はてなキーワード: 惹句とは
「私、日本人でよかった」という惹句のついたポスターが京都の町に貼られている問題だが、
この惹句は決してコピーライターのイデオロギーを含んだものではないと思う。
ただ単に、ニワカな人がそれをごまかすために派手な言葉を使ってしまっただけのことだ。
「ちゃんと年賀状、ちゃんと大人」「日本よ、これが映画だ」等も同様の例だろう。
日本の経済成長に伴って教養の無い高学歴者が大量に生まれ、そいつらが勘違いして
クリエイティブの場にでしゃばり始めたせいで、広告の言葉が無残に劣化してしまった。
昔に脚光を浴びた「街の遊撃手」なんかも、俺に言わせれば凡人の陳腐な発想に過ぎない。
馬鹿なコピーライターのしたり顔が想像できて、その道化ぶりはむしろ共感性羞恥案件だろう。
http://blog.livedoor.jp/idolookami/archives/44261826.html
なった、ではなく、選んだのだが。
二年目からぼつぼつイベントなんぞに参加して情報収集したのだが、惹句に国内市場むけの企業が「明るい職場です」などが多く、海外市場向けは「これから発展します」が目立った。国内向け企業は維持のために新人を求め、海外市場を向かないと発展がない。
だとしたら、日本国内で働く意味なくね? と思って、自分から日本に事務所のあるいろんな企業にアクセスしてなんとか話を聞いて回った。ありがたい話だ。
そこで働くことはイージーではない、と耳にする場合が多かったのだけれど、なんとかなった。就業開始もこちらの都合に合わせてもらえた。ありがたい。ネット上だと「職を選ぶな」「海外で働け」みたいな論調が目立つのだけれど、真実だと思う。選びに選んだ国内企業でも働く場所は海外になるんだから。だとしたら国内企業を選ぶ意味がない。なにより国内市場企業の「雰囲気がいい」とか「アットホーム」とかしか言わないのは怖くて仕方がなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20130604172134
非国民」「売国奴」もすっかり「市民権」を得た言葉になってしもうたな
まず、目にしても俺自身、それほど驚かなくなった
どこの日本に同調圧力があるほど「非国民」「売国奴」なんて言葉が流行ってるんだよ?
日常生活で人の口からそんなフレーズが出るのを聞いたこと一度もないわ。
見てきたようにほざくけど、お前一体何歳なんだよ?
それらの時代全部生きてきた上で平成25年の状況がそれに似てるって言うわけか?
お前みたいな奴が毎回毎回
ちょっと気に入らない政党が政権取れば「2.26」「開戦前夜」
そういうフレーズを気軽に喚くけども、
お前のような奴の陣営の発言力はどんどん軽くなる。
言葉の威力や自分達の信用度を取り崩して使っちゃってるってことぐらいは認識したほうがいいぞ。
お前だってテレビ欄にどんな惹句が載ってても真面目に取り合わないだろ。
それと同じ。
もうお前みたいな脳軟化サヨクなんてニコニコ動画のおつむ軽い小学生すら馬鹿にするようになってる。
真面目に相手してくれない世間を憎んだり見下したりし続けるんだよなお前みたいなタイプは。
一生他人と向き合わない人生だ。
ずーっと喚いてるのに。
とある書店でGJ部全巻(当時)が平置きされた棚に「ラノベに不要なもの、それはストーリーでした」なる手書きPOPが垂れ下がっていたのを見かけたのはもう何年も前のことで、この世にはそんなふうにまだアニメにすらなっていないガガガの売れもしない怪作のために棚の上段を使い潰す書店というものが存在する。近年では「書店員が本当に売りたかった本」なんて惹句がなにかqualifiedとconscientiousの合成語のようにして使われているけれど、いくら書店員が書物に通じているとはいえ現実問題としてかれらの大部分は時給で贖われる単純労働者であり、その無資格の書店員にキュレーターとしての資質まで期待する人間のほうがそもそも恥知らずなのであって、現実の書店員はガガガ文庫で、それもガガガ文庫のなかでも売れてないほうの作品で棚を使い潰しもすれば、そこに面白くもない手書きPOPを貼り散らして俺の心の甘皮をささくれさせもする。そんなに手書きPOPが嫌ならAmazonで買えばいいじゃない、という意見は確かに正論ではあるのだろうけれども、どうなんだろう、それはあくまで消費者側に向けた意見であるはずで、それを書店員たちが「人間がいなくちゃ本屋じゃないですから」なんて言いながら「書店員の顔が見える本屋」を構築し始めるのはどこか歪んでいるというか、個人的にはそういう手書き看板みたいのはラーメン屋に任せておけばいいと思う。話が逸れた。
GJ部原作の1巻が刊行されたときのキャッチコピーは「史上初、四コマ小説!」といったものだったと記憶している。GJ部の原作小説というのはひとつ数頁の独立した掌編が何の脈絡もなくただ三十も四十も寄せ集まって一冊の本になっており、ストーリーに類するものはまったく排除されていて、なるほど「四コマ小説」とは上手いことを言ったものだと思う。主人公的ポジションのキョロ君は「GJ部の部室の前を通りがかったところ突然袋詰めにされ拉致されて強制的に入部させられた」ことが節々でほのめかされるが、その具体的な様子については一向に語られる様子がないし、こないだアニメにも出てきた緑髪の後輩にしてもアニメ6話の時点では影も形もなかったのが7話の冒頭では既に部の一員になっていて、彼女もまた袋詰めで拉致されたということだがやはりその場面なり様子なりが具体的に描写されることはない。GJ部は万事その調子で、はじめは戸惑ったものの、やがて「これは実はよく考えられたシステムなのかもしれない」と思うようになった。
GJ部が面白いか、と問われれば首を傾げざるを得ない。すくなくとも原作には心動かされるようなものはなにもないし、作者の新木伸ならではの詩情や美意識といったものも感ぜられない。たとえばGJ部には紫音さんという紫髪の先輩がいて、彼女は完全記憶力を持つチェスの天才で喋りも衒学的という設定だが、その「衒学的な喋り」がなんというか、よくある「頭の悪い中学生が一生懸命考えた頭のいいキャラの喋り」という例のアレそのものであり、結果として紫音さんの喋りというのは口を開けばテレビやネットの受け売りを垂れ流す残念な女性のそれのようで、見ているとどうしても生暖かい失笑を浮かべてしまう。ポテチの重量の何十%は油だが油は美味しいからね、味覚というものは人間が常に飢餓にさいなまれていた頃から進歩していないものなんだよ、とかなんとか。作家の仕事というものはこんな愚にもつかないトリビアを並べて枚数を稼ぐことではないはずだ、と柄にもなく文学論をぶちたくなりもするというものだが、たとえばこれを杉井光に書かせればこうなる。
「ここで一晩膝抱いてればお父さんの気持ちがわかるとか、そんな馬鹿なことでも言い出すつもり?」
けれど探偵はそれには答えなかった。かわりに、問いを返す。
――「神様のメモ帳7」
薀蓄のお手本として壁に貼っておきたいくらいの素晴らしいフレーズだが、しかしこのレベルのクオリティで作品を量産しつづけるのは普通の作家には不可能であるし、たとえその離れ業が杉井光という超人には可能だったとしても、その属人的才気は模倣も複製も不可能で、だから杉井光という才能それ自体が神様のメモ帳という作品の限界になってしまうし、結果としてアニメ化は無残に失敗する。杉井光の詩情をアニメに翻訳することがそもそも困難だから。映像化不可能、という言葉はなにも特撮の困難さばかりを指すのではない。
唐突に杉井光を引用したのは、GJ部の原作者である新木伸はかつて若き日の杉井光を指導していたことがある、というよく知られたエピソードからの連想であるが、しかしよりにもよって新木伸と杉井光とは、つくづく扇情的な組み合わせだと思う。杉井光は業界レベルで見ても期待の星であり、対して新木伸は今となっては完全に過去の人で、書くものも時代に合っていない云々以前にそもそも単純に質が低い、という印象だったが、しかしGJ部のアニメ化はとても上手く回っているように見える。GJ部の原作からはスケールしない要素が注意深く排除されており、新木伸にしか書けないような描写はけして登場しないから、容易に原作を脚本に翻案できるし、違和感なくオリジナル要素を追加できる。ストーリーが存在しないから原作破壊の心配もなく、忙しいアクションや息詰まる心理劇もないから演出も難しくない。それはサザエさんやドラえもんのアニメが到達した地平に似るが、しかし教育的正しさの美名のもとに去勢されたドラえもんや長谷川町子の遺産を絞りつくした出し殻としてのサザエさんとは違い、GJ部はそもそもはじめから記号のみを志向していたという点で特異である。それがああして幸福にアニメ化されているのだから、作家としては疑問符の新木伸も原案者としては悪くなかったということなのだろうし、その意味では神様のメモ帳アニメ化失敗の原因の一端はある意味で杉井光に求められるといえるのかもしれない。結局神様のメモ帳のアニメはまったく話題にもならず、ヒロインのアリスが「神メモちゃん」として一部で消費された程度であったが、その消費のされ方が「喋るときは○○めも、と謎語尾で喋る。風呂に入ってないので臭い」というまったく原作と無関係の記号を与えられた上できわめて記号的に消費されたのは、考えようによっては皮肉ともいえる。
しかし人生は続く。平野耕太はアニメHELLSINGの最終回を見て「前座にしてやる」とのたまったそうだ。新木伸の物語が「杉井光は電撃文庫でデビューを果たし、新木伸はその後鳴かず飛ばずのまま引退しました」では終わらなかったように、杉井光もまたここで終わりではない。次の杉井光原作アニメがGJ部とは別の方向で大成功することを期待しつつ筆を置く。
http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
…
まあ、どのくらいの数のミスオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「ミスオタではまったくないんだが、しかし自分の探偵小説趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない日本の古典探偵小説の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、戦前と戦後の日本の探偵小説のことを紹介するために読ませるべき10本を選んでみたいのだけれど。
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う三大奇書は避けたい。
できれば短編、長くても中編程度の分量にとどめたい。
あと、いくら戦後を含むといっても高度経済成長期の雰囲気を醸し出す作品は避けたい。
古典SF好きが筒井康隆は外せないと言っても、それはちょっと現役だし、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
ミステリ知識はいわゆる「少年探偵団」的なものを除けば、シャーロック・ホームズ程度は読んでいる。犯人当ては苦手だが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「本陣以前」を濃縮しきっていて、「本陣以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。長さも丁度いいし。ただ、ここで探偵小説批評トーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
このプロットの複雑な作品について、どれだけさらりと、ネタバレにならず単調すぎず、それでいて必要最小限の宣伝惹句を彼女に伝えられるかということは、ミスオタの「編者解説&訳者あとがき能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「ミスオタが考える一般人に受け入れられそうな探偵小説(そうミスオタが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。「ミスオタとしてはこの二つは“文学”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のSFオタが持ってる科学への憧憬と、新青年監修のミスオタ的な本格トリックへのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも海野的な
を中心として、昭和の香りのするとぼけた世界観を作り上げているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを読んだ彼女は「八○屋○○だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。大阪圭吉が戦死したこと、彼の作品が戦前の推理小説としては破格の完成度を持っていること。戦後なら実写テレビドラマになって、それがお茶の間を賑わしてもおかしくはなさそうなのに、死んでからはその存在すら忘れられてしまったこと、なんかを非ミスオタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり本格探偵小説は男性読者のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは『牧師館の殺人』でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける水谷準の思いが好きだから。
断腸の思いで女流探偵キャラを作って、彼女が車椅子の障害者、っていうのが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「社会的弱者」への視線がいかにも新青年的な左翼だなあと思えてしまうから。
カナカナ姫の性格を俺自身は詮索好きとは思わないし、限りなく魅力的とは思うけれど、一方でこれが乱歩や正史だったらきっちり狂人にしてしまうだろうとも思う。
今の若年層で岡本綺堂を読んだことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。乱歩よりも前の段階で、探偵小説の技法とかは捕物帳で基礎を築いていたとも言えて、こういうクオリティの作品が雑誌連載でこの時代に載っていたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく探偵小説好きとしては不思議に誇らしいし、岡っぴきといえば銭形平次くらいしか知らない彼女には読ませてあげたいなと思う。
夢野の「近代の文学は総て探偵小説である」という思想をミスオタとして伝えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「狂気と近親相姦」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそ最近の妹萌えブームは『瓶詰地獄』以外ではあり得なかったとも思う。
「社会から逸脱して虚構的性愛を生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の源は『瓶詰地獄』にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。こういうゴシック風味の殺人事件をこういうかたちで密室化して、それが非ミスオタに受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に神津恭介を選んだ。
密室から始まって密室で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、戦後の社会派ミステリの先駆けとなった作家の処女作でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。
「駄目だこの幻影城は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
「事実は小説より奇なり」というけれど、それはつまりたいていの事実は物語よりも平々凡々でつまらないということを逆説的に説明しているのであろうし、「時に」という前置詞があってはじめてこの言葉が成り立つのだろうと思う。
冒頭の引用にあるように、僕は「ノンフィクション」というものが厳密に成り立つとは思っていない。だけれど、「事実」と銘打たれたものに必要以上に(先ほどの前提に立てば、フィクションとノンフィクションは等価である、とはさすがに言い切れないけれど、客観的にみると必要以上だと思う)惹かれる自分も自覚していて、そろそろこういう感覚に名前をつけるべきだと思うのだけれど、これはどういうことだろうと思う。
例えば、ケータイ小説だとか、各種2chのまとめだとか、電車男だとか(これは前者に包括されてしかるべきだとは思うのだけど、事実かどうかが結構話題になっていたように記憶しているので別記する)、実際どうかは兎も角、「事実あったこと」を前提としての盛り上がりであるというのは先人の指摘するところである。
語学の習得にはその言語圏の文化をある程度知る必要があるけれど、物語を理解し、楽しむためには、その虚構世界の成り立ちをある程度理解する必要がある。例えば、「剣と魔法の世界」という言葉があって、「現代日本」というくらいの説明力があるけれど、それに慣れ親しんでいなければなかなか理解は難しいだろう。つまり、「実話に基づいた物語」という惹句は世界設定を示しているのではないだろうか。実話には魔法は出てこないし、死者は生き返らない。そして、実話の基となる現実世界は読者がいちばん慣れ親しんでいる世界である。
実のところ、現実世界は現実的である必要はない。世の中には死に至る難病があり、犯罪が発生し、人々は難しい言葉など使わない。ある側面からみればどれもこれも正しい。けれど、これを組み合わせすぎると、嘘くさくなる。この嘘くささはつまり、自分の生きてきた世界との差異である。ケータイ小説が女子高生あたりに(と敢えて書く)受けているのは、彼女たちの経験の少なさであり、未来の大きさを示しているんじゃないだろうかと思う。そして人々が「実話」に惹かれるのは、自分が(どういう立ち位置で登場するかは兎も角)体験した、或いは体験するかもしれない世界に構築されているからではないかと思う。