はてなキーワード: の憂鬱とは
その昔、増田はアメリカに留学しており、若気の至りで妊娠してしまった。ルームメイトに堕胎を相談したら産んで養子に出す方法もあると説得される。増田は、堕胎がトラウマになって再び妊娠することが怖くなったり、あるいは再び妊娠して産んだ子供を育てていくことに一生罪悪感を覚えるんではと恐怖を感じて、産んで養子に出すことにした。すでに成人していたので親にも秘密ですべて終えた。
5歳の娘さんと大きな黒い犬のいる白人家庭とマッチングすることになり、あらゆる問題をサポートしてもらった。なんと学費や生活費まで援助してもらえた。まあ今考えると子供を人質に取られてるようなもんだから、とにかく少しでも不安要素を取り除いて健康な子供を産んでほしいって一心だったんだろうね。
産んで、一度も抱かないまま書類にサインだけした。「それ」が生きているというのが怖かった。書類の中には子供が自身の出生について知る権利についてのやつがあって、増田は合意していた。知りたいと思う事もあるだろうし、そこについての責任は製造者としてとらねばならないと思ったからだ。
あれから15年ほどたって、増田は日本に帰って就職し、結婚と離婚を経験し、英語や出産のことなどすっかり忘れてしまっていた。そしていた頃に、詳しい経緯は省くが養子に出した家庭から連絡があった。子供があなたに手紙を書きたいと言っている。そういうわけで手紙が来た。
本当に気が重かった。あの妊娠中の憂鬱で不安な日々を思い出して眠れず、毎日吐きそうだった。しかし製造者としての責任から逃げることもできない。手紙はごくありきたりなものだった。生んでくれて感謝している、自分は幸せに暮らしている、水泳をしていて大学ではこういうことをやりたい、将来は何になりたい、いつか日本に行きたいなど。
最後に、クリスマスにアメリカで一緒に過ごしませんかと書かれていた。クリスマスというのはアメリカの正月のようなものだが、アメリカでは離婚した元夫婦ですらこの日だけは子供と一緒に家族水入らずで過ごしたりする。その日に来れないか、というのだ。
勘弁してくれと思った。しかし未成年の青年の提案を却下するのは、いい大人として心がいたんだ。親としての愛情は相変わらずゼロのままだ。病気だとかなんとか嘘を付くこともできたが、結局、承諾した。
あの白人夫婦は何を考えているのだろう。子供のやることだからと表向きは肯定しているが、内心迷惑だと思っているだろうか。あるいは、私は子供の情操教育に必要な役者であろうか。まあ、交通費は向こうさんが持ってくれて招待という形なので、年末年始は苦い思い出の残るアメリカで過ごそうと思っている
上京した先で家庭を築き仕事をしていると、ふとした瞬間に20年30年後のことが頭をよぎる。
何不自由なくスクスクと育ててくれたことにむしろ感謝の気持ちで溢れているくらいだが、その親もいつまでも元気なわけでもない。
どんどん老いぼれていく親を見る度、痴呆症の祖父祖母の大往生と親の苦労を目の当たりにしたときに感じた気持ちを思い出す。
絶対に同じ目に遭いたくない。
足腰が立たなくなったり病気で入退院を繰り返すようになったら?関東から地元へ往復しなきゃならないのか?全部片付いたあと土地の相続とかどうすればいいの?
生存のために他人の扶助を必要とするようになったり、鬼籍に入ったのちの面倒なやり取りでこちらの生活に牙を剥いてくるかもしれないと思うと憂鬱になる。
そんな気持ちに付き合っているうち、隣国から頻繁に発射される兵器とけたたましく響くスマホのアラートを耳にする度に「実家にピンポイントで落ちてくれたらな」と思うようになった。
今抱えているぼんやりとした不安や将来への憂鬱な気持ちが一気に晴れるのに。
実際にそうなれば、楽以上の悲しみや怒りが強く湧いてくることと思うが、想像の中では自身に降りかかりうる問題を埒外のパワーで事前に解決されることを期待してしまう。
親は今年で65。
人気の高い楽器を演奏する人は、演奏させてくれる楽団を探すのが大変である。一方、上達のための情報も選べるパーツも多い。私は体格に恵まれず昔から競争を避ける習慣がついたので体格に恵まれないにも関わらずバリトンサックスを選び20年以上演奏させて頂いている。フルート、アルトサックス、クラリネット、トランペットなどメロディーを担う楽器の奏者はそのポジション数と比較して演奏人口が多いため
等の必要に迫られる。ロックバンドのエレキギターリストも似たような状況である。一方、低音管楽器奏者はどちらかというと頼まれて楽団をヘルプする形で演奏に参加する。ロックバンドではドラマーがそのような位置づけである。日本の吹奏楽文化がアマチュア管楽器奏者を大量生産しているの対し弦楽器奏者は少ないのでアマチュアオーケストラの弦楽器パートは常に人数不足という話も良く聞く。
低音管楽器。おいしい様に思えるが色々困難もある。
年末が近づくとクリスマスや忘年会、正月などイベントも多かったりして、誰かと話せば「はやいねもう今年終わるんだね」みたいな会話が増え、
ネットを見れば「今年買ってよかったもの」「今年読んだ本ベスト10」とかそういう記事が増える。
否が応でも年末を感じるそういう空気の中で俺は、毎年なにかやり残したような、焦るような気持ちになるのでちょっと憂鬱な季節だ。
あと、その焦燥感は単純に一年通しての個人的な反省とか後悔となんだけど、それだけじゃなくてなんか勝手に区切られてるような気持ち悪さがある。
「今年こんなことあったね」とかみんなで今年を懐かしく振り返ったりする時間も苦手だ。
なんでこんなに苦手なのか分からないけどもういいよ今年はもう終わるんだから来年のことでも考えようよって思ってしまう。
けどなんか、一年という括りで年末にやたらまとめようとする流れがどうにも苦手だ。
時間の流れ方だって人それぞれでいいじゃないか、ある人にとっては3年がちょうどいい区切りの期間かもしれないし、半年区切りのほうが気持ちいい人もいるかもしれない。
俺はできることなら「今年も終わるねえ」なんてしみじみしたくないのだ。「あーそういえば1月だね」くらいの感じのほうがいい。
時間はずっとずっとシームレスに流れていく感じで、その中で各々勝手に区切りをつけたりまとめたりする世界のほうがいい。
ちなみにお祭り事が嫌いなわけじゃない。むしろミーハーだし好きな方だ。みんなで流行ってるものでなんか盛り上がったりとかも好きだし。
ちなみに年末年始といえば家族で集まるみたいなのもあるけど、家の場合は仲悪いわけではないが一家離散状態で親戚とも疎遠なのでその手の集まりは全くないのだ。
まあお前が世間を無視すればいいだけと言われたらその通りなんだけど、人付き合いも含めるとなかなかそうもいかない。
唯一年末の憂鬱感を回避できたのは仕事で年末進行がクソみたいな事になった時、あの時は年末年始など存在しないかのように気がつけば年越ししていたが、それはさすがにもう嫌だ。
いっそ年末年始は外国とか行って非日常感に包まれまくれば感じ方はだいぶ変わるのかな。残念ながらそこまでの金はないんだけど。
こういう助成金とかって(今回はモデル事業としてのみなし委託だが実質助成金だろう)地方議員の口ききで実現したものも地方には多い。
(今回のcolaboの件がそうだったかは知らん)
地方議員の立場からすると「この助成金があることが成果」であり「わしの目の黒いうち(当選してる間)は廃止することは許さん」となったりする。
なので職員にとっては「なんだかなあ」と思っても廃止したりするインセンティブはあんまり働かないのである。
それは議員が多数の会派であろうが少数の会派であろうが関係がない。強固な地盤を持っていると回り回っていろんなところで「地域住民の声」を代表して物事が進まなくなるので気を遣う必要はあるのだ。
(議員に逆らってでも正しい判断をしろよ、と思われるかもしれないが、法令に違反している場合は別だが、民意を代表した議員より"正しい判断"って何?と考えるとその難しさがわかると思う。)
連日某colaboとやらの不正会計の件が盛り上がっている…のを横目で見ながらモヤモヤとしている一人である。
渦中の団体はどうでもいいのだが、こういうのが盛り上がってくると、俄然厳しくなってくるのが助成金関係の審査だ。
先日、顧客に助成金を調べてくれと言われて調べてみたところ、以前取りやすかった助成金の審査が大層きつくなっていた。
審査が厳しくなるのはええやんけ、という人も多いと思うのだが、実際のところ助成金のようなものは「会計のかの字もわからないようなスタートアップ」や「会計しっちゃかめっちゃかで火の車の零細企業」が使うことを前提で作られている(と思う)。
なので審査は書式が揃っていればOK,報告関係に関しては性善説もびっくりのザル報告でOK、みたいな助成金がけっこうあるわけだ。
いやいや、不正で税金をくすねようとする企業はいかんでしょ、助成金無しで利益も出せない企業はなくなったほうが良いでしょ、という意見もまあごもっともである。
しかし実際のところ、自分の観測範囲ではあるのだが、税金に関しても助成金に関しても、不正をしようと思ってしている企業は極稀で、不正とみなされてしまう企業の多くは「なんだかよくわかってなかった」という企業が多い。
利益を出せない会社は必要無いかというと、そんなことはなく、どの企業も何かしらの役目を担っており、ちょっと歯車がうまく噛んでいないだけという所も多い。
野党が「お友達企業へのお金配り」と揶揄する(これも非常にもやもやした)税金の使い方も社会への潤滑油だと思うのだが、助成金も質の悪いグリスのような感じでそれなりに潤滑油的な働きをしていると思う。
それが楽しみにしてるはずの予定でも、だ。
見たい舞台があってチケットを取るけど、その日が近付いてくるとどんどん憂鬱になる。
見たら最高にぶち上がることはわかってるんだけど。
友達と遊ぶにも当日「今日ひま?」ってくらい近づかないと無理。
これが自分ひとりの予定で、最悪当日キャンセルしても他人に迷惑かからんのならまだまし。
でも誰かとの用事を予定として入れてしまうと、どんなに楽しみなはずのものでも「やらなくちゃいけないこと」になる。
それがただしんどい。
そうではない距離感の人に遊びに誘われたとき、めちゃくちゃ頑張って遊びに行くかどう断るかで悩む。
なのに遊びに行くまでの憂鬱さに勝てない。
こんな私を誘ってくれたのにごめん。
マイナビが就活生に行った「配属ガチャ」に関する意識調査で、希望しない職種や勤務地などへの配属に、調査に応じた就活生の半数以上が不安を抱えているという記事が出た
それなりに体力がある企業は採用した人材の配属希望を聞き取った上で経歴や資格、適性検査などの結果を吟味して配属先を決定しているのだが、そうでない企業も多いのも事実である
かつては「家を買うまでは希望の職種や勤務地へ、家を買ったら希望街の職種や遠隔地へ転勤や単身赴任を」などというやり口で人材の分配をする企業すらあった
そんな話を聞けば「配属ガチャ」という言葉が生み出されるのにも納得がいく
とかく「親ガチャ」や「隣人ガチャ」、「上司ガチャ」と、本人ではどうともできない現実に対し、責任を他者に転嫁し嘲笑して諦観するような風潮が市民権を得てしまった
しかし、今までもさまざまな格差や現代社会の生きづらさを言葉遊びをとおして現実逃避する手法は年代を問わずあったわけで、「○○ガチャ」という言葉に必要以上に反応してしまうのは「ガチャ」風潮についていくことを諦めた中年以上の世代の努力不足なのかもしれない
そしてその最たるものがTwitterで見かけた「配属ガチャというが、こちらも新入社員ガチャだ」という経営者のツイートである
一見、論拠がしっかりしている反論のように見えてしまうが、配属という受動的な事象に対して、採用という能動的な行為をぶつけるという、話の噛み合ってなさが如実に現れた独り相撲に目眩すら覚える
さらにいえば、採用試験時には志望者は実にさまざまな書類を提出し、何度も面接を繰り返し採用側に丁寧に吟味される
そこで人となりを完璧に見抜けなどとはいわないが、志望者側にそれほどの労力を課して採用側もリソースを割いて判断したのだから、「新入社員ガチャ」という意見は「俺らまじ見る目ないから」という自白そのもので、反論としては不適格だろう
志望者が嘘をつき自分に下駄を履かせ、採用側はその嘘を見破り人間性を問う戦いとのことだ
なんだこの無間地獄
双方ともに謙虚さを失って、「売り手市場」「買い手市場」などと主導権争いをするからここまで劣化したんだろ
ワイは出勤前の憂鬱な朝を過ごしてるやでという話
メルカリやネットの古本屋でマリア様がみてるや少年陰陽師やとある魔術の~の全巻セットについて調べていた
ふと、何十冊も本を買って物語を追っていたのになんで本を手放すのかなと思ったが
長編の単行本を集めたコアなファンは紙の本から電子書籍に移行するのだなとわかった
少年陰陽師の作者は電子書籍の特典SSをつけているのだが、これは「長い間紙の本を買って集めてくれて読んでくれてありがとう。何十冊も刊行されて置場所にこまったファンのために電子書籍に特典つけますね」ということなのだろう
少年陰陽師、既刊56巻とwikiで出てきてこんなに買ったら本棚のなかでものすごいスペースとってしまうわ!!と思った
自分は中国地方で育ち、親がたてた一軒家で子供部屋を一部屋与えられ紙の本は好きなだけ所有することができた
しかし、今は東京のマンションに住んでいて、それほど広いところではないし子供のものも置くため実家にいたときのように紙の本を膨大な量置くことはできない
だから、今から長編小説を集めようと思ったら電子書籍を買うことが正解なのだろう。
電子書籍で合本版があることが電子書籍の本棚がごちゃつかなくてありがたい。
しかし、自分は電子書籍の文庫本は1日3冊読むのが限界だ。紙の本なら時間が許すかぎり読めるのだが電子書籍は目が疲れるので文庫本3冊以上は読めない。
読み心地という点においては紙の書籍が圧倒的に有利だし、スマホで縦書きの小説を読むのは基本的には好きではない。(pixivの横書きの小説を読むのはすきだけども)
今は十二国記を読んでいるのだが30周年なのに15冊くらいしか出てない。キノの旅やソードアート・オンライン等に比べたら紙の本が集めやすくて笑ってしまう。初心者でも手をだしやすい(十二国記は紙の本で読んでいる。読み心地最高)
鈴宮ハルヒの憂鬱シリーズも既刊12巻で本棚を圧迫しない大したことのない冊数だ。
作家が長期で連載を休めば読者の本棚を圧迫しないというメリットがあるのか……谷川流先生、ハルヒの続きをだしてください
電子書籍を買えば管理はものすごく楽なのだが眼精疲労というデメリットはとにかく大きい
私の場合、ストーリーも電子書籍よりも紙の本が頭に入りやすし覚えやすい。多分、文字だけの本は紙で読んだ方が脳ミソがよく動いているのだと思う。
しかし、狭い家に住んでいると長編小説を集めるスペースがない。
この問題はもう自分がお金持ちになって広い家に住めるような身分になるしかないんだと思う。図書館で長編小説をちまちま借りて読むのは何度も図書館に行く事になるしめんどくさいのよね。お金をだして本を買えば続きがすぐに読める