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はてなキーワード: 惹句とは

2017-05-02

日本礼賛コピー国民思想とは無関係

「私、日本人でよかった」という惹句のついたポスター京都の町に貼られている問題だが、

この惹句は決してコピーライターイデオロギーを含んだものではないと思う。

ただ単に、ニワカな人がそれをごまかすために派手な言葉を使ってしまっただけのことだ。

「ちゃんと年賀状、ちゃんと大人」「日本よ、これが映画だ」等も同様の例だろう。

 

日本経済成長に伴って教養の無い高学歴者が大量に生まれそいつらが勘違いして

クリエイティブの場にでしゃばり始めたせいで、広告言葉が無残に劣化してしまった。

昔に脚光を浴びた「街の遊撃手」なんかも、俺に言わせれば凡人の陳腐な発想に過ぎない。

馬鹿コピーライターのしたり顔が想像できて、その道化ぶりはむしろ共感性羞恥案件だろう。

 

http://blog.livedoor.jp/idolookami/archives/44261826.html

アイドル業界も度々無教養広告屋被害に遭っているが、これは社会右傾化左傾化とは

一切関係が無い。格差が穏やかな社会副作用として、文化的弱者学歴を手に入れてしまうせいだ。

2016-12-04

http://anond.hatelabo.jp/20161204124142

若者ぶりたいまたは若者理解をしめしたつもりになっていたい中高年に向けての惹句

2016-05-20

さっきのこ

蓮實重彦三島賞事件があったじゃないですか。

候補のメンツニュースで見た時にはお茶吹いたけど、やっぱり蓮實氏が取ったなあと思って、

伯爵夫人」読んでみたくなって、Amazonで探したら。6/22発売で、まだ「BOOKデータベース登録されてないらしく。

紹介文がね、すっごい。

『おそるべき戦場は寝台の上にある――。エロススリルの往還で深さを増す物語東大総長が意を決して書き上げた、衝撃の長篇小説。』

1行目は、三文小説の帯みたいだけどまあいい。

2行目。「エロス」のあとに「スリル」って…スパイ小説じゃないんだから

3行目。wikiったら「東大総長」が出てきたんだろうか。

「意を決して」 …これ。ここすごい。

そして締めが良い。「衝撃の長篇小説」。よくある惹句ですね。

ハスミンの眼にこれが止まらないことを祈る。

2015-05-26

オランダで働くことになった

なった、ではなく、選んだのだが。

二年目からつぼイベントなんぞに参加して情報収集したのだが、惹句国内市場むけの企業が「明るい職場です」などが多く、海外市場向けは「これから発展します」が目立った。国内向け企業は維持のために新人を求め、海外市場を向かないと発展がない。

だとしたら、日本国内で働く意味なくね? と思って、自分から日本事務所のあるいろんな企業アクセスしてなんとか話を聞いて回った。ありがたい話だ。

そこで働くことはイージーではない、と耳にする場合が多かったのだけれど、なんとかなった。就業開始もこちらの都合に合わせてもらえた。ありがたい。ネット上だと「職を選ぶな」「海外で働け」みたいな論調が目立つのだけれど、真実だと思う。選びに選んだ国内企業でも働く場所海外になるんだから。だとしたら国内企業を選ぶ意味がない。なにより国内市場企業の「雰囲気がいい」とか「アットホーム」とかしか言わないのは怖くて仕方がなかった。

今日はこのあと一人カラオケ行ってくる。

2013-07-18

アダルトコンテンツ世界

偽物のロリ物・ヤラセ盗撮作品は「マニアのみが知る極秘映像を闇ルートで入手!」みたいな惹句を入れるのに対し、本物の18歳未満や本物の盗撮を扱ってるところは「※本作品は18歳以上のモデルの承諾を得て作成したイメージ作品になります」みたいな白々しい断り書きを入れるんだよな。

 

アダルトコンテンツ世界では、リアルな偽物が売られ、本物がフェイクとして偽装されて売られている。

その中に本物のリアルが映ってたり、フェイクの偽物だったり。

 

真実って何だろう?

2013-06-04

まーた始まった

http://anond.hatelabo.jp/20130604172134

非国民」「売国奴」もすっかり「市民権」を得た言葉になってしもうたな

まず、目にしても俺自身、それほど驚かなくなった

国民同士の過度の同調圧力ネガティブに働くというのは、

どこの日本同調圧力があるほど「非国民」「売国奴」なんて言葉流行ってるんだよ?

日常生活で人の口からそんなフレーズが出るのを聞いたこと一度もないわ。

226事件

太平洋戦争前後の混乱

見てきたようにほざくけど、お前一体何歳なんだよ?

それらの時代全部生きてきた上で平成25年の状況がそれに似てるって言うわけか?

からでまかせってのはお前みたいな状態を言うんだよクズが。


お前みたいな奴が毎回毎回

ちょっと気に入らない政治家がでてくりゃ「ヒトラー

ちょっと気に入らない政党政権取れば「2.26」「開戦前夜」

そういうフレーズを気軽に喚くけども、

それコストゼロだと思ってたら大間違いだからな。


そういうことをやるたびにそれらのフレーズ無意味化するし

お前のような奴の陣営の発言力はどんどん軽くなる。

内容のないテレビ番組のハッタリ番宣と同じで、

言葉の威力や自分達の信用度を取り崩して使っちゃってるってことぐらいは認識したほうがいいぞ。

お前だってテレビ欄にどんな惹句が載ってても真面目に取り合わないだろ。

それと同じ。


もうお前みたいな脳軟化サヨクなんてニコニコ動画のおつむ軽い小学生すら馬鹿にするようになってる。

馬鹿にされるだけのことを繰り返してきたからだよ。

それでも一切反省がなく、軽い言葉を撒き散らしながら、

真面目に相手してくれない世間を憎んだり見下したりし続けるんだよなお前みたいなタイプは。

一生他人と向き合わない人生だ。

ずーっと喚いてるのに。

2013-03-02

GJ部成功神メモの失敗

とある書店GJ部全巻(当時)が平置きされた棚に「ラノベ不要もの、それはストーリーでした」なる手書きPOPが垂れ下がっていたのを見かけたのはもう何年も前のことで、この世にはそんなふうにまだアニメにすらなっていないガガガの売れもしない怪作のために棚の上段を使い潰す書店というもの存在する。近年では「書店員が本当に売りたかった本」なんて惹句がなにかqualifiedとconscientiousの合成語のようにして使われているけれど、いくら書店員が書物に通じているとはい現実問題としてかれらの大部分は時給で贖われる単純労働者であり、その無資格書店員キュレーターとしての資質まで期待する人間のほうがそもそも恥知らずなのであって、現実書店員ガガガ文庫で、それもガガガ文庫のなかでも売れてないほうの作品で棚を使い潰しもすれば、そこに面白くもない手書きPOPを貼り散らして俺の心の甘皮をささくれさせもする。そんなに手書きPOPが嫌ならAmazonで買えばいいじゃない、という意見は確かに正論ではあるのだろうけれども、どうなんだろう、それはあくまで消費者側に向けた意見であるはずで、それを書店員たちが「人間がいなくちゃ本屋じゃないですから」なんて言いながら「書店員の顔が見える本屋」を構築し始めるのはどこか歪んでいるというか、個人的にはそういう手書き看板みたいのはラーメン屋に任せておけばいいと思う。話が逸れた。

GJ部原作の1巻が刊行されたときキャッチコピーは「史上初、四コマ小説!」といったものだったと記憶している。GJ部原作小説というのはひとつ数頁の独立した掌編が何の脈絡もなくただ三十も四十も寄せ集まって一冊の本になっており、ストーリーに類するものはまったく排除されていて、なるほど「四コマ小説」とは上手いことを言ったものだと思う。主人公ポジションのキョロ君は「GJ部の部室の前を通りがかったところ突然袋詰めにされ拉致されて強制的に入部させられた」ことが節々でほのめかされるが、その具体的な様子については一向に語られる様子がないし、こないだアニメにも出てきた緑髪の後輩にしてもアニメ6話の時点では影も形もなかったのが7話の冒頭では既に部の一員になっていて、彼女もまた袋詰めで拉致されたということだがやはりその場面なり様子なりが具体的に描写されることはない。GJ部は万事その調子で、はじめは戸惑ったものの、やがて「これは実はよく考えられたシステムなのかもしれない」と思うようになった。

GJ部面白いか、と問われれば首を傾げざるを得ない。すくなくとも原作には心動かされるようなものはなにもないし、作者の新木伸ならではの詩情や美意識といったものも感ぜられない。たとえばGJ部には紫音さんという紫髪の先輩がいて、彼女は完全記憶力を持つチェス天才で喋りも衒学的という設定だが、その「衒学的な喋り」がなんというか、よくある「頭の悪い中学生一生懸命考えた頭のいいキャラの喋り」という例のアレのものであり、結果として紫音さんの喋りというのは口を開けばテレビネット受け売りを垂れ流す残念な女性のそれのようで、見ているとどうしても生暖かい失笑を浮かべてしまう。ポテチの重量の何十%は油だが油は美味しいからね、味覚というもの人間が常に飢餓にさいなまれていた頃から進歩していないものなんだよ、とかなんとか。作家仕事というものはこんな愚にもつかないトリビアを並べて枚数を稼ぐことではないはずだ、と柄にもなく文学論をぶちたくなりもするというものだが、たとえばこれを杉井光に書かせればこうなる。

「ここで一晩膝抱いてればお父さんの気持ちがわかるとか、そんな馬鹿なことでも言い出すつもり?」

けれど探偵はそれには答えなかった。かわりに、問いを返す。

カメラ語源を知っているかい」

    ――「神様のメモ帳7」

薀蓄のお手本として壁に貼っておきたいくらいの素晴らしいフレーズだが、しかしこのレベルクオリティで作品を量産しつづけるのは普通作家には不可能であるし、たとえその離れ業が杉井光という超人には可能だったとしても、その属人的才気は模倣も複製も不可能で、だから杉井光という才能それ自体が神様のメモ帳という作品の限界になってしまうし、結果としてアニメ化は無残に失敗する。杉井光の詩情をアニメ翻訳することがそもそも困難だから映像化不可能、という言葉はなにも特撮の困難さばかりを指すのではない。

唐突杉井光引用したのは、GJ部原作者である新木伸はかつて若き日の杉井光指導していたことがある、というよく知られたエピソードから連想であるが、しかしよりにもよって新木伸杉井光とは、つくづく扇情的な組み合わせだと思う。杉井光業界レベルで見ても期待の星であり、対して新木伸は今となっては完全に過去の人で、書くもの時代に合っていない云々以前にそもそも単純に質が低い、という印象だったが、しかGJ部アニメ化はとても上手く回っているように見える。GJ部原作からスケールしない要素が注意深く排除されており、新木伸しか書けないような描写はけして登場しないから、容易に原作脚本翻案できるし、違和感なくオリジナル要素を追加できる。ストーリー存在しないか原作破壊心配もなく、忙しいアクションや息詰まる心理劇もないから演出も難しくない。それはサザエさんドラえもんアニメが到達した地平に似るが、しか教育的正しさの美名のもとに去勢されたドラえもん長谷川町子の遺産を絞りつくした出し殻としてのサザエさんとは違い、GJ部はそもそもはじめから記号のみを志向していたという点で特異である。それがああして幸福アニメ化されているのだから作家としては疑問符新木伸も原案者としては悪くなかったということなのだろうし、その意味では神様のメモ帳アニメ化失敗の原因の一端はある意味杉井光に求められるといえるのかもしれない。結局神様のメモ帳アニメはまったく話題にもならず、ヒロインアリスが「神メモちゃん」として一部で消費された程度であったが、その消費のされ方が「喋るときは○○めも、と謎語尾で喋る。風呂に入ってないので臭い」というまったく原作と無関係記号を与えられた上できわめて記号的に消費されたのは、考えようによっては皮肉ともいえる。

しか人生は続く。平野耕太アニメHELLSING最終回を見て「前座にしてやる」とのたまったそうだ。新木伸物語が「杉井光電撃文庫デビューを果たし、新木伸はその後鳴かず飛ばずのまま引退しました」では終わらなかったように、杉井光もまたここで終わりではない。次の杉井光原作アニメGJ部とは別の方向で大成功することを期待しつつ筆を置く。

2008-09-06

ミスオタの彼女日本古典探偵小説を軽く紹介するための10本

http://anond.hatelabo.jp/20080721222220

アニオタ非オタ彼女アニメ世界を軽く紹介するための10本

まあ、どのくらいの数のミスオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「ミスオタではまったくないんだが、しかし自分の探偵小説趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない日本古典探偵小説世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、戦前戦後日本探偵小説のことを紹介するために読ませるべき10本を選んでみたいのだけれど。

あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う三大奇書は避けたい。

できれば短編、長くても中編程度の分量にとどめたい。

あと、いくら戦後を含むといっても高度経済成長期の雰囲気を醸し出す作品は避けたい。

古典SF好きが筒井康隆は外せないと言っても、それはちょっと現役だし、と思う。

そういう感じ。

彼女の設定は

ミステリ知識はいわゆる「少年探偵団」的なものを除けば、シャーロック・ホームズ程度は読んでいる。犯人当ては苦手だが、頭はけっこう良い

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。

横溝正史本陣殺人事件』

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「本陣以前」を濃縮しきっていて、「本陣以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。長さも丁度いいし。ただ、ここで探偵小説批評トーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。

このプロットの複雑な作品について、どれだけさらりと、ネタバレにならず単調すぎず、それでいて必要最小限の宣伝惹句彼女に伝えられるかということは、ミスオタの「編者解説&訳者あとがき能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。

江戸川乱歩パノラマ奇談』、坂口安吾『不連続殺人事件』

アレって典型的な「ミスオタが考える一般人に受け入れられそうな探偵小説(そうミスオタが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。「ミスオタとしてはこの二つは“文学”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

海野十三『点眼器殺人事件』

ある種のSFオタが持ってる科学への憧憬と、新青年監修のミスオタ的な本格トリックへのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも海野的な

バカミス的で無理のある謎」を解く帆村荘六

を中心として、昭和の香りのするとぼけ世界観を作り上げているのが、紹介してみたい理由。

大阪圭吉『とむらい機関車

たぶんこれを読んだ彼女は「八○屋○○だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。大阪圭吉が戦死したこと、彼の作品が戦前推理小説としては破格の完成度を持っていること。戦後なら実写テレビドラマになって、それがお茶の間を賑わしてもおかしくはなさそうなのに、死んでからはその存在すら忘れられてしまったこと、なんかを非ミスオタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。

水谷準『カナカナ姫』

「やっぱり本格探偵小説男性読者のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは『牧師館の殺人』でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける水谷準の思いが好きだから。

断腸の思い女流探偵キャラを作って、彼女車椅子障害者、っていうのが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「社会的弱者」への視線がいかにも新青年的な左翼だなあと思えてしまうから。

カナカナ姫の性格を俺自身は詮索好きとは思わないし、限りなく魅力的とは思うけれど、一方でこれが乱歩正史だったらきっちり狂人にしてしまうだろうとも思う。

岡本綺堂『半七捕物帳』

今の若年層で岡本綺堂を読んだことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。乱歩よりも前の段階で、探偵小説の技法とかは捕物帳で基礎を築いていたとも言えて、こういうクオリティの作品が雑誌連載でこの時代に載っていたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく探偵小説好きとしては不思議に誇らしいし、岡っぴきといえば銭形平次くらいしか知らない彼女には読ませてあげたいなと思う。

夢野久作『瓶詰の地獄

夢野の「近代の文学は総て探偵小説である」という思想ミスオタとして伝えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。

「狂気と近親相姦」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそ最近妹萌えブームは『瓶詰地獄』以外ではあり得なかったとも思う。

社会から逸脱して虚構的性愛を生きる」というオタの感覚今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の源は『瓶詰地獄』にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

小栗虫太郎完全犯罪

これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。こういうゴシック風味の殺人事件をこういうかたちで密室化して、それが非ミスオタに受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。

高木彬光刺青殺人事件』

9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に神津恭介を選んだ。

密室から始まって密室で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、戦後社会派ミステリの先駆けとなった作家処女作でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。

「駄目だこの幻影城は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。

2007-11-28

フィクションノンフィクションについてつらつらと

フィクション
[fiction]虚構。小説
ノンフィクション
[non fiction]小説の種別の一。

事実小説より奇なり」というけれど、それはつまりたいていの事実物語よりも平々凡々でつまらないということを逆説的に説明しているのであろうし、「時に」という前置詞があってはじめてこの言葉が成り立つのだろうと思う。

冒頭の引用にあるように、僕は「ノンフィクション」というものが厳密に成り立つとは思っていない。だけれど、「事実」と銘打たれたものに必要以上に(先ほどの前提に立てば、フィクションノンフィクション等価である、とはさすがに言い切れないけれど、客観的にみると必要以上だと思う)惹かれる自分も自覚していて、そろそろこういう感覚に名前をつけるべきだと思うのだけれど、これはどういうことだろうと思う。

例えば、ケータイ小説だとか、各種2chのまとめだとか、電車男だとか(これは前者に包括されてしかるべきだとは思うのだけど、事実かどうかが結構話題になっていたように記憶しているので別記する)、実際どうかは兎も角、「事実あったこと」を前提としての盛り上がりであるというのは先人の指摘するところである。

語学の習得にはその言語圏の文化をある程度知る必要があるけれど、物語を理解し、楽しむためには、その虚構世界の成り立ちをある程度理解する必要がある。例えば、「剣と魔法世界」という言葉があって、「現代日本」というくらいの説明力があるけれど、それに慣れ親しんでいなければなかなか理解は難しいだろう。つまり、「実話に基づいた物語」という惹句世界設定を示しているのではないだろうか。実話には魔法は出てこないし、死者は生き返らない。そして、実話の基となる現実世界は読者がいちばん慣れ親しんでいる世界である。

実のところ、現実世界現実的である必要はない。世の中には死に至る難病があり、犯罪が発生し、人々は難しい言葉など使わない。ある側面からみればどれもこれも正しい。けれど、これを組み合わせすぎると、嘘くさくなる。この嘘くささはつまり、自分の生きてきた世界との差異である。ケータイ小説女子高生あたりに(と敢えて書く)受けているのは、彼女たちの経験の少なさであり、未来の大きさを示しているんじゃないだろうかと思う。そして人々が「実話」に惹かれるのは、自分が(どういう立ち位置で登場するかは兎も角)体験した、或いは体験するかもしれない世界に構築されているからではないかと思う。

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