はてなキーワード: 昭和生まれとは
昭和生まれの35歳だが、先日人生で初めて彼女ができた。これまで恋愛とはずっと無縁で、結婚して子供が出来てくる周囲を見つつ、心の穴をアルコールやキャバクラ、風俗で埋めるだけの人生だった。
でも彼女ができたことで、こんな肥だめみたいな生活から抜け出す機会が得られた。もし今の彼女とさようならしても、どうやって恋愛関係に進めていくかというのが35歳にしてようやく分かったから、後がないと焦ることもないし、キャバクラや風俗と言ったものに全く興味が湧かなくなった。やっぱりエッチの後に彼女が自分の手を握って隣で寝ている姿はプライスレスだし、この達成感と幸福感は風俗やキャバクラでは決して得られないものだ。
これまで心の穴を埋めるために、泥水の果てにキャバクラや風俗と言った生活をしていて、おかげで借金も作ってしまったが、彼女と会える時をより楽しくするために、少しずつまともな生活にしていこうと思う。近頃のオナニーも、彼女とのエッチを思い出してのものばかりだ。
特にオチもない増田で恐縮だが、恋人のいる生活がこんなにいいものとは思わなかったので、書かせてもらった。俺と同年代で彼女いない歴=年齢の人もたくさんいるとは思うが、あきらめないでほしい。
山路という海苔屋のおっさんの仕掛けらしい。詳しくはここにある。
https://core.ac.uk/download/pdf/56643945.pdf
それでは実際の資料からはどうか。恵方巻は、その由来を鋭明するチラシや新聞記事では「江戸時代の末期から明治にかけて」の時期に誕生したと記述される場合が多い。これは、岩崎がまとめた由来からも分かるが、実際のところ、江戸~明治期にこの行事が存在したとする資料は今のところ見つかっていない。
これらの事実から推論を試みるならば、少なくとも大正期、戦前にはすでに存在し、大阪のごく限られた地域で行われていた風習であること、寿司屋がそれを利用して、古くからの伝統であるという触れ込みで販売促進活動を当時から行っていた、ということはいえるだろう。
その後、太平洋戦争の激化に伴い行われなくなったこの行事は、1949年、大阪府鮨商協同組合によって、「土用丑の日のウナギのかば焼」に対抗する販売促進手段として復活している。そして、戦後復興が進む1950年代に入ると、戦中の配給統制によって解散を余儀なくされていた海苔問屋の組合が統制の解除をもって再結成され、その販売促進の手段として、節分の巻きずし行事の宣伝に参加するようになる。宮下牽の『海苔の歴史』には、大阪海苔問屋協同組合が1951年の結成と同時に「巻きずしの丸かぶり」の宣伝を行い、大きな成果をおさめたという記述がある。この「大きな成果」がどれほどのものだったのかは分からないが、海苔業界復興の旗印として、巻きずしは喧伝されていたようだ。
その後海苔問屋協同親告は、すし組合とも連携してこの行事の普及に努める。昭和40年代前半には、協同で飛行機をチャーターしてビラを撒いたりもしたようだ。しかし、この試みは経費がかかりすぎたために1度で終わっている。
海苔組合の取り組みがより積極的になるのは、岩崎の聞き書きによれば1977年(昭和52)になってからだという。そもそも、1974年頃までは海苔の国内生産は需要に追いついておらず、韓国産で不足分を補う状況だった。それが、国内生産が増大によって韓国産への依存が減り、1977年にはついに国内産で需要が賄えるようになったのである。これから先、さらに生産が増加すれば今度は余剰分が発生する。そこで、これ以降海苔組合は毎年大量のビラを印刷して各地に配布し、さらなる普及へと乗り出すようになった。
そしてこの海苔組合の動きと前後して1976年(昭和51)に、「節分チャリティーセール」なるイベントが開始されている。このイベントのメインは、大阪ミナミの道頓堀で巻きずしの早食いを競うという「巻きずしの丸かぶり早食い競争」。一見馬鹿らしいこの競争が、この行事を関西における節分の定番行事へと押し上げるきっかけとなった。
仕掛けたのは「昭和会」という、大阪で商売をしている昭和生まれの海苔販売業者たちで組織された団体だ。その中心人物の一人であった宝海苔(本社・大阪市中央区)創業者の三男、山路昌彦氏によれば、海苔がたくさん取れるようになって何とか消費を増やそうと思って考え付いたアイデアなのだと言う。「食いだおれの街で早食い競争なんて、いかにも大阪らしくて絵になるし、黙々と巻きずしにかぶりつく姿がオモロイやんか」という彼らの発想は見事に当たり、マスコミを引き込んでの一大イベントヘと成長する。海苔組合によるビラでの周知と、マスコミに取り上げられた早食い競争。この相乗効果により、節分の巻きずしは関西の伝統文化として認知されるに到ったのである。
また、山路氏は取材に釆たマスコミに丸かぶりの由来をたずねられると、「ずっと昔からやっていたものだ」と答え続けたのだという。「それこそ風習なんてこうやってできていくもんやないの」と語る彼の見解からは、大阪商人が持ち得た巧みな伝統利用の視点を伺うことが出来る。
ということで、商売人の「オモロイやんか」が伝統ということではたしかに大阪の伝統なのだけれど、そこまで古風なものかというとそうでもなさそうだ。花街に由来することとかその後の伝統としての受け入れられ方とか、原論文はかなり面白いので、増田、ブクマカ諸氏にはぜひ読んでほしいと思う。
私の学生時代、オタクであることが周囲に知られることは社会的な死を意味した。私はオタクであることを隠して生きていた。
部屋でどハマりしている漫画を読み、多少同好の士と話す機会はあったものの、基本一人専門書籍を漁っていた。ひとつの漫画に対して熱は何年も続いた。当時ハマった漫画は歴史物で調べようと思えばいくらでも調べられたため、専門書を読み漁った。高い本は買えず、書店でよく立ち読みをした。二、三時間も立ち読みをしている私はきっと迷惑な存在だっただろうに、見逃してくれた書店員さんには感謝しかない。
最近になってSNSを使ってオタク活動を始めた。同好の士と繋がっていくと中・高生とも話す機会が増えた。今までオタク趣味をオープンに話す機会もなかったので純粋に嬉しかった。
しばらくして違和感を感じ始めた。その違和感の正体がなんとなく分かってきたので、このエントリーを書いている。好きなコンテンツを同じくする若年層と関わっても、しばらくすると彼らの愛好コンテンツは別のものになってしまうのだ。私が絵を投稿するたびに熱心に話しかけてくれた高校生ももう別のジャンルに夢中のようだ。彼らのプロフィールにはたくさんのコンテンツが書かれており、それにハマっている、とある。そのコンテンツがほとんどの若年層のアカウントで共通していることにも気が付いた。そして彼らは同じタイミングで同じことを一斉に投稿する。例としては、いわゆる"〇〇はいいぞ"などである。
彼らはみな自分はオタクだと自称しているのだが、果たしてそうだろうか?と段々と疑問を抱き始めた。アニメやゲーム、漫画を好めばオタクなのか、と言われればそれは違うのではないだろうか?彼らのうちのほとんどは、昔ならオタクが愛好していたコンテンツを流行の歌やテレビ番組と同じ感覚で消費しているだけではないのか。ただ単に普通の人が消費する、テレビや歌などの娯楽の選択肢の中に、昔オタクが好んだタイプのコンテンツも紛れるようになった、それだけなのではないかという結論に至った。
若者がどうのこうのと言うつもりはない。私が一抹の寂しさを感じたのは、現代においてオタクコンテンツがこれほど大衆に受け入れられているのに、肝心のオタク自体はそのコンテンツを取り巻き楽しむ人々の中に入っていけない、という事実だ。一見たくさんの同好の士が存在するように見える。しかしそのほとんどはオタクではなく、オタクコンテンツをテレビや音楽と等しく選択肢として楽しんでいる人たちだったのだ。リア充で、自撮りをSNSに上げたりできる人たちだった。オタク気質な人と普通の人の比率は今も昔も変わっていないのだ。これではオタクであることを隠して一人で楽しんでいた頃と本質的には変わらないんじゃないかと、思ってしまった。
結局のところ、オタクコンテンツがどれだけメジャーなものになろうと、いやメジャーであればあるだけ、オタク気質な(掘り下げ型の)人間が少数派であり、孤立しがちであることを突きつけられるだけなのだ。コンテンツが一般化しただけでオタクが増えたわけではなかった。そして皆が皆自分はオタクだと叫んでいる中、オタク気質な同好の士を探すのも以前と変わらず難しい。オタク文化が大衆化したことで、大手を振ってオタク気質の人間と考察だのなんだのできると考えていた私は時代について行けていない甘ちゃんだった。今のところ数万人はファンがいるであろうコンテンツで自分と似たようなタイプを2人だけ見かけている。