分かる。分かっちゃう。
その結節点として、ソースとわさびを合わせることになるのであろう。
タルタルソースといえば、先日かなしい目に遭った。
ランチの時間に、出先で初めて入る店で、メニューにフライの盛り合わせタルタルソース付きと書いてあった。
しかし出てきたものは、どうみてもただのマヨネーズを皿にひり出したものだった。
急いていたので等閑に付したが、何かの手違いでタルタルを切らしたのか、最初からマヨネーズをタルタルと強弁していたのか。
前者であれば一言あって然るべきだし、後者であれば羊頭狗肉の不逞極まる行いだ。
未だに心の隅に澱のように蟠る出来事だった。
…分かる。分かっちゃう?
ほら飲み事の2軒目とかって、スナック行くじゃん
飲みに誘われたら自然の流れというか、そう通過儀礼の様にあたかも何も無かったかのように
皆がスナックに足を向ける。私もその内のひとりなんだ
でね、35手前くらいの姉ちゃんで小奇麗な感じの子ってよくいるじゃん
なんでか結構仲良くなったりして、色々話しているとだいたい×があったりってのが多すぎるのよね
なんでなんだよ なんでなんだよ
話は飛躍するけど、万一付き合ったりするじゃない
でもね、こちとら独身でさすがに最初から×の人と一緒になりたくない
しかしながら、可愛い そう可愛いのだ 大人の魅力というのだろうか
そんな中で揺れに揺れる私の心たち
いったいどの道が正解なのか
やはり、飲み屋の女の子なんて止めておけってのが大半なのだろうか?
そう、私を止めてください
告ハラやめてほしいよね
思ったんだけど、アニメ監督の価値というか立場に関する認識が人によってずれすぎてない?
俺は作品に対する貢献度は漫画と漫画家の関係と同じくらいと思ってるけどそう思ってない人がたくさんいそう
発端にしても例えば「尾田栄一郎外して違う漫画家でワンピースの続きやります」ってなったら集英社が権利持ってたとしても大炎上するよね?
角川のやらかしたのってそういうレベルなわけなのに、それでも何故庇うの?ってなるとやっぱそこまでアニメ監督の貢献度が高くないと思われてるんだよね
それはある日のことだった。
ふと先輩がいつも残業していることについて深く考え出してしまった。
いつか私もこうやって残業させられるのだろうかと思うと、「キモい」以外の感想が出てこなかった。
ダンピングをして自分の首と一緒に他人の首を締め付けながら、毎日少しずつ業務効率を落とし、エナドリの数が1日2本になった先輩の姿を見て「キモい」以外の感情が出てこなかった。
理性では「ああいう人が標準になると困るが、既に標準なのかも知れない」「残業代は全額つかないのは分かるが、ああやって頑張ると何割までしかつかなくなるのだろうか」「実質の時給がどれぐらい下がったらこの仕事を辞めるべきなのだろうか」と様々なことを考えたいた。
頑張っている人間に対する後ろめたさや、同時にそうやって頑張るから更に頑張らされてそれが他人を巻き込むのだぞという憎しみさえも、「キモい」の濁流に押し流され、理性の中でのみその存在を許されていた。
こういう時、こういう事を考えたのなら、今までの私ならこういった感情に包まれていただろうという、理性を軸足にしたセルフエミュレートによって生まれでては「キモい」という感情の嵐に打ち破られていった。
今はようやく「キモい」の渦も霧散していき、平静を取り戻しつつある。
恐ろしい。
面と向かって馴れ合うわけじゃないけど、
そんな存在でありたい。
もこっちに力負けしていない存在でありたい。
ヨドバシって冬でも汗掻くんだけどなんでだろう。
明日は期日前投票日になる。急な解散総選挙が行われることになって、誰もが戸惑い思い悩んでいることだと思う。次の選挙ではどこに投票すべきだろうか。現状維持の自民か?それとも希望か?結果的にリベラル結集となった立憲民主か?それとも共産か?
しかし我々が投票するべきはそのどれでもない。我々は支持政党なしに投票し、現状の民主主義を次の段階に進めるべきだ。
今まで我々が行ってきた投票行動はどんなものだろう。選ぶべき政党や政治家がいないだとか、他よりましだとか、各論は反対だけれど総論としては支持せざるを得ないだとか言って、そうして選んできた候補は自らの政治意志とは似ても似つかないようなものばかりだ。リベラルを名乗る某が自民憎しで希望への投票を呼びかける様などその極みだろう。
そうしたずれから逃げ込むように、人々はアメリカのトランプやかつての小泉のような独裁的なポピュリストに自らを同一化させるようになるが、それもすぐに理想と現実のギャップを見せつけられて失望し騙されたと騒ぎ立てる。しかしまた別のポピュリストがやってくれば、同じように信者となって騒ぎ立てる。
そうした独裁的なポピュリズムに対抗するには、よりラディカルなポピュリズムである直接民主制に向かうべきだ。
直接民主制が浸透すれば大衆に迎合するような政治家は存在意義を失っていく。自分達で政策選択をすればいいのだからわざわざそういう人間と付き合う必要がないのだ。
支持政党なしのような部分的な直接民主制のシステムがあれば、政治家は政治家である必要すらない。自動的に国民の選択手続きを代行する公務員のような存在であればいい。
本当の政治家が生き残ろうとするならば、より専門的な知識を身に着け、大衆の政治選択に対して間違いを指摘することが出来るような存在になるしかない。自分よりもこういう専門家に任せたほうがいいと思えるような、そうした政治家だけが生き残るだろう。
現行の政治体制で直接民主制を部分的にだが稼働させる支持政党なしの試みは、今までの選挙でそこそこの得票を得たけれども、評価は未だ低いものだ。
しかし今後百年を考えれば、この仕組が部分的に導入し代議制民主主義を次の段階へと進めるべきだと思う。代議制民主制が本当の意味での民主主義でないことはわざわざルソーを持ってこずとも、現状の政治状況を見ればわかることだ。
我々は投票用紙に書き込む時だけ政治参加しているような顔をして、それが終われば呑気に座って、自分の買った馬券の行方を野次を飛ばしながらただ眺めているだけだ。馬が転べば馬肉にして次の馬を用意して、何故転んだかもどうすれば転ばないかの判断も競馬新聞に任せてしまう。
どれだけ失政を重ねてもそれは政治家の責任で自らの判断の問題ではないという。この時我々は政策を決定する権利だけでなく、政治判断した後の責任までも政治家に奪われているのだ。かつての戦争を軍部や政治家や知識人達のせいにしたように、我々はどれだけ大きな失政を犯しても責任を感じることが出来ない。責任を感じなければ、どんなに失敗をしたとしても学ぶことはなく、また同じことを繰り返すだろう。
本来政治は、例え間違った、国益に反するような選択だったとしても、あくまで自分の意志によって選び取り、その失敗を自分の失敗として受け入れなければならないのだ。
人々はこの失敗を恐れる。自らの経験不足によって取り返しのつかない失政を犯すのではないかと考えるのだ。しかしその経験の蓄積という意味で今の支持政党なしの状況は悪くないものだと思う。
票数を徐々に伸ばしているとはいえ支持政党なしは精々一議席取れるか取れないだろうなという状況で、この状況はまだ暫くかかるだろう。
一議席でも取ったとすれば、国民の直接的な政策選択が国会上に現れるということで、議員に対するプレッシャーは強くなるだろうが、それも間接的なもので、国会への影響力はそれほど大きくはない。
結果として部分的な直接民主制の浸透は漸進的に進行するだろう。
だが逆に言えば国民は、まだ影響力の少ないうちからこのシステム上で自らの選択を試行する機会を持つということだ。
自分の選択が即座に取り返しのつかない失敗に終わることはない。
しかし自分の政策選択が確実に国会上に現れる状況が続けば、自分の選択の意味を考え、自らの責任の重さを知り、間違いがないか積極的に学んでいくだろう。
やがてその動きは大きなものとなっていき、結果としてこの国を変えていくことになる。その時がこの国に本当の民主主義の訪れる日だ。
ただ唯一欠点があるとすればこの支持政党なしがすごくうさんくさい団体で、そのイメージは前回の選挙から全く変わっていないということだ。変えようとした努力も見えない。
支持政党なしはこれから国民の信頼を得るためにあらゆる努力をするべきなのだ。出来る限り情報を透明化して、例えば交付金とかどう運用されるのかとか。なんでもいいから少しはイメージよくしてほしい。
まあ最終的にこいつらはどうしようもないということで彼らが降ろされたとしても、とにかく政治家たちに「直接民主制には票田がある」ということを示さなければならない。そうすれば他にも手をあげるところは出てくるだろう。
大事なのは一議席だけでもわりこませて、国会上に直接民主主義のシステムを立ち上げることなのだ。そうすれば今後百年の政治風景は大きく変わってくる。その日がやってくるまで、我々の投票先は直接民主主義を志向する党だけだ。
俺の好きなノーザンソウルを一緒に聴いたりしたらさぞよかっただろうみたいなことをなんとなく考えてたりするんだけど
さらによく考えてみたらそんなん最近youtubeでまとめて聞いて覚えたようなもんで
当時はそんなん聴いてなかっただろとかセルフでツッコむ
だいたい今の俺を構成してる知識や考え方なんかこの5年くらいで全部塗り替わっちゃってて
歳食ってる意味がなさすぎる