はてなキーワード: レイシズムとは
sandayuu
祖国ガーとか言ってる子は、自分たちがいかにチンケなレイシズムでしか物事が見られないか自覚するべきだよね。ヨソの国から日本人は親に勝てないから子供をイジメるような卑怯者の国と思われてもいいかのねえ。
この人は、政府の行為によってその国の国民の人格まで評価することを肯定してるの?
日本政府の「朝鮮学校への補助金停止」という行為によって、日本人全体を「卑怯者」と評価できるなら、
ようするに、不衛生で治安を脅かす集団が地域に根付いたらイヤだっていうはなしね。
しかも、その集団は歴史を通して、そのようなライフスタイルを崩さず、地域と交わらない、と。
その集団は、「ジプシー」と呼ばれている。実際、構成のほとんどは民族としてのジプシーだから。
そりゃそんなやつら排斥しようとしても、それを誰もレイシズムとは言わないね。わかるよ。
少なくともおれみたいな頭でっかちのはてな民には、そう言えばわかるだろ。
いちおう、短期だけど何度もヨーロッパに旅行しているから、そういう奴らがいるのは知ってるよ。
あの汚らしい奴らが「血縁関係がある民族」って言われると、素直に頷けなかったんだ。
教えてくれてありがとう。
前のネタをもっと詳しく私の頭の中を整理したものなので、厳密性を突っ込まれたら結構ぼろぼろだと思います。
ここでいうナショナリズム、はあえて緻密な定義はしません(できません)が、日本の特に1970年代~1990年代にナショナリズムと「受け取られた」概念とその周辺を指すものとします。
戦後直後、1950年代とかはだいぶ事情が違うのですが、戦後社会の発展の中で
左翼側はどちらかというと、戦前の反省のうち「自国中心主義が他国を不幸にしたばかりか日本をも不幸にした」という捕らえ方をする傾向が多分みられた、と。この手の理屈を言ってた人もそれぞれ細かいことには色々違いがあったわけではあるけれども、「日本などどうでもいい」というのは主流ではぜんぜんなく、「世界の利益にのっとって社会を改善すれば日本もよくなる」という方向性が目立っていたのではないかと。
一方で右翼側が、には前述の左翼的ナショナリズム的なものと比較すると、排外主義的なナショナリズム傾向は多分多少なりともあった(保守や右翼がみんなそんなんばっかりだったなんてことは決してないのですが)。
この流れの左翼的ナショナリズムに関しては、「連帯や平和を願うことでそれを実現できる」的な…これを実現性がゼロだと言ってしまうのは平和論の議論をまったく無視した不当評価ではあるのですが、しかし、「リアリティも戦略もない平和主義」を大きく伴っていたというのは多分事実で、左右ではどちらとも分類しがたい自称リアリスト派からは批判を受けることはそもそもあったかと。
戦後の発展と、その中での日本外交は、後から公開資料でみれば、ベストではないにせよその時々の国際関係の中で必死に立ち回った政治家と官僚の姿が色々見えてくるわけですが、リアルタイムでそれが国民に認識されていたとも言い切れず、まぁ戦前の延長のような政策方向もあれば、平和主義輸出的なものも同時にあったと。そういうのも「世界の利益は日本の利益」的なものはある層にはそれなりに支持を得られるようになっていった。
これが、日本の経済発展と他国の経済的台頭、日本での経済発展に伴って日本人のテーマが国内の暮らしだけではなくリアリズム外交としての他国との関係への市民の着目が増したと思っています(以前にもトピック単位では対外に色々問題は出たりはしてたのですが)。
この時点では、確かにサヨク側の中に実在はした「リアリティも戦略もない平和主義」は格好の攻撃対象でもあり、説得力を失う原因のひとつともなったのではなかろうかと。実際問題、「自国の利益のためには他国の利益を毀損したり駆け引きで自国が利益を上げたりすることも必要である」というのは、この文言の範囲であれば決して特異な考えでもないし、大なり小なりはむしろ支持する人が多数であるのはまったく自然の範囲なわけで、「サヨク」的なナショナリズムイメージがこれらをベースとした批判をウヨクを巻き込んで出てきたのは、ある程度は自然の流れであるかもしれない。しかしことはそう単純でもなく、その延長で「リアリズムを自称する排外的ナショナリズム」の発展や、「他国をうちまかしても何でも自国の利益を確保する」的なものも大なり小なり寄与したのかなぁ、と。まぁ実際「リアリズムを自称する排外的ナショナリズム」も、論者によっては一定以上の理論的考察や戦略はまぁあるにはあったのですが、サヨク側と同様「自称リアリズムだけど、対外で利害不一致はとにかく強気に出ればそれでいい」的な、結局それってただのリアリティのない理想主義じゃ、みたいなのも色々混じっていて、まぁなんとも・・・。
元の話題に戻ると、左翼に「ナショナリズム」がないなんてことはまったくないのだけれども、ナショナリズムのイメージは右翼側に強く結びついてしまったので、(手垢がついてしまったがためという面もあるといえるかもしれないけど)「ナショナリスト」の自覚の薄い左翼は少なからず見かけられる。
というように整理したわけです。上述に抽出した流れに限定すればナショナリズムと排外主義やらレイシズム等は結びつくのは必然とは決して言えないのですが、ここに書いてないなにやらかにやらありますよね、と。
※右翼や左翼の定義やそれらの性質について逃げて整理してるので「正確な」話を目指してはないですが、おおよそこういう枠組みは大なり小なりあったのではなかろうかと考えたということです。
ああ、そういえばドイツにはあったね。「自発的去勢法」という制度がね。
あの制度は、ドイツ国内では、本人がそう望めば自発的に去勢できる制度という位置づけだから、ドイツの政治的な認識では「罰」ではなく「自発去勢」ということになっている。
しかし、今年の2月22日に欧州評議会反拷問委員会で、ドイツの「自発的去勢法」の停止を求める決議が採択されたことが話題になったことから理解できる通り、本人が同意していても、懲罰的に断種が適用され、優生学的に人種差別を実現する結果を導く事実に違いは無いから、実質的には罰であり、かつ、レイシズムだ。
そして欧州は、性犯罪を名目とした去勢罰を、決して容認しない。
ドイツにおける断種は、かつては「治療」ではなく優生学的な民族浄化措置として考えられていた。ナチス時代には優等民族を保護するためにT4作戦やレーベンスボルン計画などの積極的断種措置が実施された。(余談だが、ドイツの自発的去勢法の制定に参加した反性犯罪主義者の一部は、ナチス福祉局の関係者もいたという情報もある)
http://de.wikipedia.org/wiki/Aktion_T4
戦後はナチズムへの反省から、優生学的な措置の廃止が進み、自発的な性器切断は反ナチスの観点から違法になっていた。
しかし1960年代にドイツでリベラリズムが勃興し、「性の解放」の潮流が生まれると同時に、その反動としてネオナチも勃興し、性犯罪者に対する敵視傾向が保守派を中心に強くなり、性犯罪者撲滅の運動が形成された。
ドイツで性犯罪者撲滅運動が作られる中で、「性犯罪者は断種してこそ社会で受け入れられる」という妙な主張が広まった。
その妙な主張には、科学的な根拠は無かったのだが、ドイツ世論にはウケて、結局、1969年、26歳以上の性犯罪者が 「さらなる刑事上の犯罪を犯すと考える根拠となるような異常な性的衝動を示す」 場合にのみ去勢手術の対象になり得るという「自発的去勢法」が成立し、ナチス時代以来非合法だった去勢が合法化された。
ドイツのネオナチやレイシストたちは「断種などなまぬるい。ドイツ人としてふさわしくない異常性愛者はガス室で安楽死させて処分しろ」と主張し、ナチスの復権を声高に求めているが、一般のドイツ人は彼らを白い目で見ているのも事実である。
年に数件の「自発的断種」の実績が、今後増える見込みはまったく無く、ドイツの制度が外国に拡散する可能性も無い。まして欧州評議会が、ナチス復権を危惧しているならなおさらだ。
異常性愛を踏み台にして人種差別を実現しようとするいかなる努力も、最終的には無駄な努力に終ることは間違いない。
何らかの権威に対する反対表明の手段としてデモをしろ、と左翼は就職問題にも、原発問題にも主張してきた。
デモは国民に認められている当然の権利であるとも、主張していた。
そして、デモが起きた。
彼らは支持しなかった。ときに数が足りないから影響力がないと、かえって大して影響がないことの証左だと主張し、ときに前大戦を引き合いに出してレイシズムには与しないと主張した。
彼らは何がしたいのだろう。よくわからない。
努力のやり方が間違っている、ということや、排除を含めた質の向上は、彼らの理念と合致しないはずではなかったか。
デモをする、それ自体は何もすなわち左翼と同じ勢力に含まれることを意味しない。それは保守からさえ嫌われる在特会を見れば明らかだ。
これまで、日の丸に限らず、デモには趣旨から離れた幟が掲げられることは珍しくなかった。それ自体がデモの嫌悪のひとつとなっていることは、度々指摘されてきた。
しかし、私がネット上の議論などを見続けてきた限り、どうやら彼らはそれに対する問題意識は持ち合わせていないようだ。「何が悪い」と言い切る人も見た。
まさに鏡像。
鏡像であるがゆえに一般大衆からかけ離れて市民社会を叫び、「活動家を排して欲しい」というこれまでの経緯からすれば自然ともいえる要求には唾棄する。
これが左翼だ。
彼らは大衆の要求を政治ごっこと蔑むだけで改善しようとしない。これらが政府や社会、企業や個人を批判しようというのだから説得力がないのも肯ける。
一部の人(左翼や右翼を含む)が指摘しているとおり、原発関連デモも、偏向報道デモも、いずれ下火になるだろう。
デモをしてもその相手を変えられなかったことに対する諦め、そこから立ち現れる、主催者側との意識乖離から導かれる呆れと市井の人々の無力感、終末期学生闘争のようなしらけなどが、渾然一体となり場を閉塞感で満たすだろう。
そこに残っているのは、いつもどおりの人々だろう。
>横から悪いけど、この手の人ってレイシズムってどういう意味で使ってるの?
>レイシズム、排外主義、ゼノフォビア、あとはあたまがわるいとかも?
更なる別の横増田だけど連呼廚にとってその手の言葉はこういう意味だと解釈してる
「排外主義」→俺の気に食わないこと言った
「ゼノフォビア」→俺の気に食わないこと言った
「あたまがわるい」→俺の気に食わないこと言った
そういう人たちの活動の報いは
「差別」「レイシズム」って言葉の威力が薄れていくことだと思う。
もう「差別」とか「レイシズム」って言われてもあんまギョッとしないじゃん。
俺が子供のころはもっとすごくギョッとする言葉だったような気がする。
問題はその報いを受けるのがその人たちだけじゃないってことなんだけどね。
多分本当に困ってる人のとこに一番酷い皺寄せが行く。