はてなキーワード: 天皇とは
次の元号は、「韓国御免」したらどうだろう? その元号が続く限りずっと謝ってることにならないか?
多摩の田舎者が武士に憧れて上京してきて、幕府の手先として犯罪者をぶっ殺しまくったけど、
明治維新で幕府が倒れて、それに殉じて死んでいった、という感じの人たち。
新撰組は「既存体制のもとで成り上がる」ことしか考えてなかった。
鉄華団も序盤から「より強い存在の下につく」ことで成り上がっていった。
「この道しかない」と突き進んでいくんだけど、他の道はいくらでもあった。
「急に頭が悪くなった」みたいなこと言われてるけど「元からだよ」としか言いようがない。
明治維新では、天皇(=アグニカ)を手中に収めた新政府軍(=マクギリスの革命軍)が、その権威でもって幕府に勝利する。
バエルは錦の御旗だって劇中でも言われていたけど、比喩でなく「錦の御旗」を踏まえているわけで、
「バエルを引っ張りだせば従うはず」にはそれなりに説得力があるんだよね。
それにバエル=錦の御旗だって分かれば、「バエルには何の能力もない」ほうがむしろ自然だと思えてくる。
新撰組と違って、ギャラルホルン(=幕府)には義理のない鉄華団は、
若手将校を率いてクーデターを起こすマクギリス(=維新志士)と手を組む。
そしてマクギリスも、実際の維新志士とは違って、革命なんてどうでもよかった。
マクギリスの策謀はすべてバエルを手に入れるためのもので、それ以降のことなんて考えていなかった。
かくして、優秀な鉄華団とマクギリスが、腐ったギャラルホルンを倒して理想社会を築くという物語にはならなかった。
とはいえ、ギャラルホルンが肯定されたのかと言えばそういうわけでもない。
ギャラルホルンの緩やかな改革を成し遂げたラスタルは高潔な人物ではなく、
個人的には移民政策には賛成でも反対でもなく、あえてどちらかと言えば賛成よりくらいの立場ではあるけど意見をちょっと言わせてもらう。
移民政策を語る時に意図的に避けられているのが天皇制の問題なんだよね。
天皇制擁護論者がその根拠として口にしているのが「万世一系」なんだけど、じゃあそこに外国籍の血が入っても「万世一系」かということについてはあまり積極的に論じられている話を聞かない。
おそらく公表されていないだけで皇室に入る人間の血筋をチェックして外国籍の祖先がいないか調べてからOKを出しているのではないかと思う。
なぜ日本民族(大和民族?モンゴロイド?)に頑なにこだわる一派がいるかというと、この天皇制が「日本国の象徴」であると固く信じているから。
明治時代に急ごしらえで天皇の地位を高めた理由もそこにあって、外国文化とか外国人が日本に一気に入ってきた時に「日本人である」というアイデンティティを守るためには天皇という象徴的人物がどうしても必要であったという事情がある。
現在もハーフや日本に帰化した元外国籍の人に対しての差別が地方都市だけでなく都心部でもあるということが表に出るようになってきたが、これも日本人というのは単一民族によって構成されている国家であるという従来の価値観から抜け出すことができない人たちの言っていること。
だから移民政策を本格的にやっていくなら天皇制を根本から考え直していく必要がある。
そうでなければ日本民族の血を引いていることに正当性を持つ天皇が「日本の象徴」であるという理屈が成り立たなくなってしまうからだ。
ましてや極右思想の政治家がやりそうな天皇家の政治的役割を強めるなんていうことも全く移民政策と矛盾するものになる。
そのあたりの議論がきちんと定まらないうちは移民政策といっても結局よそ者扱いをしたり、単なる労働力として搾取する存在という発想から抜け出すことはできないよ。
ご無沙汰しております。昨年、「憲法第二条改正論」というエントリーを書いた増田です。
今日は憲法記念日なので、憲法第二条改正論について、あらためて書いておきたいと思います。
まずは、昨年と同様、日本国憲法第二条の引用から始めましょう。
昨年のエントリーで指摘しておいたように、皇位を世襲のものとすることには、二つの点で問題があります。一つは、皇嗣として生まれてきた者や、彼の配偶者にさせられた女性に対して人権侵害を引き起こすということ、そしてもう一つは、天皇にふさわしい資質を持たない者が天皇になる危険性を孕んでいるということです。
昨年のエントリーでは、皇嗣の配偶者に対する人権侵害については少ししか触れませんでしたので、今日は、その点について、もう少し踏み込んで論じておこうと思います。
まず、もしもあなたが、天皇制に関心があるにもかかわらず、Ben Hillsさんが書いたPrincess Masako Prisoner of the Chrysanthemum Throne: The Tragic True Story of Japan's Crown Princessという本をまだお読みではないならば、ご一読を強くお奨めします。藤田真利子さんが訳した『プリンセス・マサコ:菊の玉座の囚われ人』という日本語版も、第三書館から出版されています。
藤田さんも「訳者あとがき」の中で述べているように、Ben Hillsさんのこの本は、さまざまな読み方ができると思います。しかし、どんな読み方をしたとしても、この本を読んだ者は、原書のサブタイトルで謳われているとおり、the tragic true story(悲劇的な真実の物語)をそこに見出すでしょう。多くの国民は、小和田雅子さんという一人の女性を襲った悲劇について、あまりにも無関心すぎると私は思っています。
雅子さんを襲った悲劇は、皇位の世襲制と無関係ではありません。もしも皇位が世襲のものではなかったならば、雅子さんも、これほどの苦痛を味わうことはなかったでしょう。雅子さんを襲った悲劇について単純に語ることはできませんが、強いて論点を一つに絞れば、それは、人格を否定されて「産む機械」たることを期待されたという点に集約されるでしょう。
雅子さんが愛子さんを出産した3年後の2004年(この時点では悠仁さんはまだ誕生していない)に、雅子さんの配偶者が記者会見で語った言葉を覚えておられる方も多いでしょう。
誕生日の会見の折にもお話しましたが,雅子にはこの10年,自分を一生懸命,皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが,私が見るところ,そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや,そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。
徳仁さんは、「人格を否定するような動き」が具体的に何を意味しているのかを明らかにしていませんが、おそらく、「やはりもう一人ほしい」という湯浅利夫宮内庁長官(当時)の発言が念頭にあったものと思われます。
おそらく皆さんは、2007年に、「女性は産む機械」だと柳澤伯夫厚生労働大臣(当時)が発言して、激しいバッシングが起きた事件を覚えておられることでしょう。湯浅さんの発言も、柳澤さんの発言と軌を一にしているにもかかわらず、バッシングが起きなかったのはどうしてでしょうか。国民の多くも、雅子さんを「産む機械」としか見ていないからではないでしょうか。私たち国民は、もう少し、雅子さんに対する加害者意識を持ったほうがいいのではないでしょうか。
「やはりもう一人ほしい」と湯浅さんが発言した背景にあるのは、皇位の世襲制です。現行の天皇制を維持するためには、皇族に嫁いだ女性の誰かが男子を出産するということが不可欠です。したがって、湯浅さんという個人を非難することはできません。非難しなければならないのは、憲法第二条です。そして、その条項を放置している私たち国民です。
(皇室典範第一条を改正して女性天皇と女系天皇を認めれば、皇嗣の配偶者に対するプレッシャーを緩和することができる、という反論も予想されますが、それは根本的な解決ではないと申し上げておきましょう)
今日のエントリーでは、天皇ではなく、皇嗣の配偶者の人権について述べたわけですが、天皇が日本国の象徴であるならば、彼の家族たちも、日本国の象徴に近い地位にあると考えていいでしょう。したがって、日本という国家は、人権侵害の被害者によって象徴されているということになります(なんだか、むしろそのほうが正しいような気がしないでもありませんが)。
憲法第二条が現行のままだとすると、雅子さんを襲った悲劇は、悠仁さんの配偶者となるであろう女性にも襲いかかるでしょうし、さらに未来の男性皇族たちの配偶者についても同様でしょう。