はてなキーワード: 今日とは
夫婦別姓になるとこれが発生するんだよな
夫、妻は別姓でも子供はどちらかを選ぶので
夫か妻のどちらかはポツンと一軒家になる
「田中くんのお父さん」って呼ばれてもお父さんは鈴木だったりするわけで
お母さんだけは「田中くんのお母さん」がしっくりくることになる
その時も夫だけ実は鈴木だ
すでに別姓の国では、ファミリーを呼ぶ時はなんて呼んでいるんだろうな?
結局、父の姓を使っているのだろうか
それが別姓と言えるのか、選択的と言えるのか
複合姓などを導入しなければ片手落ちなのでは?
複合姓とは田中と鈴木であれば「今日から我々は田鈴とする」ってことだ
学校などで子供の親を呼ぶ時は「田鈴家のお父さん」になるってことだ
ここまでやって初めて選択的別姓ではないだろうか
https://www.youtube.com/watch?v=arNDv8IdFmA
渡辺香津美のE-DAYプロジェクトと距離が近いせいだと思う。
ごはんができたよと呼んでくれる人、つらいことばかりならかえっておいでと言ってくれる人がいるなんてありがたい。
世の中の多くの人は当たり前にセックスする相手がいるってだけでマジでマリーアントワネット
産まれてこの方乾パンしか食べたこと無い(比喩)穢多非人の自分からすると、ケーキもパンも食べ放題なセックス上流階級は異世界なんよね
カーストを駆け上ろうと頑張った、そんな時期が僕にもありましたが諦めました。この強固な「世界」からの身分固定圧力を相手に頑張りましたが奮戦虚しく惜敗し、なんとか致命傷で済んだ恥ずかしき身を託ちながら今日も乾パンを食べ孤独死に備えています
ラノベなら世界に打ち勝って無事セックスできるのですが、僕は流れ弾が頭に当たってモブ!って叫びながら流れ弾で死ぬモブキャラだったようです
それに対して特効薬的なアドバイスを期待しているなら、それは難しいっす。
現実的には、増田ちゃんが言っているように、病気や障害に悩まされている状況では、自己肯定感を保つなんて簡単じゃないっす。
「生きてるだけで偉い」なんて言葉は確かに、特別な努力をしている人に向けられることが多いけど、増田ちゃんの場合も、ただ生きているだけで十分に大変な状況にあることは否定できないっす。
普通の健康な人が日々やっていることすら、多くの障害や病気を抱えている状況では、大変な努力が必要っすから。
もし少しでも自己肯定感を上げたかったら、まずは小さな成功を見つけることが大切かもしれないっす。
ほんの些細なことでいい、たとえば今日は少しだけ体調がよかったとか、何か小さなことを達成したとか。それを見つけて、少しずつ積み重ねていくっす。
ボランティアや社会奉仕活動が無理なら、自分のペースでできる趣味や活動を見つけるというのも一つの方法っす。
外に出ていなくてもできることはいくらでもあるっす。
大岡裁き。それは我が子を想う母親の心情を巧みに掬い上げた大岡越前守が名裁決である。
白洲に引き出されたは二人の女と幼き稚児。女どもは我こそが子供の母親であると口々に申し立てる。母は己が益よりも我が子の心身を重んじるはずと考えた大岡越前守は、自らこそ子供の母親であると声を上げる二人の女に子供の手を引っ張らせ、まことの母親であれば子供を諦めないはずであると、敢えて真逆の行為をけしかけた。果たして本物の母親はすぐさまに我が子の身体を想い手を離したのであるが、偽りの母親は最後まで子供の悲鳴にも聞く耳を持たずに手を引き続けた。
この、お白洲という非情がまかり通る場所での親子の情を重んじた名裁決は、またたく間に江戸中の評判となった。大岡越前守の公正かつ賢明な裁きに感銘を受けた江戸の母親達は、我と我が子が白洲へ上げられる最悪の事態に備え、こぞって相手よりも素早く手を離す訓練を始めた。はじめは隣近所で集まり細君同士で児戯の如く交流を重ねていたのだが、次第に規模が膨らみ長屋単位で集うようになり、数月経つ頃には江戸の町全体の奥方を網羅した「大岡裁き番付」が作られるようになっていた。
これが大岡裁きの極限競技〈エクストリーム・スポーツ〉化である。
「大岡裁き」の基本ルールについては今更語るまでもないだろうが、念の為、以下簡潔に説明をする。まず試合場にて競技者たる二人の女と奉行所より公正な基準に則って選ばれた稚児が並ぶ。三者が正面の裁き手へと礼をした後、女・稚児・女の並びに移動し、女がそれぞれ稚児の片腕を取る。そして裁き手の号令にて一斉に手を離す。このとき、最後まで手を持っていた方が敗者となる。お白洲に立ち裁き手の最高位たる大岡越前守より御裁きいただけるのは、番付上位のごく限られた存在だけである。
競技化してからの大岡裁きについて、その全貌を余さず語るには頁が幾らあっても足りることはないが、ここではその初期にあった一つの名勝負を紹介しよう。「突き」が体系化されて技法が複雑化する直前の、純粋たる「離し」の名人達による今もなお語り継がれている試合である。
その日お白洲に現れたのは、枯れ木のようにやせ細った女と、それとは対象的に首や四肢にたっぷりと肉を蓄えた肥えた女であった。二人は丸々とした稚児を挟み向かい合うとニヤリと笑いあった。両者とも当代一の達人との名高い見知り同士であり、両者五勝五敗のこれが通算十一回目の試合であった。
枯れ木のような女の腕名は湖越えのちよという。彼女は軽やかに美しい所作により「離す」名人であり、彼女の「離れ」による跳躍は水辺を渡る鷺の如きであったという。ちよのあまりにも優雅な「離れ」を語る逸話には限りがないが、その中で最も有名なものは彼女の腕名となっている湖越えであろう。ある武家の屋敷にて試合を行っていた彼女であったが、裁き手の号令の瞬間にはそこに残っているのは砂けぶりだけであり、その姿はもはや稚児の傍になく、邸内の池を越えて対岸へと着地していたという。池の幅は少なく見積もっても六間(約11メートル)あり、常人ではとても真似することの出来ない幅であった。彼女の跳躍を間近で目撃した御隠居は、もしあれが池ではなく湖であったとしても、彼女は間違いなく越えていただろうと語った。
もうひとりの太り肉の女は箱根のお松という。彼女はちよと異なり跳躍ではなく縮地による「離れ」を得意としていた。彼女の張りつめた四肢から繰り出される俊足は、十間(約18メートル)を瞬きの間に駆け抜けたという。暫し誤解されることであるが、彼女は純然たる江戸っ子であり、腕名の箱根はちよと同じく試合の逸話に基づくものである。彼女が縮地を己がモノにした頃のある試合において、「離れ」の瞬間、大砲のような轟音が響き、試合の場である屋敷全体が震えた。その揺れの源は、屋敷の塀に衝突したお松であった。塀が大きくたわむ程に突っ込んだお松の縮地は常人が捉えられるものではなく、かろうじて越前守の弟子であった見届け役が認識できただけであった。その驚くべき俊足を見た屋敷に逗留していたとある粋人は、仮に塀がなければ彼女は箱根の峠まで飛んでいったであろうと称したのである。
当代一の名人である二人の勝負は一回で終わることはなかった。裁き手の大岡越前守が号令をかけた瞬間、そこには土煙が残るだけであり、お白洲の両端にちよとお松。そして砂煙が晴れてふくよかな稚児の姿が現れるという始末であった。近年ますます加速化する「離れ」の瞬間に、裁き手たる越前守はこれまで辛うじて追いついていたものの、この二人の速度は群を抜いて速く、副審のからくり手の技能を持ってしても勝敗の判別が不可能であった。
土煙が判決の邪魔をしているのではないかと、砂地に水を撒き再度取り直しをさせたが、稚児の両脇に残ったのは深々と空いた丸穴と抉れた足跡だけであった。何度取り直しても決着がつかず、ついぞ判決に困った越前守は奇策を思いつく。稚児を立たせるのではなく二人で釣り上げて、先に爪先が落ちた方がより早く「離れ」た方だと。この日の稚児は二十五貫(約94キログラム)ある恵体であったが、お白洲に立つのは江戸の最高番付の二人であった。両者は再びニヤリと笑い合うと、片腕で軽々と稚児を釣り上げた。ちよが右手、お松が左手。越前守が号令を下した瞬間、先に爪先が落ちたのは右足──即ちちよの方であった。
後年、お松は「あれは稚児の左足が短かっただけであり、離れは同時であった」と語り、自分の負けを死ぬまで認めることはなかったという。この勝負を切っ掛けに「離れ」の主流はちよの跳躍となった。彼女が残した縮地は「突き」において花開くことになるが、それを本人が見届けることはなかった。
次は、「離れ」に対して「突き」の興りを記さねばなるまい。あくまでも原点に忠実に手を「離す」ことを重視する「離れ」に対して、何よりも早く手を振りほどくことを重要視するのが「突き」である。「突く」行為そのものは競技の興り時点から散見されていたものの、体系化されるまでには長い時間が必要であった。
最初期にはっきりとした「突き」の使い手として名が後世まで残っているのが千手観音の桂子と呼ばれる存在である。それまでの「突き」の使い手と彼女の最大の相違点は、「突き」の「離れ」に対する優位であるといち早く看破したことにある。すなわち、「離れ」る前に「突き」押すことで、相手に稚児の身体を押し付けるのである。この発見により、「突き」戦法が大流行し一時は「離れ」が番付から消滅寸前にまでなった。その後、「突き」に対して優位を取ることができる「躱し」が発明され、今に至るまで知られている三すくみ「離れ」・「突き」・「躱し」が完成された。
この篇の最後に「突き」の名人同士の試合を一つ紹介しよう。「突き」手同士の戦いは間に挟んだ稚児を押し合うこととなるため、両側から押された稚児が地に転がることは日常茶飯事で、中には体にかかる力の作用により、大独楽のごとく勢い良く回転する稚児の姿も見られることも珍しことではない。しかし、「突き」の達人同士となれば、人知を越えた奇跡の瞬間が興り得るのであることを示したのが次の試合である。
その日の最後の取り組みは、寅と辰という、うら若き双子の「突き」手の試合であった。二人は千手観音の桂子の孫であり、祖母から直々に手ほどきを受けた若き俊英であった。二人が公式の場で手合わせをするのは今日が初めてであり、観衆は期待を胸に見分け難い二人を見守っていた。
裁き手の大岡越前守の声とともに同時に二人の体が動き、稚児を押した反動で揃って稚児から半間(約90センチメートル)ほど離れた位置にゆるりと着地する。はじめに異変に気がついたのは観衆であった。
お裁きを見守っていた観客の間から「ホウ」という感嘆の声が上がった。続いて興奮を隠せない小声が観衆の間から漏れ聞こえ始めた。その段階に至り、判決を下すのに集中していた大岡越前守はようやく気がついた。彼が注視していた稚児が、まるであやかしに持ち上げられるように宙空へ浮かんでいることに。稚児は宙に「丁の字」を描くように腕を開いて静止していたのだ。
双子が全くの同時に両側から稚児を押したことで、稚児に伝わった力が正中線でぶつかり合い、その力が幼き肉体を地から持ち上げたのである。しばらくの間稚児は宙へ浮き続け、やがて萎れるように地上へと降り立った。その間、双子たちは周りの喧騒に顔色を変えることもなく、裁き手の判決をただ待ち続けていたという。記録には、さしもの稀代の裁き手大岡越前守も、この妙技の前には両者引き分けを言い渡すしかなかったと記されている。
そこでオプション追加で例えばアジフライ単品追加注文ができるんだけど、
アジフライ単品追加注文して、ランチプレートに一緒に載ってくるならランチの一式に見えて違和感ない。
アジフライ単品が別皿で乗ってきたら、たぶん持ってきてくれる人はこいつ単品アジフライ追加か!って食いしん坊に思われない?
ランチのもともとついてくるアジフライにカムフラージュされてアジフライ単品追加って分かりにくいけど
別皿でやってくるとなんか食いしん坊か!って思われそう。
これって
気にしすぎ?
Gelsy プーチンがベトナム訪問したニュースのあとにこれを見ちゃうと、ベトナムとはもう仲良くできないのかなって思っちゃう
https://b.hatena.ne.jp/entry/4755200004270447360/comment/Gelsy
雨が降っているけれどまだ梅雨入りしていない感じみたいよ。
そんで、
いまどうなってるのかしらね?
私は相変わらず忙しくてお洗濯もこんな調子だから溜まりがちの洗濯やっとして
そうそう!
使っている空気を回して循環させて早くお洗濯ものを乾かそうとしている作戦のさサーキュレーターってのがあるの。
あれいまコンセントがPlayStation5で埋まっちゃったから
コンセントがなくて
そうなると
コンセントの口を増やしたい季節!
きたこれ!
と言わんばかりに
そっかーコンセント足りない問題よくよく考えてみたら翌日には解消していたわよね。
すっかり私はこの2か月間、
そう言った発想とか思いつきとかがなくて、
諦めかけていたときが見つかるってことはよくある話しで
私は早速また時間のあるときにそうよコンセント増やす装置を買ってこなくちゃいけないのよね。
そうするわ。
うふふ。
トマトのフレッシュさが美味しい赤とタマゴの黄色が元気の朝の源よ!
ここ忙しくて買い物も行けてなくてーという感じの
シャキッと起き抜けにしゅわしゅわが決まるわ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!