってもメイク動画載せてる子が沢山いる。それに憧れる小・中学生も沢山いる。
公共のシステムはどんなアホを相手にしてでも絶対に助けるのが使命だ。
川が溢れる警報が出てるときに中州でキャンプするやつとかさ、警告を無視して流されるアホでも警察や消防が見捨てることは許されない。
イスラム国に入ったジャーナリストが人質になっても、日本国政府が見捨てるのは駄目だ。
自衛隊クソくらえという主張を繰り返すプロ市民も、自衛隊が守る対象である。
見捨てるべきだという世論が大勢であったとしても彼らの使命は揺らがない。
でもね、個人としては感想を持つことも普通のことなんだよ。
当事者である警官や政府職員や自衛隊の人、職責について責任感を持っていても、個人としてはうんざりすることもあるさ。
ましてや当事者でない人間なら多様な感想を持ちうる。
思うものを思うべきでないと言ったってしょうがないだろう。
まあ、あんまり露骨に発言するなとは言えるだろうけど、思うものを思わないでいろってのは無理だろ。