みんなデフレ社会にすっかり適応したのでワナビーなどというものは消滅した。
みんなアロンアルファで地に足を貼り付けて生きてるよ。
母はわたしを生まなければよかったと言った。わたしが中学一年の春だった。私立中学に入り、馴染めなくてすぐ不登校になって、逃げ出したわたし。逃げた先は玄関で、ドアの前、押し倒されて、ぐっと絞められた。頭がチカチカして目の前が白くなる。もがいてようやく放してもらえたとき、わたしも母も泣いていた。
わたしの人生はたぶんあそこで終わったのだと思う。
まず、どうにも生きている実感がない。
わたしはいわゆるオタクで、しかも喪女に分類される。オタクだ喪女だ、とバカにする人は数多くとも、それなりに楽しいことができていると思う。ツイッターでアホのようなことを垂れ流しているときは頭を使わなくてすむし、ばか笑いができる。楽しいと思う。
ただ、実感がない。本当にこれがわたしなんだろうか、という感覚がある。普段から猫を被っているせいもあり、ツイッターとのギャップが激しい、とは言われるが、果たしてSNSでばかな話をするわたしとは一体誰なんだろうか。それは本当にわたしなんだろうか?では、現実のわたしも同じわたしなのか?実感がない。
色々あって大学に行くことはできた。奨学金を借りて通っている。そこそこ裕福な家庭で、色々な習い事をさせられ、常識と呼ばれるものを詰め込まれてわたしは作られた。
けれど生まなければよかったと言われた。言われたのはもう10年近く前のことなのに、わたしはまだあの言葉を引きずっているし、ここまで作ってもらったけれど、たったひとつのあの言葉を思い出すだけで、結局終わっている人生なのだ、と思ってしまう。
母はわたしを生まなければよかったと言ったが、5つ下の弟に対しては生んでよかった、と言う。前述のとおりわたしは猫を被っていて、現実でもSNSでも実感というものがわかないから、周りから何を言われても「どうせ嘘なんだろうな」「どうせ自分なんて」と思ってしまう。だからせめて、わたしを生んだひとであって、どう向き合っても本当のことを言わざるを得ない親からぐらいは肯定されたかったのだと思う。弟のように。同じ親から生まれたのに、わたしはでき損ないで、弟は優秀なのだと言う。わたしのように歪むこともなく弟は健康的に育っていて、みんなから愛されている、とわたしは見ていて思う。わたしは人に恵まれているけれど、それがイコール愛されていることだとは思えない。
誰でもいいから愛されたいし、誰かに肯定がされたい。わたしの終わってしまった人生はきっとまだやり直しがきくはずで、けれど他人に何かを求めないとはじめられない、と思っている現状が変えられなければ、終わったままで死ぬんだろう。
最近、公式・非公式を問わずオタク系のイベントに出入りしてるんだけど、そこで感じることは「コスプレは華である」ということだ。
コスプレイヤーがいるといないとではイベントの雰囲気も全然違うしね。自分が女の子だったら絶対コスプレしてたよ。
togetterでコスプレイヤーをディスってた人が話題になってたけど、自分に持ってないものを持っている可愛い女の子に嫉妬するのも理解できる。
というわけでやっぱり女の子最強だと思う。
どちらかと言えば石原は嫌いだったが、すっかり憑き物が落ちたような感じで
もっと話を聞いてみたいと思った
その中で残念だったのは岩上刺身率いるIWJの小田垣大志記者の質問が群を抜いて
こんなクソは再教育するか配置換えするかしてほしい
人見知りというか、ほぼ威嚇みたいになってて、誰かがずっと自分を見てると思うと手が震えるし、吐き気が止まらない。
側から見たら、ものすごく人を嫌ってる、人を受け入れることの出来ない人間だとしか見えなくて、
怖いとおもわれてると思う
職場の皆さんが凄く好きなのに、手が震えるし、自分の目線が気になるから
普通に話してみたりしたいのに 怖くてできない
会社でとってる雑誌や新聞が日経系列ばかりだからなのかもしれないけれど、
新しい製品=良い・正しい・正道
といった書き方の解説をたまにみかける。
ハード製品、たとえば車のエンジンや家電製品なんかは、新しいものの方が製品的には良いことが多いが、
ソフト製品、たとえばソフトや通信規格なんかは、既存ソフトとの影響で、必ずしも良いとはいえない。結構、悪い影響を与える事の方が多いと思うんだが。
そんな私が楽しみにしていたのがはてなブックマークに良く上がっていた創作系の話題
「俺も小説の一発でも当てて、東京に出てシティライフだぜ!」と息巻いていたのも今は昔
今年に入ったあたりからワナビー系の記事がさっぱりはてブに上がってきやしない。
みんなどこに行ったのか?死んだのか?やっぱり。
寂しいばかりである。
マジレスするわね。
音楽に関してphysical copyという表現が定着したのは、「音楽はiTunesでデータで買う」のが当たり前になったころだったわ。mp3というファイル形式が一般人の語彙に入ったのが2000年ごろ、その数年後にmp3.comなどの「ファイル」を売るサイトが出現したんだけど、「データで買う」、「ハードディスクにダウンロードする」という消費スタイルが一般化したのは、もう少しあとだったわね。
そのときに、「データ」という形のないファイルか、手で触れる形のある記録媒体、つまり「物理的な(フィジカル)」物体か、「あなたはどっち派?」というような会話がたくさん行なわれたの。「フィジカル・コピー」はそこで使われた用語だったわ。英語圏ではこれは「店で売ってる、パッケージされたソフト」のことを指す用語なの(パソコンのソフトウェアやゲームでも使われる表現)。日本では、「形のある記録媒体」といえばCDだけだったから「CD」と言えばよかったのだけれど、アメリカやイギリスでは音楽を買うような人はある程度のマニアやコレクターもいて、一般的な音楽の記録媒体には「CD」も「ヴァイナル」(アナログのレコード盤)もある。それに英語では、「言い換え表現」が必要なのね(「株式会社はてな」について書くときは、「京都に本社のあるそのIT企業」と言い換えることが必要になるのが英語の文章術よ)。だから「私はまだCDを買っているわ。なぜなら、私はまだフィジカル・コピーを自分の棚に所有していたいと思うから」というようなことを掲示板などでわいわいと話していたんだけど、そういうところから日本人の音楽好きの人の間にも旧式のCDやレコード盤について、「フィジカル・コピー」という言い方が取り入れられたのだと思うわ。音楽関係の仕事で英語圏の人と話をする人なら、ごく普通に「フィジカル・コピー」を使うから、そこからも用語は入ってくるわね。いずれにせよ、「形のないデータでも購入できる」ようになったあとに広まった言い方よ。
昔なら、いかにも音楽好きっぽい気取った日本語の表現としては「盤」というのがあったわ。DJはよく「お皿」って言っていたわね。クラシックでは事情は違うと思うけれど。
サッカーの「フィジカル」は「身体的」の意味で、英語ではphysical strengthで「体力」の意味になるわね。確かに、これも誰が言い出したのか、気になるけれど、きっと「海外サッカー」の影響だと思うわ。対義語は「メンタル mental」よ。サッカーじゃなくテニスだけどmental toughnessといえばロジャー・フェデラーよね。
増田のいう対象は、建築業界で言うところの、現場監督や設計士。
想田監督の一連のツイートに対するブコメの反応をみてると「安倍政権は日本を右傾化させるかも知れないけど、経済再生等々を考えると、この程度の右傾化は許容できる(せざるを得ない)」と考えて自民党支持する人が多いのかな。
確かに憲法改正は、衆参両院の3分の2の賛成で国民投票を実施して、それで過半数を取れないと実施されない。だから選挙では自民党に投票する人も「経済はともかく、憲法改正は信任してない」という意思表示を参議院議員選挙や国民投票ですることができる。
一方で、憲法改正しなくても「安倍一強状態」をうまいこと使って、集団的自衛権を行使して実質的に軍隊強化して韓国といつでも戦争できる国にしてったりするかもね。
どちらの見方が正しいかは、これから四年間みていくしかない。でも、どちらが正しくても、きちんとした手続きに則って我々の代表として安倍内閣総理大臣が決断していくことなので、ここは従おうと思ってます。「悪法なれども法は法」と言ったソクラテスのような気分。
個人的には、自民党政権はいいけど、安倍政権は嫌だった。なので今回の選挙では自民党に議席を大幅に減らしてもらい「安倍の賞味期限も長くないな」となって欲しかった。
安倍政権がヤバいなあと思うのは、安倍さん頭が悪いから。 成蹊大学って、こんなもんなんだろうなと思う。
今回の解散も大義なかったし、頭の良い人なら恥ずかしくてやれない。でも安倍さんは「野党の準備が整っておらず、自民党に大きな失点のないこの段階で選挙を実施すれば、自民党圧倒的多数の状況を更に伸ばせる」と読んで実施した。
選挙で述べるのは「アベノミクス」に絞り、「この話は国民の信を問わなくて良いの?」という集団的自衛権や特定秘密保護には触れなかった。これも頭の良い人なら恥ずかしくてできない。
哲学者の永井均さんのツイートの一部に「近年の貧富の差の激化と同時に賢愚の差も激化しているという事実はなく、ただネットの普及によって愚者の考えもまた知られるようになっただけ」https://twitter.com/hitoshinagai1/status/540675730011463681 とあって、これは本当にそうだなあと思う。
これまでは愚者の考えは広く知られなかったので、愚者は「俺の意見は少数派でおかしいのかな」と思ってたろうけど、いまは広く知られるようになったから「俺の意見でやっぱりいいんじゃん」と自信を持てるようになった。
頭の悪い安倍さんを支持しやすい状況になってる。嫌韓、嫌中が流行るのも、こういうのがバックグラウンドになってる。
でも、この状況って、民主制が衆愚制に落ちていくってことだよね。そこが大丈夫かなあと気になってる。
「そんなに言うなら賢者がなんとかしろよ」というとこなんだけど、いま賢者の言説は響かないんだよね。
それはなんでかっていうと、大局的にみて日本の未来が暗いから。どうやっても国力落ちていく局面でしょ。だから頭の良い人が出す処方箋は魅力なく見えると思う。
それで頭の良い人はなんかウダウダ言っちゃうんだけど、頭の悪い人は「ウダウダ言ってないで、やらなきゃ駄目だろ!」と行動して、おかしなこともやってしまう。でも衆愚化と相まって、その行動力が魅力的に映ったりするんだろうな。
まあ、そんなこんなで出口はないけど、なんとか衆愚制に落ちずに持ちこたえて欲しい。
(文節の切り方が違ってて「バグが存在しない形を(数学的に)導出する」と言われても良く分からん。
情報学的に導出するのとどう違うのか。情報学も良く知らんけど。土方だから)
それが数学的なのかどうか知らんけど
プログラマの人たちの価値観の解像度がよくわからんからなんとも言えないんだけど、
とにかく「コーディングこそすべて」みたいな感じというか、コード書いてる俺すげえ感を前面に押し出してる感じの人たち。