はてなキーワード: ジャイアンとは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1716106
日本の弱さ、愚かさ、情けなさを叩く絶好のチャンスだと思います。
とても、良い。
ここだったらどれだけヘイトの全てを解放しても、皆がそれを肯定し、受け入れてくれる。
叩き放題だ。
なんて素晴らしいんだろう。
こんな初歩的なシステムの要件すら満たせないのか、中小IT企業以下だ、
・・・・もうね、叩きどころが満載で、どこから食べれば良いかわからないくらいのヘイトのごちそう。
叩いても叩いてもまだまだ叩ける場所がいっぱいある。
北朝鮮以下だね、世界の笑いもの、終わってる、ギャグかよ、産業廃棄物を出す飲食店レベル、
ああ、ああ、とても、良い。
ゴミみたいな日本政府という格好のクソに対して、100%を超える憎悪をぶつけられる。
とても、気持ちが良い。
ああ、とても、良い。
なんて、心地が良いのだろう。
弱者男性の、憩いの場だ。
ジャイアンみたいな男を探そう
https://anond.hatelabo.jp/20210414001604
この件、2つ思うところあり。
1:しずかちゃんはのび太の憧れの美少女、ジャイアンはいじめっ子、スネ夫はその子分…と一見わかりやすいキャラ設定に初期の『ドラえもん』はなっていたかといえば実はそうではない。あとから時代の要請でそのようにキャラクターがひん曲げられていったわけで、宗教も同じである。キリスト教も仏教もイスラム教も、原初の姿をとどめているものはほとんどなく、宗派によって解釈が大きく曲げられて原型をとどめていないことも少なくない。使っているツールが「神」だったり「仏」だったり「イエス」だったりするからその宗教の一派とみなされているだけなのだ。例えば浄土教系の「ひたすら阿弥陀如来に祈る」などというのは本来自分で悟りを開くというシャカの原始的な教えからすれば、めちゃくちゃなところへぶっ飛んでいる。ああいう絶対神の設定はもうキリスト教とかイスラム教に近い。だからどんな宗教を作っても、(科学のような客観的基準がないので)原初の姿はとどめておくことなんかできないし、時代やコミュニティの要請に応じてどんどん変化してしまうのが宗教というものである。
2:そういうときに現代に必要な宗教をさあ作ろうぜ、っていうときになんで「天地創造」から入っちゃうのかなあ。客観的な世界創造は科学に負けてしまう。そうじゃなくて、やっぱりここは「願えば叶う」という、世界=自分、つまり世界は自分が創造したというセカイ系こそ最強の宗教だと思うんだが。この世界は他でもない、私たち一人一人が創り出したもの。私たちが強く願えば、叶えられないことはない。「言霊」という考えが昔からあるように、言葉にして外に出ることで、それは疎外されて自分に対立し、客観的な力になって、自分を縛り、他人を縛る。例えば作家になってしまう奴はみんなそうだ。強く願ったんだ。「どうしたら作家になれますか」なんて他人にぼんやり聞いてるやつは作家になれるはずがない。私は作家になりたい、なりたくてたまらない、そんなやつだけが、めちゃくちゃなことをやって、どんなことがあってもとうとう作家になってしまうんだ。あきらめたらそこで試合終了だぜ? 限界は自分の中にあって、その限界を作り出す、つまり世界は自分が創造しているんだ。
昨今、政治家とか大企業の社長なんかが、耳を疑う発言をするニュースがあるが、さもありなんだ。
会社なんかでも、リーダー以上になって行くには、人の痛みに共感しているようじゃやってられない。
軍隊で上官は死ぬとわかってても突撃を命令できなければならないように、
大企業で上の方に行くとなれば、人を平然と踏んづける人たちを、さらに踏んづけて安眠できなきゃいけない。
あらゆる非難を内外から受けても蛙の面に小便と平然としていられなければ、大組織の舵取りなどできないのだ。
しずかちゃんのパパは、のび太を「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人」と評したが、
それが人間として大事だとしても、典型的な「出世しない人」の性質だ。
本田宗一郎とか松下幸之助とか、なんか日本だと成功者を人格者とみなすような風潮があるが、
その二人がどんな人かなんて知らんが、人格者なわきゃないと俺は確信する。
人格者だったら部下にとっくに食われてさっさと退場してるわ。
それが社会だ。
つって抱えていってくれるジャイアンやん
スタイルの癖を隠すために再翻訳され、さらにテキストの意味を復元する程度に修正されています。
私は大阪に住んでいるのですが、3月末、仕事が終わって買い物をしていると、近所の人に会い、「今日、公園にお花見に行くんだけど、一緒に行かない?」と言われ、思わず「えっ!」と思いました。吉村だって第4波だと認めているのに、何を言っているんだ?非常識だと思いましたが、近所の人たちもみんな来ると言っていましたし、お世話になっていたので、断るとややこしいことになると思いました。ジャイアンのリサイタルの誘いを断る勇気のある人はそういないだろう。今思えば、「今日は友人と電話の約束があるので、......」というのがベストな答えだったと思います。当時はそんなこと考えもしませんでしたが。また、正直なところ、私は料理上手な彼の美味しい料理を久しぶりに楽しめることを期待していました。
とにかく、私は愚かにも彼に付き合ってしまったのである。彼の言うとおり、近所の人たちがほとんど集まっていて、予想通り、食べ物はたくさんあった。桜は満開ではなかったが、ちゃんと咲いていたし、我々のような馬鹿な集団は他にいなかった。公園の椅子が空いていたので、せめて距離をとって静かに食べようと安心していたのですが、いつの間にかマスクを外した主催者が桜の近くにブルーシートを敷き始めていました。そうそう、そうなんですよ。こんな時期に近所の人たちを招いて花見をする人は、コロナ対策をちゃんとしていないのだ。
しかし、それにしても、近所の人たちのほとんどが本当にそこにいるのだ。どことは言いませんが、近所に大学があって、若者がたくさんいます。無名のお笑い芸人、お騒がせな自称映画監督、ユニバのスタッフもいる。最近は特にお金に困っているらしいので、彼らは食事をするチャンスを逃したくない。医師国家試験に合格したばかりの幼馴染とその両親(医師と看護師)を見つけたときは、勘弁してくださいと思ったが、今さらコロナを理由に断るのはもっと大変だと思い、すべてを諦めた。自称監督が撮った集合写真には、4人どころか10人以上が写っており、料理を前にしてマスクをしている人はほとんどいない。料理をつまむ箸がないので、直箸で食べることになる。
それでも、ほんの少しだけだが抵抗してみた。マスクをして、黙々と逆さ箸で料理を皿に盛り、小さなブルーシートを出て、公園のベンチで(つまりブルーシートに出入りするたびに靴を脱いだり履いたりしなければならない)、口元に持っていくとき以外はずっとマスクをして、静かに食事をしました。こんなことをしていたのは私だけだったが、喫煙者の中にはタバコを口実に距離を取ろうとしている人もいたようだ。前述の医師とその家族は、全員がアルコールスプレーを常時携帯しており、その習慣を知っている私も常時携帯し、動くたびにスプレーをした。
すべての料理を一通り食べ終わった後、一人が帰ることになったので、私も一緒に帰ることにしました。それでも1時間半ほど滞在しました。帰宅後すぐに、手洗い、うがい、スプレー、シャワーなどをして、まるで風邪を引いたかのような格好でベッドに入りました。
幸い、私は4月から自宅で仕事をしているので、まだ一人で家にこもっています。その気になれば、すでにあと3週間は持ちこたえられるだけの物資を持っているし、食料品をオーダーすれば、さらに長く居座ることができるだろう。昨年から続けているように、滋養強壮の薬をおまじないのように飲み、毎朝体温を測り、花粉症の症状をコロナの可能性を気にしながら過ごしています。今のところ、参加者が感染したという報告はありませんが、もし感染していたら私も感染しているだろう。そんなことを考えています。先日の集合写真では、桜の木の幹に何かが巻き付いていました。よく見ると、「ブルーシートの下で飲食しないでください」と書いてあるんです。もう、大阪バッシングに何か言い返す権利はありません。皆さんも、急なお誘いに断れるかどうかシミュレーションしてみてください。私と同じ轍を踏まないようにしてほしいものです。