はてなキーワード: 合唱とは
それはそれとして、小学館への「もっと作家に寄り添え」の大合唱については、小学館もしんどいだろうな…とも思う。
この辺の感想の内訳を、出版業界の端っこ(非漫画系)から自分の知識に基づいて書く。
今回の原作と脚本の問題は、つきつめれば著作者人格権の問題だと考えている。
(仕事上、著作権について多少は調べているが、法律の専門家ではないことは先に付言する)
「財産権」とは、そのまま、著作者の財産的利益を守る法律である。
そして、今回でいうドラマにあたる「二次的著作物」を作る(翻案)/利用することなどは
すべて著作権者の権利であり、第三者が行う場合は許諾が必要だ。
対して「人格権」とは、著作者の「精神的利益」を守る法律である。
公表権・氏名表示権・同一性保持権、つまり著作物を公表するかどうか、名前を出すかどうか、作品の改変を容認するかどうか。
このふたつの違いは何かというと、
「財産権」は譲渡も相続もできる(著作者でなくても、著作権者にはなりえる)が、
「人格権」は、だれにも譲渡も相続もできない、「著作者本人のみ」にある権利だということだ。
個人的に「精神的利益」とは、ネットスラングで言う「お気持ち」と同義であると考える。
軽んじる意味で言うのではない。
公表するか、名前を出すか、改変してもいいかどうか。つまり、自分の著作物が、自分の納得のいく形で扱われているかどうか。
それによって守られる作者の「気持ち」こそが、法律で守る価値のある、大切な「精神的利益」なのだと思っている。
以上を踏まえて今回の件を見ると、
今回、原作者がドラマ側に繰り返し要望したのは、自身の著作者人格権の尊重だと考える。
もちろんそれ以外にも、著作者には二次的著作物の作成/利用の許諾を行う権利があるのだが、
「ドラマの結末を自分に決めさせてほしい」「キャラクターを変えないでほしい」という要望は、作品世界そのものを守りたい、言い換えれば「同一性保持権」を守りたいという願いのもとに出されたように、私には思える。
そして前述の通り、それは著作者本人の「精神的利益」を守る重要な権利だ。
ここまで書いた通り、著作者人格権とは作者の精神的利益を守る大切な法律だ。
よくわかる。
今回のように著作者一人で本が一冊出来るような漫画や単行本であれば、先生の納得を大切に
進めましょう、といえるだろう。
けれど、たとえば、子供向けの学習ドリルをつくることを想像してほしい。
問題文、解答解説文、ページ内のイラスト、すべて著作物であり、それぞれ著作者がいる。
なので、理屈上は、ドリルのカットイラストを描いたイラストレーターさんが、あるひとつのイラストを指して「このイラストをもう公開したくない」といえばそれは尊重されるべき、となる。
著作財産権ならばお金で解決…つまりイラスト自体の権利を買い取るという交渉もできるが、著作者人格権は譲渡できない。著作者がダメと言ったらダメである。
公表したくない…それは、どこまでの話なのか。もう印刷して積んである在庫は、書店に出回っている在庫は。シール対応か? 断裁か? 絶版か?
もちろん、そんなことになった例を私は知らないし、たいていのクリエーターさんはこちらの状況を汲んで、たとえば改訂するときに外してください、などの常識的な要望におさめてくれる。
ところで出版系は契約がルーズだなんて言われるが、最近は結構まじめにやっている(少なくとも私の周りは)。
さて契約書を結ぼうとなると、この著作者人格権については悩ましいところがある。
何せ字義どおりに捉えたら強力すぎる。
著作者人格権を盾に、出版物全体に影響を及ぼすような運用ができるのか、それは判例が出ない限りわからない。わからない以上、我々は会社員なので、裁判沙汰になる芽はできるだけ摘まなければならない。
かくして契約書に、「著作者人格権を行使しない」なんて文言を盛り込む羽目になる。
「著作者人格権の不行使」は契約書では案外よく見る言葉である。
たとえば会社のポスターやパンフレットやDMを発注したとして、取引先の「公表権」で取り下げさせられたり、「同一性保持権」で修正できなかったりする可能性がある…となると、必要性が想像つく人もいるのではないか。
クリエイターが本来持つ権利を制限する契約は、誠意に欠けると思っている。
今回の事件は漫画作品なので、カットイラスト1つとはわけが違う…とも思うが、
わけが違うか? ほんとうに? すべての著作物は同等に尊重されるべきでは??
という思いもある。
100%くもりなく「著作者人格権を尊重します!」と言い切れるかというと…権利の強さゆえに、あまり現実的でない、と思ってしまう。
今回の問題の根幹が「著作者人格権の尊重」をめぐるものだと考えると、小学館全体として声明を出すのは苦しいだろうな…と想像している。
逆に言えば、それ以外の事情……芦原先生が小学館に対して寄せていた信頼が裏切られてい
た、というような経緯がないことを祈っている。
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ちまちま書いていたら小学館から著作者人格権に言及した声明が出ていた。
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言葉だけが先走りそうで、そして実際権利としてはかなり強いものなのでちょっと先が思いやられる。
なお「じゃあAI学習は著作者人格権侵害なのでは!?」と盛り上がってる人を見たが、機械学習は私的利用とかと同じ例外規定やで。
日本はどうしてこんなにもどのジャンルでも続けろ続けろの大合唱になってしまったのか
俺が子供・若者だった90年代(平成一桁)ってこんなに何もかも続けろ続けろの大合唱だったっけなあ、と思うことがある ここ10,20年くらい、テレビ番組にしろ、Youtubeチャンネルにしろ、Vtuberにしろ、ソシャゲにしろ、歌手にしろ、アイドルにしろ、続けろ続けろの大合唱が支配的になってしまって、社会の高齢化・老人国家化ってのを感じるね 正直、俺の視界の問題なのか、やはり社会全体が老人国家化したのか、ちょっと判断に迷うところはあるが。昔だってやはり今と同じように続けろ続けろの大合唱だったけど俺が若かったから視界に入ってなかっただけなのか(身も蓋もないがその可能性はある) 現代人(2024年視点)は昭和世代が全員中高年化してしまたので昭和を古臭いものと認識しているが、実際は真逆であり昭和の高度成長期の平均年齢は28歳くらいでバブル突入期で35歳頃、とにかく国も国民も若いので新陳代謝が凄まじく
カラオケ行こ!観た。
いつもならシャバい実写化映画と無視していただろうけど、TLのオタクが良かったと言っていて逆張りセンサーが停止した。
ソフトBLっぽい感じなのかなと思いつつ、菊次郎の夏とかムーンライト的なヤクザと少年の文脈で見れば行けるか、と思って観に行った。綾野剛とハリーポッターみたいな少年というキャスティングではありつつ、絵柄による先入観もなかったのでその辺は観る側次第な気がした。綾野剛スタイル良いな。
冒頭のシーンでそういえば合唱モノも嫌いだったなと思い出して不安になったけど、その辺のバランスも良い感じだった気がする。歌がテーマではありつつ、歌いすぎないことで最後の紅も際立ってたし。
最初の紅は素人のカラオケとして別に全然下手でもないような気がして、よくよく思い出せば別にド下手と言っていた訳でもなかった気がするけどちょっと引っかかった。まあその分中盤のヤクザ達のインパクトがあって良かったのかもしれない。
ヤクザのコワさや部活の悩みも挟みつつ、あの気の抜けたBGMと共に一貫した軽妙なコミカルさを楽しむ作品という感じだった。紅の天丼とか結構フフッとなった。
和田君とか映画部のアイツとかも良いキャラしてたし、過不足なくちょうど中学生といった感じのやり取りもまた箸休め的に楽しめた。映画を見る部で流れてたのはカサブランカと自転車泥棒と、あとは何だったんだろうか。
変なヤクザに翻弄される可笑しさから、徐々に打ち解けて互いの軽妙な関西ノリの面白さへと変わっていって間延びもせず退屈しない。
チンピラに絡まれたり調子づいてカスと言って掴みかかられたり、ヤクザの怖さを描く場面でコミカルさから離れてピリッとするけれど、あんまり漂白された(もちろん本作でも相当されてはいるものの)反社会勢力というのもなんだし、それじゃただヤクザを名乗る変な人になってしまうし、あれも必要な場面だったなと思えた。ありがちなコメディでは物語に展開をつけるためのこういうシーンが中弛みめいて感じるけど、特にそういう印象を抱かなかった。
無神経にも学校に現れた狂児に同級生との揉め事をからかわれて、もう知らん!一人で困ってろ!ってなった後にLINEで大人の対応をするのが、少年とやくざ者の友情の距離感というものを端的に表すようで非常に良かった。
ワイがやってるソシャゲ、プレイヤーは口を揃えて「開発はバランス調整が上手い」って言うんだけど、かなり初期に、攻撃さえ当たればダメージカット率100%の敵も倒せてしまうぶっ壊れを実装した結果、最近のボスはみんな空を飛んでそもそも攻撃が当たらないようにしてるので、相当頭悪い調整してる。
でもそれを表で言うと、簡単に炎上して、人格否定から、「嫌ならやめろ」の大合唱になるので表では絶対言えない。信者しかいないゲームって怖いね。
いち早く準備して駆けつけたさまざまなNPOのなかには、あの団体とかあのひとたちとか(迷惑がかかるから具体的な名前は書かないけど)
東日本でも活動してい組織力も機動力も蓄えられた有名組織もある一方で、さまざまな見知らぬ中小の規模な団体も現地入りしていることだった(自分が知らなかっただけだけど)。
ニーズをきめ細かく聞いてくれてうれしいという被災者のSNSから、それは本当に頼もしいと思った。
穴水や能登町あたりは発災直後においても、まだしも入りやすかったのか、支援が先行していたように思う。能登町には知人がいるのでとりわけ関心をもっていたのだけど、うれしいことだ。
パルワールドのモンスター「パル」がポケモンのパクリではないか、任天堂法務部が動くのではないかと話題になり例によって「比較画像」などが作られ拡散されている。
並べて見ると誰でも確かにと思うかもしれない。
元ネタが同じでデフォルメのテイストも同じなら見た目が似るのは当たり前。
動物の毛並みをトゲトゲした形にデフォルメする、草花モチーフなので花びら状のパーツをつける、ふわふわした毛をつけて可愛らしくする、トサカで獰猛な印象にする、こうした表現はポケモンの専売特許ではない。
パルとポケモンの一部はカラーリングも一致するがこれも当たり前のこと。
植物属性ならメインカラーは緑。そうなるとアクセントカラーは必然的に補色の赤やピンク。
ペンギンは本来黒いがキャラクター化されると氷属性に設定されやすく色は青。必然的にクチバシなどは黄色。
こういった具合に配色は決まるので色は同じになる。
その他、お腹の部分だけ明るい色になっているとか脚の先だけ色が切り替わっているとか鳥の足が黄色いとか羊の顔が黒いとか、これらも全て現実の生き物の特徴であってポケモン独自のものではない。
比較画像を見ると全てのパルがポケモンに似ていて「丸パクリ」かのように感じられる。
しかしパルの一覧を見ればどのポケモンにも特に似ていないものもいる。
比較画像は多数のパルの中から似て見えるものだけを選んだり動画から似て見える瞬間を切り取って作られており、パルワールドを貶めたい人間や騒ぎにしたい人間が作った恣意的なものなので真に受けてはいけない。
パルワールドとポケモンは似ている。しかし「似ている=パクった」ではない。
専門的には著作権侵害の成立には類似性と依拠性が必要で、今回で言えば類似性はあるがそれはモチーフや作風の一致からくるものであり依拠性は確認できない。
開発側が法的に問題ないと断言しているのも納得できる。
ネットはデマに乗せられて「パルワールドはパクリ」という空気が前提になってしまっており擁護の中にすら「デザインはパクリ」と軽々しく口にする者がいるが、名誉毀損の訴訟リスクがあることは承知しておいた方がいい。
以下は私見だが、新規IPを作る時は今回のような騒ぎを避けるためだったりオリジナリティへのこだわりから既存IPにできるだけ似ないようにわざわざ手間をかける。
言わばポケモンに似せているのではなくポケモンに似ないようにすることにリソースを割かなかっただけ。
その理由は分からないが他者の権利を侵害していないならそんなゲームがあったっていい。
これと似た危機感を感じた事があるのを思い出した。
東京五輪ロゴの盗作疑惑だ。佐野研二郎デザインのT字エンブレムが海外のロゴに似てるとされた事件。
あれもデザイナーならパクリではないのは明らかだったが世論のパクリパクリの大合唱に押されて撤回されてしまった。
過去作の模倣問題が出てきた脇の甘さはあったが事実無根のパクリ認定で制作物を取り下げさせられた佐野研二郎は悔しかっただろうなと思う。
法的にもなんら問題のないものを空気で私刑にかけて人の権利を奪っていいはずがない。
パルワールドは幸い今の所とてつもない勢いで売れている。
はてなー「日本人男性は差別されてるんだぁ!男女逆なら許されないのにぃぃぃぃぃぃ!!」
嘘つけよ
「外国人が日本人女性とは結婚するなって言ってる」って話題の時に
ブコメでは嬉々として女叩きする奴らだらけだったぞ
https://www.mosumiharuto.com/do-not-marry-japanese-women
今だってXで大人気な女叩きアカウントが同様のことポストてバズりまくり、女叩きの嵐だし
「日本人男性が家事をしない」なんて、「一昔前の男がそうだったのを背負わされちゃって大変だね」みたいにめちゃくちゃ気を遣ってる感じなのに、差別ダーの大合唱
なんかさ
「男女逆なら許されないのに!」という思い込みを拗らせすぎて男女逆の方が許されてるよね