はてなキーワード: 立候補ファイルとは
2013年9月の招致レースの際、東京都などは立候補ファイルで、夏の東京について、「この時期の天候は晴れることが多く、かつ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」と書いていました
そりゃこの文章を素人感覚で読めば、「嘘おっしゃい」と言いたくなるのは理解できる。東京の夏は暑い。決して温暖ではない。
「温暖」発言の文脈とは、つまり、これが「招致レースの場での」発言だ、ということだ。五輪を招致したい日本及び東京は、最大限、東京の魅力をアピールすることが想定されている。
その前提で上記発言を眺めると、あることに気づく。東京の気温に対する評価は、全て主観的で曖昧である。「温暖である」「理想的な気候」など。裏を返せば、「東京の夏の平均気温は〇〇度、湿度は〇〇%だ」「東京では、毎年、屋外で〇〇大会が行われているが、熱中症の報告は参加者の0.01%程度であり、リスクは小さい」といった客観的かつ具体的なアピールを、招致主体すらできないということを伝えているのである。したがって、この文脈下では、件の発言は、東京が他の候補地よりも暑いことを認める発言として解釈される。発言内容自体は嘘だが、IOCを含め、その場にいる誰もその嘘には騙されないし、発言は嘘を意図したものだとも見なされない。
これは言うまでもなく当たり前だ。選手の感じる暑さや熱中症のリスクは、気温と湿度でほぼ評価できる。そして、東京の気温と湿度は検索すればわかる。IOCほど規模の組織が、それをやらないわけがない。「東京は温暖だ」と主張しても、嘘として成立し得ない。
「東京がIOCを騙して五輪を招致した」のではなく、「IOCが故意犯として東京を選択した」のである。確かに、今日まで熱中症対策を実行できなかった点については、東京と日本にも責任がある。しかし、招致時の発言にその原因を見出すのは、本質から論点をずらす愚かな批判だ。
猪瀬元知事の暴言はこれでは終わらなかった。スタジオで、立候補ファイルの問題の記述〈この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である〉が紹介され、コメンテーターの杉村太蔵が「温暖」(英語版ではmild and sunny)という表現について、「温暖ではなく酷暑、嘘をついて招致したのでは」と突っ込むと、猪瀬氏はこう言い放ったのだ。
「夏の温度は出してあると思います。mild and sunnyと書いてあるの? ハハハ。それは、そのくらい。プレゼンテーションってそんなもんでしょ」
笑いながら、「プレゼンテーションなんて嘘つくもの」と開き直ったのである。
その後も「夏に開催するのは当たり前なんで」「国立競技場もエアコンが全部入っていることが前提なんで、マラソンといくつかは外に出るよ。でも基本的には各競技場は全部空調効いているわけですよ。近代的設備で乗り越えられることができるという確信に基づいてプレゼンテーションをしているわけで。全然問題にならないわけです」と、“クーラーが効いている”論を、主張し続ける。
彼らが作った立候補ファイルには「国民負担はない」と書かれていた。だから誘致には反対しなかった。
オリンピックが日本で行われて何が嬉しいのかは理解できなかったけど、国民負担なしならやりたがってる人たちを止める理由は特にない。
誘致できると「費用は1兆8000億円」とか言い出した。たかだか半月ちょっとのお祭りに。都民で割れば一人15万円くらいか。ふざけるな。
怒りが伝わったと思っていた。でも彼らは「2兆円+スタジアムの建設費がかかる」とか言い出した。そこにインフラ整備費は含まれていないらしい。
その後も国立競技場建て替え騒動とか、IOC委員買収疑惑とか、ロゴの盗作騒動とか、オリンピックを巡って事あるごとに国外に恥をさらしてきた。
さらにここに来て「オリンピック時、ラッシュ時に鉄道止まる恐れ」という記事が出てきた。「休みにするしかない」というブコメが目にとまった。たかだか半月ちょっとのお祭りのために経済が止まるのか。
これからまだ明らかになっていない問題が明らかになっても、どれだけ費用がかかっても、恐らくオリンピックが中止されることは無いだろう。
ただその時、オリンピックをどんな思いで見ればいいのだろう。素直に感動できる気は、今のところ全くしていない。
彼らが作った立候補ファイルには「国民負担はない」と書かれていた。だから誘致には反対しなかった。
オリンピックが日本で行われて何が嬉しいのかは理解できなかったけど、国民負担なしならやりたがってる人たちを止める理由は特にない。
誘致できると「費用は1兆8000億円」とか言い出した。たかだか半月ちょっとのお祭りに。都民で割れば一人15万円くらいか。ふざけるな。
怒りが伝わったと思っていた。でも彼らは「2兆円+スタジアムの建設費がかかる」とか言い出した。そこにインフラ整備費は含まれていないらしい。
さらにここに来て「オリンピック時、ラッシュ時に鉄道止まる恐れ」という記事が出てきた。避けようとしたらテレワークか、時差出勤か。たかだか半月ちょっとのお祭りのために民間
本日発表された東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会の発表が様々な批判を受けている。
東京五輪 選手村の交流施設を作る木材 全国から無償で募集 | NHKニュース
東京オリンピックの資材無償提供募集に対し、もはや太平洋戦争末期並みだとの声 - Togetterまとめ
それに対し、「BLOGOS」は組織委を擁護する論調で、次のような記事を載せている。
東京五輪、建築木材を「自治体からタダで提供」させる? どういうことか聞いてみた
この件に関してオリンピック組織委員会会場整備局の担当者に取材をしたところ、こうした批判とは少し違った事情が見えてきた。(略)
選手村の施設を木材で建築することは、開催地が決まる前に招致委員会が提出した「立候補ファイル」の中で既に決定していた。
その後東京開催が決まると、この記載を知った全国の自治体から、「ぜひうちの木材を使って欲しい」との問い合わせが相次いだという。
この記事によると、協力したいという自治体側からの要求に答えるためのスキームだという。
これは私が知っている話とは少し違う。
はじまりは今年の2月頃、県を通して林野庁から、オリンピックで使用する木材の提供が可能かどうかのアンケートが届き、その中には「無償で提供できるか」といった質問もあった。
さらに、アンケートの依頼文では林野庁が独自に行うものであり、組織委には問い合わせないでくださいといったようなことも書いてあった。
自治体から言い出したのではなく、林野庁から言い出したものなのである。
アンケートだけで終わったわけではなく、その後、一部の自治体は4月頃に組織委から秘密裏に東京に呼ばれ、会合が行われた。(旅費は各自治体負担^^)
本当に秘密裏で、出席の依頼文すら来なかった。
会議の中では、木造とする計画は費用高騰の問題から止まっており、このスキームを検討しているということが伝えられた上で、
この情報が外に漏れると騒ぎになり、施設を木造とする計画自体が中止になる可能性があるとして、メディアや議員に情報が流れないよう念を押された。
オリンピックレガシーを地方にだとか、ボランティア精神だとか言ってるが、結局のところ建設費足りないから各地に負担してもらうというのが本音のところなのだ。
丸太を買い、製材・加工し、往復輸送を負担し、さらに戻ってきた資材で施設を作り、さらにその施設を維持する費用がかかる。
多くの自治体では大きな負担となるだろうし、何か施設を建てたとしても負の遺産になることは目に見えている。
オリンピックレガシーなどという実体のない浮かれたものに飛びつき、後の世代への負債を残す大バカ者の自治体が現れないことを深くお祈り申し上げます。
2016年度全国キャンペーン:ライバルは、1964年|ACジャパン
ACジャパンが今年7月1日より開始した『ライバルは1964年』というCM。
自分がよく聴く民放ラジオ(基本的にTBSラジオ)では結構な頻度でこのCMが流れている。
自分はこのCMを耳にする度に、得も言われぬ不快感に襲われる。
とはいえ単なる根拠に乏しい繰り言でしかないので、そこは留意してほしい。
このCMにおいては、「笑顔」や「夢」、「思いやり」といった根拠の不確かな理由で過去を美化している。
加えてこのCMには「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢、思いやり、心の豊かさで負けているのではないか」という言外の意味も込められていると考えられる。
そうでなければ、律儀にあの頃の日本人と今の日本人を比べる必要なんてないはずだ。
つまり、居酒屋談義としての「昔はよかった」の変奏でしかない。
また、この10年ぐらい俗流の「昔はよかった」に対するカウンター的な言説も勃興している。
これらのカウンター的な言説の場合、だいたいは統計などのデータを用いた上で「昔はよかった」的言説の欺瞞を浮き彫りにしている。
『ライバルは1964年』で提示される「昔はよかった」を構成する要素のうち、「思いやり」は犯罪件数の推移をもとに論駁が可能であるかもしれない。
しかし「笑顔」や「夢」の場合、犯罪統計のような定量データは存在しない。そのため、「笑顔」や「夢(の大きさ)」を昔と今とで比較するのは至難の業である。
結果「あの頃の日本人と比べて笑顔や夢で負けているのではないか」というCMのメッセージに論駁することすら叶わなくなる。
論駁不可能な概念を持ちだすということは、それだけ「昔はよかった」ことをゴリ押ししたいのだろう。そこにはある種の狡猾さすらも感じさせる。
このCMにおいては、東京で五輪が行われた1964年と東京で五輪が再度行われる予定の2020年とが対比されている。
2020年に向けて日本を考えようというのは、東京五輪に向けた行動をとれというメッセージを婉曲して表現しているということは容易に推測できる。
また、ACジャパンの公式サイトの記載より、「日本を考える」ことは具体的に「(東京五輪に向けた)ポジティブなモチベーションと、日本人の活力を高める」を指すようだ。
今の日本において、五輪は政治的な意味合いが強いイベントとして意識されているようである。
例えば、2012年に取りまとめられた「スポーツ基本計画の策定について」には以下のような文言がある。
(中略)
国際競技大会等における我が国のアスリートの活躍は、国民に日本人としての誇りと喜び、夢と希望をもたらし、国民意識を高揚させるとともに、社会全体に活力を生み出し、国際社会における我が国の存在感を高めるものである。我が国のアスリートによるメダル獲得は、その一つのあらわれである。
また、2009年には塩谷立文部科学大臣(当時)が以下のような発言を行っている。
2016年のオリンピック招致については、立候補ファイルを2月12日までに国際オリンピック委員会に提出することになっていまして、そのために今準備を進めているところですが(中略)やはり、国威発揚ということも含めて、ぜひ、招致を実現したいと思っています。
これらのことを踏まえると、今の日本において五輪は政治的意味合いが非常に強いイベントと位置付けられているようだ。
特に「国威発揚」や「日本人の誇り」といったナショナリスティックな意識の醸成のための手段として強く意識されているようである。
これは、IOCの掲げる「政治的・商業的利用がなされない五輪」という理想とは大きくかい離したものである。
さて、ACジャパンの行うCMの特徴として、政治的・宗教的な事柄は一切扱わないということがある。
(中略)
一方『ライバルは1964年』においては、政治的意味合いが強いイベントである五輪に向けた行動をとれというメッセージが提示されている。
解釈によっては、「日本人の活力を高める」ということもナショナリズムと連関したかたちで捉えられる可能性もある。
このことから、『ライバルは1964年』は政治的・宗教的な事柄は一切扱わないというACの方針とは大きくかい離したCMであるといえる。
可能性として一番高いのは、制作者サイドがIOCの提示した「政治利用されない五輪」という理念を無邪気に信じ込んだということである。
一方、五輪の持つ「国威発揚」や「日本人の誇り」といった事柄は政治的事柄ではないと誤認している可能性も完全には捨てきれない。
愛国心の醸成といったイデオロギー丸出しの教育が「偏向ではない」と見做される時代である。
なお、2002年にも公共広告機構(当時)は『ニッポン人には、日本が足りない』というCMを放映していた。
しかしこれは国際交流の推進を目的とするものであり、『ライバルは1964年』とは似て非なるものである。
ACジャパンの公式サイトに新聞広告の画像データが掲載されている。
小学生が作ったような(プロとしては)粗雑なコラージュに、テレビCMのナレーションが文章としてこれみよがしに綴られている。