はてなキーワード: 山一とは
経済学に常識があるなら、リーマン・ショックなんか、起こさないで欲しいものだし、ブラックマンデーも起こさないで欲しい、山一が潰れないとか言わないで欲しいねぇ。
まさに経済学のコンセンサスを無視した結果がこれだよ。経済学的には別にブラックスワンが起きないと保証できる訳ではないが、少なくとも0年代のアメリカの市場の暴走は適切な政策で抑える事は出来ていたはずだよ。山一潰れないとかどこの経済学者だよwwwTV経済評論家と経済学と一緒にすんな。
投資銀行のモラルハザードに対してはまだ研究が十分に足りないのだろ。だからそこに関してはバランスを取りつつオバマが舵取りをしないといけない。それが政治家の本当の役割。
アメリカはその後適切な経済政策を導入した結果持ち直しているが、今の日銀のようにデフレ方向に暴走している事を経済学が警告しているのに無視し続けているのを止める能力も知識もない時点でルーピー政権は論外だろ。
予算があれば何でも成功すると言うもんでもない。
まさにその理由で基礎科学は国の責任でやるしかないんだよ。リターンがあるかどうか民間では判断出来ない、事業化に結びつくかもあやふやなリスクが高い事は基礎研究として国や民間の寄付(大学とかな)によって新しい可能性を発見し続けて行くしか国家の発展はないんだから。
ちなみに、どこの国のことで、絶対額で日本の何倍出していて、どういう成功を収めたの?
ググレカ(ry
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/008/siryo/04122701/005/001.pdf
一例
http://d.hatena.ne.jp/karaimonokirai/20100225/1267111952
客観的に見て、筆者に「あらかじめ偏見や悪意があったわけではない」とは思う。だが、筆者はこれらの光景を「自分の目で見て、素直に判断して、とある一国の文化(あるいは「国民性」とか言い換えても可)が『嫌いになった』」と発言している。
あるいは、多くの人が「何が問題なの?これはこれで正当じゃん」と思うかもしれない。だが、そう言う人は、たとえば捕鯨問題についてどのような感想を持つのだろうか?
たとえばとあるアメリカ人が、自分の「印象」に基づいてこんな記事を書いたとする。
自分は日本は好きでも嫌いでも無いし、別に環境保護について強い関心があるわけでもない。だが日本を旅行中、食堂などで捕鯨問題を取り上げたニュースがあると、それを見る人は大抵「シーシェパードは頭がおかしい」とか「所詮金のために環境保護を利用しているだけだ」とかいったコメントばかり言い、「鯨を殺すのはおかしい」という意見については自分の経験した範囲では一度も耳にしなかったことに驚いた。街中でも鯨肉など提供しているところは見ないしほとんどの人は日常的に鯨を食べないのに、鯨を殺すことに対してどうしてこれほど寛容なのか。残念ながら、自分は日本人というのは非常に残酷な民族なのだという感慨をもって日本を後にすることになった。
これは公正(fair)な議論だろうか。
私は、残念ながらこれは差別だと思う。彼は、鯨を「食物」と見ない文化から訪れており、かつまた自分たちの文化が過去にどれほど鯨を殺したかも知らない。彼の問題点は、物事に対する歴史的視点や、自分の背負う文化に対する批判的観点というものが欠如していて、自分の「素朴な感想で世界を見ることに全く無批判」である点だ。
「彼」は一応架空の存在である(よかった)。しかし、彼が今後日本に関する問題について、常にこの「見方」を「事実」として自分の判断根拠に採用することはほぼ疑いない(残念なことに)。彼は、パールハーバーも、太平洋戦争時のアメリカにおける日系人差別も収容所のことも、あるいは貿易摩擦から生まれたジャパンバッシングも知らないかもしれない。だが、何も教えなくても彼は、とある民族をひとくくりにして、unfairな意見に基づいた判断を下すようになった。これは立派に「偏見」であり「差別」ではないか。差別や偏見は、このように日々誕生するのであって、過去の差別について「教えなければ消える」というものではない。
捕鯨に関してだけではなく、とあるものごとについて、それをめぐる政治的状況、文化的文脈(コンテクスト)といったもの、状況性や歴史性や文化性を全く無視して(更に言えば自分自身の背負っている状況性や歴史性や文化性について全く批判的でなく)発言するとき、常にこのような危険は発生する。「率直で素直な感想」と称されるものは、非常に危険なのだ。
「自分がそう思ったことは事実であり何がわるいのか」といったヒラキナオリ、つまり「率直で素直な感想」と本人が認識しているだけに、こういった感想に基づく「意見」が修正されることは少ない。実際、「率直な感想は絶対であり、それを修正することなど出来ない」と多くの人は思っている。だがそれは大きな間違いだ。歴史性や文化的コンテクストを学ぶことで、ものの見え方や風景など簡単に一変するからだ。ある人の背景(たとえば「強がりをせざるを得ない状況や過去」)を知ることで、「ツン」な行動が可愛く(「デレ」に)見えてくる、という現象はとみに知られているが、それも同じである。「学習」は「印象」を大きく変化させる。
そもそも我々は、様々な状況性や文化を背負うからこそ、物事を認識できるのであって、「率直で素直な感想」といったものなど、本当は存在しない。どんなに直感的感情的判断であっても、何かを判断するとき私たちは必ず何らかの「知識」を土台にして判断している。学ばなければ、私たちはほとんど何も感じず、表明することもない。生まれたばかりの赤ん坊は、自分を取り上げる産科医や両親の「美醜」を「判断」したりはしない(子どもがそういうことで悩むのは、おおむね思春期の頃である)。
我々は、互いに離れた土地に住み、そして相手のことをよく知らない。知らないことは恐れを生み、行き違いや偏見を生む。そして差別が始まる。かつては川一つ、山一つ隔てるだけでも、そうであった(「○○村の奴らとはクチをきいちゃなんねえ」的な)。教えるから差別が持続するのではない、教えないから差別は発生するのである。ただし、それは「かつてはこんな差別がありました。差別はいけませんね。以上」といったことを教えるということではない。
従って、たとえば人権について学ぶプログラムは、以下のように進められなくてはならない。
低学年……「作法」として、「陰口を言わない」で「みんな仲良くする」ことを学ぶ
中学年……「作法」として、「素直で柔軟な発想を大切にする」「賞める」ことを学ぶ
高学年……「作法」として、「文化を大切にすること」「おせっかいと勇気は違うこと」を学ぶ
中学校 ……「知識」として、「色々な価値観、文化が存在すること」を学ぶ。
現状、人権教育にこういう見通しがないことはとても残念である。小学生に(イイトコだけ見せるような)異文化体験を推進したりしている人は、将来その子が「欺された!小学校の教師なんて嘘つきだった!」という感想をもつ可能性について全く想像していないのだろうか。私は、上のような準備が子どもにできないうちから安易に異文化体験を進めることは、百害あって一利無しだと考えている。
最初の文章の筆者に対して、どのようなメッセージがあるわけではないが、もし可能ならば、今回の件を踏まえた上で、単純に隣国を「嫌う」のではなく、「なぜ『今の日本』に住む私は、『今の韓国』の文化にこのような感想を抱くのか?」ということについて、調べたり考えたりしてくれるといいな、とは思う。これを読んだ後、たとえば図書館で戦前の日本の大衆雑誌とか読んでみるだけでも、私が言わんとすることは理解して貰えるだろう。
そこそこ目先が利いたのと、女性だったので高度な要求も無く、自分
の知識や学歴に関して大きなコンプレックスを持つことも無く、生活
してこれました。ところが家族がトラブルに巻き込まれてしまいした。
動ける人間が私しかいなかった所為で、当事者と私と弁護士が中心に
なって処理することになりました。 この事件を通して、私は日本が
『学歴社会』(もしくは資格社会?)なんだと痛感したのです。普通に
暮らしていれば、自分のレベルにあった生活圏の中にいるので、学歴
や知識のレベルを意識することも、試されることもないです。 その
証拠に近所のオジサン、オバサンは何の根拠も無しに異常に威張って
いるでしょう? いつも『怖いオーラ』を出している人もいるしね
若い女性は『分からなぁ??い』と言った方が可愛がられたりします。
よく仕事の出来る女性を『可愛げがない..』と言うのと同じ感覚です。
男性から見たら、年下で女性なのに自分より知識や才覚があったら気
に入らないのでしょうね。 同性に関しては、その上にコンプレッ
クスが入るから、ますます面倒です。(異性も同じか..)
日本では『受験勉強は暗記でしかない!』、『学歴は学歴、本当の頭
の良さとは違う!』、『頭でっかちでは困る!』等々ということにさ
れていますが、本当はどうなのか? 実社会では歴然と学歴社会です。
でも高学歴者は少ない! その他大勢の人の不満を抑える為に、上記
のような考えが広まっているのでしょう。その方が都合がいい人達も
いますしね。 例えば、転職を考えている人.. 確実に高学歴の人の
方が好条件の転職をしています。それでは学歴の低い人は、『本人が
悪いんだ』と言い切れるのか?と言うと、そうでもない。それは学歴
私の兄は名門と言われる高校に行きました。親の紹介欄は、ずら??っ
と高学歴・高地位で尚且つ一等地が並んでいました。 特に職業欄は
『弁護士』『官僚』『公認会計士』『会社社長・役員』が殆どで他が
ない。それは見事です。社会には普通の職業の方が多いのに、見事な
までに一人もいない。 そのように家庭環境は、高学歴を作る上で大
きな影響力を持っていることは確かです。
そして未婚の女性の本音.. 『高学歴・高収入・高身長』 あれっ、
この3つでしたよね? 興味が無かったので自信が...
だから、本人の所為じゃない要素も大きい訳です。 にも関わらず、
財界や政府は、積極的に勉学の応援をしないどころか反対に、職人の
子供は職人でいい! 工場労働者の子供は工場労働者でいい! とい
うのが本音であるように、私には見える。
一生懸命勉強して一流大学⇒有名企業に勤めても、山一や拓銀のよう
に潰れてしまえば終わりだと思わせる“風潮”がある。 騙されては
いけない。私はそんなことはないと思う。勉強したものや学歴が無駄
「裕福でないと大学にいけないという幻想」を読んでモヤモヤしていた。
面白くないかもしれないが、ぼくの在郷の話をしよう。
ぼくの田舎は丸ごと貧乏だった。一部土建屋連中が公共事業のお零れに預かりそこそこ儲けていたようだが、大半は世間の六割以下の収入だ。
運命は中学卒業で決まる。ぼくが卒業した十数年前には50名のクラスメイトが居たが8割は山一つ向こうの偏差値最低の屑のような高校に進む。高校くらい出なければ恥ずかしいからだ。そして1割は山を10ほど越えた工業高校へ下宿して進み、ほんの一握りの4名が大学へ行くためにこれも下宿して各進学校へ進んで行った。
当時ですら大学の進学率は4割を軽く超えていたが、我らが田舎から大学に進んだ同級生は4名だった。単純に成績で篩に掛けられ1割が残った。
「裕福でないと大学にいけないという幻想」というのは分かる。努力すれば行けるだろう。
しかし自分が大学へ進むべきかをだれが判断できるのだろうか。ぼくは自分が大学に行く姿なんか想像も出来なかった。理数が得意だから工業高校が良いだろう。それだけですよ。高校を卒業しても半数は貧乏農家を継ぎ、残りは工場で交代制勤務。運が良ければ役所に勤める。
格差なんてものは十数年前からぼくの田舎では固定化されていたんですよ。
そんな格差なんてものはどうでもよい。
「裕福でないと大学にいけないという幻想」とほざく連中は同じ苦労を後輩らに負わせるのだろうか。
それが幻想でない社会の仕組みを考えるのは高等教育を受けた連中の特権ではないのか。(役人どもは変えるつもりなどないのだろうが)
わたしは努力して勝ち組になりました。はいお終い、悔しかったら着いてこい、なんですか。
まあ、お金貯めて大学に行けばとも思わなくもない。しかしそれは無茶。結婚などしたら到底不可能ですよ。
■白黒情報
白 : Sくま ・G藤邑
灰 : Yりしー(YしーはなんでGに行けたか、よーく考えればわかるwww。他に片柳くんとヤってる)
黒 : N登・H若・M橋・K宮・T和 ・K脇 ・M木・H江・M来・T中理・K澄・ Kング・K波・栗の子
黒か灰: M樹・N原・U田・N中・K田・A野・K谷・S名・H野
・H野Aの親はTV局の偉いさん
・できてる?
・若手で大手で収録にマネが毎回来るような奴はアウトと思っておk
・音響監督と声優名でぐぐって妙に重なるときは危険だとおもいなせーwwww
・女たらし音響監督
知ってる範囲 Mはホモだし、Tはロリだし、Aはくいまくりんぐ
O野坂(現場の人から好かれるいい人)
●黒い順 : ラムS>青2>=A>O沢
・81 : 色々あるけど大所帯だから (代表M木MY)
これからお話すお話は、そんなオタクのお話よ。
A君は某ややマイナーな月刊誌の読者です。
H県は中央の発売日より1日遅れるのですが、今月は発売日が日曜日に重なったため、更に1日遅れます。
やっとのことで買った彼は、いつもどおり2chを見るのですが
1日でもかなりのものなのに、2日経った今、既に今月号の話題は書きつくされてしまっていました。
彼は仕方がないと思いつつも、同じ時間を共有できないことに少し寂しさを覚えるのでした。
番組改変期となると、雑誌やブログが新アニメの話題で盛り上がります。
しかしA君はどこか冷めていました、元々アニメに興味が薄いのもありましたが
テレビ東京系局が無く、殆どが見られない上、放映もひどいと半年遅れるのが原因でした。
熱心な信者である彼がそれを見たのは、半年たってDVDが発売されてからでした。
最近では、真剣にケーブルテレビ等の導入を考えているようですが
他の人間がタダで見ているものを金払って見ることに、未だ抵抗があるようです。
待ちに待ったコミケの日を前日に控えたA君。
仕事を終わらせ、家に帰り、食事をし、着替えてネット喫茶へ向かいます。
新幹線の始発も、家の最寄り駅の始発より早く出るので、油断は禁物です。
家からタクシーで駅へ向かうより、ネット喫茶で夜明かししたほうが安いのでそうしています。
新幹線は早得割なるものを利用して往復3万円程度、決して軽くはありません。
4時間ほど揺られて東京に着くのが10時、既に開場時間です、彼は会場へ急ぎます。
全てが終わり、彼はあらかじめ取っておいた新橋のビジネスホテルへ向かいます。
高いのですが、もうさほど若くない彼に、連続ネット喫茶はキツイのです。
かつては青春18きっぷで十数時間かけて来ていたなんて、自分でも信じられない程衰えていました。
コミケでしか手に入れられない本やゲームと、会場が持つ独特な雰囲気の値段は決して安くはありません。
こんな比較的恵まれたH県ですら、年間10万円以上の金を使ってもなお差が埋まらないのです。
山一つ超えた県や、離島なんてどうなってしまうのだろう、A君は時々考えるのです。