はてなキーワード: 等価とは
しかし、質量mを持った物体がmc^2だけの力を有するので、質量とエネルギーが等価であるというのは一般に知られているから、「質量mと加速度aがFという力になる」とってもあながち間違いないのでは?
常々思っていること。
「数学」と「物理」は、同じように「数式」を用いて表記するが、その意味するところ、読み方は大きく違う。
1+1=2
この右辺と左辺に因果関係も上下関係もない。1と1を足したら2になるし、2は1と1に分けられる。
F=ma
と書くとき、ここには「読み方」の順序がある。
ニュートンの運動方程式の場合は、左辺が「原因」、右辺が「結果」を意味している。
「Fという力が加わると、質量mの質点に、aという加速度がかかる」と読まなければいけない。
決して、「質量mと加速度aがFという力になる(?)」という意味ではない。そんな因果はない。
こういう、数学的な等価性の読みを、数学以外の科学に持ち込むことで、混乱を招いている状況が非常に多い気がする。
等式の左右は同値であっても平等ではないし、プラスとマイナスはただ符号を入れ替えたものではない。
数式は、科学を記すにはまだちょっと不完全な方式なのではないかと思うね。
※追記
どれそれがつまらんと言う人がいれば、教養が足りない。歴史を学べ。想像を膨らませろ。オマエは感性が乏しい。って吐き捨てに行く人がいる。インターネットでよく見かける。
全方位を貶す2ch脳みたいな奴もウザいけど、こういう連中もアレだなって思う。
言わんとしてる事は分かるけど。物事に楽しみしろを見出していけば人生割と楽しいけど、ただ偶然の出会いに身を任せて受け身でいるだけじゃそこまで面白くはないし。
ただ何を面白く感じるかは各々が決めればいいことだし、つまらないと思う気持ちは楽しむ気持ちと等価だとも思う。
これを面白いと思えないオマエが間違ってる、みたいなのは余計なお世話だよなって。一般的な感覚と照らし合わせるとズレてるかもね、くらいのことはあるかもしれんけど。
それがつまらないんじゃなくて、お前がつまらないだけ。みたいな事を言う人は多分に本質主義、教養主義、権威主義的な考えを持ってる気がする。
前情報無しに受け身でも楽しめるようなゲームやエンタメ全振り映画よりも、知識をコンパスに言葉の先を行く表現物を鑑賞したり、自分の考えなり価値観なりを挟んだり照らし合わせる余地のあるモノを楽しむ方が素晴らしい、より優れた人生体験である、みたいな価値観が前提に置かれてる感じ。
まあ各々の中でそう思うのは勝手だけど。おれもそういう物事の方が生きている意義を感じられるし、自分という存在を確かにできる感じがする。でも別にそれがこの世界に用意された正解という訳ではない。
極端な話をすれば、じゃあその豊かな感性や想像力、知識でもってしてその辺の石ころでも眺めながら一生諸行無常や宇宙の歴史にでも思い出を馳せてれば?そういう身近な喜びを無視して、わざわざ人の作った芸術作品なりで分かりやすく楽しみを得る事も受け手がショボいって事になるんじゃないですか?でもそうではないでしょ。見る側がつまらないとか言い出すと、突き詰めるとそういう事になってくると思う。
人が人を楽しませるために、相互的なものとして作り出した作品と無為に存在する自然物とではまた話が違うんだけど。でも説教マンって多分グランドキャニオン見たけどつまらなかった、みたいな人がいれば多分知識が想像力がとか言い出すんじゃないかな。知らんけど。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/74773
正論言って空気を悪くする人も普通に居て、それは煙たがられるはずだ
つまるところ
問題なのは、改善のために協調・行動しないことにあるのであって
現場では、行動が伴わなければ正しい事を言う奴と文句を言う奴は等価でしかないんだが
昨今のポリコレを見れば分かるだろう
彼らは省みない、正しいのだから
(視点を変えれば、その正しさはいちゃもんでしかない部分も含めて、実に示唆的だ)
個人的には、はてブみたいな肥溜めでは、「文句ばっかり言う奴」の方がいい
この肥溜めでどんだけ孤独に吠えようが、世の中は何も変わらないが
#もちろん、あらかじめ用意して「保育園落ちた日本死ね!!!」みたいに演出するなら別だが
#わきが甘いと「どうして解散するんですか?」になる
他の動物に対して、不快だから殺す、食べたいから殺す、ペットにしたいから生かす。人間はこれを当たり前にやっているし、それを問題視する社会を私は寡聞にして知らない。
ジャイナ教徒、仏教徒、菜食主義者の一部等は不殺生主義なのだろうけど、人類全体の中では少数派だ。それにしたって、動物は食べてはダメだけど植物はOKなどと、やはり命を等価とはみなしていない節がある。
「個々の生き物の命は等価ではない。ただし、無駄に自由を奪ったり、無駄に苦痛を与えたり、無駄に殺したりすることは慎みましょう。」一般人としてはこんな規範を持っていれば十分だろう。
子供がペットを飼いたいと言うのなら、その動物に対して無駄に自由を奪ったり、苦痛を与えたり、殺したりすることになってしまわないか?ペットとする動物にとっての自由や苦痛とはどんなものか?を思いやり、それらに配慮しながらその動物が死ぬまで面倒を見られるのか?と子供には問うべきだ。実際にペットを飼った場合は、親は子供が左記の責任を果たせるよう導いていき、万一子供がその責任を放棄した場合は親が代わってその責任を果たすのが子に対する教育だと思う。
子供が鳥を飼いたいと言っている
増田は鳥の飼い方なんて知らないし、自分は飼いたいと思わないので、世話は子供自身がしなきゃいけないぞ、と言っている
しかし、小3で忘れっぽく飽きやすい娘がきちんと世話できるとも思っていないので正直今することではないと思っている
実はうちには、夏に娘がお祭りでもらってきたメダカもいて、それは娘が飼ってるんだけど、親に言われて2度ほど水替えをしただけで、どろどろの水の中で2か月たち、今もメダカは一匹だけ生きている
これをきちんと世話もできないなら鳥も世話できないよね、という話もした
ここまでが我が家の状況
表立って言うことではないけど、メダカや虫の命より、鳥やハムスターの命の方が大きいという感覚がある
鳥を飼いたいと言われるとやいやい言うけど、メダカを貰ってきた日には何かを言うこともなく、世話するんやでと言っただけだった
メダカは死んでも鳥が死ぬほど罪悪感がないのが本音だし、大きい命を飼う前に、メダカやバッタやザリガニで世話の練習をしたらいいと思っている
でも、これを子供に何て伝えるべきなのか?
虫は死なせてもまあええけど、鳥は死なせたらかわいそうなんよ、とは言いにくい
メダカは飼っていいのに何で鳥はダメなんだろう、と娘は正直納得できていないのではないか?
しかし、全ての命を等価値とすると、鳥一匹飼うより雑にテントウムシ数匹取ってくる方が悪ということになる
まあ実際そうなのかもしれない
責任を持たすために、例えばお小遣いで買いなさいよ、と言ったとしても、それで死なせてしまったら娘は強がって、「でもお小遣いで買ったから別にいいんだ」とか言いかねない
なんか自分の金で買った命なら好き勝手しても構わないかのような考えになられてもそれは困る
もっと本音を言うと、倫理的にはあれかもしれないけど、動物の命より娘の命の方が大事だし、ペットの死が娘の成長につながるなら、生き物の命だって教材と思う
世話できずに死なせてしまった、みたいな失敗や後悔も、娘の生きる糧になるのかな、とも少し思う
でもそれも事前に娘に伝えるわけにはいかない
なんというか、倫理的・コンプラ的に正しいことと、娘にとって必要な経験・教育と、娯楽としてのペット飼育と、恒温動物の方が命の価値が高く感じる本能的な感覚と、全てに矛盾しない考え方ができなくて、それをきちんと娘に説明することもできない
なんか難しいなって思っている
どうすればいいと思う?