数学科ではなく、工業で使える数学と統計を多くの技術者が使いこなせていないのを、AIブームで感じる。
流行っていたWebプログラミングに比重を置くと、そもそも勉強しなくてもプログラミングはできる状況があり、優先度が低いと捉えられていたのではないか。
もちろん全く使えないことはないが、大学の教科書で数式の変形はできるが、現実の問題とリンクしていない。
既に知れ渡っている手法については数式も含め理解できるが、現実問題を解くときに対処しきれない。
数式でモデルを作れたとして、プログラミングに落とし込む所にハードルがある。
各プログラミング言語として、速度の遅くならないベストプラクティスは多くの人が興味を持つが、
bfloat16といったのが自分達で作れない。
政府は、欧州、中国の科学政策は収集、論文数などの統計は取っているが、内容までは踏み込めていない。
中国の科学力が伸びてきているといったときに、大学でどこまでの教育水準なのか、といった情報はない。
アメリカの大学院で使う洋書は、日本の大学院でも使うが、中国については情報はない。
中国語が最先端の部分が出てきているのに危機感も、学ぶ姿勢もない。
議論するとしても、論文数、研究費、人口のグラフを眺める所から深くはならない。
英語サイトは外国人雇用用ページなので、自動翻訳を使いながらでも見てみることをお勧めする。
製造業はJISがあるが、ソフトウェアについても開発手法など標準化を進めたほうが良かったのではないか。
アメリカの組織力に勝てないのに、国内企業間の過当競争でつぶれてしまう。
〇〇ペイは競争によって技術力が向上しただろうか。広告合戦で終わった。
消費税対応としても、増税による消費減を打ち消すだけの効果はなかった。支払い方法が増えても、集客は増えない。
結局、支払いプロセスが複雑になり、事業主の負担が増え、一時的に対応端末で売り上げは伸びるが将来の更新費を賄えない。
マニュアル人間が悪いと言われているが、知識を多くの人に広めるためにはマニュアル化が必要だ。
Matlabのマニュアルのように、複数の機能を使う時、どのように組み合わせれば目的が達せられるかといったのは重要だ。
時間を返して..
そもそも男版の方は異性とフランクに会話できる、ある程度のランクの男じゃん。
この増田は男に眼中にすら入れてもらえない。だから説教するのも無意味な程悲惨だから同情されるのだろう
一緒の土俵で比べるのが間違ってる
非モテブサメンも非モテブスに言い寄られたら避けるくせによく言うよ。
ビューティーコロシアムレベルの女に「今度食事行きませんか?」って言われたら「一緒に街歩いてる所とか見られたくない…」って絶対困惑してそう
あまりにもクソ
なんとなくで入った会社で10年以上働いた挙げ句肩叩かれて転職ふんばりが効かずまた流されて派遣
それでも付き合ってくれてた30代結婚前提恋人いたのになんか結婚まだしたくないというだけで別れてから転がるようにおっさん化
歳がいってるというだけで表面上気を使ってくれる人々
酔うとずっと若い人にこの先どうするんですかと聞かれ
精一杯の作り笑いで「まあちょっとやりたい事もあってね」もちろん計画なんてなんにもない
それも見透かされ苦笑されそれでも誘われたら人と話したくてまた行く
家でしょうもない飯を食べながら昔のめちゃイケ動画見て泣きそうになってやるせなくて停止して
友達もいないから話し相手ほしくて変なアプリ入れて内容がよくわからない主婦のグチをひたすら聞いて相槌打ってたら虚しくなって切るけどまた使う
中途半端な借金をあと2年で返すまでは今の仕事続けたいくらいしか考えてることない
せめてこのメタボボディくらいは自分次第なんとかするぞと半泣きで決意した30分後にお菓子食う
こういうの全部まっすぐ見つめることできなくて気持ちだけぐしゃぐしゃになって今にも泣きそうなのにどうしても涙がでない
ひとりぼっちで部屋にいる誰にも見られてないのに素直に泣くことすらできなくなってる
こんくらいの人世の中たくさんいるんだろうなって思ったところで気は晴れないしよけい悲しい
楽しいことは後で悲しい
女の子かわいくて辛い
おばさんシビアで辛い
好きな人できるの辛い
今の自分受け入れられないの辛い
おじいさんおばあさん
おかあさんおとうさん
名前で呼ばれたい
・賤ヶ岳の戦い(京から出兵して越前から出てきた柴田勝家を倒す)
・関ヶ原の戦い(会津征伐から反転して大坂の西軍を関ヶ原で破る)
・応仁の乱(ぐだぐだのまま和睦して決着つかず)
・小牧長久手の戦い(戦術レベルでは東、戦略レベルでは西が勝利)
こんなところじゃねえの。
インターネットで表舞台に立たなくなってから、もうずいぶんと長い年月が経つんですけど、別にインターネットと縁が切れるわけでもなく、今日も俺は教え子に脅迫されるやつの最新巻を電子書籍で購入してその場で読み、サブスクでアルカテイル聞きながらはてなのトップページ見てるわけなんですけど、俺は冬燕ちゃん派です。おっさんになってくると「家でごはんつくって待っててくれる」みたいな部分に脆弱性が発生して絶望する。
いまやもう大文字の「インターネット」なんてものもどこにあるんだかわからんですが、てゆうかそんなものはもうなくて、世間様だけがあるんですけども、そういう意味で、あれまなめさんだったかな「ツイッターはインフラ」って言ってたの、あれめっちゃ本質だったなあという気がします。
めっきり個人ブログの入らなくなったホッテントリ見てて、俺あんまり感傷ってものと縁のない体質なんですけど、俺かつてここにいたんだよなあ、などと思ったら、なんか遠い気分になってしまった。
それで、俺かつてあの場所でなにやってたんだろうな、なんて考えたんですけど、たとえばブログからは絶対に収入を得ない、だから好き勝手に書く、でも好き勝手に書いてるんだから、せめて読んでる人の暇つぶしくらいにはなりますように、くらいのことは当時でも考えてたんですけど、このあいだPhaさんのインタビューだったかな、あれ見てるときに、不意に思ったことがありまして。
俺ひょっとして「親戚に一人はいる妙な大人」をやりたかったんじゃないかな、と。
というのは、俺にはロールモデルってのがいなかったんですよね。自分が将来どうなっていくのかとか、あるいは将来こうなれって言われるとか。ただ「ああいうふうにだけはなりたくない」というのだけが強烈にあった。その「ああいう」ってのは、つまり俺が子供時代を過ごした1980年当時の「大人」というものだったと思います。
現状の俺がどういう物体であるかはさておき、いま、変な大人、けっこうネット上で見かけるんですよね。それは単純に「俺がイメージする大人」とは違うという意味で。
俺はそういうのすごくいいなあと思うんです。
たとえば30とか40越えてなお「変」でありつづけるっていうのは、これはかなりの難事業だと思うんですよ。なぜ変なのかといえば、自分の内部にどうしようもなく世間と折り合いがつかない部分があるからで、その折り合いをつけないまま生きていくためには「どうしようもない部分」以外の折り合いはつけなきゃいけない。それってかなりの知性が必要な作業で、俺が「いいなあ」と思う変な大人は、みなそれを持っているように見える。変と見られることを恐れていないように見える。
それがね、いいなあと思うんですよね。そういう人が呼吸できる場があるということが。文章なりなんなりを発表できる場所があって、それに共感する人たちがいるということが。ひょっとしたら、変な人が変な大人でありつづけていることで、救われているだれかがいるかもしれない。かつて救われたかった子供だった俺は、そういう人たちを見て「いいなあ」と思うのです。
かつてブログやってたころ、よく「自分もたいがいひどいが、あの人にくらべればまだまし」という扱いを受けることがあって、それって俺にとってはたぶんモチベーションのひとつだったんですよね。どうだ、ひどいだろう。しかし安心していい。それでも死なない。なんとかなる。
ほら、書く人ってよく「十代の自分」を相手に書いてるっていうじゃないですか。当時はそんなこと思ってなかったんですけど、あれはやっぱりそういうことだったのかなあ、なんてもうじき50歳の俺は思います。
40こえて0人 そんなもんさ