はてなキーワード: 国威発揚とは
2016年度全国キャンペーン:ライバルは、1964年|ACジャパン
ACジャパンが今年7月1日より開始した『ライバルは1964年』というCM。
自分がよく聴く民放ラジオ(基本的にTBSラジオ)では結構な頻度でこのCMが流れている。
自分はこのCMを耳にする度に、得も言われぬ不快感に襲われる。
とはいえ単なる根拠に乏しい繰り言でしかないので、そこは留意してほしい。
このCMにおいては、「笑顔」や「夢」、「思いやり」といった根拠の不確かな理由で過去を美化している。
加えてこのCMには「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢、思いやり、心の豊かさで負けているのではないか」という言外の意味も込められていると考えられる。
そうでなければ、律儀にあの頃の日本人と今の日本人を比べる必要なんてないはずだ。
つまり、居酒屋談義としての「昔はよかった」の変奏でしかない。
また、この10年ぐらい俗流の「昔はよかった」に対するカウンター的な言説も勃興している。
これらのカウンター的な言説の場合、だいたいは統計などのデータを用いた上で「昔はよかった」的言説の欺瞞を浮き彫りにしている。
『ライバルは1964年』で提示される「昔はよかった」を構成する要素のうち、「思いやり」は犯罪件数の推移をもとに論駁が可能であるかもしれない。
しかし「笑顔」や「夢」の場合、犯罪統計のような定量データは存在しない。そのため、「笑顔」や「夢(の大きさ)」を昔と今とで比較するのは至難の業である。
結果「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢で負けているのではないか」というCMのメッセージに論駁することすら叶わなくなる。
論駁不可能な概念を持ちだすということは、それだけ「昔はよかった」ことをゴリ押ししたいのだろう。そこにはある種の狡猾さすらも感じさせる。
このCMにおいては、東京で五輪が行われた1964年と東京で五輪が再度行われる予定の2020年とが対比されている。
2020年に向けて日本を考えようというのは、東京五輪に向けた行動をとれというメッセージを婉曲して表現しているということは容易に推測できる。
また、ACジャパンの公式サイトの記載より、「日本を考える」ことは具体的に「(東京五輪に向けた)ポジティブなモチベーションと、日本人の活力を高める」を指すようだ。
今の日本において、五輪は政治的な意味合いが強いイベントとして意識されているようである。
例えば、2012年に取りまとめられた「スポーツ基本計画の策定について」には以下のような文言がある。
(中略)
国際競技大会等における我が国のアスリートの活躍は、国民に日本人としての誇りと喜び、夢と希望をもたらし、国民意識を高揚させるとともに、社会全体に活力を生み出し、国際社会における我が国の存在感を高めるものである。我が国のアスリートによるメダル獲得は、その一つのあらわれである。
また、2009年には塩谷立文部科学大臣(当時)が以下のような発言を行っている。
2016年のオリンピック招致については、立候補ファイルを2月12日までに国際オリンピック委員会に提出することになっていまして、そのために今準備を進めているところですが(中略)やはり、国威発揚ということも含めて、ぜひ、招致を実現したいと思っています。
これらのことを踏まえると、今の日本において五輪は政治的意味合いが非常に強いイベントと位置付けられているようだ。
特に「国威発揚」や「日本人の誇り」といったナショナリスティックな意識の醸成のための手段として強く意識されているようである。
これは、IOCの掲げる「政治的・商業的利用がなされない五輪」という理想とは大きくかい離したものである。
さて、ACジャパンの行うCMの特徴として、政治的・宗教的な事柄は一切扱わないということがある。
(中略)
一方『ライバルは1964年』においては、政治的意味合いが強いイベントである五輪に向けた行動をとれというメッセージが提示されている。
解釈によっては、「日本人の活力を高める」ということもナショナリズムと連関したかたちで捉えられる可能性もある。
このことから、『ライバルは1964年』は政治的・宗教的な事柄は一切扱わないというACの方針とは大きくかい離したCMであるといえる。
可能性として一番高いのは、制作者サイドがIOCの提示した「政治利用されない五輪」という理念を無邪気に信じ込んだということである。
一方、五輪の持つ「国威発揚」や「日本人の誇り」といった事柄は政治的事柄ではないと誤認している可能性も完全には捨てきれない。
愛国心の醸成といったイデオロギー丸出しの教育が「偏向ではない」と見做される時代である。
なお、2002年にも公共広告機構(当時)は『ニッポン人には、日本が足りない』というCMを放映していた。
しかしこれは国際交流の推進を目的とするものであり、『ライバルは1964年』とは似て非なるものである。
ACジャパンの公式サイトに新聞広告の画像データが掲載されている。
小学生が作ったような(プロとしては)粗雑なコラージュに、テレビCMのナレーションが文章としてこれみよがしに綴られている。
例えば、オリンピック、ワールドカップの様に世界的なイベントが少ない気がする。
さっぽろ雪まつりも素晴らしいのだが、世界的には中国の大連氷祭りの方が知名度が高いと思う。
コミケ… は盛り上がっているとは思うが、一般層(子供連れてとかハイカルチャーの評価に耐えうる)から見て難しいので、その内、英語系のメディアに、アダルトイベントを国策を上げて応援する異常な国日本という記事が出るだけの話は時間の問題であるので論外だろう。(決してコミケが悪いと言ってるわけではないが、そういう性質のイベントだという話)
本線に戻ると、よいお祭りなどもたくさんあるのに、例えばスペインのトマト祭り、牛追い祭りに比べると世界の認知度が低い気がする一方で、かなまら祭りだけはやたらと知られているのも、なんだかなーという感じ。(逆に日本人の方がかなまら祭りにはあまり行ってもない、尻もしないというところではないだろうか)
映画祭・音楽祭・ファッションウィークも日本でもやっているが国際的な知名度はほとんどない。
コスプレなんかは単独イベントでアダルト性を排除すれば世界でもトップクラスのイベントになれるポテンシャルはあると思うのに、ちょっと残念だ。
それこそ寿司職人ワールドカップを日本で開催してもいいくらいだ。
なぜこうなるかというと、もともとイベント毎にビジネス性がなく、日本の場合とりあえず「東京」に来ればなんでもできるという環境のせいなのではないかとも思っている。
モントルー・ジャズ・フェスティバル、フェットドゥラミュジック、サンバカーニバルなどと比肩しうるいろんなイベントを是非日本からも胸を張って出てほしいものだ。
##トラバもらったので追記
・甲子園はなるほどいいなと思ったのだけど、甲子園はオラが街の高校生を応援したいという日本の土着のコンテキストがイベントに強く付与されてしまう気がして、そうなると世界的なプッシュはなかなかハードルがあるのかなと。
・漫画賞の話に関しては、全く同感で別のポストで書こうと思っていた所。(中身は一緒)
・CWCはトヨタカップの頃を少し覚えてるなぁ。確かに盛り上がっていた。ただ今回の投稿は海外のコンテキストでのイベントを「誘致」するという話ではないので、ちょっと別の議論だとは思うけど。誘致に関してはそれによって国威発揚が必要な新興国やオイルリッチのアラブとかにまかせておけば良いのかなーと。
・増田だとこのレベルでもネトウヨみたいと言われるのは正直困ってしまうが、ブコメは多分違うんじゃないかなぁと。政治色の強いものはブコメはそもそもあんまりID付きだから見ないわないしね。国境のなく且つユートピアに暮らしたいならどうぞご自由にとしか。
安保法案も可決されたので、いつ戦地に赴いても活躍できるようにエイム力を鍛え、キル数を稼ぐ立ち回りを意識する。
デスしたら戦死。無限に湧き出る敵国兵を前に精神を消耗してもなお冷静になれる兵でなくてはならない。
我が日本国は数々の戦争で勝利してきた。第二次世界大戦で敗北したからといって、トータルでは勝ち越している優秀な国である。
今の国際情勢は連合国びいきの腐った体制であるからして、これを打破することは関係各国の宿願であり、必定のものとしなければならない。
さしあたってラグビーW杯で競合をジャイアント・キリングすることで国威発揚に大きく貢献した。我が国はラグビーにおいても最強である。
当然、スプラトゥーンでも最強でなければならない。さしずめこれは第三次世界大戦である。我らのインクは彼奴らの血。塗り上げられたそれは戦場の傷跡。
フーダニットが好きだ、ハウダニットが好きだ、ホワイダニットが好きだ。
クローズド・サークルが好きだ、と延々と続けてもいいが、このへんにしよう。ヒラコーすげえな。
さあ、犯人探しをしよう。
ある程度物語が進むと、大抵はワトスン役が事件のあらましを振り返る。
新しい日本というシンボルであり、世界一の場所であり、オリンピックに対する日本という国の象徴を込めようとした。
字面そのままの国威発揚であり、ランドマークでもって日本の存在感を示す、土建の極北でもあった。
まず、当時とのドルベースでの日本円は、1.56倍となっている。(78円→122円)
1300億円を1.56倍すると、2028億円となる。
これが、ザハ当初案では3000億円規模と言われていた。ドルベースでも1.5倍。
国家を上げての景気向上と、建築難易度と、見込み違いのダブルアップで2.3倍程度に膨らんだ。
さて、3000億円、規模縮小圧縮しての2520億円の目眩ましが見事なミスディレクションとなっている。
1300億円でスタジアムを一つ作るというのは、適切な金額だっただろうか?
1300億円の予算を組んだ首謀者は、誰だっただろうか?
ザハ・ハディッドは、第一級の建築家だ。脱構築主義建築家としての。
ザハが実力で現在の地位を勝ち取ったことは留意する必要がある。
つまり、コンペでのザハ案は魅力的に見えることが多いということだ。
ザハの案は、脱構築主義建築と呼ばれる枠組みの中では、一級品と言える。
さて、国威を示すために、世界一のナニカをつくろうと決めたのは、誰だろうか?
日本的な何か、機能美的な何かではなく、建築物の美しさを求めたのは、誰だったろうか?
実は、建築関係者が諦めとともに眺めているのには、3つ理由がある。
1964年の東京オリンピック時に、国立競技場こと国立霞ヶ丘陸上競技場はかなりの突貫で作られている。
当時の施工技術と環境を考えると、延命措置は結構無理があると想像できる。
また、コスパ最優先の「機能仕様を満たした競技場」とは、全く違う建築物だろうというのも想像できる。
なので、ザハ以外のどの案が選ばれたとしても、1500億円を下回ることは無かっただろう。
そして、「これ建築難易度高いと思うが」と言う地べたに近い建築家の意見が「アドバイザー」扱いされるコンペだ。
優先順位は明確であり、そうしたコンペはそれほど珍しくはない。
さて、「一番いいデザインを頼む」と言われた建築家が、ドリームデザインを選ぶのは、必然だ。
ラグビーワールドカップ向けの良いヤツを!オリンピックに恥ずかしくない良いヤツを!
そうした、「新国立競技場を決める参加者」の、誰のデメリットにもならないという、不気味な状況になっている。
本来、大学入学祝いに好きなの選んでいいぞって言って息子がベンツCクラスを指さした時には殴るのが親父の努めなハズだ。
例えば、キミが富士鷹ジュビロじゃなかった藤田和日郎のファンで、アニメ化をアレコレ言う立場になったとしよう。
様々な候補の中から、やはり「うしおととら」だと決定した所で、ではどう削るか、という話になったとしよう。
いくらなんでもアニメ化するのにメインである白面の者との戦いは削れない。
前半のクライマックスであるうしおの髪を櫛ですく盛り上がりの為には、各地の少女のエピソードは削れない。
藤田和日郎の連載作家ならではの回り道しがちな癖が絶妙なバランスで拮抗しているが故に、どのエピソードも削り難い。
で、予算が青天井で、必要なエピソードを必要なだけ盛り込む係だとしたら、削る理由がない。
でも、本来は予算配分を考えてリソースを誰かが管理すべきなのだ。
どうやってもこの尺では入らないと、誰かがハサミを入れないと、作品はまとまらないのだ。
押井守みたいに、与えられた予算と期限内で作品を上げるために容赦無く切っていく監督というはむしろ例外的なのだ。
さて、ここからは挑戦状だ。
「新国立競技場基本構想国際デザイン競技」と呼ばれるコンペは、何を目的にし、何に対して責任があるだろうか。
「新国立競技場の建築予算」に対して、予算配分を決めたのは誰で、何に対して責任があるだろうか。
文科相やコンペ審査委員長にスポットライトが当たる中、隠れているのは誰だろうか?
ザハ案が膨らんだ時点で「拒否すべきだった担当」は、どこの誰だっただろうか?
問題点を切り分けるための、簡単なヒントを挙げておこう。
それぞれ明確な責任者が居るが、キミに見つけられるだろうか?
『大阪は緑が少なくて、住みにくい『ハズ』』とお節介な意見をよく書いている。
果たして、当の大阪人自体が、『緑を増やしてほしい』と思っているのかどうか、正直疑問だと思う。
都市開発の教科書では『1人辺り緑化面積を増やすべき』だが、果たしてそれは住民ニーズなのか?
『緑を5割増しにして、でも上場企業本社数が半減』という選択肢Aと、
『緑は半減するが、上場企業本社数が倍になる』という選択肢Bなら、
選択肢Bを選ぶ人の方が多い気がする。
東京の『知識人』が、勝手にAの価値観を大阪に押し付けてきて困る
★そもそも、
『まとまった広い公園がある方が、狭い公園が複数あるより優れている』という価値観も、妥当な価値観なのかどうか疑問。
ニューヨーク的なセントラルパーク公園も、『広すぎると、公園内部での犯罪リスクが高まる』という問題を抱えているらしい。
むしろ、都市政策の教科書には反するが、『ミニ公園』『ポケットパーク』を街中無数に配置した方が、個人的にはベターと思う。
★モクミツエリアであれば、まとまった公園の確保は『災害時の防火帯を作る』ということで意味があるが、
それ以外のエリアであれば、公園が『集合している』のと『散在』しているので、差はないと思う
『高齢者が歩いていけない距離に、デッカイ都市公園がある』のにはなんの意味がなく、
『高齢者が歩いて行ける距離に、ちっちゃな公園が無数にある』方が、はるかに重要じゃないか?
★東京の『デッカイ都市公園』って、 戦前の紀元2600年紀念事業の名残の公園が多い。
その意味合いは、緑被率を高めるというより、『国威発揚』と『万一の際に、空港転用できる』という理由であり、現代のニーズとはそぐわない。
現実的なニーズとしては『空襲時の延焼防止帯』であり、それは現代でも多少意味はある。
でも、戦前の時点と今と比較しても、城東方面の防火建築率はそうとう上がっており、『大規模な公園』にしなきゃならない必要性は薄い
★『大阪にも、東京並みのデッカイ都市公園を作るべきだ!そんなこともわからない大阪人はバカだ!』と上から目線な東京の知識人は、
アフリカのとある途上国では、救援か何かで訪問してきた先進国の人間たちを神様だと思っていたとの話があるね。
キリストも、当時その国より文明の進んだ外国から来たおじさんかもしれないよ。いろいろ困ったことをなおしちゃったから、これはすごいぞ!と。そして、現地人や伝聞によって尾ひれはひれついていった。
意図的に権威づけして、儲け話(聖地化して土産屋とか宿屋とかが儲かる、聖書を印刷・流通・販売する人も、彫刻家・教会などの建築家も、講師(=牧師)も)につなげたり、自分の権威や国威発揚に利用した連中もいただろう。お釈迦さんについても、草場の小さな密教みたいなものが国威発揚に利用されて、仏教としてここまで大きくなった経緯があると専門家は言っているようだし。
モーゼもムハンマド(モハメット)も、ごく常識的かつ高度な知識や技能をもつ人が実在していて、おみこしとして担がれていったのではないかな?
と私は思いますね。
綾瀬はるかが出ているっていうことで見始めて、誰が主人公だ、山本覚馬か、とか、会津藩の話ばっかじゃんとか、
明治になったら話に展開がいきなり速くなるし、結局何がテーマなんだこのドラマって感じで、最後は惰性で見ていたんだけど、
それはともかく、一つ感じたことがある。
徳富蘇峰が出てくるんだけど、こいつが新聞や雑誌でやたらと戦争を煽るんだな。
国威発揚ってことなんだろうけど、とにかく戦争万歳で、八重にたしなめられる。
こいつを見ていて思ったんだが、
第二次大戦のときも、マスコミにはこういう積極的に戦争を支持する奴がいたんだろうな。
言論統制だの検閲だのがあったからといってメディアが被害者面することもあるが、
加害者っていう側面もありそう。
民間人もそうだろうな。軍や政府にだまされた人もいるだろうが、
少なくともジャーナリズムには冷静にいてほしい。
日本はアジアの恥だとか、他国のことを考えろとか言っているメディアとか人とか国とかは、じゃあ日本政府に何をしろといっているのか明らかにしてほしいよ。謝罪? それだけで片付くと言っている人たちは本当に思っているの?
* 尖閣諸島とか竹島を渡すとか?→周辺の排他的経済水域消滅。水産資源は? 漁師が死ねばいいの?
* 金、日本政府の歳入の一定割合を渡すとか?→ただでさえ赤字なのに? 税金増やして国民が困窮すればいいの?
* 靖国神社お取りつぶし? 天皇制廃止?→日本の過去の歴史と文化を抹消するの?
まあ、もう日本は経済的にも世界的な地位的にも下り坂にいるんだから、一度きっちり相手の言質を取った上で金でも島でも渡して精算しちゃって、旭日旗も法律で禁止して地球上の負け犬国家として恥をさらして、またどん底にいっちゃえばいいんじゃないかな。
なんだかんだ言ってまだ日本の教育レベルもインフラレベルも高いんだし、きっと日本はまた復活できるよ。「失われた60年」とかになるかもしれないけど。どん底からの復活とかおっさん好きそうな話だろ? 復活したら(しなくても)またなんだかんだ難癖付けて文句言われるだろうけどさ。彼らは日本の存在自体が邪魔でかつ国威発揚の道具なんだから。