2011-09-17

デモをすればいい、と左翼は言った。

何らかの権威に対する反対表明の手段としてデモをしろ、と左翼就職問題にも、原発問題にも主張してきた。

デモ国民に認められている当然の権利であるとも、主張していた。


そして、デモが起きた。


彼らは支持しなかった。ときに数が足りないから影響力がないと、かえって大して影響がないことの証左だと主張し、ときに前大戦を引き合いに出してレイシズムには与しないと主張した。

彼らは何がしたいのだろう。よくわからない。

努力のやり方が間違っている、ということや、排除を含めた質の向上は、彼らの理念と合致しないはずではなかったか

デモをする、それ自体は何もすなわち左翼と同じ勢力に含まれることを意味しない。それは保守からさえ嫌われる在特会を見れば明らかだ。

左翼の主張する「デモのあり方」がよくわからない。


これまで、日の丸に限らず、デモには趣旨から離れた幟が掲げられることは珍しくなかった。それ自体がデモ嫌悪ひとつとなっていることは、度々指摘されてきた。

しかし、私がネット上の議論などを見続けてきた限り、どうやら彼らはそれに対する問題意識は持ち合わせていないようだ。「何が悪い」と言い切る人も見た。

まさに鏡像。

鏡像であるがゆえに一般大衆からかけ離れて市民社会を叫び、「活動家を排して欲しい」というこれまでの経緯からすれば自然ともいえる要求には唾棄する。

これが左翼だ。


鏡像と書いたとおり、これは右翼への批判も自明ものである

彼らは大衆の要求を政治ごっこと蔑むだけで改善しようとしない。これらが政府社会企業や個人を批判しようというのだから説得力がないのも肯ける。


一部の人左翼右翼を含む)が指摘しているとおり、原発関連デモも、偏向報道デモも、いずれ下火になるだろう。

デモをしてもその相手を変えられなかったことに対する諦め、そこから立ち現れる、主催者側との意識乖離から導かれる呆れと市井の人々の無力感、終末期学生闘争のようなしらけなどが、渾然一体となり場を閉塞感で満たすだろう。


そこに残っているのは、いつもどおりの人々だろう。

そして、「希望戦争」というたったひとつのことばだけが、いやでも胸に残るのだ。

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