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はてなキーワード: 1910年とは

2024-04-17

ここ50年くらいで国が滅んだ例ってある?

日本ダイジョブかなーって思ってるんだけど、そういえば国が滅んだ例ってどれくらいあるんだろうか。

政権が変わって国の名称が変わった(××王国だったのが××共和国になった)とかは除いて

割とガチ目に国がなくなっちゃったよ~みたいなやつ。

オレンジ自由国は元々1910年には南アフリカ連邦には組み込まれたから滅亡とは違うし。

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国はけっこう怪しいラインか。

 

ちょっと調べてみたけど近代で国がガチで滅びた例ってほとんどないんだな。

2024-01-25

anond:20240125145846

ラーメンの元は何?

結局どうなの?ラーメンって日本食?それとも中華料理 ...

そもそもラーメンとは中華麺・スープ・具を合わせた麺料理で、

中国では“日式拉麺”と呼ばれています

ラーメンルーツ明治時代横浜中華街の麺料理

1910年浅草日本人向け中華料理店「淺草 來々軒」で横浜中華からやって来た

中国料理人ラーメンを生み出し、日本独自進化を遂げました。2017/11/25

2023-04-24

Aは猫である疎明方法1 登録証)。名前はまだ無い(同)。

陳述書)私は生れは見当がつきません 薄暗いじめめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶しています ここで始めて書生というものを見ました

ところで、書生とは人間中で一番どうあくな種族であり、時々我々をつかまえて煮て食うという話も聴かれている(疎2 麻生細吉『文化人類学総論1910年。講論社)。

陳述書)私はそういう話は知っていましたが、当時は何という考もなかったので、別段恐しいとも思いませんでした

2022-12-30

正月の歌は年末しか歌えないというバグ

正月の歌と言えば、これ。

『お正月

もういくつねると お正月

正月には 凧揚げ

こまをまわして 遊びましょう

はやく来い来い お正月

https://www.uta-net.com/song/8431/ より引用


この歌、子供の頃からずーっと思ってたんだけど、「正月の数日前」の歌なんだよ。

から正月には歌えない。

なんでこんなことになってんだ?バグか?

歌詞書いたやつのミスなのでは?

そう思って少し調べた。

まずこの曲の作曲者は、あの瀧廉太郎!(名前だけはなんか知ってる!)

どうやら、荒城の月や花(春のうららの〜隅田川〜)などの作曲者みたいだ。

なんかすごい。

それで、作詞は東くめという女性

東くめとその夫、あと瀧廉太郎らが「子供でもわかりやすい歌を」というコンセプトで作ったようだ。

作られたのは1901年明治34年)。

120年以上も前!歴史あるんだなぁ。

今まで文語体だった子供向けの歌を口語体で作ったという、当時としては画期的な歌だったそうだ。

それで、なぜこの歌が流行たか

正月楽しいものではあるが、当時はさらに楽しみがあった。

当時は数え年だったから、正月に一歳年を取るんだ。

から正月誕生日が同時に来るので、子供はことさら楽しみだったみたいだ。

(ちなみに数え年がなくなったのは戦後

じゃあ、なぜその正月を祝う文化が廃れたのか?

数え年ではなくなったことも一つの理由だが、大きな理由はこれらしい。

クリスマス」の存在だ。

クリスマス日本に広まったのは明治になってから

1904年銀座明治屋がクリスマスツリーを店頭に飾り、1910年に不二屋がクリスマスケーキを発売。

その後昭和初期に、大正天皇誕生日である12月25日休みになった。

この休日により、クリスマスさらに広まったんだって

(それなら今の12月23日と合わせてクリスマス連休にしてほしいところだ)

まりクリスマスを祝う慣習が生まれたので、お正月歌詞現実から離れていったようだ。

こう見ていくと、お正月の歌が年末しか歌えないのはバグではなく、時代の流れだということが分かる。

瀧廉太郎は無実だった。誰も悪くなかった。


最後に、昔流行った替え歌で締めたい。

もういくつ寝ると お正月

正月には餅食って 腹を壊して死んじゃった

早くこいこい 霊柩車

不謹慎すぎてひく。ここに書くのもためらったが、当時のオリジナリティ尊重して載せた。

これも今じゃ子供も歌わないだろうな。

つくづく時代の変化を感じる令和の年末

2022-11-19

anond:20221119135849

北村紗枝氏がむやみに叩かれているそうなので、周辺を調べてみた

表面的な問題草津公職者の冤罪犯罪隠しであるが、あえて掘ってみるならば原因はイプセンの「民衆の敵」ではないかと思われた

 「民衆の敵」(1882年)は鉱毒被害告発本で、明治日本の主要産業は銅の輸出であったので、銅山営業のために、出版禁止にされていたと思われる書籍である

 

主要な銅山である足尾銅山鉱毒は早くも1878年明治11年)には報道されており、酸性雨草木の枯死、魚の大量死洪水もあった

そこで1882年明治15年)、イプセンスウェーデン下のノルウェーで「民衆の敵」を出版した

しか原書英訳を読むことができたのは、商社関係者か、法曹医師ぐらいだったと思われる

日本政府がしぶしぶ鉱毒調査委員会を設置したのは、1897年明治30年)で、その後の1901年明治34年)にようやくイプセン邦訳がある(大阪の元医師高安月郊)

それから更に何年も経過し、「人形の家」(1879年)の29年遅れで1910年大正9年)、「民衆の敵」は39年遅れで1921年大正10年)にようやく邦訳

   

戦後高度成長期には、日本の銅は1ドル360円の固定相場で輸出された

僅かな被害対策が行われたまま鉱山は稼働し続け、1973年昭和48年)に閉山となったときには、為替レートがあっさり変動制に移行している

したがって、「民衆の敵」の邦訳遅れや円安固定相場制は、日英米共同の銅ダンピング政策だった可能性もあろう

   

まり円安ときは、輸出企業が薄利多売で儲けを出すため、あるいは輸入先がワクチンなどの薬品などを高く売るために

公害放置されたり、メディア操作検閲が行われる恐れがある

北村紗枝氏はそのみなし検閲に引っかかったとも言えよう

日本人が金融に弱いというのは全く嘘だ(少なくとも政治家金融政策を駆使している)

2022-11-11

米国体操着進化

一応最後まで翻訳をしたのだが、無断翻訳著作権侵害に当たるらしいので、過去投稿翻訳部分を削除、議論をするための部分的な紹介にとどめることにした。

サイト

Evolution of the Gymsuit | The Vintage Traveler

雑感

前の記事と同様、男子から目線を気にしたり、体操着に名前を書くことへの言及があったりした。日本体操着にも大きく名前を書いていた時期があったが、このあたりからも影響を受けていたんだろうか。

あと、面白いのは女性パンツスタイルが受け入れられるようになる理由体操着があったことだ。

それにしても、前回と比べて非常に訳しやす文章だった(投稿こそしていないが)。読みながら訳し、ほぼそのままの文章和訳に使うことができた。これは論文とかウィキペディアとかの文章にも言えることだが、よく編集されている文章は一読しただけで何が書いてあるかすぐにわかる。

さて、今までは学校教育におけるブルマーについて書いてきたが、今度は学校の外の運動着についてまとめたい。例えばエアロビレオタードはい流行たか、スポブラはいからか、そういった話になる。図版が多くてリンクを貼り切れない可能性もあるのでどうするかは検討中だ。

ただし、いつになるかはわからないし、気まぐれで別の話をしたくなるかもしれない。なんだか翻訳じゃなくて自分文章を書きたくなってきているのも事実だ。そもそも翻訳をそのまま載せるのはまずいらしいし。

ひょっとしたらブルマ全然関係ない(自分とは特定できない)何かを書くかもね。それではまた。

ところで、増田で「ヤグルマギク」に言及しているのって前回の記事(とこの記事)だけなのね。今までにもこういうことはあったけど、それなりにメジャー植物について触れられていないのはなんだか不思議だ。はてな匿名ダイアリー投稿される内容って政治とは別の意味でも偏ってるんだな。

追記

オーストラリアバスケットボールブルマー

https://www.facebook.com/mvbasketball/photos/a.578919878830876/3029438987112274/?type=3&paipv=0&eav=AfZ9VJ6rC-wD7X0TcSV8Wh_sY0CAHvK0j0A6d59dg7j1p83jrBT0M74kzFSNPSkMIY4&_rdr

2022-07-05

ウクライナ侵攻の類似事件

オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国国境で接していたのが1908年

前者の ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ皇帝長期政権の在位60年目で、ドイツイタリアロシア同盟していたが、オスマン領のボスニアヘルツェゴビナに侵攻、そして併合したので、欧州各国はいきり立った。

 

で翌年に皇太子暗殺され、5年後に第一次世界大戦が勃発(1914年国際連盟はまだなかった。ただ今は国際連合があっても侵攻問題では影が薄いな)。

 

このとき日本イギリス要求されてドイツ側に宣戦布告ドイツ領のハイテク山東が欲しかったはず)。ロシア汎スラブ主義だったのでこれもまたドイツ側に宣戦布告

 

ところで日本硫黄王・海上保険広海二三郎は、1910年から1911年で、生産量を年間1000トンから1800トンに拡大している硫黄といえば火薬の原料。きっと軍拡イギリス向けに輸出して利益を得たんだろうな。なおイギリス1911年には法律医療無料化をした。

 

113年後の今はプーチンハプスブルク立場で、イギリスイギリス。何かのきっかけで大戦争化して更にインフレ起こすなどは控えていただきたい、と岸田などが言えばいいのに。

2022-04-28

anond:20220428104617

こいのぼり」を歌ってるのがお母さん。

作詞

近藤宮子(こんどう みやこ、1907年3月21日 - 1999年4月8日)は、日本唱歌作詞家。唱歌チューリップ』、『こいのぼり作詞者。  

国文学者の父・藤村作が広島高等師範学校(後の広島大学)へ教授として赴任した1907年広島広島国泰寺町現在中区国泰寺町)に出生。母・季子は広島高師附属中学山中高等女学校音楽教師を務めた。1910年、父が東京帝国大学文学部助教授に転任、東京市千駄ヶ谷に転居。1931年、父の教え子で東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)講師国文学者の近藤忠義結婚専業主婦となる。

2022-03-28

ウィンブルドンと見せパンアンスコ)、あるいは国会での見せパン論争

テニスアンスコといえばフリフリ白パンツか、紺ブルマーイメージだ。純白のスカートから躍動する脚、チラチラのぞきブルマー。実物は見たことないのに、なぜかドキドキしてしまう。この偽装された記憶はどこから来たのだろう。

ウィンブルドン小史

ウィキペディアによれば、第1回大会センターコートに置いてあった芝生の手入れ用のローラーを新しくする資金集めを目的に、1877年7月9日から始まったそうだ。種目は男子シングルスのみのアマチュア大会だった。

1884年女子シングルスと、それまでオックスフォードで開催されていた全英男子ダブルスウィンブルドンで開催されるようになった。1913年には女子ダブルスミックスダブルスが加えられ、1968年にはプロ選手の参加が認められた。

世界中から強豪選手が参加するようになったため、地元イギリス出身者は長らく優勝できなかった。男子シングルスでは1936年のFrederick John Perryから2013年のSir Andrew Barron "Andy" Murrayまでの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のVirginia Wadeの優勝を最後に40年以上イギリス人の優勝者は出ていない。

ちなみに、このように海外勢いに門戸を開いた結果、地元勢が淘汰され消沈することを「ウィンブルドン効果」という。

開催時期は原則として6月最終月曜日から2週間で、ちょうど英国の社交の季節だ。競馬ロイヤルアスコット(「マイ・フェア・レディ」に出てくるあれ)、競艇ロイヤルヘンリーレガッタもこの時期だ。

ドレスコードが厳しいのでも有名で、原則身に着けるのは白一色である汗じみが見苦しくないようにともいわれる。ブリタニカのページなので確かだろう。

https://www.britannica.com/story/why-do-tennis-players-wear-white-at-wimbledon

女性テニスプレイヤーファッションドレスから見せパンまで

https://www.messynessychic.com/2017/07/07/from-corsets-to-culottes-the-women-who-dared-to-change-wimbledon/

元々、ウィンブルドンでは女性はロングスカートや分厚いシャツそれから帽子かぶることが要請されていた。こちらではコルセット付きだったとも(ただし白い衣装について異説を紹介していることに注意)。20世紀初頭のテニスプレイヤーは道行く女性の姿と大して変わらなかったのである。だから本気で優勝を目指すことはおろか、ちょっと大きな球を返すのさえ大変だった。当時の男性がずっと軽装だったのと対照的である

流れを変えたのはDorothea Douglass Lambert Chambersという選手で、1900年により簡素シャツネクタイ姿で登場した。7度シングルで優勝し、1908年には夏のオリンピック金メダルを取っている。彼女1910年ドレスコードやエチケットについての本を著している。

その後フランスのSuzanne Lenglenがテニス界のフラッパー(新しい女)として知られるようになった。飲み物ブランデーと入れ替えたり、強めのメイクをしたりといたずらも好きだった。負けると感情的になったことでも知られる。彼女は白のみのファッションを許容していたウィンブルドンに立ったが、エキセントリックファッションセンスでも知られていた。ミンクオコジョコートをまとい、当時としては短いスカートプレイしたのである彼女が次の世代女性たちに道を切り開いた。

そして戦後1949年、Gertrude Moran(Gorgeous Gussie)がスキャンダル引き起こした。というのも、ウィンブルドン意匠は白一色だと規定されていたのだが、そのあまりにも「明らさまな」白い衣装に観客はショックを受けた。どういうことか。試合の前にMoranは公式開催主のTed Tinlingに衣装デザインしてくれと依頼していた。一見すると規定に従った衣装に見えるのだが、実際にプレイするとフリル付きの下着が丸見えになったのだ。

これに関し、All England Club’sの委員会は「ウィンブルドンに野卑と罪を持ち込んだ」と猛烈に批判し、国会でさえ適切な衣装についての議論が起こった。Tinlingは33年のキャリアにもかかわらずウィンブルドンホスト追放された。にもかかわらず、Moranは魅力的な姿から彼女は人気だった。彼女は後に「自分はただの女の子だったが、メディアが大げさに書き立てたのだ」という趣旨発言を残している。彼女60年代まで活躍した。

見せパンの定着以降

https://www.thecut.com/2018/08/womens-tennis-outfits-convtroversy-history.html

衣装に関する議論は定期的に起きている。全ての内容を翻訳していてはページが長くなるので、見せパン関係するいくつかのみをピックアップする。

1958年アメリカのKarol Fagerousは金のラメ入りの見せパン全仏オープン披露したが、すぐさまウィンブルドン大会への参加を禁止された。「対戦相手不快にさせる」のがその理由だ。しかし、金のラメを白いレースで覆うことで参加を許可されている。

あるいは2016年ナイキデザインしたベビードール風のテニスウエアがある。しかし、選手身体を隠すのに苦労したし、ひらひらして浮いてくる。実際写真検索するとしょっちゅうパンというか見せパンが丸見えになる。なので、ナイキはすぐにその衣装改善したそうだ。

https://www.slideshare.net/guimera/wimbledon-2014-fashion-through-history

見せパンについてはこちらも参照。たとえば6番目の写真のChris Evert、1976年ピンクの見せパンや、41番のTracy Austin、1981年黄色の見せパン確認できる。50番はTatiana Golovinは赤の見せパン(短パン)で、このときウィンブルドン衣装がすべて白という規定抵触するかどうかでもめたらしい。一応、下着の色は自由だということでおとがめなしだったそうだ。56によるとMaria SharapovaSerena Williamsの赤の短パンが、そして色付きのネイル問題になったらしい。

https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/bbc-bosses-blasted-focus-female-17086364

なお、大衆紙によると2016年BBCの偉い人がテニス選手の見せパンやお尻ばかり撮影したと批判されたようだ。以前にビーチバレー記事でも書いたが、カメラ性的にならないようにする工夫というのは必要である

じゃあパンツの歴史は?

記事が長くなるのでこちらの週刊誌記事を貼っておく。

https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL

エラリー・クイーンを読んでいた時に、確か「Zの悲劇」だったと思うが(いや、「レーン最後事件」だったかな?)、ペインシェンスという娘が恋人スキャンティパンティー、ショーツの別名)を買いに行く場面があった。同時代小説での証言として興味深いのでメモしておく。

https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a35747586/history-of-pantslooks2021/

また、パンツでヒットしたのでここに記す。死文化していたが、フランスでは女性スカートでないパンスタイルをはくことが法で禁じられていたとのこと。女性の権利に関して非常に進歩的である地域に見えても、案外不平等システム残滓が残っていたりするのもので、ときおり愕然とさせられる。たとえばスイス女性参政権が得られたのは驚くなかれ1991年である女性への制限男性への制限、どっちでもない人への制限、みんなで少しずつなくしていきたい。

ところで……

よくドレスコードなんかでもめる話で、ハイヒールを必ずはくよう要請される場所というのがある。なんかの映画祭でも話題になっていたことを記憶している。伝統に敬意を払うのは大事だが、はいていないと入場できないのはやりすぎのように思う。ドレスコードってのはみんなが居心地悪くならないようにするためのもので、人を縛るものとはちょっと違う。

例えば、足を怪我していたらどうするのか。もっと極端な話、脚が生まれつきない人はどうするのだ。茶化しているのではない。様々な疾患や障害があろうが困らないようにするほうが、誰にとっても生きやす社会になるはずだ。

結論

余談1

「Tennis Girl」というスカートからお尻丸出しの歴史的に有名な写真がなんと英語版ウィキペディアには掲載されている。ウィキメディアコモンズにはときおりとんでもない画像があるから驚かされる。

余談2

自分投稿ブルマ増田としてまとめてくださる方がいる。あるいは、いつも応援コメントをつけてくださる方がいる。ありがたいことだ。けれども、どうやって拾い上げているのだろう。一日に何千件も投稿されるはてな匿名ダイアリーの中から見つけるというのは大変な作業だ。すべてが注目エントリに入るわけではない。いったいどうやっているのかちょっとうかがってみたい。ブルマーというキーワードで定期的に検索をかけているのだろうか? それともそういうスクリプトが組めるのだろうか?

次回は?

気になっているテーマ複数ある。

例えば女性ショーツ(そして見せパン)の形の変遷、チアの見せパン歴史。また、古代エジプトクレオパトラカエサルと会ったときにどういう服装をしていたのか(絵画のようにトップレスになることがあったのか)、それからトップレスが許容されていていた地域時代的変遷だ。これは身分にもよるだろうし、少し複雑になるだろう。あるいは、どうしてギリシアローマの流れを引き継いだ西洋絵画では、長らく女性器と陰毛があまり表現されていなかったのか。多くの古代文明では時に具象的に、時に抽象的に表現されているのに。謎は多い。

インターネットだけでの調査にはおのずと限界もあるだろう。仕事家事時間がとれるとも限らない。

相変わらず次回はいつになるかはわからない。またいつか会いましょう。

2021-05-17

キム・テヒョンは、朝鮮語圏内における人名である

キム・テヒョン(漢: 金泰現、韓: 김태현)- 1910年生の韓国囲碁棋士

キム・テヒョン(韓: 김태형)- 1962年生の韓国アイドル男性アイドルグループソバンチャメンバー

キム・テヒョン(漢: 金泰亨、韓: 김태형)- 1967年生の韓国の元野球選手、現野球監督

キム・テヒョン(漢: 金台鉉、韓: 김태현)- 1978年生の韓国お笑い芸人

キム・テヒョン(漢: 金泰賢、韓: 김태현)- 1981年生の韓国俳優であるチン・テヒョンの本名、旧芸名

キム・テヒョン(漢: 金泰亨、韓: 김태형)- 1981年生の韓国アイドルで、男性アイドルグループClick-Bのメンバーであるカンフの本名

キム・テヒョン(漢: 金太賢、韓: 김태현)- 1983年生の日本競技麻雀

キム・テヒョン(韓: 김태현)- 1987年生の韓国歌手男性ピアノロックバンド・DickPunksのメンバー

キム・テヒョン(漢: 金泰亨、韓: 김태형)- 1992年生の韓国アイドルで、男女混成アイドルグループ・KARDのメンバーであるJ.sephの本名

キム・テヒョン(漢: 金泰亨、韓: 김태형)- 1995年生の韓国アイドルで、男性ヒップホップグループBTSメンバーであるV (歌手)の本名

キム・テヒョン(韓: 김태현)- 韓国声優

2021-05-08

[]

𝐀𝐧𝐨𝐧𝐲𝐦𝐨𝐮𝐬 𝐍𝐞𝐰𝐬 - 𝐌𝐚𝐲 𝟖𝐭𝐡, 𝟐𝟎𝟐𝟏

ローカルニュースを全国に

𝐀𝐧𝐨𝐧𝐲𝐦𝐨𝐮𝐬 𝐍𝐞𝐰𝐬についてと、バックナンバーこちら→anond:20210507172613

長野市で「水のないいけばな展」開催

長野市北野美術館で『水のないいけばな展 in KITANO MUSEUM』が5月7日(金)から開催されている。この展覧会は今年2月東京で開催された展覧会『New Challenge Exhibition「水のない いけばな展」』とのコラボレーション企画である

展覧会では、1927年創流の流派「いけばな草月流」の家元である勅使河原茜さんの作品4点のほか、いけばなパフォーマンスユニット“座・草月”による作品3点が展示される。

草月流前衛的で型にとらわれない作風が特徴。今回の展覧会は、生花を一切使わず木材石材、着色された草などを用いて作品を創ることがコンセプトとなっている。

開催は5月30日(日)まで。



    関東圏を中心に展開するスーパーマーケットチェーン紀ノ国屋が、5月7日(金)に「紀ノ国屋アントレ広島三越店」を広島三越地下1階にオープンさせた。関東圏以外の店舗としては、京都伊勢丹店に続いて2店目となる。

    紀ノ国屋1910年果物商として創業し、現在スーパーマーケットで主流となっている「セルフサービス式」の販売スタイルを初めて取り入れたことで知られている。現在は高級志向スーパーマーケットとして東京を中心に店舗を展開し、上質さにこだわったプライベートブランド商品を多数販売している。

    巣ごもり需要により、「自宅で良い食材を楽しみたい」という需要が増えている。老舗ブランドの新たな勝負から目が離せない。




      マリーゴールドの出荷が最盛期を迎える

      三重県紀北町園芸センター「かきうち園芸」ではマリーゴールドの出荷が最盛期を迎え、ビニールハウスを色鮮やかなオレンジ色に飾った。マリーゴールドの出荷は3月上旬にはじまり5月頃に最盛期を迎えて6月まで続くという。

      マリーゴールドは暑さに強く長持ちし、新緑の頃から仲秋にかけて青い空を彩る。初心者でも育てやすく、夏の花壇を彩るためによく用いられるほか、駆虫効果もあるという。

          2021-03-22

          日本史

          日本史」というクソ分厚い本を読んだ

          こんな分厚い本を読める奴は偉いと思う

          から俺は偉い

          しかも俺は日本史のことを何も知らない状態で読み始めた

          日本史を知るためにこんなクソ分厚い本に取り掛かったのだ

          しかも達成した

          偉すぎる


          ところで、読んでて特に面白かったのが近現代?くらいの範囲だった

          具体的に言うと1840~終戦位の間


          1840年1910年頃は、「関税自主権回復」という観点から日本が急激に変わっていくさまが面白かった

          その後、日清戦争とか第一次世界大戦とかを経て(どっちが先かは記憶していない)、国内共産主義者弾圧したりして軍国主義になっていく

          あやまった国際情勢の見通し(希望的観測?)に基づいた三国軍事同盟の締結や大東亜共栄圏構想(読んでて行き当たりばったり感があった)、

          そのあたりから世界の情勢が不利に転がっていく流れはガッカリ気持ちで読んだ

          別に期待してたわけではないが話が進むにつれて「太平洋戦争は始まる前からもう絶望的だったのかなあ」という感想があった

          あと戦争が終わった後はふーんって感じで読み流した


          次は中国史を読む予定

          偉さが加速していく

          2021-01-27

          anond:20210126092411

          佐藤大輔信長新記」簡易年表

          1582年夏 本能寺の変信長親子脱出成功山崎合戦で光秀滅亡。

          1582年末 織田信忠羽柴秀吉による四国制圧

          1583年夏 信忠秀吉による九州攻め開始。信長による小田原城砲撃で後北条家滅亡。柴田勝家小田原からの帰路で謀反。

          1583年秋 第一関ヶ原合戦。勝家勢が信長を追い詰める間際、勝家勢後方に下品金成瓢箪が現れ勝家勢崩壊お市に会いたく無い勝家が安土城自刃

          1584年夏 「三州騒乱」勃発。伊達上杉を巻き込んだ徳川家康による信長への叛逆。岐阜城攻防戦で家康勢遅滞。

          1584年秋 秀吉による近江口への誘引で「第二次関ヶ原合戦」発生。

           

          1585年頃 信長により天下統一完了日本皇国成立。海外進出が本格化、大陸方面では無く東南アジア北海道方面へ。

          1587年頃 スペイン帝国主力の欧州連合による東洋派遣艦隊撃破印度以東の欧州権益取得。信長南海覇公と呼ばれる。

          1620年頃 新大陸で新出雲新界成立。その後スペイン帝国領ヌエバエスパーニャ副王領併合日本皇国大和州となる。

           

          1762年 日本皇国大和派遣軍が大和民国軍に新出雲の戦いで敗れる。これにより大和民国独立が確定。

           

          1813年 プロイセン陸軍参謀本部九州攻めを参考にした「ライヘンバッハプラン」でナポレオンの内線作戦崩壊寸前にまで追い込む。

          1814年 ウィーン会議ナポレオンは失脚せずフランス帝国も存続。

          1848年 大和民国武力恫喝によってヴァージニア割譲される。欧州新大陸領土消失

          1898年 大西戦争によって大和民国スペインからキューバをはじめとするカリブ海領土を得る。

           

          1910年頃 第1次世界大戦。詳細不明

          1930年頃 第2次世界大戦。詳細不明

           

          1937年 「満州戦争」勃発。中華連合共和国中華民国満州へ侵攻開始。日本皇国中華民国との同盟により渋々介入。

          1938年 大韓帝国日本皇国宣戦布告大英帝国艦隊大和民国キューバを奇襲攻撃し「大西戦争」勃発。

          1939年 中華民国中華連合共和国降伏林彪上級大将率いる中華沿海州装甲軍日本皇国沿海州で攻勢に出る

          1940年 日本皇国大和民国を中心とする「大東洋同盟」が成立。

          1941年 大韓帝国日本皇国と休戦。中華連合共和国宣戦布告

          1942年 中華連合共和国大英帝国が大東洋同盟降伏大西戦争終結

          1948年 大和民国英国安全保障条約を締結。

           

          1990年頃 大ロシア連合崩壊フランス帝国経済自由化経済発展が進行中。

          2020-09-17

          バレエチュチュスカートの中のフリルパンツ

          今回もブルマーとは関係ないが

          イギリス人ブルマー調査から、ずいぶん遠くまで来た。脱線脱線を重ねてきた結果だ。しかし、昔から気になっていたので、バレエチュチュ(ふわっとしたスカートみたいなあれ)についても調べておこうと思う。子どもの頃に、やっぱりこれがエッチだと思ったからだけではない。どんなことでも、疑問を持ったならば調べることは大切だからだ。それに、こういう素朴な疑問だけれども面と向かって聞きにくいことについて調査し、書き留めておくことは、誤った憶測に対抗する上での価値があると信じている。

          これは、単純にお尻フェチだとかパンチラ萌えだとかだけの話ではない。僕たちの欲望がどのような仕組みになっているのか、そして欲望喚起するシステムがどのように働いているのかを理解することは、逆説的に欲望暴走コントロールすることにつながるはずだ。言い換えるならば、社会が求めている女性像/男性から自由になる手段であり、政治広告から発せられる都合のいいメッセージから身を守るすべにもなる。

          前置きが長く、堅苦しくなってしまった。どうか肩の力を抜いて読んでいただきたい。

          実際、チュチュスカートの中ってどうなってるの?

          まずは以下の画像をご覧いただきたい。

          https://tutusthatdance.com/blogs/faq/parts-of-a-tutu

          これは、クラシック・バレエチュチュ基本的構造である。pantyと書かれている項目に、「ここにフリルが縫い付けられる」と書かれている。要するにお尻の曲線はそこまで丸見えにはならないのである

          しかし、このフリルにもいくつか種類がある。英語版wikipediaのtutuの項目には、現代チュチュとして、次の4つが挙げられている。

          他にも、日本語版記事には、

          短く硬い、釣り鐘状のスカートを持ったチュチュ。通例、パンケーキチュチュより長い。ドガ作品で多く見られる。

          https://en.wikipedia.org/wiki/Edgar_Degas#/media/File:Edgar_Degas_-_The_Ballet_Class_-_Google_Art_Project.jpg

          これだけを調べるのにも、意外と時間がかかった。当たり前だが、カタログ写真では普通スカートの中まで写さない(というか、写すべきでもないだろう)。「inside pancake tutu」では、こういう資料は見つけたが。

          https://www.pinterest.jp/pin/560487116124411506/

          http://4.bp.blogspot.com/_Ozo7z2zkqWs/S-i2wVfcR1I/AAAAAAAACYQ/zDek9ewzWno/s1600/platter.jpg

          チュチュの縫い方で調べたらもっと出るかもしれない。

          結局、その下はどうなってるの? バレエパンツ問題

          世の中には私と同じような疑問を持つ御仁もいらっしゃるようである

          https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11205496201

          さて、ウィキペディアチュチュの項目を見ると、「ツン」というパンツ部分を指す言葉が出ている。引用すると「ツン(Tune)はスカートと一体になったチュチュパンツ部分。……(中略)……構造的にロマンティック・チュチュには存在せず、ロマンティック・チュチュではバレリーナ下着としてステージショーツを別途着用する(広義では、これもツンと称する場合もある)」となっており、幾分ややこしい。

          また、その下着の項には「チュチュを身に付ける際は下着として薄手のキャミソールレオタード状をしたバレエファウンデーションを着用する……(中略)……色はほとんどの場合ベージュである」との記載がある。

          要するに、レオタードみたいになっている場合普通下着を身に着けるし、パンツ部分がチュチュと分かれているものでも、オーバーパンツはいているわけである。当たり前ではあるが。

          ロマンティック・チュチュ1832年、「ラ・シルフィード」で初めて案出されたらしいので、先ほどのツンについての記述と比べれば、現代につながるフリル付きの見せパン起源はそこにある、と判断できそうである。ただし、英語版wikipediaには「ツン」の項目はなかった。

          また、興味深いのは注釈の「ただし、アンダースコートとは異なり、ツンのフリル横方向よりも縦方向に付けられる場合が多い」という個所だ。確かにさっきの画像でもそうなっていた。フリル趣味時代的変遷だろうか?

          で、何でこんなにスカートは短くなったの?

          Wikipedia英語版のballetの記事バレエ歴史を振り返ると、拾い読みだが、次のような流れになっている。

          まず、バレエ起源ルネサンス期の宮廷でのダンスにさかのぼる(ルイ14世も踊ったほどだ)。それが徐々に劇場で公演されるようになった。

          17世紀の頃は、女性衣装は重たい生地と膝丈のスカート構成されていて、動きやしぐさを出すのが難しかった。しかし、これでは動きやジェスチャー制限ができてしまう。これが18世紀になると、スカートは地面からインチの高さになる。色はパステルカラーが主流となり、さまざまな飾りが華やかでフェミニンスタイルを強調するようになる。現在踊られているバレエでは一番古いものがこの時代で、「ラ・シルフィード」「ジゼル」が知られる。以下は18世紀絵画だ。

          https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/49/MarieSalle.jpg

          19世紀初頭には、身体にぴったりとフィットした衣装が用いられるようになる。具体的にはコルセットが導入され、身体ラインが見えるようになった。また、花冠、コサージュ、宝石などの小道具も導入された。クラシック・バレエでは「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」がよく知られる。次の画像では、少しスカートが短くなっているのが確認できる。

          https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Giselle_-Carlotta_Grisi_-1841_-2.jpg

          そして20世紀バレリーナスカートは膝丈のチュチュとなった。正確なポワント(足の技)を披露するためである舞台衣装の色も鮮やかに変わった。20世紀作品としては、「牧神の午後」「春の祭典」が名高い。1910年写真を貼る。

          https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Agrippina_Vaganova_-Esmeralda_1910.jpg

          それから現代バレエではこうなる。

          https://en.wikipedia.org/wiki/Ballet#/media/File:Grace_in_winter,_contemporary_ballet.jpg

          画像をご覧いただければ、スカート丈がどんどん短くなっていくのがよくわかる。

          さて、結論を述べよう。Wikipediaによれば、衣装が重いと細やかな表現ができないのと、脚を使ったテクニックを見せるようになったため、スカートが短くなったようである

          ちなみに、海賊というバレエでは、へそ出しの衣装存在しているらしい。確かにbunkamura食事に行ったときバレエ衣装を展示していたが、そこにへそ出しファッション衣装があったことを思い出した。バレエにしては大胆だと思った覚えがある。

          搾取問題ちょっと真面目に考えてみる

          ブックマークコメントはありがたく読ませていただいており、不快だというお叱りも真摯に受け止めたく思っている。確かにパンツじゃないのにパンチラに見えてしまって欲情する人がいるってのは幾分デリケート話題であり、増田ではないとやりづらい。また、どの程度ユーモアを交えて描くか匙加減も難しい。それを受けて、少し考えておきたい。

          僕は割と美術鑑賞が好きで、ドガ作品も好きなのだが、その背景を知っていると、手放しで褒めることはできない。再びウィキペディアから引用しよう。日本語版からだ。

          エドガー・ドガバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサー現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサー薄給生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサー娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスバレエから男性ダンサーはいなくなり、フランスバレエ低俗化することになる。

          もちろん、どんな事情があったとしても、弱い存在表現しようとしたドガ作品価値は損なわれない。しかし、僕は問わねばなるまい。スカートが短くなったのは、果たして本当にダンサー意志だったのか、と。そして、女性身体を見せるようになった流れの誕生は、観客も共犯だったのではないか。こうして性的好奇心を持ってしまう僕も、同じではないか

          もちろん、過去のことだからからないことが多いし、究極的には真相は明らかにならないかもしれない。女性が美しい肢体を見せたいと思ったとしても、それは男性が主流だった時代文化の中で育ったからそう思っただけなのかもしれず、どこまで本当に主体的判断たか判断は難しい。とはいえ過去人間が何を考えていたのか、それはどの程度自分だけの決断によって決められたことか、証拠が不十分なままでこちらが断定するのは越権行為だろう。

          しかしながら、現代に生きる僕らは、自分主体的にしていると思っている行動の多くも、無意識のうちに同時代文化支配されていることには、自覚的であることが求められるだろう。欲望の仕組みを知るとは、そういうことだ。読者諸氏も、自分フェチ起源を考えてみると、きっと得るものがあると思う。

          スポーツでも……?

          身体を使った表現と性の問題は扱いが厄介だ。ただでさえスポーツは厳しい師弟関係パワハラになる危険があるうえに、新体操などの身体表現のあるスポーツでは、性暴力にまつわる訴訟は絶えない。

          スポーツではないが、芸術と性も深い関係にある。どちらも人間の根源に根差しており、安易善悪を論じることが困難だ。バレエ例外ではない。師弟の間で身体が親密に触れあい過ぎて恋愛関係になってしまう例がある。美しさへの憧れが恋愛感情欲望混同されることだってある。現に、男女だけでなく、ディアギレフとニジンスキ―の同性愛関係もよく知られている。こうしたことが、後から振り返ってみれば不適切な関係だった、師弟の力関係を利用していた性暴力だった、と判断されることにもなるかもしれない。とはいえ、これらは個々の具体例によって判断すべきだ。正直なところ手に余るし、多くの人の人生について書くことになる。ここでは語りつくせない。

          今までこうした社会的な側面から女性ファッション歴史に触れてこなかったのは、元々は衣装のもの歴史を書きたかったのであり、社会の反応まで行くと本題がその中に埋もれてしまうことを恐れてのことだった。しかしながら、ドガが好きな自分としては、いい機会なのでここで一言断っておく必要がある、と感じた次第である

          何を好きになっていいし、対象にはどんな感情を抱いてもいいと思うけれど、歴史や経緯は知っておきたい。それが、芸術スポーツに励む女性性的な魅力を感じてしまう僕なりの折り合いのつけ方だ。そして、盗撮などの犯罪には断固反対する。

          結論、まとめ、考察

          今後の発展、展望

          今回の調査では、見せパン起源と推測される年代までは確認できた。しかし、細部は依然として明らかではないため、何らかの形で補完したい。

          そこからメイド服、またはロリータ服における、見られても恥ずかしくない下着について調べるかもしれない(知識がほぼないのでとんでもない誤解かもしれない)。または、キャバレーでのラインダンスバニーガールについて、になるかもしれない。あるいは、再びブルマー回帰するかもしれない。それは明日の気分次第だ。

          とはいえ、しばらくは休みたい。自分欲望やその起源について考えることは有意義であったし、文章化することで過度のブルマーへの執着やフェティシズムは手放すことができたからだ。一段落した感じがある。この言語化妖怪名前を付けて対処法を見つけたようなものだろうか。どろどろ、もやもやした不可解なブルマーに対する欲望が、知的ものとして把握できるようになった。

          まり増田欲望を垂れ流すことで、落ち着くことができた。知識が増えて勉強になったという肯定的意見、ねちっこく不快だという否定的意見、どちらも自分の姿を客観的に見せてくれた。すべての意見に対して、ここに感謝言葉を述べたい。

          おまけ

          ドガの絵を見ていたら、レオタードらしいものを見つけた。

          ttps://en.wikipedia.org/wiki/Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando#/media/File:Edgar_Degas,_Miss_La_La_at_the_Cirque_Fernando,_1879.jpg

          2020-02-11

          ツイッターって右傾化してんの?

          https://twitter.com/shiso_ume/status/1226865261652762624

          双極凝固鑷子 on Twitter: "「1910年韓国皇帝のお願いによって日本韓国併合しました」これが日本青年会議所HPにあった「みんなで考える日本の歴史授業」プログラムに書いてあるウソTwitter Japanは今後も歴史修正に邁進していきますという宣言だな。通報案件だな。… https://t.co/lrRsjqQPJq"

          https://twitter.com/Narodovlastiye/status/1226893721368584192

          異邦人 on Twitter: "ツイッタージャパンが「リテラシーを高める」としてパートナーシップを組んだ日本青年会議所は、ヘイトスピーチ憎悪表現で物議を醸して削除された、改憲ネット工作目的とする「宇予くん」なるアカウントを作り上げた連中というのは、きちんと知っておかないといけない。… https://t.co/DpgUibO0Vj"

          青年だの民主だのという言葉はなんでこうも胡散臭い団体によって使われるのやら

          2020-02-04

          anond:20200204223152

          100年後くらいに馬鹿にされそう。

          ハレー彗星1910年に来た時に窒息しないように自転車チューブ買い求めたとされる逸話と一緒に馬鹿にされそう。

          2020-01-02

          生モノ存在できない時代になりつつある

          日々生きてると実感しづいかもしれませんが、現代社会は日々向上しています

          とくに科学技術テクノロジーレイ・カーツワイル指数関数的に伸びてるとか言ってますが、それを信じるしんじないにしろ今の所確実に成長を続けています

          なにか買っても数年後にはテクノロジーの向上で、価格が大幅に下落したり飛躍的に向上した製品が出現するので、現段階の商品サービスを無理して買う必要はありません。

          かに今までもテクノロジーの変化のせいで過去遺産がだめになることがありました。レコードからCDへ変わったりVHSからDVDへ変わったり。その変化にかかる期間が狭まってます

          歴史適当なのでずれてたらメンゴ

          企業コンピューター利用が始まる


          家庭に電子機器が入ってくる

          一般家庭にPCが入ってくる

          個人PC匹敵する無線端末を常時持ち歩く

          動画コンテンツストリーミングで消費し始める

          無線通信で動画コンテンツストリーミング消費、発信するようになる

          人体の動作バーチャル空間アバター表現するようになる

          社会の動きも目まぐるしく、当たり前だと思われていた年賀状を書く文化ももうありません。携帯ストラップをジャラジャラつけていたのさえほんの10年前だし、物理鍵や財布など、今まさになくなろうとしているものもたくさんあります

          自動運転が出来るっていうのに免許を取るだとか、電気自動車が主流になるかもしれないのにガソリン車を買うだとか、新しい断熱材や最新の施工技術が出てくるかもしれないのに家を建てるだとか、日毎変化しているなかでものを所有するリスクが日々高まっている。

          2019-08-24

          禁煙はたやすいことだ。私はすでに何千回もやった」は誰がいい出したか

          作家マーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしか証拠はない。

          コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒バージョンギャグを言っている。だが、禁酒バージョンギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。

          最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトル小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。

          マーク・トウェイン禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのとき手紙が「マーク・トウェイン幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである

          禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカオマハワールドヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」

          1932年に、鉄道刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。

          車掌キャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」

          1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。

          「何が問題なんです?私の仕事ぶりですか?」

          「いや、仕事問題ない」

          「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」

          仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」

          「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」

          1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンジョークがある。

          先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」

          1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。

          禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。

          1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。

          ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプ一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」

          マーク・トゥエイン禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまりマーク・トゥエイン禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである

          1941年に、カリフォルニア新聞コラムニストに、酒飲みが理由解雇された人のギャグがある。

          あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」

          「わかりました。ではお酒をやめますお酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」

          これは、先の1935年の製材所の従業員解雇されたときの話とまったく同じである

          1945年リーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエイン名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたかである」が掲載されている。

          2019-02-23

          なぜ十二星座のなかで牛と羊にだけ「牡」が付いているのか

          まず、江戸時代までは中国の「星宿」が使われており、西洋星座が広く知られるようになったのは明治になってからであった。

          現在星座名に統一されるようになったのは、以下のPDFによると1910年ごろであるらしい。

          https://tenkyo.net/kaiho/pdf/2013_05/03rensai-03kabumoto.pdf

          また、『日月地球渾轉儀用法』で興味深い内容として、十二宮解説において、

          然ルニ今日実際ノ天文ヲ按スレ三月ヲ以テ大陽白羊宮ニ立タスシテ却テ隣宮ノ雙魚ニ立ツヲ見ル因テ其然ル所以ノ原因ヲ考察スレハ蓋シ是レ三千年ヲ流過スルノ間毎三月廿一日ヲ以テ大陽位置スル赤道上ノ春分点下ニ出スハ甞テ白羊宮ニ在リシト雖モ年々徐々ニ遷移シテ終ニ雙魚宮マテ来リ

          というように星座と宮を同義的に用いていることがあげられる。また、Geminiの訳語として「雙児宮」ではなく、「雙女宮」という名称が用いられているが、この名称は『星学図説』や『星学捷径』、『百科全書天文学』など、今回紹介した天文書においても同様に用いられている。

          1910年発行の『天文月報』第2巻第11号所収の「星座名」において、91星座(88星座ではなく)の日本語訳名が与えられているが、そこでは「雙子」と記されており、当時の『天文月報』編集主任であった一戸直蔵は自らの著『星』において、

          獣帯の十二星座とは次ぎの通りである。括弧内の名称は従来多くの書籍散見したものであるが、近頃我国の天文学者一同の評議で、訳語一定した

          と述べて「雙子(雙女)」と記していることから日本においてGeminiは1910年女性から男性になった、と結論していいだろう。

          ここで「黄道十二宮黄道十二星座が同一視されている」とあるが、「白羊宮」「金牛宮」といった黄道十二宮名称は、西洋占星術インドを経て中国に伝えられたとき漢訳されたもので、日本には平安時代に入ってきて宿曜道として広まっている(異同はあったようだが)。

          西洋天文学体系が入ってきたのは明治であるが、占星術においてはそれ以前から名称存在していたということである

          実際、中国では十二星座も「白羊座」「金牛座」で定着しているので、日本でもそうなっておかしくはなかったと思われる。

          ちなみに、中国では「双女座」というと「乙女座」の異称らしいのだが、上記によると日本では「双子座」の異称認識されていたようである。このあたりは謎。

          さて、「一戸直蔵の『星』」は以下で読める。

          https://books.google.co.jp/books?id=2soa36rEEWMC&dq=%E7%89%A1%E7%89%9B%20%E9%87%91%E7%89%9B&hl=ja&pg=PP48

          かに「近頃我国の天文学者一同の評議で、訳語一定たから、其方を主として、従来のは併せて記すこととした。」とあり、その後に「牡羊(白羊)」「牡牛(金牛)」と記されている。

          これまでは白羊・金牛と書かれることが多かったもの牡羊牡牛統一した、というわけである

          天文月報』第2巻第11号は日本天文学会のサイトで読める。

          http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1909/pdf/191002.pdf

          天文学術語を和訳せしもの区々にして一定せず。これ天文学普及上著しき故障なるを以て、本学を専修する人々相謀り、数年前より最も適当なるものを得んと考究中なり。

          「数年前より」とあるように、確かにそれ以前から天文月報上では「牡羊座」「牡牛座」で表記統一されている。

          実は1908年10月天文月報第1巻第7号にもこのような質問がある。

          http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1908/pdf/190810.pdf

          数年前迄は小生等星座を呼ぶに、何某の星宿とも呼び申候。又黄道上の星座は何々宮と申来り候処、茲に記載されたるものは皆何々座と申候は天文学会にて新に術語として択ばれたるものと被存候。

          「数年前までは星座を呼ぶのに『何某の星宿』とか黄道上の星座は『何々宮』とか呼んでいたが、天文月報ではすべて「何々座」と記載されている。これは天文学会にて新たに術語として選ばれたものだと思うが、何と読めばいいのか」という質問で、さらに、

          茲に記されたる星座黄道のものは白羊、金牛、双女、巨蟹等の名を捨てられたるは一に羅甸語を翻訳せられ候と被察候。

          黄道上の星座について『白羊』『金牛』『双女』『巨蟹』などの名前が捨てられたのは改めてラテン語から翻訳したためだろう」とも書かれている。

          それに対する回答では、黄道十二星座については触れられていないが、あえて否定されているわけでもない。

          残念ながら、これ以上に命名の詳細な経緯は分からないが、ひとつには「黄道十二宮」と「黄道十二星座」の違いがあるかもしれない。

          最初引用した文書にも書かれていたが、当初はこの二つは概ね一致していたものの、年を経るにつれてズレていったので、現在ではたとえば「白羊宮」は「牡羊座」と一致しない。

          実際の黄道十二星座は大小さまざまであるが、サインは実際の星座とは別に黄道12等分したものである。初期には実際の星座サインは、大雑把に一致していたが、歳差によってずれていった。

          天文学者たちがこれを考慮し、占星術との使い分けを企図して名前を変えたのであれば説明はつく。

          以上より、「牡羊」「牡牛」という命名のものは既に指摘されているとおり「ラテン語のAries・Taurusを直訳したから」ということになるだろうが、それは明治期の天文学者たちが名前を付け直したからであって、決して必然的ものではなかった。

          何かが違えば「牛座」や「金牛座」が使われていたかもしれず、「原語や神話から考えれば牡羊牡牛に決まっている」などと居丈高に言うのは後知恵もいいところだと思う。

          余談。

          星座名はこの天文月報のもので決定というわけではなく、その後も議論が交わされ、最終的に1944年学術研究会議が発表したものが決定版とされているようだ。

          以下のPDFからはそうした議論雰囲気がうかがえるかもしれない。

          https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167055/1/tnk000171_322.pdf

          2019-01-12

          もう誰かタイムマシン1910年に行って韓国併合を止めて来いよ。

          そうすりゃ、原爆投下もなくなるし、第一次世界大戦に続いて第二次世界大戦でも漁夫の利を得た可能性もある。

          2018-04-21

          anond:20180421102723

          1910年頃、ヨーロッパではそういう議論が巻き起こっていた。人間は獣とは違うというキリスト教的な価値観が、科学的な発見に脅かされ始めた時代だった。

          2018-02-17

          anond:20180217224448

          教育レベルが高い家庭は子供少ないらしいですが。

          https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/01/post-6803.php

          「ヒトの教育レベル遺伝子上で劣化している」という研究結果が明らかに

          2017年1月24日(火)16時30分

          この研究では、1910年から1990年までに生まれアイスランド12万9,808名を対象ゲノム分析

          その結果、「学歴の高い人は、平均に比べて子どもが少ない」ことが明らかになった。

          教育を受ける期間が長くなることで、子どもを持つ時期が遅れることが原因のひとつとして挙げられており、

          この傾向は、男性よりも女性により強く見受けられる。

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