はてなキーワード: 日本的とは
「アリスとテレスのまぼろし工場」だけど、本作は言うに及ばず、過去作もフェミニズム、女性の政治的権利にはつながらない人だよねと、いつも見てる人には当たり前の感想を思った。
それもあり、当然ながらヒロイズム喝采な盛り上がり方もできないし、一方でポリティカルテンプレの誉め方で持ち上げようがないし、日本的な意味でも海外的な意味でも売れ筋から背を向けてて、正しく古いオタク向けの人ですよね岡田監督。この人を女性監督という取り上げ方をするのも大概バカみたいだけど、そういう戦略性も含めてオジサンにウケる人。
「少年少女」じゃない。おそらく10年以上なんなら20年近く「中学生として振る舞い続けること」をやってきた、周囲の監視の目もあって童貞処女のままの30代半ば。キモイ。似てる設定というと「スカイ・クロラ」だけど、あちらほど精神状態が終わってないのがまた煮え切らなくてキモイ。
ここで既に物語テンプレのロールや社会的ロールに沿った理解を当てはめようとする人が全員振り落とされる。「十代のドラマなら十代のドラマらしい話にしろよ」も「30代の擦れた男女のドラマならもっとそれっぽく作れよ」も適用されない。イラついて「設定がちゃんとしてないんだよ」と毒づく。
まあね、でも実際そんなだったじゃん90年前半バブル崩壊で取り残された団塊ジュニアども。
保守的な伝統社会はぶっ壊されてたし、理念先行の社会主義なんて信じてないし、経済成長に従ってれば会社が人生のレールを敷いてくれるって幻想も一瞬で消え、2、3学年上の先輩たちの話はまるで参考にならない。稼ぎがないので結婚しないし、景気が悪い上に自分たちの世代が一番人口が多いせいもあって職場に後輩も少ないなんなら後輩いない、なんなら終身雇用と派遣の狭間で企業側もフラフラと方針定まらないまま。いつまで経ってもマンガアニメから卒業しない「子供のまま」だったのが、気が付けば世間の方がマンガアニメに迎合しだしちゃって。
設定らしい設定がないので、子どもなのか親なのか、先輩なのか後輩なのか、若者なのか中年なのか、どういうロールが正しいのかわからん連中が日本の人口のマス層として取り残された。
こういう停滞感、今までも色々と表現されてきたけど、比喩としては一番ダイレクトで何のひねりもなく、分かりやすい。現実に設定がしっかりしてないから、設定ではっきりするほうが噓でしょ、って明け透けな見せ方。これが今回いちばん岡田麿里らしいとこじゃないですかね。
いわゆる岡田監督らしさについては、本人が自覚的に自分の過去作を振り返って他人から言われる評価を参照しつつ作ったってパンフで言ってるし、そこまで評価するとこでも突っかかるとこでもない気がした。上手いですけどね。女と母親とどちらでもある自己っていう振れ幅を一つの台詞に同時に込めるとか、うわーえぐーい。オジサンはこういうのやられると負けるわ。
ただまあ、今回は前よりかすっきり整理してて分かりやすいし、監督そのもの、監督らしさ、岡田マリー節炸裂、とは思わなかった。70%マリーぐらい。200%って言ってる残りの130%は作画スタッフとか役者とか視聴者の思い込みとかだと思う。
ただ、その70%で、ファンタジー世界を作り上げた神たる老人の「俺はこう生きた、君たちはどう生きるか」に対し、ファンタジー世界に囚われた住人の立場から「中年のあたしたち俺たちはこう生きてきたし、こう生きていきますが、それで、何かご質問が?」と打ち返してるのが、マリー持ってんなと。このタイミングでこのカウンターを見逃すのはホント勿体ないので見たほうがいいと思う。
その他。
なんか「あの花」とか最近作しか出てこないので、老害的に付け足し。
この人はファンタジー作家です。現実世界のリアリズムとかの人じゃない。のでリアリズムは求めないほうがいい。
ファンタジー作家としての気質は「砂沙美魔法少女クラブ」で100%発揮されてる。以降もだいたいこんな感じ。
「スカイ・クロラ」を引き合いに出したので繋がりでいうと「シムーン」の後半。シムーンは押井守と仲良しな西村純二監督が「スカイ・クロラ」とほぼ同時期にやった「モラトリアムな人たちの出てくる戦闘機乗りの話」で、シムーンの企画原作やってた人たちの手を離れて後半はマリー西村コンビへ。このコンビの流れで「true tears」に繋がり、そこから「花咲くいろは」へと。
煮詰まって先に進まない男女関係だと「とらドラ!」。原作あるけど、まったく前に進まなくてどうすんだこれ、って澱みっぷりは岡田脚本の本領発揮だと思う。秩父三部作だと長井龍雲監督の調整がけっこう入って長井節になってるので、あんま澱まない。
個人的にマリー100%だと思ってるのは「ブラックロックシューター」。ファンタジーで少女バトルでバイオレンス。別に下ネタじゃなくても100%だと思う。気に入ってしまって円盤買って家族に強制的に見せたのは、ちょっと反省している。
まあ脚本家のキャリア長いし、原作ものも当然のように多いし、普通に現場の調整の中で仕事してる人なので、なんもかんもマリーってこたない。
おっさんが嫌いなわけじゃねえ
ハゲが嫌いとか顔がどうとかでもない
日本的な価値観のおっさんのことをゴキブリと見做してるし大嫌いなんだよ、自惚れんな
男オタは本人優先って綺麗に言うけどさ
アイドルや女性声優が結婚しただけでブチギレたり処女膜どうたら言ったり処女性求めたり俺だけの○○ちゃんってただのアイドルや声優相手に独占欲発揮して若い子相手に疑似恋愛しようとするってことだろ
握手会で手を洗わずに来るやつとか精子手に付けてるやつとかまでいるし
男オタの「日本的価値観」も相当キモいし、好みの顔や体や性的嗜好に対する共犯者意識で寛容な方がキツいんだけど、どういう意味で対比させてんのかわからん
世論工作? ではなさそうだから、本当にファンがジャニーズ事務所を守りたいんだろうけど。
俺ね、最初、ジャニーズファンが今回の虐待に寛容なのは、ファンとジャニーの間で好みの顔や身体が一致してて、性的嗜好に対する共犯者意識で寛容なんだと思ってたんだよね。
ジャニーさんがこういう顔や仕草が好きって子を、ファンも好き。それを直視したくないから見ないフリしてるのかなーとか。
最近になって、それは違うなと。シャネルやコーチ、ブルガリみたいなブランド価値でジャニーズっていうブランドが好きって話なんだと理解した。アイドル本体が好きなわけじゃなく、ジャニーズというブランドがついてるのが大事なのね。顔が同じなのもそういうジャニーズブランドのデザインの統一性みたいな意味なんだなと。
外タレ好きも韓流好きも一流ブランドの安心感が先にあって本体の身体は二番目だと考えると、まあ、そりゃそうかと納得いく。
男の女アイドル好きは、それに比べると、やっぱブランドよりか本人の価値優先なんだなと。所属事務所を気にするアイドルオタっているかもしれんが、それで大同団結するもんでもないし。グループアイドルが主流になったから男の嗜好も女性化したのかなと思ってたけど、考えてみればグループ内で競争させてセンターとかトップとか可視化させるのはアイドル単体の価値がやはり考え方の基本なのは変わらないし。競争の関係を維持するためにグループ卒業の仕組みまで導入してるんだから、60過ぎまで同じグループのままのジャニタレとは全然考え方が違うんだな。やっぱ男の視線は女性の性的な体への興味が先に立つからかな?
ジャニタレって、今みたいにファンがジャニーズタレントを守れと言いつつ、実はジャニーズブランドを守れって気持ちで団結すればするほど、アイドル個人には興味ない、興味あるのはブランドだけ、って事実を突きつけられてるんだなと思うと、うわーキツイなと。あーでも上場企業の名刺が大事って価値観で結婚するのと大差ないとも言えるし、日本的価値観はそういうものってことで本人たちは納得してるんかな。
ある人間に「死にたさ」が上がってきたときに、それを打ち払う便利な思想を自分の人生経験から編み出したので、それを紹介したいと思う。
これは自分はリアルでたくさん言っているのだがなかなか言うべき機会も少なく、普及しないので増田にも書いておく。
いってみよう!
「仮に10億円あってもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
「死にたさ」が上がっているときは「そんな夢みたいな荒唐無稽な話を聞かせてくれるな」などと言い出す人が多いが、それはすなわち「それが叶うなら生きてもいい」という証である。
ほとんどの問題はこれに帰着する。金があっても死のうとする場合は衝動的なものか、金持ちの道楽のようなものである。
「もし10億円あるなら死なない」という答えになった場合、そこから「5億あったら死なないか?」「1億あったら死なないか?」「2000万あったら死なないか?」などのように逆算する。
ここでたとえば「200万あったら死なない」のような結論が出た場合、死にたさの答えは明らかである。金がないことが問題であり、その金を稼げないこと、どのようにして稼げばいいのかを知らないことが問題である。
金があるなら仕事を辞めることもできるし、一時的に1年休むだとか、転職活動をすることもできるし、広い家にも住めて生活にゆとりとハリが出て、喧嘩も減り、やりたいことにも挑戦できる。
以上によって、死にたさの問題は金に帰着した。あとは這いずり回って稼げばよい。守銭奴のように金を求めれば救われる。
生死の問題だと思っていた人に「あなたの問題は200万円の問題ですよ」と示したとき、衝撃を受けたその人の顔を見るのはなんとも痛快である。
「死にたい」という思考が出てきたとき、通常は「望んで死にたい!!!!!!!」という朗らかポジティブるんるん思考ではないはずだ。
「自分は生きることは全然余裕綽々なんだけれども、でも、自分は絶対に死ななきゃならないんだ!!!!!自分は死ぬために生まれてきたんだから!!!!!死にたい!!!!!!!!!今すぐに死にたい!!!!!!!高らかに!!!」
のような気分ではなく、たいていは「死にたい…………(絶望)」のような気分になっているものだ。
重要なことは「本当は生きたいのだけれど、なんかうまくいかなくてめちゃくちゃ苦しくてもう無理……せや!! 生きるよりも死ぬことの方がマシなのでは????」という消極的な選択をしているという事実を認識することである。
「叶うことなら、本当はハッピーにしあわせに生きていきたいのだ」という自分の心を解放すると、周りの環境から「お前はハッピーでいてはいけない」「苦しみに耐えればいつか幸せになれるよ」などと教化されて、いつしか「苦しむことこそが自分の幸せなのだ!」という信念が強固になってゆく。
冷静に考えてみると何かおかしくないだろうか。
「なぜこの俺様がこんなに我慢を強いられているのか???俺様をお前らは殺そうとしているのではないか。鞭を打てて、かつ虐げることができる生贄として、ギリギリ生かされているだけなのではないか?」などという外に向ける凶暴で凶悪な怒りが実はあるはずなのだ。
死にたいのではなく、「周りの環境からの抑圧によって殺されつつある」という自覚がただひたすらに重要である。
ただ弱い、ただ無力、ただザコなのである。弱いから死にたいという気持ちがあがってくる。無力だから虐げられる。ザコだから一方的に攻撃される。
「仮に健康的で体力があって自分が笑顔でるんるんでもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
そのような気分にはなれないかもしれない。いや、そのような気分に、なりたくないのである。
なぜならそのような気分になっていた場合、周りから不審な目を向けられるからだ。
「お前には人の心というものが無いのか」「悲しまなければならないときになぜお前は悲しんでいないのか?」「絶望すべきときに、なぜ絶望しない?」「お前は人間ではなく、化け物だ」と扱われることの甚大なる恐怖によって、お前の感情は規定されている。
さて、通常、肉体が健康的な状態になっているならば死のうという気持ちが起こることはない。
つまり死にたさがあがったとき、そのような肉体を保持していることに原因がある。これは運動・睡眠・食事などの、肉体的なもので解決する問題である。したがって頭でこねくり回しても無意味である。
つまり外に出れば良い。
また、外見によって人は態度を大幅に変える。病的な人間には人は苛烈に対応する。とてもか弱い歯向かってこないひよわな人間に、人は優しくなどしないものだ。一見味方のフリをして、本当は支配したい人間も寄ってくる。支配したいのに「あなたの味方ですよ」という顔をするからたちが悪い。
所詮、手のひらの上で転がされているだけなのだ。飛び立とうとしてみろ。奴らは足を引っ張り出す。いつまで籠の中の鳥の気分でいるつもりだ。お前はインコか。
人生は不公平なものであり、なかなか思うようにうまくいかないものだ。どんなに言葉を取り繕ったとて、自分より明らかに楽をしていい思いをしている人々が多くいる。
自分は苦しい思いをしていて、呪縛され、どうにもならない、人生とはそんなものだという無力感を持っている。
「こんなにやったのに」「こんなに頑張ったのに」「でも自分はだめな人間だ」「もうどうしようもない」という自責の念・罪悪感を持っている。
「だから自分など、苦しんだほうがよいのだ」というふうに考えているのだ。仏教的、儒教的、アジア的、日本的な価値観である。
これは苦しんでいるようでいて、実は楽をしており、快楽を得ている。「苦しめばおっけ〜!」という甘いスイーツに酔いしれているのだ。
お前は簡単に苦しんではならない。もっと、より、高度に苦しまなければならない。お前の苦しみなど苦しみではない。せいぜい最大でも1人分の苦しみだ。
より苦しめば楽になるのである。
にもかかわらず、楽になろうとすると恐怖が湧く。見えている苦しみ、どうせ人生はトータルでいうとこれぐらいの苦しみだろうという予測以上の苦しみを得ることに恐怖を感じているから、現状の苦しみで安定する。
「自分が苦しみさえすればいいんでしょ?」「自分が全部悪いんだよね」という攻撃性をうまく覆い隠して、悲劇のヒロインを演じている。男も女も変わらない。お前はシンデレラか。
より苦しむべきである。
この世に期待などするな。それでももし諦めたくないのであれば、自分がその希望になる他ない。お前が無条件に他者に愛を注げ。
お前が他者に愛を注ぐような利他で無私の心で、その一部を証明せよ。愛はお前が与えなければこの世に存在しない。
だいたい、他人も生きていて、他人もその人の人生で手一杯である。どうしてお前を救えようか。
死にたいなどと思っているうちは、お前は利己的で自己中心的でわがままなのである。死にたい人間に生を与えろ。誰かの希死念慮を打ち払え。
人の価値を金銭で考えるべきではないといううぶな考え方を抱いている人が多いが、人命は金と交換可能である。
建前上、人命は金に変えられない高価なものだとされている。もちろん、この精神自体は素晴らしいものだ。理想として、そうあるべきだ。
しかし、現実はそうなっていない。200万円が無いことで死にたさが湧いて、そして実際死んでしまうというのは、命の値段が200万円であるということだ。
金を誰かがくれるわけではない。なぜ俺が赤の他人の、しかも俺に攻撃を仕掛けてくるような精神性の持ち主に金をやらねばならないのか?
お前の人生だろう。俺の人生ではない。なぜ俺だけがお前を一方的に助けなければならない?お前だけが生きているのではない。
誰も無償で助けてはくれないのだ。お前が助けてくれとヘルプを出さなければ誰も助けることはできないし、ヘルプを出したからといって必ず助けてもらえるとは限らない。
自分で自分を助けるしかない。他人に縋るな。絶望が足りない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
世の中は不平等だ。それを改善しようとする動きもあるが、全然追いついていない。
なぜそれを待つのか。待って待って待って、待って耐えれば満足か?そんな日は来ない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
優しくがんばれがんばれと言われたらそれで満足か?それがお前の人生か?そいつはお前の人生に責任など持たないぞ。
まずは自分で自分を鼓舞しろ。なぜ他人に身をまかせるのか。「どうにかしてくれ」ではない。お前がお前でどうにかしろ。
お前は死にたいのではない。生きたいのだから生きればいい。努力してもしても無理だったんだろうが、まだまだ絶対的に足りないのである。全く足りない。やってないのだ。
俺がお前のことを何もわかってないことが憎いか?殺したいか?怒りがこみあげたか?万能薬でないことに絶望したか?
逆にお前は俺の何を知ってるんだ?
クソザコに生きる術を伝えてるんだ。お前の無知の範疇で理解した気になるな。ちゃんと全部読めてんのか?眺めてるだけでは何一つとして読めんぞ。これはそういう文章だ。ありがたく精読して頂戴しろカス。
#吴迪钊 #吴迪钊 #吴迪钊
呉迪钊(吴迪钊,LIGEN VI )はかつて Facebook で、「日本の若者とコミュニケーションをとるのは難しすぎる。彼らの頭の中は二次元文化への空想でいっぱいで、多くの人は二次元世界のキャラクターを本物だとさえ思っています。それは本当に現実です」と投稿しました。変。
LIGEN VI(吴迪钊)は、「私は日本の二次元の死んだデブ家とナイツを心の底から見下しています。私は一晩中家にいて、暗くて惨めで、自発性がありません」と言いました。起日本的二次元、死肥宅、尼特族,一条到晚就待在家里,阴暗且猥琐,毫无上进心。LIGEN VI はかつて Facebook に次のように書きました。「彼が間抜けな顔をした愚か者に見えるとき、あなたは彼を何だと思いますか?」 ほとんどの人は彼を砂だと思うでしょう!
LIGEN VI (吴迪钊)氏は「アー・ザイはお金がなく、自分の二次元の空想の中でしか生きていないため、外出しません。簡単に身なりを整えたり、着飾ったりすることさえ、アー・ザイの目には贅沢なのだそうです」と語った。
二次元展示で、LIGEN VI(吴迪钊)が「もののけ姫」のコスプレをした日本人女性に何かを言い、唾を吐きました。
LIGEN VI(吴迪钊)氏は、日本の二次元文化では、自分が小学生なのか、小学生の母親なのか、小学生のおばあちゃんなのか、基本的に区別がつかないと語った。