はてなキーワード: 法則とは
でも、ブクマカは思慮が浅いのでアキネスの法則を考慮して書き込まない。
最終的にローリン・シェーイに行き着くということは少しでも複数論語の定理をしっていればわかるはず。
あとはそういう話をするためにまずは慎重にメイランコーマスを踏む必要があるよ。
それを無視してエンゼンだというから一般のウェパスシュルソンによって、レンゲゾーリン係数の指摘ができない。
愚かなブクマカ。
日常生活の効率化に今や欠かせない文明の利器、全自動掃除機ルンバ。
ルンバが動きやすいように段差を無くしたり家具を少なくしたりするハックが流行っているが、どうしても限界はある。利用者の工夫程度では補えない弱点が実はある。見逃されていた欠点、言うなれば「ルンバの死角」が。
それはルンバの上面だ。ルンバが通過した床面のホコリやゴミなどはすべからく皆、そこが廊下だろうが畳だろうが関係なくすべて吸い込まれてしまうのだが、しかしルンバがどれだけ動き回ろうとも、彼女の体自体は動きのすべてについてまわり、ゆえにそこにある汚れには決して手が届かない。輝きに満ちた主人の部屋の中で、それを達成すべく献身した彼女だけが唯一、汚れにまみれている。これほど悲しいことはない。
ルンバをもう一台設置する。無論ルンバの上に置く。ルンバを掃除する専用の小型ルンバというわけだ。
しかし安易な解決策にありがちなことではあるが、この改善案には明らかな問題がある。小型ルンバにもまた同じ問題が、その上面が汚いという課題が残るのだ。ならばさらに積み上げてはどうだろう。小型ルンバの上にさらにルンバを重ねて… としていくとどうなるか。ルンバの総数nを無限大に近づけていくと、どのようなことが起こる? 上面の面積はゼロに近づいていくはずだ。その向こうに、哀れな従僕に仕える従僕、彼女に仕える従僕その無限の連なりの先に、全員が救われる希望はあるか。
無い。面積は確かにゼロに近づく。だが決して消滅はしない。アインシュタインはかつてこう言った。数学の法則を現実に当てはめるならば、それは不確かなものになる。数学の法則が確かであるならば、それは現実には当てはまらない。ベロリ。ルンバのサイズを少しでも削るために努力を惜しまないエンジニアがいくら夜を徹し死力の限りを尽くしても、人類の叡智をどれだけ積み重ねても、プランクスケールのルンバなど作りようもないからだ。無限には決して届かない。理想化された数学では救えない現実がある。方程式に"宇宙項"を加えるしかないのか。ルンバの汚れから目を背けるために。
諦めるのはまだ早い。問題をよく観察せよ。実際の部屋には天井がある。天井に着くまでルンバを積み重ねればよい。天井自体にもホコリが付くことがあるって? よろしい。ならばルンバを逆さにして運用せよ。新たに開発された両面ルンバは、部屋の中央部で上下からうねって伸びてくる鍾乳石を繋ぐ。ルンバがルンバを掃除する。系としてのルンバが床面と天井を掃除する。システムとしての自立。もはや誰の手も借りる必要はない。これが追い求めた答えだ。
いや忘れてはいけない。書斎にはまだ主人がいる。成長したルンバ達にとって、いかに人間の助力が不要なものだろうと、こちらにはまだ彼女らの力が必要である。人の髪に、体に、あらゆる表面に不純物が付着している。だから部屋いっぱいのルンバ。部屋=人間+ルンバ。このルンバに満たされた空間の中で、私が体の向きを変えるたび、小さなルンバ達は逆の方向に回り込む。
彼女が10000÷10=1000と暗算で即答できない人だった。
そんなやつがこの世に存在するということを10数年ぶりに再認識させられた。
高校から進学校だったため自分のコミュニティにはそんな人間がいなかったから忘れていた。(仮に進学校じゃなくてもなかなかそんなやつはいない)
思い起こせば、確かに、小中学の時はクラスに1人は壊滅的に算数ができないやつがいた。
普段話してるとそんなに頭悪くなさそうなのに、いざ数字になるとこちらの当たり前が通用しなかった。
さて彼女の話だが、100÷10も、10000÷100も10000÷10も全て筆算しないとできなかった。
逆に筆算をするとできる。
割る数の0の数だけ割られる数から減らすだけだと、何度も伝えるが理解できない風だった。
(もちろん算数に苦手意識を持ってる人が割る数、割られる数という相対的な表現を苦手とすることは知っているので、目の前にある飲み物とかお金を使った具体例できちんと説明した)
まぁ0を増やすだ減らすだは算数の本質ではないので、それがピンとこないのは、それはそれで1+1=2なのがピンとこない天才肌なのかと思ったけれど、話してるうちに物事の前後関係から結果を推論、いわば経験則的な知見を溜めることのできないアホなんだなとわかってきた。
つまり計算から共通する法則を見つけ出して楽しようという発想がなかった。
数字の理屈とか本質は考える気がなくて、教わった解き方が筆算だから、全てそれで解く。ということだ。
この辺を応用効かせて理解してドンドン進んでいける人とそうでない人が小学校での成績を大きく分けていたように今になって思う。
たぶんどこの学校もそういう感じだったろうから増田たちも理解いただけると思う。
計算が苦手なら計算しなくて済む0を減らすという方法があるだろうに理解が及ばない。
算数を、数字の本質を、数字を扱えると便利だし楽しいという根源的な体験を通してきちんと理解させずに、彼女のような人を生み出している初等教育の現場の人たちは本当に罪だと思う。
初等教育の現場の人がいたらこの辺についてどう思ってるのか単純な興味として聞いてみたい。(ブコメ待ってます)
そしておれが思ったのは、彼女を貶めたり辱めたりすることではなく、彼女のような人に算数は思考を停止させる毒ではなく、日常を豊かにする道具であることを理解させるにはどうしたらいいのだろうか? ということだ。
この辺の教育がきちんとされてたら「630円の会計で1130円を出す」論争とか消滅するだろと思ってる。
だから、なんとか理解して欲しくて、手元にあったお茶のペットボトルに目盛りを振ってお互いに分け合ったり、フライドポテトを複数人でシェアする場面の例えを出した。
そういう具体例を出すと感触良好でなんとなく理解してそうな雰囲気をだす。
しかしいざ60÷3=?と聞くと「3」とか答える。
これは実際にポテトを分け合うシーンを思い浮かべてもいないのだ。
もしそのシーンが頭にあったら自分の取り分がポテト3本になるはずがないのは想像できるはずだ!
どうやら数字を計算するってことになると途端に思考がシャットアウトされるらしい。
10000÷10=?ってきくとちょっと考えてから「え?なにを?どうするの?」って聞き返される。
タチが悪いのは、聞いてないし理解する気がないのが原因なのに「数字が苦手だからできない」と思ってるところだ。
やればできるとは思ってもいないし、自分には無理だと決めつけてる。だから質問もちゃんと聞かないし、計算をできる意味がないと思っている。
こういう人に算数を教えるにはどうしたらいいのだろうか?
これについてヒントとか回答を教えて欲しくて書いている。
いちおう塾講とかの経験あるし、ある程度人にモノを教えるということには自信があったが初等教育でミスるとここまでこじれて取り返しがつかないんだなぁということと、自分の未熟さも彼女には教えてもらいました。
前日になんでこんな話をしてしまったのか…。
理解させようと必死なおれと、理解できるわけがないと初めから考える気がない彼女の間にはとても重い空気がながれてしまった。
軽く教えたらすぐに理解してくれるだろうと思った慢心がいけなかった。
なのでもう彼女には数字に関わる話をしないということになりました。
力作だと思うけれど粗も見えるので、これを叩き台により正確な議論ができればいいなと思う。(はてなでそんな風景はとんと見ないのだが。)
これってその解釈で本当にいいの?とか。以前雑誌で見た死亡率が高い車ランキングだと3ナンバーセダンが上位を占めていた。
あと例えば
(中略)
そうなると単純に考えれば、衝突された時に衝撃を吸収する部分が小さくなります。
前面のクラッシャブルゾーンに関しては大きめの車も小さめの車もだいたい同じくらいに設計されているはず。
小さなクルマが不利なのはカーツーカーで衝突した時運動量保存の法則で質量が小さいほうが余計に大きな加速度を食らってしまうから。
側面に関してはこの説明のようにボディの幅が効いてくるはず。