はてなキーワード: 中二病とは
なんつーか、誰にでも好かれる性格している。
しかし、中二病が長すぎたせいか、ブサメンのせいか、発達障害持ちだからか、哲学文学に傾倒し、考え方がひねくれている。
自分の中で正解だと思った生き方、考え方をしているが、それは世間的にはひねくれてる感じ。
なんつーか、自分は冷たい。博愛主義なんだけど、だからこそ女が甘えてるのを見るとうざくなったり。そういうところがある。平等なら女の甘えた生き方はおかしいだろうとか思ってしまう。言わないが、非常に軽蔑している。
同情とか全然しない。共感とかしない。しないが、テクニックとしては喜ばれるだろうなと思うのでやる。
まったく他人に興味がないが。なぜか好かれる。リア充とか中身ないから大嫌いだし、性格暗いオタクのほうが付き合ってて面白いんだが、リア充にばかり好かれる。
当方女。
定まらないというより、相手のキャラクターに合わせて自分のキャラクターを変えてしまっているような気がする。
自分より高くかわいらしい声で話す女性には、声低めでガサツそうなキャラクター。
逆に落ち着いた雰囲気の人(男女問わず)と話すときには、こちらの声を高めにして、多少抜けているところがある風に喋る。
周りが自分より軒並み駄目そうなとき(めったにないが)は、できる限り自信があるような素振りをする。
男性と話すときは声のトーンが2段階ぐらい上がる。なんだかんだで愛嬌は大切だ。
あと、関西弁を喋る人には訛りを徐々に寄せていっている。出身地がそっち側なのでそうなる。他の方言は無理。
相手に応じてふるまい方を変えている、というよりは、“変わってしまって”いる。制御ができない。
おそらく、こうふるまえば相手からの好感を得やすいであろうと自分で判断したキャラクターになっているのだろうと思う。
困るのがガサツキャラで対応している相手と声のトーンを上げて喋るタイプの相手が同時に話し相手として存在するようなときだ。
自分の中でつじつまが合わなくなると、今まで自動的に表出していたキャラクターが機能しなくなる。こうなると手動で両方のキャラクターを調整し、なんとか軟着陸させなければならなくなる。超苦しい。
この場所ではこのキャラクター、と決めていれば、上記の謎の矛盾に苦しめられることがないと思うのだけれど。
私の場合、例えば人間関係の限定された職場のブース内でも冒頭の5種のキャラクターを使い分けようとしてしまう。正確には5種と言わず、相手ひとりひとりに合わせて微調整しがちだ。
もちろんこれを全開でやってしまうと非常に痛い人物になってしまうのはわかっていて、できる限り暴走を抑えて無難にふるまおうと心がけている。でも、そのとき自分が演じたいキャラクターはにじみ出てしまっていると思う。
パートナーから相手によってキャラクター全然違うよね、と指摘されて、やっぱり他人からもわかるのねと気落ちし同時に恥じた。
相手によってキャラクターを演じ分けるような賢しいことをしているのを看破されたのが恥ずかしい。でも自動的にやっちゃうものだしなあ。誰に対しても常に同じトーンでいられる人をうらやましく思う。
中二病のようなことをつらつら書いてしまって、自分でもなんじゃこれはと思う。けど目下の悩みである。
ぼっち歴が長く他人を観察する能力に欠ける私には、これが異常なことなのかがよくわからない。
6/19追記
トラバブコメでいろいろご意見いただきありがとうございました。共感してくださる方がいて嬉しかったです。
レスポンス用に文体をですます調に変えるのもキャラの切り替えに当たるんだろうか。ううむ。
自分の中で答えはまだ出ませんが、「キャラが定まらないキャラ」で行く、ってのは思いつきもしなかったので窮したときはそれで行こうかと思ってます。
八方美人であることに罪悪感を多少なりと感じていたと思うので、ある種開き直った方法は思いつかなかったんだろうなー。
平野啓一郎さんの「分人」に関する著書を今のところ読んだことがないのですが、どういう内容の言説なのかを調べてみました。
この方の論って、あんまいい例えじゃないかもしれないけど、多重人格の人を扱った創作物とかで見る「つらい思いをしているのは私じゃなくて別の子」みたいな話に着陸するんでしょうか。
自分の中にたくさんキャラがあり各々が分離していれば、対人関係でダメージを受けるのはそのとき表出していたキャラのみで、自分をまるきり否定しなくて済むみたいな。
「芯になる性格」を用意できないことに不都合があるのでは、と考えていたんですが、メリットがあるのであればこのままでもいいのかもしれませんね。
ただ現状キャラをそこまで分離させられるほどの器用さはありませんです。要旨を全く読み違えてたらごめんなさい。
給湯室でブリッコよねー!と陰口を叩かれるのに近いことは正直あります。まずいなと感じた場合、とにかく相手に恩を売っていく方向でカバーしようとします。
全方位に八方美人してますが、同性には(群れの権力者には特に)入念になります。あと、私の持ちキャラの基本的に全てが、下手・いじられキャラであることが奏功しているようです。
表面上は波風を立てていない、と思うのですが裏でどう思われているか怖いです。
個人的にはこの状態はコミュ障の一類型で、サービス精神の過剰な発露というか、話し相手への過剰適応が引き起こしているものと考えています。
大半を占めるのが真っ当な感想。
ポエム、全く反省していない、被害者に無断でなぜこのような本をだすのかetc
その中で少数意見が出てくる。
断言しよう。
過度に飾られた、ちょっと文学に浸って己を過信した、中二病の文章だ。
中二だ。これが高校になるとこのくらいの文章を書く奴は少し増える。
大学になるともっと増える。皆そういった恥ずかし気を越え一周して簡素な文章になる。
目立って特別な文才ではない。
ただ元少年Aの文章がそこまで囃し立てられるわけは「ゲテモノ」だから。
タブーを犯したゲテモノが書いた文章だから、専門家はそのー言葉に意味を見つけたいのだ。
少し頭が良くて少し文章が書けて。自分が犯した行動を抑えきれない自己顕示欲で、オナニーを見せつけるのだ。
誰かがはっきりと言ってあげなくてはいけない。
ネットの評価では文学的だとか一部ではそんな意見があるけれど。
賞に出しても一次で落ちる。バイトが選考するのにも引っかからないね。
これ以上表に出てはいけない。
出家して、人の目が届かないところで一生許されることない罪と対峙してほしい。
誰にも見えないところでね。
もう2度と世間に出てこないでください。
嫌いな理由は「スキマ時間」という言葉があるおかげで、スキマでもない時間を「スキマ時間」だ、という勘違いを生んでいる点にある。
それはもちろん正しくは「スキマ時間」そのものが勘違いする人を生んだ訳でもなく、個々の人の問題でもあることは分かっているが、
匿名ダイアリーで何か書いてみたい衝動が生まれたためこれをテーマに書こうと思う。
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weblio には”すきま時間”は以下のように定義されている。
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予定と予定の間に生じた短時間の暇、ちょっとした物事に取り組めるわずかな余裕などを意味する語。移動時間や待ち時間などを
指すことが多く、勉強や情報収集などを小刻みに積み重ねるといった事柄で用いられる場合が多い。
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http://www.weblio.jp/content/%E3%81%99%E3%81%8D%E3%81%BE%E6%99%82%E9%96%93
この用語定義の中で利用できるスキマの中で「待ち時間」は、まぁ、スキマ時間だと思うが、移動時間は時にスキマではない。特に公共の場所では、だ。
言葉は生まれ使われるようになると当初の用法通りに使われない事がある。「中二病」なんかがその例の一つでもある。
スキマ時間について書いた本や、企業として提供しているサービスなども多々あり、正しく機能していれば有効活用されることでしょう。
ただ、この有益な「スキマ時間」を、一部のバカが何でもかんでも使える時間を「スキマ時間」として使っている点に腹が立つ。
サービスを提供する側もその辺を区別していい感じにアピールやアナウンスしてくれると嬉しいな、と。
> 歳をとると時代劇と演歌が好きになるのには理由がある
これって実は「元々時代劇や演歌には全く興味が無かったのに、趣味や嗜好が変わって好きになる」というのは無くて
1、そもそも演歌や時代劇が好きな素養はあったが、マイフェーバリットな作品に出会う機会が無くて、それが時代を経て巡り会い、好きになる
2、もともと無意識には好きだったが、「回りに年寄り臭く思われるのはいや」的なある種の逆中二病的な心理で拒否をしていて、それが年齢をへて拒否する必要がなくなって正直になる
3、そもそもとても好きだったが、回りと話題が合いそうに無いので特に表に出す機会はなく、それが後々機会を得てカミングアウト
のケースが殆どなんじゃ無いかと
目が冴えてしまったので、なんとなく昔話をする。
そういった方面の知識は全く持っていなかったので、彼が話すことは初めて聞くことばかりでそれなりに面白かった。
彼も聞かずとも話し掛けてきたので、話したかったのだと思う。
第三次世界大戦が起きて欲しいだとか、
自分は革命を起こせるだけのカリスマがあるだとか中学二年生でも言うのを憚るような内容を言い始めた。
最初は冗談かと思って、中二病乙、とか、革命を起こせるなら今すぐ起こせよwwなんて茶化していたが、
彼は大真面目だったらしく、その後機嫌を悪くした。
それから彼とは会っていない。
こういったことを書いたのが2年前。
で、yahooなんかだと最近一部ニュース記事に対するオーサーズコメントなんて物が見られるようになった。
その中にはやはり最近yahooの個人ニュースに進出した昔よく見ていたサイトの管理人さんの名前があったりする。
昔はマイナーネタを興味深い視点で面白おかしく伝えてくれた人のコメントが、どうにもある種の「大衆」に媚びたようなやたらと厭世的かつシニカルで、しかしごくありふれた陳腐な物に見えてしまうのだ。
しかも時事的に衆目を集めそうな記事ばかりにそれがあるのだからたまらない。
もちろん個人ニュースに出て来たってことはより知名度を上げたいのだろうし、
となれば、やはりみなが期待するようなあるいは強烈に肯定されそうな、そういったコメントになるのも仕方ないだろうとも思う。
ちなみにこれはyahooだけでなくtwitterやfacebookコメントを受け付けているニュースサイトではよくある「事件」だ。もちろん以前書いたようにはてブも。
そもそもこれは私自身に起因する問題で彼らは全く変わってなく、私自身の変質、一種の中二病とか高二・大二病みたいなものなのかもしれない。
それでも彼らのコメントの中にある、なんというか何かに対する漠然とした攻撃的なニュアンスに、私はなんとも言えないいやな気分になってしまうのだ。
あるいはただの自己憐憫なのかも知れないけど。
「読めない」って批判は
でも今の人でも堅い名前だと読めない人おるやん?
って思うのでお門違いだとは思うのでまぁしゃあないと思う。
(表現しずらいけど、たとえば章哲って書いてあきのりとかよめねーよ)
納得できないのは、
七光と書いて「レインボー」とか、何かしらつながりがあるならまだ許せるけど
「心悠」と書いて「カイン」とかいう全く手がかりがないのが許せん。
ラノベのルビかっつーの。
(全部フェイクだけど本当にある)
なんかしゃらくせえ!!って思う。
光じゃなくて晄とか
いいがかりだけどさ。なんか中二病というか、
愛らんどにいた系のPNに似たむずがゆさがある。
とはいえお子さんはかわいーなー