はてなキーワード: 警察権とは
“僕は宮崎勤事件の頃の世間の空気や幕張メッセ事件も知ってるしあの時代が「オタクとコミケ最大の危機」であったという認識もあるんで、だからこそ「赤松健がいなければコミケは壊滅してた」みたいなデタラメを平気で言うヤツがいると腹がたつんですよ。あの時ほどの危機が近年いつあったってんだ。”
“これまでの「表現規制」の認識と自身から発せられる言葉が『ポリコレ腐臭』と煙たがっている層に対してだけに響く程度でエエのんかと。政治をやる態度として、あんたこれで6年議員すんのかとの疑いが日増しに強くなってます。”
『ポリコレ』言うけど、でるとこにでたときの判断ちゅうことやね。
普通にモデルになった人が裁判起こしたりしてるじゃん。プライバシー侵害と名誉毀損で。この人、表現に関わることについてこんなに無知なのを公言していいの…?
“本当にオタク界隈マジでどうかしてる。エロのために、……表現の自由を守るのを政府側に委ねるなんて、どうかしている。表現の自由の「原理的にありえない」ヤジポイ裁判を見ても、現に警察権力まで使って表現の自由を規制している”
“コミケに比べると小規模ですが、今年も逆恨みや思い込みによるデマでイベント、会場への嫌がらせが害悪オタクによって行われ、イベントが中止になってます。なお、当然×××も××党系議員も何もしませんでした(××××や××にメール相談したのに対応しなかったし)”
BALMUDA Phoneを取り巻く環境は傍目から見ても厳しいように思える。
と、何か導入部を書いてみたけど個人的には高価だと思うし欲しいとも思えない。
どうしてこのような状況になってしまったのかを、高専卒かつ技術職に就いたことのない自分が分析したものを残しておきたい。
多くのガジェオタがBALMUDA Phoneに関して文句を垂れるのはやはりSoCが非力なことであろう。
先述の通りハードウェアに明るい人間であれば、Snapdragon765搭載機種で10万円オーバーは「高い」の一言に限るはずだ。
だが擁護する者がいるのは確かであるし、実際に購入者もたくさんいるのはなぜか。
それはガジェット系ニュース各位が伝えるようにデザインや体験、ソフトウェアに魅力があるからであろう。
それは確かだ。
ここで主題に戻るわけだが、夢を叶えるには力が必要だ。いわゆる「力こそパワー」というヤツである。
こう言うと厳しいように思えるが、別の事例で少し例えてみよう。
これは実話なのだが、近所で立てこもり事件があり、いろいろなパトカーが集まってきている場面に遭遇したことがある。
一般的なパトカーといえばクラウンだが、ekワゴン(だったと思う)などのミニパトも多数存在した。
普通車と軽自動車のパトカーに求められるものは違うだろうから比べるものでは無いと思うのだが、問題なのはPLATZのパトカーがその中に混ざっていたことだ。
その後に調べたのだが、ミニパトとは1500cc以下のパトカーのことを言うそうだ。だからPLATZのパトカーはクラウンよりekワゴン寄りなわけであるが、当時の自分は知る由もなく。単純に普通車でセダンタイプのパトカーとしてクラウンと見比べてしまったのだ。
この日記を見ている諸兄らはいかがであろうか。1000ccエンジン。車体はトヨタでもエンジンはダイハツ。集中ドアロックを動かしているのはマブチモーター(しかも高確率で焼ききれる)。
特に犯罪に手を染めるつもりは無いとしても、『コイツになら勝てそう』という思いがよぎるのではなかろうか。
もし警視正がPLATZのパトカーに乗っていたらどうであろうか。
たとえ話としてはかなりそれてしまったが、警視正やら黒帯の警官やら機動隊員やらが仕事をするにしても、PLATZのパトカーでは捕まえるモノも捕まえられないのだ。
これをBALMUDA Phoneに当てはめるなら、どんなにお金をかけたソフトウェアやデザインを採用したとしても、Snapdragon765ではずっこけるしかないのである。
役職のある警官にはそれなりの給料を払うべきだ。払った以上は相応の仕事をしてもらうべきだし、そのために必要ならクラウンでもレガシィでもWRXでもキザシでも用意するべきだ。
話の脱線もひどくなってきたのでまとめに入ろう。
そういったモノを売りたい、選択肢を準備したい。
それは夢だ。
その夢を叶えるためにはそれなりの力が必要だ。
だがBALMUDA Phoneには根本的なマシンパワーが足りないのだ。
はっきり言おう。優秀な警官ならPLATZでも仕事はできるだろうさ。
でも舐められたら終わりなんだよ。
BALMUDA Phoneだって765で必要十分なんだろうさ。それは間違いないだろう。
でも厳つさが足りないのだ。
であればバックボーンとなるハードウェア性能が無くて、どうして安心して10万円を出せるだろうか。
買ってくれた人は、叶うかどうかわからない他人の夢でも金を出してくれる優しい人間なのだ。
夢を他人に買ってもらうために必要な安心感。それを十分に演出できなかったのが、おそらくはBALMUDA Phoneの敗因だったのではないかと、私は思うのである。
するべきはBALMUDA Phoneを沢山の人に使ってもらって、本当に使いやすいというレビューをモリモリ発信していくことであって、
昭和から平成の前半では、ポルノグラフィー・猥褻物への禁止圧力は主に保守系の政治運動と結びついてて、左翼側はそういう禁止圧力の緩和やポルノ開放みたいな要求だったけれど、今では政治的には左翼側の人間が、猥褻を理由とせずに「性差別を助長する表現」を理由として、萌え絵に代表される様な一部の表現の禁止を政治的に主張し、保守右翼側の人間が「性差別的」と決めつけられた表現を表現の自由を旗印にして守ろうとする、俺みたいな者の目から見ると「なんだか変な」時代になった。
日本の右翼保守(要するに自民党)は、本質的には民主主義ではなく「統治者にとって都合よく制度設計された、民主主義と称するもの」を追求しているが、それ故に正面切って表現の自由を否定することは出来ないので、刑罰を以て表現を禁じるやり方(猥褻図画や小説の取り締まり。チャタレー裁判とか、愛のコリーダとか)をなるべく露骨に使わずに、出版業界や映像業界に自主検閲組織を作らせて「自主的に検閲しているので、法的には何の表現規制も存在しない」状態を作り上げることで実質的な表現規制をする様になってる。なので、公共の利益、公序良俗の保護を理由に法的に制限できる猥褻ならともかく、表現の自由が一義的に示す表現である「思想的・政治的表現の規制」はさすがの日本国でも不可能になってる。(少なくとも現状はポルノほどあからさまな実質的表現規制の犠牲にはなっていない)
で、昭和の頃の左翼だと、こういった猥褻表現の禁止であっても、国家による国民活動への制限は最小限であるべきで、猥褻規制はその限度を超えている、みたいな話をするものだったのだけれど、今やその左翼、とりわけフェミニストの中で「猥褻だから」とは言わずに「性差別的であるから禁じられるべきで、規制は全く十分でない」という意見が主流を占める様になってきたのが2010年代じゃないかなと思う。
何を以て性差別的かという理由付けは色々見るのだけれど、メディア効果論(それも強力効果論)に基づいたものが多いと感じるが、(多くは女性である)自分にとって極めて不愉快であり加害的であって、公共の場での存在は許されない、ってものもかなり見かける。これ、伝統的な右翼によるポルノ撲滅運動の題目が「子供の教育に悪い」だの「破廉恥で見るに耐えない」だったのと、ほぼつながってないか?と思うのである。極右と極左は政治的主張は逆だが、粗暴さや残酷さ、頑なさや頭の悪さは同じに見えるのと似た感じだが、そう言ってしまうと純然たる悪口になるので止めておく。
左翼側・フェミニズム側の表現規制主義者(本人たちが自分をそう認めることは絶対に無いが、それは右翼側でも同じこと)も、自民党と同じ様に自らが表現規制者と呼ばれる事を非常に嫌う。そうした中で憲法の示す建前を崩さずに「実質的な表現規制」を行おうとするなら、自民党政府のもとで成功してきた、自主検閲組織を業界に作らせて『自主的な規制を権力側から強いる』事で実質的な表現規制を行うやりかたがやはり踏襲される。
特にフェミニストとされる人達が特定の表現(宇崎ちゃんとか)を特定の場所(日赤)で禁じようとする時には、これが権力による直接的な規制ではなく、在野の民間人による公的機関や企業に対する言論圧力によって当該機関や企業の「自己規制を促した」のだから、これは絶対に表現規制じゃない、って言い方だった。彼らの言う通り、確かに憲法上の建前は守られた上で(彼らにとって存在の許し難い)不快な性差別的表現を「実質的に刈り取る」ことに成功していて、最初にこの自粛要請という「単純だが案外に強力な仕組み」を考えた政府役人や自民党の政治家達、そのアイデアをそのまま利用したフェミニストは賢いなと思う。
左右の違いが全然ないかと言うと、それはそうでも無い様で、大昔の矯風会の様な保守的アンチポルノ団体はあらゆる猥褻表現をあらゆる流通ルートにおいて消滅させようとしている感じなんだが、今の左翼・フェミニズム的な「反性差別表現」をやっている人達は、流石に左翼であるだけあって「ポルノであるならこの世に存在を許さない」などということは主張しない。存在が許されない表現はある程度は絞り込まれていて、大体それが「男オタク好みの性的な表現物」に被さっているし、流通に関しても「表通りに出てこなければ許す」という感じである。 ポルノショップで無修正ポルノが販売されることまで禁じろという主張はしてない。(コンビニ、一般書店で水着グラビアの雑誌販売を禁じろは言ってるのがいるが)
良く知らない世界なのだが、腐女子の世界における「学級会文化」というものがあり、世間に対して目立たぬように「厳しく自粛」(恐らく自己認識としては自粛ではなく相互批判によるコミュニティの自浄作用だろう)する傾向があって、それは同性愛を正面から扱う表現であるために『世間の目を憚る代物』である自覚があり、それ故に何かと謂われなく侮辱されたり非難されたりする『腐女子の表現の世界』を守ろうって云う同調圧力が(人・場所によっては)やたらに強い、って話を聞く。
そういう文化があるためなのか、同様な「当然の自粛」が男オタクの表現物でも行われるべきで、それが全く行われずに結果として表通りの世間に流出し、そこで調子良くのさばるべきではない、って理念が、腐女子でもある一部のフェミニスト(一部じゃなくてマジョリティなのかもしれないが)には潜在的にあるのではないかと考えているが、ちょっと確認が難しい。
この「表現自粛」に対する積極的な考え方は男オタクの世界にはあまりなさそうなもので、この部分では政治的には極右のオタクでも昭和左翼的な「政府による自由の規制は最小限であるべき」って建前を大事にしてたりするし、左翼のオタクならもちろんそう考えるはずなのであるがそうなっていない。これは恐らく今の左翼・フェミニスト達による「最小限の規制対象」の裁定基準が「表現の自由戦士」と悪意と侮辱を込めて呼ばれる人達にとっては理不尽に厳格であるってことなんじゃないかと思う。かくいう俺もフェミニスト達、とりわけネトフェミと悪罵される人達の基準はちょっと、いや全く受け入れられない。
昭和左翼は自民党政府による「公序良俗=保守的性道徳観」の保護に反対した訳だが、基本的に右翼である「表現の自由戦士」はフェミニズム側からの「公序良俗=反女性差別的性道徳観」の保護に反対している訳で、その意味では政治的立場と主張の食い違いは無いとも言える。
どちらにせよ、憲法の建前からして最優先で守られている政治的表現と違い、その殆どがエンタメである文学や映画マンガアニメといった表現は、我国が戦前も戦後も内務省=警察権力が強い強権的国家であったこともあり、公序良俗の保護を理由・目的として簡単に規制を受けがちであることは戦後の歴史が証明してる。
それを守りたいと思うのであれば自分が右翼であれ左翼であれ、機会を捉えて発言して意見し議論することはどんなに嫌でも避けられないのであろう。 ああ嫌だねえ……
警察が捜査した事件というのは全て送検される。「調べたがこりゃ事件性が無いな」と判断して捜査を打ち切った場合も送検される。
だから起訴の根拠になる証拠を集めて事件を検察に送る場合と不起訴前提捜査打ち切りで送検する場合がある。
警察権というのは検察の起訴権があっての事なのでそうなっている。警察は検察から独立して捜査する権限はないのでどんな事件でも最後は送検しなきゃらないんだな。
でもマスコミはその辺の事を説明しないで「書類送検」報道をする。事件性があってニュースバリューがある事件の場合はそれで耳目を惹く事ができる。
例えば贈賄事件などで送検されたとなれば警察の捜査は終わってこれから裁判だという情報ではあるが、タレントが嵯峨野の竹林の踏切からはみ出して写真を撮った、なんてケースでは意味が無い。どうせ起訴されないからだ。
後者のようなケースで書類送検報道をするというのは質が悪いので止めるべきなのだが、ニューバリューが創出出来るって事で無批判にされている。
と種類がある。4.は犯罪事実なし、時効成立、被疑者死亡、親告罪事件で告訴取り下げられた、など起訴できない場合の意見だが、警察には起訴権が無く命令出来ないので「貴官然るべく」との意見になっている。
書類送検報道では報道側の恣意性を縮減する為にこの意見書の内容を報じろとの意見があるのだが、一般化していない。一般化していないので警察もマスコミに書類送検した、との事実以外を伝えていないようだ。
この文章は「香山リカ氏ら書類送付 愛知知事リコール妨害容疑」https://nordot.app/808381768641003520?c=39546741839462401
の報道があったので書いてるのだが、同記事中では「書類送付していた」と、いう変な用語を使っている。
「起訴を求める意見は付けなかったとみられる」という事は1.の意見書ではないって事だろうが、警察にはっきりとは処分意見書の種類を聞いていないようだ。書類送付という用語は書類送検が即ち有罪を示す語感で使われているので苦肉の策だろうか?
でも元はと言えば耳目を集めやすいからと無批判に書類送検を使っていたのが問題なので、ちゃんと視聴者に説明を図るべきだろう。
処分意見書の種類を報じろとの意見は一見最もだが、今度はそこで有罪無罪を印象付けるという問題もある。
不起訴は嫌疑なしや時効成立、親告罪で告訴取り下げなどが該る。
起訴猶予は被疑事実明白だが、境遇、罪状の軽さ、謝罪と示談済みなどの場合…と法律書には書かれているが、実際は罪が重くなくて被疑者に争う姿勢がある、公判維持困難そう、なんか大変そう、警察の捜査が緩いけど検察で被疑者召喚してやるのも…などの場合、起訴便宜制度を利用して何でもこれにしてしまう。
それでは事件が不起訴になった場合、不起訴相当か起訴猶予だったのか後から判るのか?というとこれは地方検察庁によるようだ。
書類送検の場合、不起訴ですよと教えてくれないので、頃合いを見て電話して確認する。
不起訴で終わっていた場合は不起訴処分告知書を請求して貰うことができる。(但し検察は色々理由を付けて嫌がるのごり押しで請求する)
その不起訴処分告知書には不起訴か起訴猶予かが書いてある場合と「起訴をしない処分とした」としか書いてない場合がある。
だから被疑事実があったと認められたかどうかは事件を扱った検察の所在地による。
告訴や告発があった場合、警察は捜査しなきゃならない。だから書類送検は必ずされる。
メディアが分化されて素人でも影響力があるYoutubeチャンネルなどを持てる昨今では告訴、告発とそれををしました/書類送検報道を一人で兼任することも出来る。N国がやっている事なんかは近いだろう。
なので「書類送検報道は罪状の有無に関して意味が無い」という事はもっと周知されるべきだし、悪用されうる可能性があるだろう。
ウマ娘警察外人絵師にまで注意してるのがいるが頭悪すぎるんだよね。
海外の警察権(捜査権)や司法権はその国々に帰属するのに日本の著作権に準拠したガイドラインに従わせられるわけないだろ。
ヤクザでたとえるなら「俺のシマの人間に勝手なルール押し付けようとしてんじゃねえ」ってなる。
少し極端なたとえだけど、ある国で殺人が合法だったとしてそこで旅行中の日本人が殺されても日本は為す術ないわけ。
それに口出ししようものなら統治権の侵害だしそこの為政者にとっても面白くないからね。
外務省あたりが自衛的に「この国には行くな」と注意することぐらいしかできない。もしかしたら遺憾砲で茶々ぐらいは入れられるか?というぐらいだろう。