はてなキーワード: 階級差別とは
日本というところは徹底的な身分階級差別があり、資本家が偉く、それは社会構造を維持するためで、つまり資本家よりも社会構造の方が偉く、人間よりも社会構造の方が偉い。
住居を買うにも殆どの人が借金をしている。住宅の価格は新築購入時がピークでどんどん減価償却していくから、つまり消費するカネを借りている。バブル崩壊前ならまだしも、平成の時代はずっと、買った住宅の価値が上がることはおよそない。借りたら負けである。
賃貸住宅はもっと危険だ。貸主と不動産業者が必ず優位になるようになっている。借主は完璧に差別される。身分階級差別(格差ともいう)が明白だ。
近年は、保証会社なるものがあって、連帯保証人なしで借りられるようになってきている。これはもっと危険だ。保証会社は明らかに、貸主や不動産業者の味方である。借主が保証会社を調達してくることはない。保証会社というビジネスは、保証会社が最も得をし、次いで貸主や不動産業者が得をし、借主が損をするシステムになっている。貸主や不動産管理業者が立ち退きをはじめメチャクチャな要求をしてきたときに、借主は孤立無援四面楚歌である。
だから、借りるのであれば、何かあっても自分の100%味方になってくれる人を連帯保証人につけねばならぬ。ここ、極めて重要。必要不可欠。保証会社という制度を使わされる時点で完敗。
同じように、勤務先の借上げ社宅制度を利用するのも極めて危険である。なぜならば借主は勤務先であるからだ。例えば、勤務先が元・勤務先になったときやはり、孤立無援四面楚歌になりうる。借主ですらない入居者の自分の立場は、吹けば飛ぶような屑である。
言うまでもなく、緊急連絡先とか身元保証人とかいうのがいても、ナンセンスである。そんなんはただのオブザーバーにすぎない扱いにされるのはみえている。
「そういわれたら、東京で就職なんかできへんやろボケ」と思うだろう。そのとおりである。住居を借りないといけないような生活をせねばならぬ時点で敗北である。もう煮るなり焼くなりスキにされるしかないスキ焼きである。
しかも東京一極集中という地域階級差別化が完璧で、バブル崩壊以後は殆どどこも(ケチるために)ヘッドクォーターは東京に集約してしまった。だから、大学出て企業に就職するとなればかなりの事例において東京が本社ですから、もう救いようがないよね。
宮澤賢治のいわゆる「雨ニモマケズ」は検定教科書で出てくることが多く、やたらともてはやされてきた。しかし、「雨ニモマケズ」が宮澤賢治自身の信仰の表れであって、いわば宗教であることは、習っただろうか? 習っていないとしたら、いろいろとまずい。国家的にしれっと宗教教育をやっているということであるし、また、正しく教えていないという、まさに学力低下以前の話。
宮澤賢治がなりたかった「そういう人」というのは、ブッダである。欲は無く、いからず(瞋らず)、よく(能く)観聴きする、すなわち貪瞋痴(三毒)の無い、覚った人だ。相談を受けて廻り、調停に入って争いをやめさせる人物。なりたい姿を自ら書いて携帯することで、己への戒めにしたのである。本来の「お守り」、憶持仏のたぐいだ。
宮澤賢治には、肉食(ニクジキ)に批判的な著作がよくある。豚を主人公にしてみたり、人の方が食われそうになる話を書いたりした。農業を研究していたのもおそらくは、肉食をせずとも生きていけるからだ。
そしておそらく、宮澤賢治は、ブッダ(釈尊)に関して事実誤認をしている。史実の釈尊は、雨季安居をしている。つまり、雨季には外を出歩かず屋内で過ごしている。
史実の釈尊は、無理をするなと説いていた。しかし往々にして捻じ曲げられるもので、無理をしたり、苦行をしたりする「仏教」がつくられてしまっている。
それに、和國(日本)に届いた仏教と称するものは、中国の信仰がごちゃまぜになっていて。つまり、儒教が混ぜ込まれている。それは、中国での布教教化のために都合がいいからだし、権力者などが儒教の教義と矛盾しないことを求めたからでもあるだろう。そうして、中国では仏教と儒教が習合し、それが輸入された。ちなみに、中国の技術・文化を受容するためにも、神道も仏教と習合したり、儒教とまぜられたりして、現存する神道も本来のものではない。
ともかく、史実の釈尊も丈夫な身体はもっていたけれども、雨風に勝とうとはしなかった。
教科書にやたらと出てきて「雨ニモマケズ」がもてはやされてきたのは、いわゆる根性論、「頑張る」ということを注入するためだろう。無理をして「頑張る」ことを美化することが未だに行われ、わざわざ公的に教育されている。世(国家社会)のため、ひと(他人)のためには、己を傷めつけることも厭わない、そうした生き方がずっと美化されてきた。世のため人のために自らを犠牲にするという教条は、そもそもは儒教であり、言い方を換えれば軍国教育のようなものだ。要は、階級差別と、全体のために個を犠牲にするという全体主義である。
かように日本とかいうものは未だに政教一致国家なのだけれども、そのことに自ら気づかなかったり、気づかないようにしむけられていることは危険だし、だからこそ、社会の既成構造を優越させて変革を避け、創造性や生産性が低く、そして、自死率は高い。
最近どころかかなり以前から、〇〇テロとかいうスラングが流行っています。流行りというよりももはや、定着してしまっているみたいですね。例えば「飯テロ」とか「バイトテロ」とかです。TwitterとかSNSとかでスラングとして広まりもしましたが、マスメディアや広告代理店が流行らせたのとどちらが先か、私にはよく判りません。
そもそもテロリズムというのは、テラー・イズムだからテロリズムなのですから、つまり目的のために恐怖を与える手法のことをテロリズム、略して「テロ」といいます。こうした語彙の意味もおそらく解っていない人が、〇〇テロとかいう造語を安易に用いているのでしょうね。
「ゲリラ的」と言っていた場面でさえも「テロ的」とか言う人が出てくるようになって、意味が全く判りません。そのうち、「緊急企画」などという大げさな表現がありますが、それも「テロ企画」って言うようになるかもしれませんね。
世界的に見てもおそらく通じない、恥ずかしいことだと思います。冗談では済まないんです。テロというのは、大量殺戮と恐怖なんですから。
昔からそうなのでしょうけれど、今の日本人はさらに、言語の扱い方を解っていないと思います。昔から、字はせっせと教えられ、習字、言い換えれば「かきかた」は執拗にやりますよね。
けれど、修辞をやらないんですよね。
「国語教育」とか「日本語」とかいう語彙が明治期以降なのでしょうが、広められ定着させられました。けれど、古来の言語は「やまとことば」(和語)で、中国から漢語を書きことばとして受容し、やまとことばを書くためにも漢字をあてるようになったものです。だから、「古文」(「古語」)と「漢文」という各教科が、意識的に設定されていました。しかし今って、ほとんどの人は、「日本語」と称するものがいったい何なのかを解るのではなくて、むしろ単に「コピペ」で話したり書いたりしています。
「ゆとり」とかいう以前から、丸暗記、思考停止のコピペ教育なんですよ日本って。
何が変わったかというと、戦後から今にかけてずっと、都会へ引っ越してきた世帯が増え、いわゆる核家族化もし、同時に会社人間化(社畜化)、学歴という階級差別で親が教育をやらなくなり、さらに(貧困への退行による)共働きが増えたわけですね。だから、親や祖父母が教えなくなった、そもそもの教える能力もなくなった。本に書いてあること、新聞やテレビにあること、学校や塾や予備校でやることばかりが、皆に刷り込まれるようになりました。
我々は戦後から今に至るまで、食べ物にしても人為的に大量生産されたものを食べることが多くなり、生きたものを調達して最初から調理することは減りましたし、「外食」のように他人が作るもの、それもチェーンやフランチャイズの均一規格品を食べることが多くなりましたよね。
実は、野菜ですら、人為的に交配・生殖されて共通の遺伝形質をもつ第1世代交配雑種(F1種)が多くなっていて、遺伝子組み換えでなくたってもう、均一規格品化が進んでしまっています。ましてや、霜降り牛肉とかブロイラーとか、言わずもがなです。そして我々の肉体は、そうしたものを食べたり(飲料を)飲んだり(気体を)吸ったりしたものから形作られています。ですからもう、肉体の共通規格化や、生物としての異変が、そのことに気がつくか否かを問わず進んでいます。
同じように、精神、人格も、共通規格化が進んでしまったわけです。教わることも、人生経験も、ワンパターンになっていきました。そうして我々は、大量生産の共通規格品になっていったわけです。
それが生物として、人として異常だから、本能的あるいは意識的に、抗おう、闘おうとする情動が沸いてくることもありはしますが……。おそらくたぶん、その多くは本能的なものにすぎないのではないかと思います。
ともかく、考えずにコピペで言うようになりましたから、その社会通念がたとえ間違いであったとしても、差別やヘイトであったとしても、自覚なく平然と言う社会になります。間違っているという自覚が起こらないんですよね。固定観念なんだ、偏見なんだという自覚がないままに、皆が平然と酷いことを言うんです。
実際には、人それぞれ異なるわけですから、どうやっても完全には共通規格化はしません。もしもかりに皆完璧に同じになったとしたらパンデミックで滅ぶんでしょうけれどね。完璧に同じではなくとも、皆同じことしか考えられない世の中は創造性がなく、トラブルの解決能力もなくなります、既にそうなっています。
完璧には同じになりえないのに、社会全体に広まっている偏見を我々全員に適用しようとするから、うまくいくわけがありませんし、間違っていますし、軋轢も起こります。その軋轢に耐えることを事実上強制されるのは大概、権力や数の圧力をもたない方。
それで事件が起こることもありますし、人が死ぬこともあります。かりにそこまでいかなかったとしても、人というものは、大半を言語で思考する生物ですから、言語が荒廃していると精神や人格も荒廃します。そして社会とは人々で構成されていますから、荒廃した人々で構成されている社会は荒廃しています。
そしてそれで、そんな日本人が世界に通用すると思っているとしたらおかしいでしょう。己の母語もまともに扱えない者が、他人とどうやって対話するのでしょうか。それどころか、欧米の論理ですらも全人類には通用しません。人類の自己中心的な論理も地球や宇宙には通用しません。だから、日本人と称するものは救いようのない低レベルだと思うんですよ。
「色が白い」=「外に出て日焼けすることがない」=「裕福な階級」という事から出た言葉。日本以外でも、似たような事例は外国でも存在する。例えばヨーロッパでは「青い血」という表現があり、これは「高貴な者」を意味する。日焼けしてない白人は、青い血管が目立つ事から来ている。中国でも「一白遮百丑」っていう、似たような言葉がある。
まあ、分類するなら階級差別だな。
現代でその言葉を使えば差別に当たるだろうけど、当時はそもそも黒人や白人という存在がいなかったので、「人種差別」に該当するかはかなり怪しい。
比較対象が同じ日本人しかいないので、「色が白い」=「外に出て日焼けすることがない」=「裕福な階級」という事から出た言葉だろう。似たような事例は外国でも存在する。例えばヨーロッパでは「青い血」という表現があり、これは「高貴な者」を意味する。日焼けしてない白人は、青い血管が目立つ事から来ている。
「足が小さい」=「歩く必要がない」=「貴族階級」ってのもあるね。ヨーロッパじゃ足を小さくするために、冷水で冷やした足を無理やり小さい靴にねじ込むってことをしていたし、中国ではさらに極端な形で「纏足」があった。
まあ、階級差別とは言えるかもしれない。