だからさ、増田が主張する「音楽性やスタイルが備わっているロック」と「自分がロックだと思うロック」という区別は、恣意的すぎて説得力がないでしょ。
みくがアスタリスクが音楽性やスタイルが備わっていないと認識している上で「音楽性やスタイルが備わっているロック」として例にあげたのが、なちきちみたいなユニットだから
アスタリスクは「音楽性やスタイルが備わっていない」なつきちみたいなロックが「音楽性やスタイルが備わっている」ということは明確、そしてこれをだりーなは否定していない。
だりーなが「アスタリスクが私にとってのロック」という宣言は「自分がロックだと思うロック」とセットになってるわけだから、だりーなにとってアスタリスクが「自分がロックだと思うロック」だというのは明確。
劇中で十分に説明されている。
だりーは本気のロックを追求すればいいし、みくは本気の猫キャラを追求すればいいだろ。
それが「かわいいネコキャラをやりたいみくと、かっこいいロックをやりたいだりーなが化学反応を起こす」ということじゃないか。
みくとだりーながそういう認識でいるならいいんだが
それどころか、みくは明確にアスタリスクはロックだけじゃない、自分がわがままでだりーなを苦しめていると認識している。
だりーなも、音楽性やスタイルが備わったロックと、アスタリスクのギャップに悩んでいる描写がある。
音楽性で悩んでるんだったら、たとえば、
「私だって本当はかっこいいステージをやりたい…だけど…」と顔を曇らせる…といったような演出になるだろ。
かっこいいステージでかっこいいロックをやると目標も見出したときはアスタリスクのことも忘れていたから純粋な笑顔だったが
最初に戻ってどうぞ。
いや、だからさその主張は
未練がどうとかの読みはおかしいって指摘したし
「なつきちと一緒に歌いたい、でもみくと一緒に歌いたい、どっちもやりたい」って悩みだったら
アスタリスクの活動でぼんやりしたり、みくとギクシャクするのはいき過ぎじゃないか
それこそ、みくに相談できないほどの悩み
もっと音楽性やスタイルが備わったロックをやりたいが、アスタリスクでそれはできないという悩みだから
アスタリスクのパートナーであるみくとギクシャクしたんじゃないかって指摘したよね
それをそっちは無視したよね
なのに、また最初に戻って主張して
なにがしたいの
元のツイートはこういうの↓
ツイッターのリプライって、たぶん一番近い感覚は女子の「おっぱい揉まれる」みたいな感覚で、好きな人からだったら超嬉しいし、普通の人だったらまあ腕次第だし、知らない人や嫌いな人だと心にべしゃーっと泥水をかけられたような気分になるし、で、そうだと分かっててもおっぱい揉みたくなるよね。
あのオッサン、前々から上手いこと言おうとしすぎて滑ってアウトなとこあるよ。
政治に関する発言はタブーだタブーだって大騒ぎしてるヤツがいてめんどくさい
自分の周りではSNSで時事問題に関してつぶやく人が多いのだが、そういう人をまとめて「こわい」「必死かよ」と一蹴
そいつによれば、家族だろうが恋人間だろうが友達間だろうが、政治の話はみんな必死すぎて喧嘩になるから言う必要ないのだそうだ
じゃあ誰と話すんだよ
簡単に触れられるようなマスコミとネットと本だけじゃ、どの軸も極端だ。安心した言葉にのっかるといつの間にか加害者になっている
だったらすぐ側に居る人と話さずして、どうやって学んでいくんだ?
(っていうか、政治・スポーツ・宗教がタブーって言われてるのは客商売じゃん)
政治に限らず、どんな立場の人がどういう考えを持つのか知ることに、そもそも興味があるのかもしれない
いろんな思想や宗教や国籍を持つ友達がいるけど、別に喧嘩に発展したりはしない
お互い相手を自分に従わせようとも思ってないし、罵倒するのが目的でもないから興味深いな〜みたいな感じ
そりゃちょっと軽い言い合いになることもあるけど、それで関係にヒビが入ることはない
考え方の違いよりも、そこに現れる暴力性の方がよっぽど影響する(例えば死ね!黙れ!みたいな言い方の人は思想問わずソリが合わない)
選挙前にいろんな人と話して、支持する人を変えたり変えなかったりもする
あの時あの人に投票したのは失敗だったな、と後から思うこともある
自分が知らなかった側面を会話を通して知ることもある
妹萌えの奴等の中にも「妹らしい妹を求めるタイプ」と「妹という立場の攻略対象を求めるタイプ」がいるが、どうしても後者の方が商業的に強いため前者はずっと不遇が続いている
だからさ、増田が主張する「音楽性やスタイルが備わっているロック」と「自分がロックだと思うロック」という区別は、恣意的すぎて説得力がないでしょ。
一般的な区分とは言えないし、劇中でそれに関する説明があったわけでもない。
独自概念を導入しなければ説明できないような解釈にこだわらずに、もっとシンプルに解釈するべきだと言っている。
だりーは本気のロックを追求すればいいし、みくは本気の猫キャラを追求すればいいだろ。
それが「かわいいネコキャラをやりたいみくと、かっこいいロックをやりたいだりーなが化学反応を起こす」ということじゃないか。
音楽性で悩んでるんだったら、たとえば、
「私だって本当はかっこいいステージをやりたい…だけど…」と顔を曇らせる…といったような演出になるだろ。
あの「かっこいいステージをやりたい」と言ったときのだりーの笑顔は、まっすぐで純粋なものとして描かれていて、
悩んでいるなつきちとの対比になっているんだから、あの笑顔のだりーの裏に悩みがあるなんてことはありえないよ。
だりーなにとって、「なつきちと歌いたい」「みくと歌いたい」ということが焦点であり
最初に戻ってどうぞ。
そういうのは、国際的な殺し屋が冒頭でセックスみたいな時代に文句言っといてくれよ。そしたら今の時代は少しはましになってたよ(笑)
明らかに無茶ぶりなんだけど、
「この無茶ぶりに対応できないのはプロじゃない」とか「信じてるから」って言われるから
仕方なくやるしかない
無茶ぶりをなんとかこなしても、特に褒められることもないし、
体の良い扱いをされているだけな気がする
憧れ職業だから「文句をいうなら去れ」ということで何も言えないし
どんどん神経をすり減らして、最後には自殺するしかないのかなって思う
これを解決するには無茶ぶりをどんどんこなしていって、
更衣室とか盗撮するのは分かるよ。実行するつもりは無いけど、俺も見たいとは思う。
けどパンチラ(を盗撮するの)は本当に分からない。だってパンチラなんて教師やってたらいくらでも見れるのに、何でわざわざ盗撮するんだ」
何それ羨ましい。
https://www.youtube.com/watch?v=K_ZaHsgStck
僕の一番すきなCMは戸田恵梨香と妻夫木聡が共演しているこのCMだ。
単に戸田恵梨香が好きっていうのもあるけど、この頃が一番ケータイがステータスの高いものとして扱われているところが面白い。
ケータイのステータスはここから少しずつ変化していった気がする。
https://www.youtube.com/watch?v=t7EuhDhWndI
エンブレムでなにかと問題になっている佐野氏がデザインしたLISMOだ。僕は個人的にはこれはパクリではないと思うし、そんなに嫌いなデザインでもない。
まあ佐野氏については、エンブレムはたぶんパクリじゃないだろうけど素人(一般国民)に分かりにくいデザインを評価するのはナンセンスに思える。僕も素人だし。
招致ロゴでおkだと思うけど、せっかく公募するんだったら、今度は審査員の身内受けで決まらないでほしいな。あと、やっぱり個人の性格が印象を変えるんだなあってしみじみ思う。
ともかくLISMOシリーズに関しては、前掲のCMのように、音楽を積極的に取り入れていておしゃれ。
https://www.youtube.com/watch?v=WoOrYVofVMY
嵐がandroidの宣伝をしているやつである。このCMから嵐を起用しているところからして、ケータイのステータスに大きな変化を感じる。
今でこそauはiPhoneを販売しているが、この頃は完全にandroidのつもりだったのだろう。しかし、iPhoneを売ることになり、このCMはばったりと無くなった気がする。
スマホの出始めは、マニアしか持たないとか言われてたっけなあ
まあauはそれを変えたかったんだろうなあ
https://www.youtube.com/watch?v=6LNiDSEF40M
例の桃太郎のやつである。ソフトバンクのCMを相当意識してきたなーって感じ。
ゼリープレゼントとかもうソフトバンクともろ被りやん。個人的にはそんなに好みではない。
嵐とかもそうだけど、家族向けになってるのはもうはっきりしてるなあ。
当たり前だけど、マーケットにあわせてCMも変化するね
ここまでauのCMをながめてきたけど、僕はドコモユーザーである。
auにしろドコモにしろ、原点に戻って、ステータスの高そうなオシャレなCМに戻ってほしいと思う。
幅広い世代をターゲットにしたいのは伝わってくるんだけど、ステータスをあえて下げるような宣伝よりも、オシャレ感をだしたほうがええと思うんだけどなあ
ソフトバンクのCMに対抗するのに同じようなやり方っていうのはなんだかなあ。
学校で教える科目に三角関数が必要なのか、簿記は、プログラムは、ダンスは義務教育に追加すべきか。そういうエントリーが目端に映る今日このごろ。確かに今の学校教育には何かが不足しているような気がしないでもないし、過剰な教育によってあらゆる部分が中途半端になっているような気もする。
そう考えているとふと気づいた。そもそも「勉強のやり方を教える」という授業が不足しているのではないだろうか。
習ったことを忘れないようにするためには忘却曲線の知識が必要だ。学校側でも復習はさせているがそれだけでは時間が足らない。生徒たちの自発的な学習は必要不可欠だ。そうでないなら皆テストで100点を取っているはずだが小学校ですらケアレス以外の理由で酷い点を取る生徒がいる。彼らに予習や復習をさせる必要がある。だけど彼らはやらない。何故か、その重要性に気づいていないからだ。
予習複数の重要性を教えるのに「頑張りなさい」だけでは絶対に説得しきれない。そんなのは教える力のない教師の泣き言にしか聞こえないだろう。だがここで生徒と教師が脳科学の知識を共有したらどうなるだろうか?学校から帰ってきて10分勉強するだけで将来の勉強や居残りの時間が何時間も減少すると知ったら。確かにそこまでやっても勉強しない生徒はいるだろう。だが脳科学の知識を身に付けることで正しい学習方法に目覚める生徒も少なからずいるはずだ。
また長期的な学習スケジュールを立てることの有用性も教えるべきだろう。期日までに勉強が必要な量の概算を出す、それをカレンダーに振り分ける、学習の進行具合を記録して軌道修正をする、学習してきた記録を見て学習した事自体を誇らしく感じる。大学受験を終える頃には大部分の学生は自分でコレが出来るようになるのかもしれない。だがこれはもっと早いうちに身につけた方がいい技能、知識だ。大人になっても身につけていないなんて事になったらそりゃもう大変だ。これも隔週や月に1度でいいから生徒に方法論と有用性を教えて、それが身についているか確認をすべきだ。小学生にはまだ早いかもしれないが、高校受験を見据えた中学生には絶対に教えるべきだ。
既に学校では個々の教師が自主的にそういう話をしているという反論もあるだろう。だが、それはあくまで学校教育全体の管理から離れた教師側の自発的な活動でしかない。そういう授業をする時間を儲けるべきなのだ。くだらない総合的学習の時間とやらでも削れば教える時間は出来るはずだ。むしろ総合的な学習として「勉強・学習・努力・生活の仕方の基礎」を教えるカリキュラムを組むべきなのではないだろうか?学校が本来教えるべき物は学ぶという姿勢そのものなのではないだろうかと私は思う。学ぶという姿勢を身に付けるためには学び方を知ることは非常に重要なはずだ。
逆逆。手打ちなんてとんでもない。