http://d.hatena.ne.jp/higayasuo/20150827/1440647815
Seasarの名前を語って、Seasarとは全く無関係なことを、ひがやすをはこんなに攻めてますってカンファレンスで宣伝するの?本当ダサい。
どうせこのダンスもそのうち放り出して、また適当に何か始めて、ひがやすをはこんなに攻めてますとか言うんでしょ?
少しでも期待してた俺がバカだったわ。
本当がっかりだよ。
今回のSeasarカンファレンスは、Seasarのカンファレンスどころか、同窓会ですらなくて、Seasarはこれで名実ともにお終いですってのを知らせるための会じゃねーか。
分かる。「みんな生きているんだなぁ」って思う。
例え19歳の女の子を買春していたとしてもスキャンダルになるだろう
日本の法律と照らしあわせてみていくと、先ず同性間において金銭や報酬の受け渡しをともなった性的関係を罰する法律はなく、これは売春にあたらない。
法的にゲイは売買春セーフだから報道するな、というのが差別解消のために言うことなのか
むしろ法的にセーフなことが異常じゃないか?
アタマが足りない人は、いじめっこにもなるし、いじめられっ子にもなるんだよね。しかもそれをグループごと、年単位で繰り返す。児童虐待を受け継ぐように。
幼稚園の頃はチュッチュマンと言われてからかわれ、悲しかった不登校になった。けど同時にその後幼稚園内で、こいつはオウムだ!とか言ってTVから仕入れたネタで一人を集中攻撃する遊びしてた。
小学生も時にはいじめっ子になったり、いじめられっ子になったりを二年周期で繰り返してた。その度に問題になり授業潰れてクラス全員で「いじめについて私の思うこと」という文章を書かされたりした。(中学ではさすがにやめた)
ただただ皆の正負の反応が楽しくってやり続けて、いくら考えてもその後の展開は予想付かないから条件反射で行動する異質な人間ているから、とにかくいじめられっ子にも、「これから同じことを繰り返さないために、どうすべきか」を考えさせるのは意義あると思う。長かったけどようやく理解できた。
「UbuntuがRed Hatを追い抜いた」と創設者 WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム
Historical yearly trends in the usage of Linux versions, March 2015
Usage Statistics and Market Share of Linux for Websites, August 2011
UbuntuとCentOSどっちがいいの?正しいサーバOSの選び方 - lamichの日記 - 海外でイラスト制作を行う社長のブログ
神戸連続児童殺傷事件の加害男性が手記『絶歌』を出版した。ネット上で感想などを見ているのだが、気になっているのは情報サイト「酒鬼薔薇王国」が消えてしまっていることだ。サイト製作者の「くそ餓鬼」氏にいったい何があったのか。
「くそ餓鬼」氏は酒鬼薔薇聖斗に殺害され、廃校の校門に晒し首にされている──これが私の想像だ
「酒鬼薔薇王国」は酒鬼薔薇聖斗を「王」と崇めるサイトだった。サイトを製作した「くそ餓鬼」氏は、犯行声明文の「ボクには国籍がない」という言葉に触発されてサイトを作ったと言っていた。「くそ餓鬼」氏が酒鬼薔薇聖斗を崇拝していたのは間違いない。
しかし、酒鬼薔薇聖斗が「くそ餓鬼」氏をどう思っていたのかは分からない。ファンなら殺しても良いと思っていたかも知れない。むしろ、酒鬼薔薇王国が消えている現在「くそ餓鬼」氏は殺されてしまったと考えたほうがよい。
くそ餓鬼氏は酒鬼薔薇聖斗に殺害され、廃校の校門に晒し首にされている──それは妄想か現実か
酒鬼薔薇王国は、2ch型掲示板「したらば」を使って閲覧者がコミュニケーションを取っていた。小学校のころの友人から少年院の出所者まで幅広い情報が集まっていた。その情報は草薙厚子さんの著作『更正2000日全記録』でも盗用されている。「くそ餓鬼」氏はその膨大な情報を以てファンの第一人者を自任していた。
しかし酒鬼薔薇聖斗自身は『絶歌』で自分にとって都合の悪いことはすべて省略するという姿勢を貫いている。『絶歌』では後輩にカメラを向けられたときに衝動的にカメラを破壊したと書かれているが、実際にはそれ以外にも衝動的な暴力沙汰はあったと言われている。
「くそ餓鬼」氏は酒鬼薔薇聖斗の情報を集めていたがために、こうした情報も耳にしていたはずだ。そう考えてみると、『絶歌』の発売前に酒鬼薔薇聖斗によって殺されたと考えるのが自然である。
親が作る弁当が嫌い
家のご飯は、コンビニの弁当のご飯みたいに固くないから冷めると不味くなる
あの甘いだけのグラタンと油が不味くスパイスが効きすぎている唐揚げはどうしても食べれなかった
親を悲しませたくないために、残った弁当は学校とか最寄り駅のトイレに捨ててた
例えとしては完全に失敗
M議員といえば、安保関連法に反対する学生団体SEALDSに対してTwitterに書いた内容が物議を醸し出し、また未公開株の不透明なやりとりが発覚して、所属していた自民党を離党した矢先だった。
私個人的なところで、M議員の政治家としての資質に対して懐疑的であり、感情的にも嫌いではあったけれど、しかし今回の暴露記事を目にした際には、そういう個人に対する評価や感情を越えて、胸につっかえる感覚を抱いていた。それで、ボヤっと1日考えていたわけだけど、それが何なのかが少しずつ溶解してきたので、書き留めておこうと思った。
今回の記事では、M議員は19歳の男性とゲイ向けの出会い系サイトで知り合い、金銭の受け渡しを伴う性的関係を複数回持ったということが、LINEのスクリーンショット画像と「売春」という言葉ともに公開されている。
日本の法律と照らしあわせてみていくと、先ず同性間において金銭や報酬の受け渡しをともなった性的関係を罰する法律はなく、これは売春にあたらない。
相手が19歳という年齢に関しても、18歳以上であるので法的に問題がない。
にも関わらず、「19歳の男性を“買春”していた」というセンセーショナルな言葉を使ったわけだ。
これはつまり法的には完全に無罪ではあるのに、M議員が「ゲイ」であること、そして男性と性的関係を持っていることをセンセーショナルに公にすること自体が目的の記事と言える。
個人のセクシャリティというのは、プライバシーでもあり、そしてとても繊細な情報でもある。
近年ではLGBTという言葉の認知も広がり、多様な性のあり方があるということが社会に浸透してきているとはいえ、まだまだ性的少数者に対する偏見や差別があるのは否めない状況下でもあり、ましてやプライバシーの侵害という点で、第三者が個人のセクシャリティを本人の断りもなく勝手に公開していいというのは余りにも身勝手で酷い話では無いのか。それがたとえ公人であるとしてもだ。
そして、この記事がSNSやニュースを通して大きな話題となった。
この記事がこのようにセンセーショナルに扱われるというところには、この社会の中にある性的少数者への眼差しや本音が現れ出ている。
記事を書く側が、受け手であるこの社会の少なからぬ人が、M議員が「ゲイ」であることに対して、冷笑と侮蔑を突き刺したのだ。
セクシャリティと世間の狭間にあるモノがここに露わになったのだ。
4月に電通ダイバーシティ・ラボが「LGBT調査 2015」を実施した。
http://www.dentsu.co.jp/news/release/pdf-cms/2015041-0423%2B.pdf
それによると、国内のLGBT層に該当する人は 7.6%と算出された。人口でいうと約900万人前後といったところ。
もちろん、約900万人の全てがカミングアウトして生活しているわけではない。
偏見や差別を恐れ、自分のセクシャリティを隠しながら生きている人も多数存在している。
そういう社会の中で、M議員が、その”人”が、ゲイであることを晒したうえ、それをネタにして記事にしたのだ。
ゲイ=話題が取れるネタになるということを改めて世間に知らしめたのだ。
この社会を構成する人たちがその記事を見て、冷笑と侮蔑を突き刺したのだ。
自分のセクシャリティを隠しながら生きている人達はこの状況に何を感じたのだろう。
自分のセクシャリティと周囲との関係性に悩んでいる思春期の子たちは、この風潮に何を感じたのだろう。
自分のセクシャリティを公にしたとき得ることになる反応を、この記事の中に見ているのかもしれない。
実は、私も性的少数者の1人である。LGBTでいうなら、Tである。
性別を変えたのち、現在は変更後の性でノンカムのままフリーランスの仕事と大学講師を掛け持って暮らしている。
これまでの私の人生においても、過去を知る知人によって私がトランスセクシャルであると第三者に勝手に暴露されて、好奇の視線を浴び、侮蔑され、差別され、そんな悲しい思いをしたことは数知れない。
そのような経験を内に秘めて生きてきて、この記事を目の当たりにした。
今はただ、悲しく虚しい思いだけが記事を前にしてポツリと佇んでいる。
追記:
私の友人たち(大半はヘテロセクシャル)は、彼がゲイであることは切り離して、議員としての自覚や言動、資質について書いている人が多かったことは救いです。
眠剤があまり効かないので、先日心療内科でいつも以上にお薬出してもらった
飲み忘れた気がしてさっき飲んだのだけど、やっぱ飲んでたのかな
久々のODかもしれない。
うあああーあいつがやってくる。やってくうr
怖い
私はプログラマに向いていないのかもしれない。
うちのチームではコミットをmasterブランチへマージする前に、Pull Requestを出してそれをリーダーや他の人がレビューすることにはなっていないが、私はレビューを執拗にお願いしている。(たぶんよくある無能?)
そのPull Requestでもらうコメントを見ると気持ちよくなってくる。特に幸せな気持ちになるのが、「気が狂った設計」「クソコード」「(こんな実装は)有り得ない」といった言葉だ。
レビューに限らずそういった強い姿勢がときとして必要なことは理解している(そういえばこなものもあったなと思い出した http://rocketnews24.com/2012/08/19/241411/ )。またそういったコメントを残す相手との仲は険悪なわけがない。また喜んでいると思ってくれたらしいところはさらに突き刺さるような言葉をかけてくるだけでなくAFKしてくれたりもする。
だけどそれでも足りない。きつい言葉を向けられると、それだけでなくと欲求不満な気持ちになる。
そういったことを上司などに相談すべきかとも思うが、怖くてできない。(別に一般的に言って「怖い人」だとは思わない、だけど私は彼にそれを相談して依存することを「怖がって」いる)
私がプログラマに向いているかどうかはこの際どうでもいい。よいプロダクトを作る上で強い言葉を交えた議論は必要不可欠だけど、それに強いディザイアを感じてしまう私はプログラマとして適正がないのでは?
他の仕事にうつるべきかなあ?でも「強い言葉を交えた議論が必要」なのは、プログラムの開発にかぎったことではないのではないか?他人と一緒に共同して何かをやろうとするときどこかでその必要性は生じるのではないかと思う。どうしようもない。