はてなキーワード: 電気とは
せやけど工藤、わしは以前から不思議なんやが、電子ゲームのプログラム部分って
発明の効果が「(ゲーマー=人間の目からみて)おもしろい」ちゅうのはどうかとおもうんよ
そういう複雑な計算をクライアントと分割してサーバーに電圧負荷をかけない技術ぅ~とか、(これは電気消費量メーターが正直に効果表示しますわな)
ユーザーがクライアント解析してもバレないという技術上特徴のあるシステム~ちゅうのんを、
つくったっちゅうならわかるんやけどなぁ
ありゃぁ独占権あたえてええもんなんやろかのぅ~
ちなみにそれやったらチェスのアレンジルール、ボードゲームのルール、知恵の輪、なんぞという今まで拒絶査定くらっとったもんなんかも特許あたえんと不公平なんちゃうの
アメさんの特許庁は日本とそうかわらん発明定義もっとる(ちゅうかアメさんははっきりとは定義しとらん、書き方だけ決めとる)けど全部OKなんやで~
ほんで著作権も日本は「定義するからこそ」おかしゅうなっとるんや
もっと傲慢に「日本特許庁が/文化庁がOKゆうたらそれはもう独占権のおすみつきやで」ちゅうなんかもうちょっとプロパテント的な政策必要なんとちゃうか?
うちのトイレは外からトイレの電気付いてるか分かるようになってる。
だから電気ついてたら誰か入ってるんだなーって思うからノックもせずに待ってたりすると、
誰もいないんかーーーーい!ってたまになる。
電気代はどうでもいい。
消し忘れてるだけやん
気づいたら消してくれたらええやん
トイレの電気なんて仮に数時間付けっ放しでも10円もかからへんやん
そない怒るようなことやあらへんやん
って言うけど、こっちも分かっとんねん
いつも消しとるがな
わざと付けっ放しにしとるわけちゃうがな
それでもなんか考え事してるかぼーっとしてるかで忘れることもあるやん
月1くらいでそんなんあんねん
そない怒りなや
自分から積極的に見る事は無かった映画だけど友人に誘われたので他の複数の友人と一緒に見てきたので感想とか思った事を書く。
「マリオの映画」というコンセプトであろう映画で、そのコンセプトに対しまあちゃんと仕事をしている映画であると思った。
マリオと言えば任天堂の色々なゲームで登場するキャラクターでありドンキーコングが最初で映画のタイトルにもなっているスーパーマリオブラザーズで爆発的に有名になり、他作品だとマリオカートあたりが有名で他にも色々なゲームに登場している。その色々なゲームでのお約束・ネタふんだんに取り入れており冗談でなしに1分に1個とかそういうレベルでネタが出てくるので元ネタを知っている人ならば終始ニヤニヤできるだろうしそのネタを探す楽しみもあるのではないかな。そういった元ネタをふんだん使用した上でストーリーは良く言えばオーソドックスとか王道の話にそつ無くまとめているので安定感があったのではないかな。なので、好きなゲームメーカに任天堂を屈託無く挙げられる人ならば傑作として楽しめる映画なんじゃないかなと思う。
さてそこで自分にとってはどうだったのかという話になるのだが、自分は任天堂に対してまあこうなんというか複雑な感情を持っており「好き」かと言われたら確実に「好きじゃない」とは言えるがそう単純なものじゃなくてですね。小学生の頃にファミコンが出てきてからゲームが趣味だった自分は当然スーパーマリオは遊んでるし面白くて良いゲームだし、最近だってスプラトゥーンとかゼルダとか(自分は遊んでないけど)素晴らしいゲームを出しているメーカだって事は認める。認めるんだけどなんか任天堂とは合わないんよねえ。なので、まあ「なんで見たんですか?」と言われるかもしれんが見て思ったのが「マリオの映画だなあ」という感じ。
さてここでマリオを知らない人が楽しめるような映画だったのかを考えてみた。そんなやつ居るんか?と感じる人も結構居るかもしれんが、例えば自分はファミコン世代でゲームも漫画もメジャーなのだったら履修してきた感はあるんだけど、ポケモンが微妙に世代が違くて学校の同級生の友人達も現役でポケモンをやってた人がほぼ居ない感じであった。なので自分はポケモンの知識はピカチュウは電気鼠、モンスターボールに収容する、進化する、ぐらいしか無い。なので世界的に有名なマリオも自分の少し上(具体的に言うと50代以上)の世代だとマリオについての知識が、ゲームのキャラ、キノコを取ったら大きくなるぐらいしか無い人も結構多いと思うんよね。で、そんなマリオを知らない人がこの映画を見たら考えたのだけど、マリオのお約束ってゲーム的に見たら受け入れられるんだけど映画的に見ると結構違和感があるんじゃないかなと思ったのよね。例えば土管が異世界を繋ぐトンネルってのは良かったと思うのだけど、王国の城への道で迷路のように繋がっているってのは良くわからなかったのではないだろうか。他にもゴリラの国の案内人(ゴリラ)がバナナの皮を捨てて後ろに居たカートがその皮で滑って事故を起こしてしまう場面もマリオカートのお約束を知ってれば理解出来るが知らないと只のクソ描写になってる気がする。こんな感じでゲーム内のお約束を再現した場面はいくつかあってゲームを知ってるのなら良いけど知らなかったら「?」が出るような場面が結構あったのではないだろうか。自分はマリオを知っていたので断言はしにくいのだが。
あと、気になったのが最近のコンテンツでは少なくなった謎に不快なことになる場面がいくつかあって、例えば序盤のマリオの扱いが軽視されている点で辞めた会社の社長から軽視されるのはまあ良いとしても、実の父親からダメ息子扱いされるのは確実に年齢が20代は行っているマリオに対する態度としては結構キツかった。まあアメリカ映画の「ダメな僕が頑張って活躍する」の前振りなんだろうけどさ。あと前述のゴリラの国バナナの皮事故もマリオカートのお約束を知っててもレースでやるならともかく普段の時でも只のクソ描写なのでは感ある。あと、ゴリラ国の王様が普通に不快な嘘をつくもの意味がわからん(元ネタからしてそういうキャラ?)。
あとは、コメディがベースだけどアクションも描きたいってなった結果なんだろうけどデフォルメ気味のキャラで可愛い感じなのに割と暴力描写がしっかりしてるのでなんかエグさが逆に強調されてる気がする。(誰がやってたか忘れたけど)馬乗りになってマウント取って殴る描写があったんだけど、効果音とかもバシッとリアル系なので割とエグい感じになってたと感じた。他にもそんな感じで暴力描写がわりとエグくね?と感じることがあったと思う。
まあだいたいこんな感じで終わりかな。最後に、映画前にやってた任天堂のCMで、子供を中心にいろんな人がswitchでゲームを楽しんでいるのを延々と写してたやつ、ありゃ酷いプロパガンダだなって友人と一緒の感想になったのは面白かったわ。
「誰がやっても同じ結果になる」ってこと
主張じゃなくて、実際に起こることだから、世界のどこで誰がやっても同じ結果が出る
でないと電気を作り出したり家を建てたりできない
でも宗教は再現性がなく、これをやれば同じ結果が出るって訳じゃない
客観性というのは、過程や結果が誰にでも客観的に観察ができるということ
「死んだら輪廻転生する」ということを、誰もその過程や結果を観察できない
その点科学はちゃんと誰が見ても過程や結果が分かるようなものが学説となる
そりゃ後から覆えされるのもあるけど、それはその過程や結果の観察が足らなかったとか、学説の立て方に穴があったとか、そういう場合
でも科学の世界は厳しいから、論文の査読はもちろん、実験で客観的に観察できるか、再現性があるか厳しくチェックされる
でも宗教はそんなことしないんだよ。
女性患者は覚えている限り5年間、一度も笑ったことがないほどの重いうつ病でしたが、神経マッピングによって発見された最適部位に電気刺激が行われると
「突然、心の底から本物の歓喜と多幸感を感じ、世界に色が戻ったように感じて笑みが絶えない状態に変化した」
とのこと。
この結果は脳への適切な電気刺激が、喜びの感情を強制的に起動し、うつ病に対して有効に働いたことを示します。
しかしより興味深い点は、刺激する場所によって女性患者が感じる喜びの質に違いがあったことがあげられます。
ある場所では「うずくような喜び」が起こり、他の場所では「霧が晴れたような覚せい感」を覚え、また別の場所では「良い本を読むような穏やかな喜びの感覚」を感じたのです。