というと、多くの人は「自然数が先だ」と答えるだろう
一方、空間Xが先か、関数{f:X→○}が先かと問われると、「Xが先だ」と答える人が多いだろう
自分は童貞のままお見合いで結婚して、連れ合い(妻とか嫁とか言うとケチつける人がいるから、普段は名前で呼んでいる)と1度もすること無く、不妊治療で
顕微授精で子どもを授かった。
面白いわけでも、頭が良いわけでも、足が早いわけでも無いのと、内向的な性格もあって男子とも友人関係を築けなかった。
でも結婚したくて、27から結婚相談所、サイト、婚活パーティーに参加して、7年後に結婚相談所でお見合いをした女性と結婚した。
結婚相談所のルールの1つに体の関係を持ってはいけないとある。
もしかしたら、真剣交際(お見合いをして、双方が同意したら、仮交際【友人関係みたいなもの、他人とお見合いをしても良いし、他人と仮交際になっても良い】仮交際から真剣交際に双方が同意したら、他人とはお見合いが出来ない)に入ったら、身体の相性を確かめる人もいるかも。
入籍前にブライダルチェックをしたら、2人ともに不妊の要因があった。
入籍して、連れ合いは子どもが欲しかったので、すぐに不妊治療を開始。人工授精、顕微授精で2年半で、
不妊治療中はクリニックに頻繁に通い、嫌いな注射をしたり、鍼灸整骨院で鍼をしたりしていた。
産後も3ヶ月程実家にいて、家族3人での生活が始まっても、授乳を始め育児が大変で(自分もオムツ替えや寝かしつけなどしています)気づいたら1年経っていた。
なんでこういうとこでマウンティングするかなあ。
役者のはしくれとして舞台に立つ友人は、その日も稽古の帰り道。
もともと強面であるがゆえに、とてもガラが良さそうには見えない。
表現者としてエッジを立てたいなら「河原乞食」の自覚と覚悟がないと難しいんじゃないかな。
ちょっと前に演劇が叩かれたのも、自分たちは「はしくれ」であっても芸能人で、一般人のお前らは崇め奉って当然みたいなマウンティングが普段から感じられるからだよね。
ワイヤーブラ高いから古くなっても新しいの買うのに二の足踏んでた高校時代、体育の授業でふとした拍子にワイヤーが胸に突き刺さって流血した
最近ノンワイヤーがどんどん増えてきてて嬉しい、私みたいに胸から血を流しながら体育の先生に保健室に連れて行かれる子はいない方がいい
タイトルが全てと言えばそうなんですけど、これ思ってる人って結構いると思うんですよ。もちろんファンアートを描く人やそれを喜ぶ作者の気持ちを否定するつもりはこれっぽっちもありません。ただファンアートをweb小説の本文に載せるのはやめてほしいのです。
何故ファンアートを載せるのをやめてほしいのか理由を説明していきます。まず当たり前のこととして小説単体って基本的には文字だけなんですよ。書籍化してる本なんかは挿絵やら表紙やらで視覚的に訴えてきますが、それは”書籍”として完成度をあげる(売れる)ためなわけです。物語を頭でイメージしやすくなったり、絵が好きで買ってくれる層も出てくるのでとても大事です。世に出ている本(ここではライトノベルとします)は書籍化の段階から組み合わせがか考えられてるセット商品なんですよ。別々の物がくっついてるわけじゃないんです。挿絵を付けるのは書籍としての完成度を上げるためなんです。これよく覚えといてください。
web小説は書籍化のフォーマットにあるわけじゃないので挿絵が付くことは基本的にありません。書籍化するとなった段階でその小説は挿絵や表紙、書下ろしなどと合わさって生まれ変わることになります。作者の方が自分で描いてることもたまーにありますが、それはともかく。
web小説を読んでいたとしましょう。挿絵がない小説ですから読者は与えられた情報で各々キャラクターの造形を頭に浮かべ、楽しんでいます。この時、読者の頭に浮かんでいるのは同じキャラクターでも見た目が違います。文字情報だけで同じ見た目の人物を思い浮かべるなんて無理なわけです。当たり前ですね。
そして続きのために次のページのリンクを踏むと『とてもうれしいことに○○さんからファンアートをもらいました。○○がめっちゃ可愛い!!』みたいな作者コメントと共にファンアートが出てくるわけです。ファンアートがもらえるということは小説に人気があり、結構続いた中盤当たりでしょう。読者が自分の中でキャラクターのイメージ像を固めたところです。そんな中で作者というこの作品の神の公認と共に出てくるファンアートは世界を一回ぶっ壊してその色に再構築させるわけです。
そのファンアートが自分の想像通りだった! という人は幸せです。なんも問題がない。神が認めた世界を楽しく謳歌できます。人生薔薇色です。
思ってたのと違う……となった読者達は選択を迫られます。何も見なかったことにするか自分の認識を改変するかです。聖典を自分なりに解釈するか改宗するかですね。どちらも辛いです。神は試練を与える。
そして性質の悪いことに誰も悪意があるわけではないのです。ファンアートはその作品を楽しんだ読者からの応援メッセージですし、作者はそれにただ喜び皆に紹介します。こんないいことがありました! と。軽い気持ちなのでイメージに合わないなら無視してね! くらいのノリです。
しかしweb小説の本文というのはその世界の聖典なわけです。ここに書かれていることが正しいし、カラスを白いと言われれば白いと認めざるを得ません。そこに置かれたファンアートは同じ重みをもってしまいます。そして信徒たちは悩み苦しみます。聖書にはこう書いてあるが受け入れ難い……でも神の言葉だし……。そのキャラが出た時、信徒たちは叫びます。「神よ、なぜこのような試練を与えるのですか!」
こうして苦しみは続いていきます。この連鎖をどこかで断ち切らねばなるまいと私は立ち上がったのでした。
まあ長々書きましたが結論はシンプルです。ファンアートは活動報告に置いてください。以上です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー追記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自分の文章が悪く、この記事で言いたかった事をあんまり伝えられていなかったので追記。
コメントでもあるようにファンアートを載せるのは作者の方の自由であり、それに命令するように感じる文章はよくなかったですね。少し扇情的な文章になってしまいました。申し訳ない。
私の意見としては
・ファンアートを載せる行為は作者の喜びを分かち合うための行為だと思っている
・しかしそれを本文に載せるというのはどうしても別の意味合い(そのイメージに固定される)が発生しがちなので、それをよしとしないならば活動報告などの作者別ページに置いた方がベターではないでしょうか? という提案
・もちろんファンアートで応援する行為も、それだけの熱量を他人に与えられる作者の方もリスペクトしており、決してそれらを貶める意図はないということ
以上です。元の文は戒めとして残しておきます。
じゃなんてゆーのさ
詳しく言うと、エレベーターガールが廃止されフライトアテンダントも男女揃えるようになり、ビジネスパーソンもヘテロ男性だけじゃなくなってる2020年になんの疑問視もされず昭和のままのホステス要員としておじさんサラリーマンを喜ばせるためだけに若い女をお飾りで置いてなんの改善もなされてないのが本当に謎。だぞ。
まだゆうかー
確かになと思いつつ、最近ハマり始めた事に罪悪感を感じ始める。
最初は大乱闘スマッシュブラザーズで記念日を出すためだった。
昔ほどゲーム熱が高くなくなったから、ある程度やりこんでアンインストールした。
ちなみにガオガエン。
台座から世界観が演出されているし、台座が同じサイズだから並べるとスケールも近くなる。
綺麗で躍動感があって頭と心が回りだす。
その作品を知っているから見ただけで動きまわる姿が想像してわくわくする。
特に、ペプシマンとか一つ一つにストーリが―があって好きだった。
最近は無駄かな…って思えて本当に欲しいと思った稼働フィギュアを年に一回買う程度。
それでも、立体物が好きで3Dも書けないし絵も描けないのに、3D作品のメイキングとか設定資料とか美術資料を買って読んでしまう。
作りたいと思って、色々と忙殺されて最初の一歩と次の二歩目が出ない。
話は戻るが、
貧乏になるという話を聞いて、この気持ちに蓋をするべきなのかなって思ってしまった。
良い歳したおじさんの趣味じゃない。
でも、今の自分には心が躍る物が他に無い…
データとしての利用が事実上不可能になり、メンテナンスが極めて困難になり、生産性が著しく低下する
別に趣味でやるなら、Excelでドット絵を書こうが、VBAでスーパーマリオを作ろうが自由だ
だが、仕事でそういう変なことをするべきではない
曰く、視覚障碍者とか四肢欠損とかは見た目で障碍者だとわかるけれど、ろう者は見た目でわからないことが普通でちょっと美人だとメディア露出も可能とのこと。
むっと思ったけれど、ろう者のドラマやアニメは知っていて、視覚障碍者のアニメは知らないことには気づいて何も言えなかった。視覚障碍者が出てくる映画は知っているけれど、主人公は人じゃなくて犬だし。
個人的には目をつぶった状態や暗いときでも文字が読めたりとか、声を出せない状態でも意思疎通できたりとかで点字も手話も便利機能として見ているんだけどさ。
最近はマスクしてもごもごいうよりは手話使ったほうが何言ってるかわかるじゃんと思ってるけど、手話を知ったきっかけが倉本彩だったのでやはり何も言い返せない。