レビュー対象商品: 風の谷のナウシカ全7巻セット ―アニメージュコミックスワイド判 (アニメージュコミックスワイド版) (コミック)
私の職業は科学者です。そして科学は宗教の一つです。私がそうはっきりとした自覚を持っているのは、この物語を読んだからかもしれない。「風の谷のナウシカ」はそういった深い哲学的な意味合いを持った物語です。
宗教としての科学は、論理という神の名の下、世界に「真実」を作り出して人々を啓蒙します。世界を「真」と「偽」に二分し、社会に「真」であることを暗に、しかし強く要求します。
私はこの「風の谷のナウシカ」を、人間が宗教を乗り越える物語だと感じました。しかし人類は宗教なしには生き長らえられないのではないか。同時にこの物語は、そうとも言っているように思えます。宗教を乗り越えて初めて見えた命の本質、その絶望に対する希望として、作者は「王道」を物語の中に用意しています。しかしこの「王道」について、作者が詳しく語ったほかの作品を、私は寡聞にして知りません。
ニーチェがその死を報告したキリスト教の神が、未だアメリカのような強大な力を動かしている現代。ゲーテルがその不在を報告した科学の神もまた、未だ生きつづけて強大な力を誇示しています。「王道」はこれらの神の内に存在するのでしょうか。
幸福になることがわかっている かつ 天才 である人だけいればいいってことだよな。
念のためだが、天才だから幸福とも限らないし、幸福であるためには天才でなければならないわけではない。
天才の中には、苦しくても問題が頭から離れないから考えざるをえないようなひともいると思う。
たとえば、たぶん天才に含まれるゲーデルなんかは、精神病になりやすい苦しみをともなう気質が、
しかしあそこにあったのは基本むき出しの嫉妬や羞恥や劣情であったのであり,いわば劣情の極であった。表面的に見ればただの大学生活のように見えても,あれの実態は淫夢だったのである。みんなで貪婪に夢を見ていたから多幸感に溢れみんな一応笑顔だった。しかし,背後には女の嫉妬,欲望,競争,自慢,そういうものがはみ出していて醜悪だった。確かにあの真夏の淫夢の写真を見ると,いまだに強烈に惹かれるものがあってたまらない。刺激的である。しかし,あれは頭が悪い。あんな淫夢には二度と参加したくない。
「おめーうんこもらすと仕事が増えるんだよ。いい年して恥ずかしくねぇのか?ババア」って罵ってくれる施設もたくさんあるからそっちに行こう
むかしパソコン持ってないのにプログラミングの基礎とか情報工学とかとったが、
ポーランド記法とかNSチャートとかそういうの。例文はパスカルだったか。
パソコンは安くても当時は二十万位したと思う。
(たとえばワードやエクセルやコボルもだが、基本情報やソフトウェア開発技術者の試験内容関連も)に通っているときも
勇気あるだか無謀だかの家族が買ったが使いこなせていなかったおさがりをもらったな。
それでもろくなものではなかった。基本ブサイクフェミの母親の主催による女祭りの極致であったが,賢いところは一つもなく,基本,女の欲望と嫉妬むき出しの醜いものだった。いい加減盛大に淫夢やろうっていうからには頭を使えよ。
やれ下北だパルコだ東急だ109だ和民だタワレコだブックファーストだ,黒いブサイクゴキブリ祭りの絶頂期だったが,基底には他人への嫉妬しかなかったので気持ち悪い淫夢だった。何でこんな気持ち悪い淫夢祭りを考え付いたのかまったく理解できない。この祭りの首謀者で,ブスフェミに変貌した12年前の東大の女は死ねばいいのに。
追記:
ポル・ポトと同じっていう意見が何件かあったけど、ポル・ポトは知的階級を迫害した側で、知的階級だけが生き残るべきという下記の意見とは正反対だと思うけどな。
それに、下記の意見は「国民の幸福」を出発点にしているけど、そもそも、ポル・ポトにとって、国民の幸福は二の次だぞ?
ポル・ポトは、国民の幸福を犠牲にしても「理想の社会」を作る事が重要だった。その点でも、ポル・ポトとは完全に違うな。
本文:
だから、苦しむ国民が消えれば、喜びで満たされた国民だけが残る。
最初から幸福になることが分かっている、天才だけが生きる国を作ればいい。
苦しむ国民はいらない。凡庸で不平を持つ国民はいらない。国民の99.9%に消えてもらって、.1%の天才だけからなる国を作ろう。
では、どうやって消えてもらうか?他人を殺すことは、罪悪感を与え、殺した側を苦しませる。
そもそも、自殺するような人は、苦しんでいるのだから、不要な国民だ。苦しむ国民はいらない。
結論:自殺を奨励し、苦しむ国民の99.9%に自殺してもらえば、.1%の天才だけからなる、喜びで満たされた理想の国ができる!
増田の、「いろいろな新しいお店や、イベントごとや展覧会やコンサート」に行くのが偉いとか、テレビ=憧れという価値観も随分と視野が狭いと思うけど。
近親憎悪?
自分の周りにいる人や自分の常識がすべてだという思い込み、他人が自分と同じ考えであって当然、だとか
なんかもろブーメランだし。
年金の情報が漏れたとか騒がれてるが一般企業も同レベルなので今は標的型攻撃の対象になってないだけで、狙われたら簡単にやられると思う。exe形式の実行ファイルについては安全が確認されているもの以外は実行してはいけないのは当たり前なんだけどマジでそれをやろうとするとバイナリのハッシュ値を事前にデータベース化して管理して許可されたものだけを実行するようにしないといけない。そうなると世間に出回っているフリーソフトとか全部許可制にしないといけない。アップデート等でバイナリが更新されるたびに解析して登録しないといけないので大変だけどそういうサービスは需要があるきがする。
そもそも出回っているフリーソフトの中にも怪しいものはあるので、そうすべきなんだけど。俺の使っている中華製のOrbitとかいうダウンロードツールも怪しい(前にDDoS攻撃の発信元という噂になってた)から使わないほうがいいんだけど、FWで外向きの通信を許可しない設定にして使ってる。その辺のセキュリティの知識まで一般の人に要求するのは無理なのでバイナリのハッシュ値ベースで許可制にするしかない。管理側は大変だけど、それ以外は無理。
exe以外でも普通にウィルスとかオフィス形式ファイルに組み込まれているものもあるので個別に対策がいるんだけど。実際exeを実行しないだけで結構防げると思う。後はWordとかExcelみたいなファイルはクラウド上での利用だけにしてローカルに落とさないとかしないといけない。面倒だけど。
今も定着したのかどうかはよくわからないけれど、地方出身者としては昔からそういう感じの人たちは一定数いたような気がする。
マイルドヤンキーが話題になった時にもそれは言われていたけれど。
マイルドヤンキーの話題にも絡めて「地方民が田舎から東京へ出ようとせず、地元で満足する若者が増えた」というような論調だけれど、
それは今に限った話ではないのではないか?
まぁ確かに今は地方ショッピングモールの充実や、amazonを始めとするネット通販の普及で
地方在住であるデメリットも軽減されているので、昔よりも数は増えたのかもしれない。
では、昔の人は本当にそんなに都会に憧れていたのか?
私は地方都市の出身で、地元が決して嫌いではなかったけれど、いろいろなものが窮屈で閉塞感を感じたし、
いろいろな新しいお店や、イベントごとや展覧会やコンサート、そういうのに行きたかったから、
地方都市で生活している人というのはやはり閉鎖的で、自分の住んでいるところ以外にはあまり興味がないようだった。
もしくは、あこがれはあるけれどやっぱり住み慣れた地元が一番、という考えの人が多かった。
地元が嫌いで都会に憧れる人というのはとっとと出て行ってしまうので年を重ねるとその風潮が余計強まる。
そういうずっと同じところに留まり続けている人と話していると、地元以外の世界に興味を持たず、視野が狭いと感じる事がよくあった。
自分の周り以外の世界は別の世界、という断絶というかすっぱりと切り離したような考え方。
比較的若い世代の人になると、東京にも行ったことがある、遊びに行くだけでも十分という人もそこそこいたのだけど。
やはり地元が好きで移住などは考えられないという感じだったが。
さて、東京へ出て就職してみて思った事だが、私が就職したのは別にトップ企業という会社でもなく、
ただの中小企業だったので、地方から出てきて関東に住んでいる、というよりも
今まで東京近郊(東京や千葉や埼玉など)で生まれ育ち、東京へ就職したという人がほとんどだった。
そうすると、やはり視野が狭いというか、自分の周りだけで世界が完結している人が多かった。
新宿や渋谷とかなんでもいいけれどそういうテレビによく出るような都市がこんなにも近くにあるのに、
かえって地方の人たちのほうが、テレビの向こうのあこがれの世界という感じで興味を持っていたような気すらする。
私はこの視野の狭さや自分の周りにいる人がすべてというような考えが好きではなかったし、
自分の周りにいる人や自分の常識がすべてだという思い込み、他人が自分と同じ考えであって当然、だとか
自分の習慣や風習を押し付けるような感じ。あまりうまく説明できないけど
でも、ある日ふと思ったがそれが普通なのではないか?
そこそこ働いて、子どもを育てて社会生活を送る上で他の世界の事なんて知ってどうする?
自分の周りさえ快適であればそれでいいのではないか?
難しい事は考えず、ただ自分の狭い世界だけで生活していければ、穏やかに一生を終えられるのだ。
だから、相容れない価値観は排除して綺麗な世界を作ればいいのだ。
地方から単身東京へ出てきて働くという人と、もともと東京住みなので東京に就職しましたという人では
東京で働くという事に対しての認識がすごく違うというのはずっと感じている。