はてなキーワード: メルケルとは
維新の会共同代表の吉村大阪府知事が、「0歳児投票権」(未成年の子の投票は親が代理して行う)を提案し、維新のマニフェストに加えたいという意向だという。
(https://digital.asahi.com/articles/ASS4T2RNLS4TOXIE01TM.html)
これについて同党音喜多幹事長が、次のようなツイートをリツイート(リポスト?)していた。
吉村知事の0歳児投票権=ドメイン投票の実現可能性は兎も角、海外で真面目に議論されて国会まで行った話を、あたかも与太話のようにせせら笑い取り合わない風潮をみると、この国の知識レベルが心配になる
海外の議論で主な論点はすでに整理されてるが、日本のSNS界隈の反応はそのレベルに達してない
吉村知事が言ってるドメイン投票は例えばドイツでは連邦議会において議論され、(https://bundestag.de/resource/blob/531942/6669f3e29651882065938fc6a14fd779/wd-3-157-17-pdf-data.pdf)、無論導入にはいたらなかったものの、第三次メルケル内閣のManuela Schwesig家族相など、賛同者もいた昔からあるアイディアの一つですが
ドイツの連邦議会で議論されたというのは、この議論が無理のあるものではないということを示す一つの傍証とされているのだろう。音喜多氏もこれを自分の議論を支持する意味でリポスト(?)しているようだ。ただ、リンク先のPDFを見て色々な意味で驚いた。
第一に、このPDFはドイツ連邦議会調査局(Wissenschaftliche Dienste)が作っているものである。調査局が作っている立法資料を持ってきて連邦議会において議論されたというのは羊頭狗肉の感がある(※)。たとえば日本の国会図書館調査及び立法考査局が資料を書いたら国会で議論されたことになるのだろうか。
第二に、調査局の報告書(タイトル:生まれた時からの選挙権[構想]の諸問題)という体裁上、両論併記的であり、あまり執筆者個人の意見は出ていないが、この提案に対する分析の水準は明らかに日本でいま議論されているようなレベルのものではないことに驚いた。なお、ドイツ法に詳しくない方のために申し上げるが、ここから先で述べる「基本法」とは、ドイツにおける憲法典(日本国憲法のような)にあたる法である。
要約すると、
・親に子どもの数分の選挙権を付与するモデル(Modell des originären Elternwahlrechts)は、ドイツ基本法38条1項1文が保障する平等選挙の原則に反するし、平等原則の原則は20条の民主的連邦国家原理に含まれる。したがって、基本法79条3項の定めにしたがって、このような提案はたとえ基本法(憲法)改正によるとしても許されない。(4-5頁でバッサリ斬られている)
・一方子の選挙権を親が代理行使するモデル(Modell des originären Kinderwahlrechts)については、別途の考察が必要になる。(同)
・基本法38条2項(選挙権年齢)の改正が必要という点はともかくとして、実質的な側面としてはやはり基本法79条3項が定める基本法改正の限界について検討するべきであるが、そこで重要になるのは、基本法20条の民主国家原理に含まれる平等選挙の原則にこのようなモデルが適合するか否かである。
・親の代理投票主唱者は、親は子の票を受託に基づいて行使するので、平等選挙原則に反しないと主張する。すなわち、親自身の投票権行使と子の投票権行使は区別して行うべき制度であれば平等選挙原則に反しない。また、たとえ平等選挙原則に反するのであるとしても、このような制度は普通選挙原則(選挙権を万人に付与すること)に奉仕するから、その意味では民主主義原理に役立つ(※基本法20条、ひいては79条3項に反しない)。(7-8)
・このモデルへの批判者は、まずもって、望むか否かは別として政治プロセスに参加できない人にも選挙権を与えても、民主主義の正統性は得られないとする(※普通選挙の拡大という言い分は見せかけであるということだろう)。そのうえで、親による代理投票は、事実の問題として、親に複数の票を与えることに他ならない。親自身の票と子の票を区別して投票するという仕組みは非現実的である。そもそも代理投票という仕組み自体、子どもは成熟していないということを前提としているのであり、親が子の受託に基づいて投票するという議論と矛盾する。加えて、親を通じた代理投票という仕組みは、選挙権が一身専属的な権利であり、国家の意思形成に責任を持って参加する力をその人だけに与えるものだという側面を無視している。結局、基本法20条、ひいては79条3項に反する。(9-11)
ここから分かるのは、ドイツでは親の代理投票制度は、普通選挙の拡大に資するし、かつ、代理投票モデルであれば、平等選挙原則に反しないという形で議論されているということである。少なくとも「消滅可能性自治体」があるからとかいう「地方創世」で一山当てたいコンサル向けのくだらない理由が提案の原点なのではない。また、少なくとも表向きは、少子化対策のために子持ちの票を増やそうという理由でもない(その理由の馬鹿らしさはこれでも読めば良いhttps://mond.how/ja/topics/v35a8jk8lwp89el/jw3f2o4dj0z9fo4)。あくまでも普通選挙の拡大に資するというのが理由である。より民主的な政治制度への変更を試みようという提案(として自らを位置付けている)というわけだ。ただ、民主主義は平等選挙原則も同様に要請するから、ドイツ人がやっているように、平等選挙原則と両立するかを考えなければならない。
平等選挙原則に反しないというためには、親自身の投票と子の投票を厳密に区別する必要がある。それが現実問題として可能なのかということをしっかり考えなければならない。この仕組みの賛同者がドイツの連邦議会と調査局を区別していないというぞんざいなやり方をとっていることからすると、どうもドイツの議論は話の枕に使われているだけで、ドイツの議論を真面目に受け止めて、そのような制度が可能なのかを考察する者はあまりいなさそうだ。私個人の意見では、親と子の投票を厳密に区分した制度を作ることは無理だろう。というのも、この仕組みが問題になるのは、子の投票意向と親の意向が相反する場合だが、その場合、子は自らの投票意向を開示して親を説得しなければならない。これでは投票の秘密も何もあったものではなく、逆に子が投票の秘密を守ろうとすると、親の投票意向をコントロールすることはできない。それでは子から投票を付託されたという代理人という建前が崩れる。また、投票意向が明らかにならない子について親が「代理」するのでは、結局親に二票与えるのと変わりがない。加えていえば、代理権を持つのは母親なのだろうか、父親なのだろうか(吉村知事は制度実現のあかつきには自身が子の分も含めて4票あるというので、父親が前提なのだろう)。ここは、親と子の投票を厳密に区分するという発想をとれば実は問題が生じない(子の意向に沿うならばその票を投ずるのは父でも母でも他の保護者でも構わない)のだが、先程述べたように、特に投票意向を表示できない子については区分は無理だろう。したがって、事実上「二票」入れられるのはどちらなのかという争いが生じざるを得ない。そのような場合には「0.5票」を両親に付与することも考えられるが、正面から両親に票を与えることを認めれば、ますます平等選挙原則に反しないという建前が崩れる。
そもそも、ここから分かるように一口に子どもといっても投票が可能な年齢の子とそうでない子がいるのだから、投票が可能な年齢の子について代理投票などという面倒な仕組みを採らずに投票権の年齢を下げれば良いだけの話だ。たとえばオーストリアでは16歳まで投票権年齢が引き下げられているが、引き続き14歳投票権が議論されていると聞いた覚えがある。このような議論は真剣な考慮に値すると思う。
繰り返しになるが、ドイツではこの投票制度が平等選挙原則に反しないと言えるか否かが議論され、それが難しいと考えられているようだ。だとすれば、ドイツの議論を踏まえて、この制度の賛同者は、この制度が平等選挙原則に反しないようになる制度の可能性こそを真面目に考えるべきだろう。ただ思いつきでぶち上げても、もう終わった話だと一蹴されるのは当然である(※)。なお、そもそも平等選挙原則について真面目に考えないのであれば、民主主義にコミットしていないと思われても仕方がない。上記の議論では、平等選挙原則は基本法(=憲法)改正によっても曲げることは許されないと言われている(※※)。
※興味本位で調べてみたところ、ドイツ連邦議会にこのような基本法改正の提案が提出されたことはあるようだ(2008年提案)。ただ、連邦議会のHPで確認する限り、提案は委員会に付託されたが、その後本格的な審査が行われた様子はない。つまり、賛成・反対の議決もなく、本格的な議論もされずに一蹴された話だということだ。
https://dip.bundestag.de/vorgang/der-zukunft-eine-stimme-geben-f%C3%BCr-ein-wahlrecht-von/14939
※※
これはドイツ基本法79条3項の規定故ではあるが、憲法改正の限界という純法律的な論点を脇に措いたとしても選挙権の平等を真面目に考えないことが民主主義者であることを疑わせるのは変わりはない。なお、日本国憲法も、14条1項からして平等選挙原則をとっている(そうでなければ一票の格差が問題にされることはない)が、平等選挙原則の排除が憲法改正の限界に引っかかる理論的可能性はあるだろう。
(追記)
それにしても、吉村氏に関しては、自身が子の分も含めて4票あるというから、「代理」モデルの利点である平等選挙原則との抵触回避の利点をわざわざ捨てているように思う。利点を捨てるような発言を自分からしていくあたり、本当にただの思いつきなのだろう。ドイツ人の議論を持ち出しながら(これをやったのは音喜多氏だが)、ドイツ人が回避しようとしていたことをやってしまうのは無様だ。「消滅可能性自治体」に引っかけた話題作りという以上の意味はないのだろうが、話題作りのために民主主義の根本原理に手を触れるのはどうかしている。それが弁護士のすることだろうか。
(再追記)
(再々追記)
俺は環境的に「優秀な女」が回りにいっぱいいたので(家族や友人に弁護士や医者や数学の得意な女が沢山いる)その人たちを尊敬しているし、まったく「アンフェ」でも何でもないのだが、「フェミニズム」をBLだの下らないロマンス幻想と結びつけて無能な女の最後の砦にしてるクソフェミが我慢ならない。
メルケルも言っているように、「女である限りフェミニストであるのはある種必然」という言い方もあるが、それでも「フェミ」を自称することに躊躇いがある女が(まともな人ほど)多いのは、こういう低能女のすがるフーリガン的な「フェミニズム」と一緒にされたくないからだろう。
ネットで声のデカい自称フェミニストは、まともな愛郷心すら恥ずかしいもののように感じさせるネトウヨと同類のものであると断言できる。
結局、右も左もどんな運動にも、ある程度の規模の集まりになるとこういうのが集まってくるし、世の中には無能ほど多いので、そういうのが主流になっていってしまう。
残念な話だ。
→都市圏人口を比べればわかるがそんなことはない。歴史的にもベルリンは明らかにショボい。
→統計的な差は埋まらないが言うほどでもない。せいぜい北海道・沖縄みたいなもの。
→議会が同性婚を認めたのは2017年で、賛否は393対226。ドイツは欧州でも寧ろ保守的とされる。
→メンツのために渋々受け入れているという雰囲気で歓迎とは言い難い。南欧州のほうがよほどウェルカムなムードがある。
→結構ドライな国民性。基本東京人並みに冷たいしその自覚はある。
→ドイツはゴミ分別を始めた国、我が国は環境意識の高い国というナショナリズムがある。移民受け入れに関しても右派の賛成があって成り立っている。
→移民系で初の女性首相であるが、キリスト教民主同盟の右派・保守政治家。
→当時の兵器や地図等を展示する博物館は日本よりずっと多い。ネオナチを排除しているだけで、侵略国家としての歴史についてはそういう歴史もあったねと受け止めている。ギリシャやトルコから昔奪ったものも返す気はない模様。
→ポーランドのクラクフ郊外にある。ここで類を見ないほどのユダヤ人の凄惨な大虐殺が行われたことは事実だが、それを喧伝したのはソ連の正当性を示すプロパガンダとしての側面ももちろんある。現在ではポーランドがユダヤ人虐殺への協力(実際はあった)を否認していてユダヤ人から不興を買っているなんて火種もあったりする。
環境とかSDなんちゃらとかLGBT+への傾倒、商売相手のシナ、露助の容認のクソっぷり(メルケルは地獄に落ちろ)。
だが「筋」を通し続けたという点では「ゴミカスクソ野郎だが、認めよう」と思う。
今回もパレスチナのガキどもが何人死のうが、国連の職員が何人死のうが、「ユダヤ人を正しいと認める我が国はイスラエルのやることなすこと正しい」とやったのは本当に評価できる。
そして、俺は「筋論」を高く評価する。
ジャップの権威も権力も「吐いた唾を飲むどころか、その辺一体まで舌で掃除し、ゴミカスサヨの犬小便まで舐め取る」からうんこだって言ってんだよ。
池田大作戦関連のニュースでいくつか見かけたコメントとその感想について
>政教分離を生み出したのはローマ帝国時代のキリスト教なので、政教分離を語る時、実に我々はキリスト教を信じていることになる。ニーチェが言うように人権、博愛、ダイバーシティと人権の全てがキリスト教なのよ
意味不明。日本人がそれを語るときは、判例に基づく理解か、「政教分離」という用語に対する自分なりの適当なイメージ・理解で語るはずで、そこに一々キリスト教への信仰が関わってくるとは想像し難い
根拠不明(「宗教を大げさに排斥したがる」というのと「マルクス主義の影響」)。
>きっちり引用元を提示してて素晴らしい増田。サヨクの俺解釈では普通に考えて信教の自由とバッティングすることすら理解が及ばない馬鹿サヨクが多すぎる。あれこそ反知性主義
根拠不明(「馬鹿サヨクが多すぎる」「反知性主義」と断ずるためのコメント並びに根拠が見当たらない)。何らかの妄想に基づいてコメントしていたり、「反知性主義」の用語について理解していない可能性がある
>例えばドイツだとメルケル元首相の政党が「キリスト教民主同盟」だし、宗教が政治に関わるのは民主主義という観点から何ら問題ないのよね。
「民主主義」という言葉にもその社会ごとの理解(社会通念)があるので、一概に問題なしとは言えない。日本の問題に対してドイツの例を挙げることが必ずしも適切であるとも言えない
>憲法学の教科書を一冊も読んだことのない人が最高裁判例だけ読んで政教分離(特に何を禁止していないか)を理解するのは相当難しそうだが…(ブコメの感想)
「特に何を禁止していないか」というのが意味不明。こういう質問をするあたり、少なくともこの人と同調者にとっては言っても理解できないんだと思う。
>民主主義である限り大勢が信じている宗教に偏る危険性は避けられないわけで、それがおかしいなら民主主義を止めるの?参政権を剥奪するの?って話よね。公権力の行使のみを制限するのは妥当だと思う。
>連立する政党の支持母体のお偉いさんに弔意を表するのが国として特権を与えたことにならないのは明らかなことのように思うよ
多分最高裁が違憲とは言わないだろう、そもそも訴訟の対象になりえないだろうから、この意味では明らかだろう。ただし、批判の対象にはなりえる
>ルール上していいかどうかと、本当にするべきかどうかは別の話なんだけど、区別がついていない人の多いことよ。ルール上はOKだよ、っていうとその行為を称賛してるととらえる人も。
ルールがその行為を認めるかどうか、とその行為の合理性や当否は別の話
>間違った政教分離の解釈見るたびに『ドイツで大々的にキリスト教名乗る政党が普通に議席取りまくって活動してるやん』というツッコミしたくなるところはある
ドイツの例を持ち出してくると、日本国憲法がどうにかなるのだろうか?意味不明なツッコミだ
>民主主義国家である以上何らかの組織を構成する個人は選挙権という政治的な力を持っているので、政治的な力を持たない組織や集団というのがまず存在し得ないんだよな。
憲法の規定それ自体の曖昧さにそもそも問題があるのかもしれない
>どの宗教のトップだったら首相として公式に哀悼の意を表するのだろう。その基準があるならば知りたいところ。あまり他に見たことはないけれど。
国家元首でもなく、世界宗教のトップでもない人に対して、内閣総理大臣として弔意を示す合理性ってなんだろうね
>ないわー。欧州の一部や米国のような国教になっているような国ならともかく、現状の日本でカルト新興宗教に対して総理大臣が声明を出すのはありえない
アメリカ合衆国は憲法修正1条で国教を樹立してはならないと定めているので、この人が「国教」に対する理解を誤っている可能性がある
言うほどギリギリか?かすりもしないのでは?
>素人目にはこれに突っかかるのはどうかなと思う。人が死んだら公の場では(公人なら尚更)悲しみを表明すべきだし、言葉も『尽力・重要な役割・足跡』と、事実を述べるにとどまるものを選んでいるように読める。
ところで、大先生に対して日本政府が叙勲しないのはなぜなんでしょうね。内閣総理大臣が態々弔意を表す程なのだから、きっと国民栄誉賞、文化勲章や旭日大綬章程度の勲章はとっくの昔にもらっているかと思ったが
>いやはや。創価学会は公称800万世帯を擁する日本最大の宗教団体で社会的影響力も極めて大きい。そのトップの逝去に哀悼の意を表するのは社会的儀礼の範囲だろう。政教分離原則の目的効果基準にも反しないのは明らか。
その理屈だと、他の宗派(例えば真宗)のトップに対して一々哀悼の意を示さないのは不公平ということになる。ことさら大先生に対してのみ弔意を示す合理性は見いだせない。俺が知らないだけで、歴代の内閣総理大臣は哀悼の意を示しているのかもしれないが。そして、この考え方だと、歴代の会長が亡くなった際には、一々内閣総理大臣が弔意を示さなければならなくなってしまうのでは
>生きてたのか。空海と同じく、このまま120歳とかこえても、生きてる設定で神に近くなっていくと思っていた。/今日(11/18)は創価学会創立記念日らしい。あえて、発表を18日にしたんかな。
>トップブコメたちがトップブコメがどうこう言ってるけどどれがどれを指してるのか分からんくてカオス
>公明党は創価学会の指示の元動いてるのに、公明党が政府にいるの「宗教団体が、政治上の権力を行使すること」に当たらないのがよくわからない。票欲しさの屁理屈だよな。トプコメ批判してるブクマカは学会員だろ。
>憲法第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。 いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。/コレが日本国憲法における政教分離。
>「憲法の名宛人は国家である」。例えば国民の三大義務が憲法に書かれているが、あれは国民に憲法上の義務があることを意味しない。国民は憲法違反できないし、宗教団体も憲法違反できない。
それは私人間効力を認めるか否か(憲法の条文それ自体には「憲法の名宛人は国家である」とは書かれてない)で変わってくるので、一概にそうであるともないとも言えないのでは。まあ、直接に適用することはないけどね
好きにしろよ
>浅はかな rub73 のための説明: "「政治上の権力」とは立法権・課税権などの統治的権力のこと。政治活動そのものではない。" (芦部信喜「憲法」) ※憲法学の教科書読め https://anond.hatelabo.jp/20231118203326
「憲法学の教科書」という言い方だと玉石混交の中から石を探り当ててしまう可能性があるから、最新の憲法判例百選+最近の判例を読んだ方が適切な気もする
>トップブコメを浅はかな知識で指摘してる奴にスターつけてる奴はやばい。憲法20条の1項後段では、「宗教団体が、国から特別優遇措置を受けること」と「宗教団体が、政治上の権力を行使すること」を禁止している。
これだけだとわからないよ
>政教分離を理解してない人、はてなでもこんなに多いんだね。欧州で連立政権の一角によく「キリスト教○○党」みたいなのが入ってるのさえ知らないのかねえ。
日本国憲法とその運用の例に対して、欧州を持ち出してくると、どうにかなるのだろうか?頭がパーンとなるとか?
>トップコメも勘違いしてるけど政教分離は国家が特定の宗教を優遇や弾圧するなってことであって宗教者の政治参加は否定してないからね(棒読)/建前論だけど戦中宗教団体を政府が好き放題弾圧した反省って奴がある訳
だから誰に対して言ってるんだ
>トップブコメとスター押してるやつは、政教分離を勘違いしてる。恥ずかしいぞ。宗教が政治に関与するのを排除するのではなく、政治が宗教に影響与えないという原則。統一教会解散命令の方が原則に抵触してる
だから誰に対して言ってるんだ
去年の3月くらいにアメリカのシンクタンクが出したレポートに安倍が首相だったら開戦はなかったかもしれない、みたいなのは確かにあった
いわゆる西側とプーチンとの間にいたのはマクロンだけで、当時マクロンが毎日電話しているみたいなニュースは覚えていると思うけれど、マクロン以外のチャンネル(チャネル)が西側にあれば別の結果もあったかもしれない、そのチャンネルとなり得たのが西側には安倍しかいなかった、という内容だ
アメリカにべったりしながらプーチンにも媚びていた安倍が首相だったらならば確かに影響は大きかったかもしれない
もちろんifだから言えることだ
いまとなっては当時は在命だったのだから安倍がプーチンと話せばいいじゃないかとブコメにあるけれど、首相の頭を飛び越えた外交など出来るわけがない
G7で一番長く一緒だったメルケル前首相まで来ないのには驚きました。諸外国首脳は、弔意は示しても、国葬にわざわざ行く価値はないと判断したのでしょう。海外の対応はシビアで、安倍元首相が日本の地位を高めたと言うけれど、残念ながら、これが国際社会における実力ということです。
これがアベ外交の成果
安倍氏国葬は参列希望殺到どころか…〆切り過ぎても「諸外国から返事が来ない」と外務省困惑
ドイツからは、メルケル氏に代わってウルフ元大統領が出席する予定だ。日本での知名度は低いが、2010年から連邦大統領を務めた。翌年には汚職が発覚、その事実を報道しないようメディアに圧力をかけたことも分かり、批判を浴びた人物だ。当局が捜査を本格化したのに伴い、12年に辞任。親日家だというが、なかなかの人選だ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/310859
人選うける。
…
それにしても、やっぱり各国困らせてんじゃん。