事件から2年たった今、ようやく自分の中によどんでいる想いを言語化する決心が出来た。
2019年7月、京都アニメーションの放火事件が起こった。当時、私は某動画サイトの広告でその一報を目にした。
そのとき目にしたニューうサイトの写真は建物が煙に包まれているところで、仔細についてはまだ明かされていなかった。
きっと小火だろうなと思った。絵に携わる会社で紙の焼失は痛手だろうが、今はデータ化もされているだろうしと、ただ名前を知っている会社の不幸を気の毒に見守っていた。
小火程度かと思った火事の程度は建物を崩すほどの甚大な被害で、搬送されたスタッフの数は会社に在籍している社員のほぼ半数近くだった。
情報はアニメ関連サイトから規模の大きなニュースサイトにまで拡がっていた。無事であってくれと祈らずにはいられなかった。
日を追うごとにして、被害に遭ったスタッフの情報も明かされていった。中には、大好きな作品に深く関わったスタッフの名前があった。
深く気持ちが沈んだ。その作品に触れたのは5年以上前のことでも、それでも好きだったその作品を世に送り出してくれたスタッフの命が志半ばにして絶たれてしまった事がとても悔しく、悲しかった。
知ることは痛みを伴ったが、情報が出てくれば気にかかった。事件の現場で逃げおおせたスタッフが語る当時の状況、怪我を負ってなお現場復帰を願うスタッフの胸の内、そして亡くなったスタッフが生前に取り組んできた作品への想い。
読むほど、実際にはあったこともない彼ら彼女らへの言いようのない感情が起こった。そしてしばらく引きずって、そのニュースを見かけるたびに情緒が荒れた。
おそらくは私を含め多くのファンは、もう京都アニメーションの作品を観ることは叶わないだろうと確信していたと思う。
建物の被害はもちろん、失った人材はあまりに多い。当時のニュースを思い起こすと、あの事件当日は取材のために主戦力級のスタッフが集まっていて、亡くなったと報じられたスタッフの中にはその主戦力級のスタッフの名前が多く載っていた。
京都アニメーションの緻密な作画を支えるのは人材だ。暗黙のうちに、もうあの大好きだった作品たちには触れることができない覚悟をみんな決めていた空気があった。
歩みを止めない、という言葉があった時、彼らの作品を望む自分ができることは何かを考えた。
お金だなと思った。人材として貢献できる実績や才能がなかった私にはそれが一番合理的にできる支援だろうと思い至ったので迷わなかった。
彼らが作ってくれた作品を蒐集した。イベントにも行った。再演の映画にも通い詰めた。同じような想いを抱いているだろう人たちの生の反応や声に共感すると、一人で憂いているよりかは幾分か心が慰められた。
事件から2年が経ち、精神面では当時に比べれば大分落ち着いた。
それでもふとした時、部屋の中で彼らの作品を目にすると、どうしても思うことがある。
努力して、夢を叶えて、そして多くの人に希望、展望、癒し、楽しみを与えてくれた彼らが、その未来を不条理な理由で絶たれてしまった事。
何にも為せずに生きて来た自分が、無為に人生の時間を空費している事。
児戯に等しいとはいえ、私も絵を描く。多少なりとも絵を描く人間ならば、彼らのもつ技量がいかに素晴らしく、そして得難く、価値の高いものかがわかるはずだ。
才能が人の命を測るものではないと十二分には承知しているが、それでもただ生きている自分が申し訳なくなる瞬間があの日から続いている。
憐れむことも、引きずることも、彼らに失礼にあたるかもしれない。ましてかかわったこともない他人が、さぞ悔しかろう悲しかろうと訳知り顔で悼むのは所詮自己満足で、傍から見たらその過剰な反応に気味が悪くも映るだろう。
それでもどうしてもその思いが捨てられない。作画の参考にメイキング動画を見るとき、知らない技術の解説に触れるたび、これらを会得し作品を織り上げあそこまで美しい世界を作ってくれた彼らが永遠に喪われてしまった事に馳せてしまう瞬間がある。
今まで、人生を費やして打ち込んだものがない私は、それを見つけ目指し努力して獲得した人間が、悪意の第三者に不意に理不尽にそれからの未来を奪われた現実が、ショックだった。
自業自得ではない不幸がある、と知ってから何事にも不安が伴うようになり、そして価値の低い自分は、その時にはその理不尽を受け止めようという変な覚悟が決まっていった。
心を整理するために書いたはずが、未だ、向き合えていないのだと思い知る結果になった。
目指すもの、人生を費やし、心を注げるものへの出会いはいまだ果たせていないが、彼らの遺してくれた作品の未来に繋げるよう、まずは収入を得て買い支えることを心の支えにもして生きていこうと思う。