タイトルが全てと言えばそうなんですけど、これ思ってる人って結構いると思うんですよ。もちろんファンアートを描く人やそれを喜ぶ作者の気持ちを否定するつもりはこれっぽっちもありません。ただファンアートをweb小説の本文に載せるのはやめてほしいのです。
何故ファンアートを載せるのをやめてほしいのか理由を説明していきます。まず当たり前のこととして小説単体って基本的には文字だけなんですよ。書籍化してる本なんかは挿絵やら表紙やらで視覚的に訴えてきますが、それは”書籍”として完成度をあげる(売れる)ためなわけです。物語を頭でイメージしやすくなったり、絵が好きで買ってくれる層も出てくるのでとても大事です。世に出ている本(ここではライトノベルとします)は書籍化の段階から組み合わせがか考えられてるセット商品なんですよ。別々の物がくっついてるわけじゃないんです。挿絵を付けるのは書籍としての完成度を上げるためなんです。これよく覚えといてください。
web小説は書籍化のフォーマットにあるわけじゃないので挿絵が付くことは基本的にありません。書籍化するとなった段階でその小説は挿絵や表紙、書下ろしなどと合わさって生まれ変わることになります。作者の方が自分で描いてることもたまーにありますが、それはともかく。
web小説を読んでいたとしましょう。挿絵がない小説ですから読者は与えられた情報で各々キャラクターの造形を頭に浮かべ、楽しんでいます。この時、読者の頭に浮かんでいるのは同じキャラクターでも見た目が違います。文字情報だけで同じ見た目の人物を思い浮かべるなんて無理なわけです。当たり前ですね。
そして続きのために次のページのリンクを踏むと『とてもうれしいことに○○さんからファンアートをもらいました。○○がめっちゃ可愛い!!』みたいな作者コメントと共にファンアートが出てくるわけです。ファンアートがもらえるということは小説に人気があり、結構続いた中盤当たりでしょう。読者が自分の中でキャラクターのイメージ像を固めたところです。そんな中で作者というこの作品の神の公認と共に出てくるファンアートは世界を一回ぶっ壊してその色に再構築させるわけです。
そのファンアートが自分の想像通りだった! という人は幸せです。なんも問題がない。神が認めた世界を楽しく謳歌できます。人生薔薇色です。
思ってたのと違う……となった読者達は選択を迫られます。何も見なかったことにするか自分の認識を改変するかです。聖典を自分なりに解釈するか改宗するかですね。どちらも辛いです。神は試練を与える。
そして性質の悪いことに誰も悪意があるわけではないのです。ファンアートはその作品を楽しんだ読者からの応援メッセージですし、作者はそれにただ喜び皆に紹介します。こんないいことがありました! と。軽い気持ちなのでイメージに合わないなら無視してね! くらいのノリです。
しかしweb小説の本文というのはその世界の聖典なわけです。ここに書かれていることが正しいし、カラスを白いと言われれば白いと認めざるを得ません。そこに置かれたファンアートは同じ重みをもってしまいます。そして信徒たちは悩み苦しみます。聖書にはこう書いてあるが受け入れ難い……でも神の言葉だし……。そのキャラが出た時、信徒たちは叫びます。「神よ、なぜこのような試練を与えるのですか!」
こうして苦しみは続いていきます。この連鎖をどこかで断ち切らねばなるまいと私は立ち上がったのでした。
まあ長々書きましたが結論はシンプルです。ファンアートは活動報告に置いてください。以上です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー追記ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自分の文章が悪く、この記事で言いたかった事をあんまり伝えられていなかったので追記。
コメントでもあるようにファンアートを載せるのは作者の方の自由であり、それに命令するように感じる文章はよくなかったですね。少し扇情的な文章になってしまいました。申し訳ない。
私の意見としては
・ファンアートを載せる行為は作者の喜びを分かち合うための行為だと思っている
・しかしそれを本文に載せるというのはどうしても別の意味合い(そのイメージに固定される)が発生しがちなので、それをよしとしないならば活動報告などの作者別ページに置いた方がベターではないでしょうか? という提案
・もちろんファンアートで応援する行為も、それだけの熱量を他人に与えられる作者の方もリスペクトしており、決してそれらを貶める意図はないということ
以上です。元の文は戒めとして残しておきます。
簡単だ、『・・・見なかったことにしよう!』コレシカナイッ
本当にそう思ってるわけでもないのに、「本文は聖典!絶対に正しい!」って自分に言い聞かせてキャッキャしてんの、オタクの大好きな「こだわり」って感じだな。